「――――。はい、おしまい」
「うーん、とってもおもしろかったーっ。お母さん、私この絵本大好き」
「お母さんもよ、アリシア。いいお話だものね」
「うん!最後に王子さまと王女さまが流れ星に向かってお願いするところ、私大好きっ」
「もしアリシアが流れ星にお願いするなら、何てお願いする?」
「王子さまと王女さまのお願いと同じだよっ。私お母さん大好きだもん!」
「アリシア――うれしいわ、お母さんのお願いもアリシアと同じよ」
「えへへっ。ねえお母さん、私もあの絵本の子供みたいに、5歳になったら流れ星たくさん見れるかな?」
「――ええ、きっと見れるわよ。アリシアはいい子ですものね」
「うわぁ、楽しみー!きっと綺麗だろうなー」
「ふふっ。元気出たみたいね、アリシア。良かったわ」
「うん、もう大丈夫。お母さんありがと」
「それじゃもう遅い時間だし、そろそろ寝ましょうね」
「うん。おやすみなさい、お母さん」
「おやすみなさい、アリシア――」
* * *
「アリシア、いらっしゃい。ごはんできたわよ」
プレシアはできたての料理をテーブルに運ぶ。
「はーい!」
元気のいい返事と共にアリシアの足音が聞こえてくる。
階段を駆け下りてくるその軽やかな音に、プレシアは木琴のような心地良さを感じ、思わず笑みがこぼれる。
アリシアはそのままの勢いでドアを開け食堂に飛び込み、
「今日のごはんなーに?」
「ふふっ、そんなに急がなくてもいいのに。今日はシチューよ」
アリシアに笑顔が広がる。
鍋の中の白いクリームからほかほかと湯気が立ち上っている。
アリシアは母のシチューが大好きだ。母が作ったものなら大抵よく食べるアリシアだが、その中でもシチューだけは格別らしい。
「いただきまーす!」
アリシアは利き手の左手でスプーンを持つと、プレシアが席に着くよりも早く食べ始めた。
みるみるうちにシチューが減っていく。もっと大きな皿に盛ってあげればよかったか、とプレシアは思う。
「おかわり!」
「はいはい、どうぞ。食べ過ぎないようにね」
プレシアは苦笑しながらもどこか嬉しそうだ。自分の作った料理を娘が喜んで食べてくれるのはやはり嬉しいのだろう。
先程よりも多めに盛ってアリシアに手渡す。
「お母さん、ちゃんと覚えてる?」
再び先程と劣らぬ速さで食べ始めたアリシアだったが、ふと手を止め問う。
「なあに?」
「明日のこと」
プレシアはふっと微笑み、
「忘れるわけないじゃない。アリシアこそ準備は大丈夫?」
「うん!楽しみー」
アリシアは本当に母が忘れているかもしれないと思ったわけではない。ただその話をしたくてしょうがなかったのだ。
――明日。アリシアは刻々と迫ってくるその日を一ヶ月も前から楽しみにしていた。
向かう場所は近くの山。いつも週末にピクニックに行くあの静かな山だ。
山といっても険しさはなく、丘と呼んでもいいような、自然溢れるのどかな場所である。
アリシアはその山が大好きだった。足元に広がる優しい香りの綺麗な花、空に響く野鳥の鳴き声、胸に広がる爽やかな風、そんな山の全てが大好きだった。
だからその日も、そこで祝うことにしたのだ。
アリシア5歳の誕生日である。
*
夜が明け、夏の朝の鋭い日差しがアリシアを起こした。
興奮してあまり眠れなかったのか眠い目をこすり、ピシャッと両手で頬を叩いて目を覚まし、ベッドからぴょんと立ち上がり、今日のために母が用意してくれたフリルの付いた服を着た。
階段を下りて母の元に向かうと、母は既に台所に立っており、サンドイッチとケーキを作っていた。
「お母さん、おはよう」
「あらアリシア。早いのね、もう少し寝ててもいいのよ?」
