紺青の空に、切り抜いたような真白い月が浮かぶ。
さんざめく星の光。その下、徐々に明るくなる地平線の向こう側がちかりと光る。続いて、爆音。下から突き上げるような振動。
戦況は、決して良いとは言えなかった。敵軍は国境近くまで迫っていると聞いた。必死の抵抗ももはや功を奏さない。
謂われのないことだと、何度声を荒げたことか。こちらにはその覚えはない、そうは言っても、敵国は『正義』の一言ですべてを片づけ、その言葉を楯に進軍を開始した。
相次ぐ増員。終わらぬ空爆。この小さな国の住人たちは、今も不安で眠れぬ夜を過ごしている…そう思うだけでも胸が痛んだ。
…。
たまらなくなり、世界をカーテンで拒絶する。途端に、部屋が暗黒に呑まれる。
電気も水も、止まってしまったらしい。相手はこちらをなぶり殺しにするつもりだ…そういえば兵士の誰かが嘆いていたと、そんなことも思い出す。
手探りで部屋を進み、その小さな手が、ベッドの端をつかんだ。そのまま、足を潜り込ませると、ひやっとしたシーツの感覚が熱っぽい頭に現実を突きつけてくる。
勝てない。
勝てるわけが、ないんだ。
勝てる、わけが…。
怖い。負けたらどうなるか…それは、皇子である自分には容易に想像できた。おそらく、相手は自分を生かしはしないだろう。…運良く生かされたとしても、捕虜として、牢獄で一生を暮らすことにもなりかねない…。
空の手が、シーツを握りしめる。こういうとき、一番側にいて欲しいはずの存在は無い。仕方ない、この事態だ…駆り出されないはずがない。騎士団長が一番最初に動かなくては、示しがつかないではないか…、そう理屈づけて閉じこめようとしても、想いは恐怖とともに湧き上がってくるのだ。
「…ゼオン…!」
たまらず、呼んだ名前は爆音にかき消される。
「ゼオン、何処に…!」
だが、その想いまでは…。
「…皇子…?」
声は、通路の方から起こった。
その声。凛とした青年の声。今一番聞きたかった声…!
少年は、ベットから飛び起きた。あどけない顔は、紅潮した頬までも涙に濡らしていた。おびえた瞳が落ち着かなげにあたりを見回す。ゼオン…?そうつぶやいて。
確かにさっき聞いた。彼の声を、間違いなくその耳はとらえた。でも、その姿はどこにもない。闇に紛れて、見えないだけか。それとも、想いだけが先走って、彼の声を形作ったのか。
「…皇子、ここです」
優しい声が告げる。暖かなものが手に触れた刹那、少年はそれを思い切り引っ張った。そうして、彼の胸に飛び込んだ。
柔らかな布の感触が頬から伝わってくる。その懐かしい感覚に、少年の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
「ゼオン…!僕は、僕は…っ!」
「…」
ゼオンと呼ばれた青年は、黙ったまま、少年の小さな身体を抱きしめた。刹那、カーテンの向こうが光って、また、爆発に城が揺れた。
「…」
ひとしきり抱き合った後、ゼオンはふと顔を上げた。閉まったままのカーテン、天蓋のベットのシーツは丸まって、乱れている。この小さな皇子がどれだけ怖い思いをしていたのか…そんなことを考えると、どうしてもっと早く来てやれなかったのかと、それだけが悔やまれてならない。
だが。
自分はこれから、それ以上に酷いことを告げようとしている。もしかしたら、皇子の傷ついた心をなお引き裂くような言葉かもしれない。…唇を噛んで、ゼオンはただ黙っていた。
どう言えば良いのか。どう言えば、少なくとも、彼の心を傷つけずに済むか。…何から、話せば。
「…ゼオン?」
皇子は顔を上げた。淡い金糸の髪、その下の翠緑石の瞳が不安げに瞬いた。
ゼオンは答えずに、ただその額に優しく口づけた。それから、彼の手を引いて窓まで連れていった。
カーテンを開く。途端に部屋の中に、月の光が流れ込む。皇子はただ不思議そうに、ゼオンを見上げている。
ゼオンは、ひとつだけ、息を吐いた。そうして、努めて明るい声でこう言った。
「…今日で、最後でしょうね」
その言葉に、皇子は弾かれたようにこちらを向く。痛々しいまでの澄んだ瞳が、ゼオンを貫くように見つめている。居たたまれない。ゼオンは唇を噛みしめる。でも。
「…事態は、急を要します…敵国は既に国境を越え、この都市部に近づいています。ここが最後の戦場になるのは免れない…ならば我々は、彼らを蹴散らさねばならないでしょう…ここに、踏み込まれないためにも」
あなたを汚されないためにも。その言葉は、敢えて飲み込んだ。ただ微笑った。
「…勝てるのか?」
当然の問いを、皇子は口に出した。すがるような視線が哀しかった。
「…敵の兵力は、およそ5万」
また、遠くで爆音がきらめく。