「ううん、大丈夫。何かお手伝いしよっか」
「そうね……じゃあ、お弁当のサンドイッチ作ってくれる?」
プレシアは、自分でできるから手伝わなくても大丈夫だ、とは言わない。
アリシアが楽しんで手伝ってくれているのを知っているからだ。それに、アリシアと一緒に料理を作るのはプレシア自身も楽しい。
「じゃあこのトマト切るねっ」
アリシアはその小さな手でトマトを支え、アリシア専用の小さなナイフでそれを切り始めた。
スパッスパッと小気味良い音がしてトマトの輪が積み重なる。
手伝いを始めた当初はその手つきもぎこちないもので、危なっかしさにプレシアは目を離せなかったものだが、今ではすっかり包丁捌きも上達し、安心して任せられるようになった。
アリシアもそれが嬉しいのか誇らしいのか、更に積極的に手伝うようになり、朝や昼の簡単な食事を一緒に作ることは今では日常的な光景となっていた。
「でーきたっ」
自分で切ったトマトと母が元から切っていた野菜を、手のひらより一回り大きいくらいのパンに挟み、完成させたサンドイッチを自慢気に母に見せる。
「上手じゃない。その調子よ」
「うん!じゃあもっと作るね」
アリシアは次はたまごサンドイッチを作ることにした。アリシアは卵の白身の感触が大好きだ。
黄身の濃い味もいいけれど、あの硬いようですぐに柔らかく弾ける白身はなんだか面白い。あんな不思議な物を作れる鳥はすごい。
――そんなことを思いながら卵を手に取り、殻を割ろうとボールに近づける。と、
時間が止まったような気がした。いや、止まったというよりも極端に遅くなったと言った方がいいだろうか。
見える。既に卵は手の中に無い。膝のあたりをゆっくりと下向きに動いている。それが何を意味するのか、アリシアは嫌と言うほど理解した。だが今となってはどうしようもなく、
乾いた音が響き、足元の床に生の卵が広がった。
殻の白と黄色い黄身のコントラストが眩しい。
怒られる。そう思った。
お母さんがこっちを向いた。びっくりした顔をしている。
そうだ、きっとこの前みたいに怒られちゃうんだ。お母さんの研究所でいたずらしちゃった時みたいに。
後でちゃんと考えてみるとあの時の私は悪い子だった。そして今もまた悪い子になっちゃった。だから、
口が開く。
ああ、怒られる怒られる怒られる怒ら
「大丈夫!?アリシア!」
――それは怒りの声ではなかった。
「えっ」
怒らないの?
「どこか怪我してない?」
「う、うん、大丈夫」
あっ――この声は……
「そう、良かった」
プレシアはほっと安心のため息をつく。
……私を心配してくれてる声だ。
聞き慣れた声だった。怒る声よりもずっと聞き慣れた声だった。
でもどうしてだろう。失敗して迷惑かけちゃったのに……。
「――お母さん……怒らないの?」
「怒るわけないでしょう」
アリシアの考えを見抜いたかのように、優しい声でプレシアは言う。
「アリシアはちゃんとやってくれてるじゃない。これくらい気にしなくていいのよ」
ああ……そうだった。
アリシアは思い出す。
去年だったか、アリシアはボール遊びをしている時に間違えて家の窓ガラスを割ってしまったことがあった。
あの時も絶対に怒られると思った。けれどプレシアは全く怒る様子を見せず、ただただアリシアを心配していた。
私の目の前に広がったガラスの破片を見て、手が離せないって言ってたお仕事を放り出して、駆けつけて来てくれたっけ。
アリシアは改めて思う。
私のお母さんは……すごく優しいんだ。
嬉しさと、申し訳なさと、自分でもよくわからないようないろいろな気持ちが胸の中でいっぱいになって弾けて、
「お母さんっ!」
アリシアは母に抱きついた。
「ふふっ、よしよし」
プレシアはアリシアをしっかりと抱きしめ、頭を撫でる。暖かい母の温もりに包まれる。
ケーキを作っている最中だったからか、胸元からほんのり甘いクリームの香りがする。すごくいい気持ち。
私が悲しいときにはいつも抱きしめて助けてくれる。それだけで私はすごく幸せな気持ちになれる。
そんなお母さんが、私は大好き。
「アリシア、まだお手伝いできる?」
「うん!」
アリシアはゆっくりと母の胸から離れ、目にたまった涙を拭う。プレシアは落ちた卵を雑巾で拭い取り、もう大丈夫よとアリシアに声をかけた。元気よくうなずいたアリシアは新たな卵を手に取り、今度は失敗しないよと母に宣言し、その通り見事に割ってみせた。
さすがアリシアねと母に褒められ、もう先程の失敗で落ち込んだ気持ちは軽く吹き飛んだ。
そうしてアリシアは順調にサンドイッチを作り上げ、プレシアはケーキを完成させ、バスケット一杯に詰まったサンドイッチと小さめの箱に入ったケーキがテーブルに並んだ。
「じゃあ、そろそろ行きましょうかアリシア」
「うん、行こう!」
そのバスケットと箱を持って、二人は手を繋ぎ山へと向かった。
*
丸い青空を彩るように、クロワッサンのような白い雲がふわふわと漂っている。
草原が広がるこの山の頂上は、あまり人に知られていないようで、今は二人の他には誰もいない。
所々に大きな木が生えていて、見るからに快適な木陰を作っている。二人はその木陰に座った。
「涼しくて気持ちいいね、お母さん」
「そうね。それに晴れて良かったわ」
山にそよぐ涼しげな風と混ざり合った夏の日差しが、二人にやわらかく降り注ぐ。
「あ、お母さん見て!海がキラキラしてるよ」
「あら本当。綺麗ね」
遠くに見える海が太陽の光を反射して輝いている。
この山からは様々な景色が見える。草原のなだらかな傾斜の向こうには海が、その反対側には二人の住む街が、周りには森や山が、季節ごと日ごとに少しずつ色を変え、二人の目を楽しませている。
「ほらアリシア、綺麗な蝶々が飛んでるわよ」
「あっ、ほんとだー」
アリシアが指を差し出すと、ふわりと蝶々が舞い降りた。
「あははっ。お母さん、これ不思議な模様だね」
「珍しい種類ね。この辺りじゃなかなか見れないのよ。良かったわねアリシア」
「うれしいなー――あっ、飛んでった」
「バイバイって」
「ばいばーい!」
自然の多い場所だからだろうか、この山にはいろいろな動物や昆虫も数多く生息している。大きな動物がこの草原に姿を見せることはめったに無いが、小さな動物は時折側に寄ってくることもあり、二人はよくその触れ合いを楽しんでいる。
「お母さん、あそこに何かいるみたい」
アリシアが、少し離れたところでガサガサ揺れている草むらを指差した。茶色がかった尻尾が見える。
「あら、リスじゃない」
「捕まえてみていいかな?」
プレシアは笑って、
「すばしっこいわよ。捕まえられるかしら」
「よーし、がんばるぞっ」
草むらに向かって走り出す。気付かれないように、あまり音を立てないように。
茶色い尻尾がピクリと動いた。
気付かれちゃったかな。アリシアは速度を緩めゆっくりと爪先立ちで近づいていく。
まだ大丈夫。
小さな耳が見えた。くりくりした目も見える。よーし、
「えいっ」
両手をかぶせるようにして飛びかかる。
捕まえたっ。
――そう思った瞬間、手と手の間の隙間をすり抜けるようにしてリスは逃げ出した。
「あっ、待てーっ!」
追いかける。全力疾走だ。
だがリスの素早い上にちょろちょろした動きにアリシアの足では適わず、
「あー、逃げちゃった」
リスは森の奥深くに姿を消した。