「対するこちらは…かき集めても1万がやっとでしょう…」
「…そんな…」
「…仕方ありません。この国は、戦争用の国ではない…」
兵役を課さないこの国では、兵力は微々たるものと言っても良かった。それでも、市民らは、自分の信じる王のため―ひいては自らの正義のために、剣を手に取り、立ち上がった。だが…一般市民が、手慣れていないとは言えど訓練された兵士に敵うわけがない…。
皇子はそれ以上何も言わなかった。言わない代わりに、ゼオンに抱きついた。腕は、締め上げるようにきつく、胴に巻き付いた。
思いついたような爆発が、世界の向こうで起こった。
「…」
王は、どうしているだろうか。
ゼオンはふと、そんなことを思った。
褐色の肌に白銀の髪…自分の容姿は、この国の人間とは明らかにかけ離れている。だが…それでも王は自分を受け入れて、あげく、この地位まで引き上げてくれた。違う人種だからと云って、酷く蔑んだりもせず。
今ここに自分がいること…生きて、ここにいることは、王のお陰だと云っても過言ではない。そう、皇子に逢えたのも…。
皇子に向き直り、その頭に、柔らかな髪に、そっと手を潜らせる。もう、これで最後だろうと…帰ってこられればいい、でもきっとそれは叶わない。
叶わないのだ。
「…嫌だ」
かすれた声に、ゼオンははっと我に返る。見れば皇子はまっすぐにゼオンを見上げている。涙の溜まった目で。翠緑石の煌めきを宿した目で。
「嫌だ、僕は嫌だ!」
「皇子…」
「お前まで僕を見捨てるのか!お前まで僕を一人にするのか!」
「…」
「お前まで、僕を」
そこまでだった。それ以上は、彼の唇がそれを塞いでいた。
皇子がはっと目を見開いたとき、ゼオンは彼の足をすくい取って横抱きに持ち上げた。
「!」
そのまま、ベッドにおろされる。起きあがる暇を与えず、ゼオンはその上に乗っかった。両の太股を押しのけて、その合間に、自らの身体を入れて。
「ゼオ…ン…!?」
上半身だけでも起こそうとする皇子の、その小さな肩を両手で押して、ベットの上に押さえつけた。そうして、上から見下げる。耳にかけていた髪が、ぱさりと落ちて皇子の頬にかる。
「最後まで、あなたの側に居たかった…」
声はかすれ、うわずる。言葉が詰まり、目頭が熱くなる。
「でもそれは叶わない…叶わないんです…!」
「ゼオン…」
ぽたり。こぼれて、皇子の頬に流れていく。
「これで、最後にします…何も、かも」
言いながらも、指は、皇子のガウンをはずしていく。
白い肌に、指が触れ。ゼオンは少しだけ、唇を笑ませた。
「あなたのことも、あなたのお父様のことも…そして、わたしの想いも」
「ゼオン…僕は、…っ」
「我慢、してください…すぐに、終わりますから」
首筋に唇を這わせると、皇子は嫌がるように身体をよじる。皇子の手が胸に触れて、押し返そうとするのを、ゼオンはその手を取って脇へと押し戻した。
「…っ、…!」
ばたばたと暴れる足に自分の足首を引っかけ、組み敷く。
「嫌…ゼオン、嫌だ!」
悲鳴にも似た声が鼓膜をふるわせる。だが、彼はやめなかった。
裸の腰に沿って、手を滑らせる。皇子はびくっと身体を縮める。首がのけぞって、荒い呼吸音とともに、押し戻す力がいっそう強くなる。
「や…っ、ゼオ、…僕は、…僕は、…!!」
「耐えて…我慢して、ください…すぐに、良くなりますよ…」
息を乱し、その部分に手が触れると、そっと愛撫する。喘ぎはだんだん激しくなり、泣き叫ぶような悲鳴が耳を貫いた刹那、暖かいものがゼオンの手を伝うのがわかった。
大きく息を吐いてゼオンは身体を起こした。自分の下の小さな少年は、服をはだけたまま、顔を背け、泣いていた。声を殺し、涙だけを、その紅潮した頬に流しながら。
その瞳が、おびえたようにゼオンを見上げる。太股を持ち上げようとすると、大きく見開く。どうしてこんなことをするのか、全く理解できないような…信じていたものにいきなり裏切られたような目で。
「…」
ゼオンはす、と目を細めた。そうして、自虐的に微笑んだ。彼を傷つけるのは自分の言葉でも、自分がいなくなるという事実でもない。これからの、自分の行為なのだから。
「ゼオン…どうして、どうして…っ!」
叫びを無視して、両の足をぐっと押し倒して。
「どうして!僕は、僕はっ…」
「どうして?」
腰を引いて、身体を倒して、皇子の目を見る。
「…決まってるじゃないか」
ふ、と微笑う。
「あなたを、愛しているからですよ…皇子」
そのまま、内側に、押し込む…
「…ひっ、あ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!」
「ほら…もっと動いて…わたしを、満足させて…」