「ざんねん――あれ?なんだろう……」
アリシアが何かに気付いた。黄色や赤や薄い青が風に揺れている。
目を凝らしてじっと見ると、
「お花だ!」
アリシアが元いた木陰からは隠れて見えない場所にある小さな斜面の向こう側に、色とりどりの花が花畑のように広がっていた。
その花畑を母にも見せてあげようと、アリシアは戻って母を呼んだ。
プレシアはどうしたのかと聞いたが、アリシアは秘密だよと言い、よくわからぬままに連れられて、
「まあ――こんな場所あったのね」
「見て見てお母さん、このお花綺麗だよ」
アリシアが一本の花を摘んで母に見せた。紫色の、下半分が繋がっている五枚の花びらが目を惹く花だ。
「これは――キキョウね」
「キキョウって言うんだー。ねえお母さん、このお花で何かできないかな?」
「そうね……」
プレシアは少し考えて、
「アリシア、花輪って知ってる?」
「花輪?」
「こうやって作るのよ」
プレシアは周りに咲くキキョウから、特に花びらの大きい何本かを選んで摘んだ。
慣れた手つきで編んでいく。みるみるうちにキキョウの花が連なっていき、ちょうどアリシアの頭の大きさ程の花輪が出来上がった。
それをアリシアにちょこんと乗せ、
「はい。よく似合ってるわよ、アリシア」
「うわぁ、綺麗!」
紫色のやわらかな輪を頭に乗せて、アリシアがくるくると舞う。フリルの付いたスカートがふわりと広がる。
まるで天使のようだと、プレシアはふと思った。
「お母さんすごいなー。私にも作れるかな?」
「もちろんよ。教えてあげるから好きなお花摘んでごらん」
「えっとねー、じゃあ私もそのキキョウがいいな」
アリシアはキキョウが気に入ったのだろう。キキョウを何本か摘んで母に見せた。
「まずは、花のすぐ下の茎にもう一つの花を置いて、こういう風に茎を曲げて――」
母の言う通りにアリシアは花を編んでいく。母のアドバイスと手伝いもあって、順調に出来上がっていく。
アリシアの目が輝く。お母さんみたいに、私も綺麗なの作れるかな。ドキドキする。はやる心を抑え、アリシアは丁寧に編んでいき、
そして、完成した。
「お母さん、できたー!とっても綺麗……」
「すごいじゃないアリシア。初めてなのにこんなに上手にできるなんて」
アリシアは少し照れたような笑顔で、
「えへへっ。これお母さんにあげるー。さっきのお返し」
「あら、いいの?アリシアが作ったのに」
「うん、お母さんにかぶってもらいたいの」
そう言ってアリシアは、母の頭に花輪を乗せた。
「ありがとう、アリシア」
自分の頭より一回り小さいその花輪をかぶって、プレシアはとても嬉しそうに微笑んだ。
「ねえお母さん、もっと作ろう!」
「ええ、そうしましょう」
二人は再び花を摘み始める。
*
そうしてしばしの時が経ち、太陽が真上より少し傾きかけた頃――
「アリシア、そろそろお弁当にしましょうか」
遊び疲れたアリシアが仰向けに寝転がったのを見て、プレシアがそう言った。
「うん!ちょうどお腹空いてたんだー」
ぴょこんと飛び起きる。
「花も綺麗だし、ここで食べましょうか。ちょっと待っててね」
プレシアが最初にいた木陰から、置いてあったバスケットと箱を持ってきた。
バスケットの包みを解き、開ける。
「ほら、アリシアが作ったサンドイッチよ。おいしそうね」
「あはっ。ちゃんとできてよかったよ」
朝に一緒に作ったときはケーキ作りに忙しく、アリシアのサンドイッチをちゃんと見ることができなかったプレシアだが、こうして出来上がったものを改めて見ると本当においしそうだ。
プレシアは思う。まだまだ赤ん坊だと思っていたけれど、もう一人でこんな料理も作れるようになったのか、と。
自分の知っているところ、知らないところ、いろいろなところでアリシアは成長している。いつか私が手伝わなくても、一人で何でも出来るようになる日が来るのだろうか。
――きっと来るはず。私の元を離れて、広い世界に出て、いろんな人と触れ合って。
それはちょっぴり寂しいけれど、やっぱり、嬉しい。アリシアが元気に生きてくれることが何よりの願い。
「大きくなったわね……アリシア」
「ん?」
「ふふっ、なんでもないわ。さあ食べましょ」
「うん!」
アリシアがサンドイッチを一つ手に取って食べた。最初に作った、トマトの挟んであるサンドイッチだ。
「おいしい!お母さんも食べて食べてっ」
同じサンドイッチを母に手渡す。プレシアはそれを食べ、
「ほんと、おいしい。さすがアリシアね」
「これも食べてっ」
アリシアは、今度はたまごサンドイッチを差し出した。卵を落としてしまい落ち込んだが、母が慰めてくれたおかげで完成できたあのサンドイッチだ。
「ちゃんと……できてるかな」
不安そうにアリシアが言う。プレシアはそんなアリシアの頭を撫で、
「アリシア頑張ったじゃない。おいしいに決まってるわよ」
口に入れてゆっくりと噛み、
「ほら、すごくおいしい」
「よかったーっ。お母さん、ありがとう」
「アリシアも食べてごらん」
「うん、いただきまーす」
花畑の中で、そんな昼の一時が過ぎていった――。
「ふー、おいしかったー」
二人は食べ終わったようだ。バスケットはすっかり空になった。
うーん、と伸びをしながらアリシアが言う。
「なんか眠くなってきちゃった」
お腹がいっぱいになり、遊び疲れていたのもあってか、アリシアはウトウトし始めていた。
プレシアはそんなアリシアを見て、
「今日は夜までここにいるから、寝てもいいわよ?」
「うん……じゃあ寝る……」
フラフラし始めた。本当に眠そうだ。
プレシアはアリシアを側に寄せ、自分の膝に寝かせた。
「はい、おやすみなさいアリシア」
「ありがとお母さん……おやすみなさい……」
アリシアはすぐに眠りに就いた。
*
アリシアが目を覚ますと、オレンジ色の太陽が夕焼けと共に、遠くに見える海の水平線から今にも沈もうとしていた。
「ふわぁー、お母さんおはよう。……私結構寝ちゃったのかな?」
「いいのよアリシア、ちょうどいい時間だわ。おはよう」
「ちょうど……?」
「さあ、今日はお誕生日なんだしケーキ食べましょうか」
「あ、うん!」
プレシアがケーキの箱を開けた。甘い香りが辺りに漂う。均等に飾り付けられた苺と、程よく乗った生クリームがとてもおいしそうだ。
大きさは、先程プレシアが作ったキキョウの花輪と同じくらいだろうか。二人にはちょうどいい大きさだ。
アリシアは、すぐにでも食べたいといった顔で母の準備をじっと見ている。
サンドイッチでお腹がいっぱいになっていたアリシアだが、ケーキを前にしてはそんなことは全く問題ではないようだ。
「ねえねえお母さん、もう食べていい?」
待ちきれなくなったのか、アリシアが身を乗り出して言う。
プレシアはいたずらっぽい口調で、
「あらアリシア、ろうそくは立てなくていいの?」
「あっろうそく!立てる立てる!」
アリシアは誕生日のろうそくの火を消すのが大好きだ。なんだか特別な気分になれる。ろうそくの火を消した分、大きくなれるような。
プレシアが箱の奥からろうそくを取り出し、アリシアに渡す。
「じゃあ、立てるねっ」
ケーキの中心に円を描くように、アリシアがろうそくを立てていく。一本、また一本と、ゆっくりと立てていく。
それはまるで、ゆっくりと積み重なってゆく年月のようで。
ろうそくが立つたびにプレシアは思い出す。