「ゼオ、ン、ゼオン、あ、あ、嫌だ、嫌…っ、やめ、やめて…!」
腰を押さえ深く差し込むと、悲鳴が、もはや言葉にならない叫びが、部屋を支配する。ゼオンは首を伸ばして、皇子の唇を奪い、悲鳴を封じ込めた。小さな身体が、自分の下でもがき、暴れ、でも。
「っ…」
舌を入れた瞬間、かみつかれて、ゼオンは顔を離した。涙を溜めた目が、まっすぐに自分を見ているのはわかっていた。こんなに抵抗されるのも予測はついていた。だから、こそ。
「皇子、わたしは」
荒い息の下、彼の目を見据えて。
「それでも、…あなたを、…」
自分の頬にも、こぼれ落ちた涙は。
「…とても、愛していたということだけは、…どうか」
忘れないで…。最後まで言葉は出なかった。ただ、ただ、想いだけが溢れて、皇子の中に流れていった。
皇子はもう、何も言わなかった。唇を噛んで、必死に耐えたようにも見えた。すべてことが終わって、小さな身体を抱き上げると、小刻みに震えているのがわかった。
汗に濡れた前髪を上げて、その額に軽く口づけると、皇子は堰を切ったように泣き出した。自分にしがみついて、何処にも行かないでと、かすれた声で泣きわめいた。
「…わたしの国に、こういう話があるんです」
そんな皇子の頭を優しく撫でながら、静かに、口を開く。
そうして見上げた窓の向こう、爆発は未だ続いている。
「カヴ・ヴェールという石…赤くて、透き通った、石とは云えないような…そう、宝石のような煌めきを持った石なのですが…」
ゼオンはそこで言葉を切って、自分の耳から何かを取り外した。瞬く皇子の目の前で、手のひらを広げてみせる。…小さな、金具のついた赤い石が乗っている。
「この石はね、恋人たちの石なんです。わたしの国でも戦争は絶えず続いていました。でも、この石を持っていれば、必ずまた、出会えることが出来ると…信じられていたんです。」
カヴ・ヴェールの石を、そのピアスを、ゼオンは皇子の左耳に押しつけた。一瞬だけ、皇子は顔をゆがめた。ピアスのはまった部分から、涙のように血が流れた。
「…戦場に赴く兵士は、故郷に残した妻や、恋人からこの石をもらいます。片方は、兵士に。そして片方は恋人が、肌身離さず持っていれば良いんです。いつか…いつか、石がお互いを引き合わせてくれるから…」
流れ出した血液を、そっと、ゼオンは舌で絡め取った。閃光に石が煌めいて、赤く赤く輝いた。
「そう、きっといつか…わたしも、あなたに逢えると、そう信じて」
何処の地でもいい、何時の時代でもかまわないから…いつか、そう、いつか必ず、あなたに逢えると、信じて…
まぶたに透ける光に、目を覚ます。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓の外は晴れ渡り、青空に雲は無かった。
皇子は、自分の側で眠っていた。陽光に、彼の左耳のピアスが赤く煌めいた。
「…」
手を伸ばす。柔らかな前髪に、指が触れた、刹那。
「ゼオン様!」
兵士の声。ゼオンははっと、顔を上げた。
彼は戸口に立っていた。直立不動、その手には、武器が握られている。
そのただならぬ様子に、ゼオンは目を伏せた。いよいよ、だ。
「敵軍は既に首都を包囲しています。ゼオン様、どうぞ出撃の合図を!」
「…わかりました。すぐに、そちらへ行きましょう」
「はっ!」
兵士は敬礼をして、また、廊下を駆けていった。それを見送ると、ゼオンは、もう一度、隣で眠る最愛の者を見た。そうして、その額にそっと触れた。
少し汗ばんで、濡れた額。温かくて、…とても、愛おしくて。
「…皇子、これで、最後ですね」
聞こえてないかもしれない、でも、言わずにはいられなかった。
「…どうか、ご無事で。そして、何処かの地で、何時かの時代で、また、お会いしましょう」
風景が急にぼやけて、水の中に沈んだ。たまらず、想いは頬に流れていった。
「…さようなら、皇子…」
ゼオンは立ち上がった。側にかけてあった外套を肩に羽織った。伏せていた目を開け、凛と前を見た。瞬きすら、しないで。
そうして歩いていった。白の陽光が彼の姿を覆い隠した。
ゼオンは振り向かなかった。最後まで、振り向かなかった。最後も、否、最後だけは…。
1028年白羊の月19日
ゼルフォード国首都ラヘルディアに突入。
ラヘルディアへ至る橋の攻防戦勃発。ラヘルディア王国騎士団長ゼオンがこの戦いにより死亡したとの旨と受けるが、詳細は不明。
その後、ゼルフォード国の王、並びに皇子ルーシアを重罪により処刑。
これを以て、ラヘルディアは事実上陥落した…。
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