生まれたばかりのアリシア、1歳の頃のアリシア、2歳の頃のアリシア……、みなはっきりと覚えている。
初めてアリシアにミルクを飲ませた時のこと。
この量でいいのか、この温度でいいのかと、何度確認しても不安だった。アリシアが嫌がったらどうしよう、吐いちゃったらどうしよう。
だけど、そんな母親になりたての自分にアリシアは優しく微笑んでくれて、おいしそうにミルクを飲んでくれた。
初めてアリシアが一人で立った時のこと。
驚いた。嬉しいよりも先に驚いた。どうしてアリシアが立ってるんだろう、そう思った。
でもその意味がわかった時、私は嬉しくて、嬉しくて、思わずアリシアに抱きついた。びっくりさせてごめんね、アリシア。
初めてアリシアが言葉を喋った時のこと。
お母さん、そう言ってくれた。何よりもまず私のことを呼んでくれた、そのことが信じられなくて、でもそれは本当で。
お母さん、お母さん。そう繰り返すアリシアの声は、世界一の音楽だった。
アリシアと一緒に笑ったり、泣いたり、数え切れないほどの大切な思い出は、私の一生の宝物。
――そして今も、アリシアは立派にすくすくと成長している。
そんなアリシアの全てが愛しくて。
アリシアがいる、アリシアが側にいる。ただそれだけで、こんなにも幸せな日々が――
「でーきたっ。――お母さん?」
並べ終わったろうそくをじっと見つめる母を見て、アリシアは不思議そうな顔をする。
プレシアはふっと笑いかけ、
「さ、それじゃ火を点けましょうか」
「うん!」
プレシアがマッチで順に火を点けていく。ポッ、ポッ、と音がして、五本全てに火がともった。
小さな炎が風にそよぐ。アリシアが寝転がって横から見つめると、沈みかけの夕日が陽炎に揺れた。
「はい、どうぞ」
プレシアが言った。
アリシアは静かにうなずくと、すーっと大きく息を吸い、止め、
「ふーーーっ!」
一気に吹き消した。
消える間際の揺らめく炎の点滅が辺りを照らした瞬間、風にはためくような音と共に全ての炎が消えた。辺りに静寂が戻る。
「お誕生日おめでとう、アリシア」
祝福の拍手が響き渡った。プレシアの拍手と、それにつられるアリシアの拍手だ。
「よーし、ケーキ食べよう!」
楽しみにしていたのだろう。アリシアが早速そう言った。
「ふふっ。じゃあ用意するわね」
プレシアがケーキを切り分ける。同じ大きさのケーキが二つ、それぞれの皿に乗った。
「いただきまーす!」
「アリシア、おいしい?」
「うん、すごくおいしい!」
「良かったわ、気に入ってもらえて。それじゃ私もいただきます」
アリシアの隣に座り、プレシアもケーキを食べ始めた。
「私、もう5歳になったんだよね」
ケーキを半分ほど食べ終わった頃、しんみりとアリシアが言った。
「お母さん、覚えてる?私がもっと小さかった頃、寝る前に悲しくなって泣いちゃった時、お母さんがよく読んでくれた絵本」
「王子さまと王女さまが出てくる絵本?」
「うん。私ね、その絵本に出てくるようなたくさんの流れ星、いつか見れたらいいなーってずっと思ってたの」
「ふふっ、知ってたわ。アリシア、夜に時々ずっとお空を眺めてることがあるものね」
「あはっ。さすがお母さん、知ってたんだー。ねえお母さん、私にも流れ星……見れるかな?」
夕日が沈み、星の瞬き始めた夜空を、どこか遠くを見るようにアリシアは眺める。
「アリシア」
一緒に空を見上げて、プレシアが言った。
「ん?」
「ちょっと目をつぶっててごらん――お誕生日プレゼント、あげる」
「あ、うん!」
お誕生日プレゼント。なんだろう。
新しい服かな、おもちゃかな。それとも、何かお母さんが作ってくれたのかな。うーん……わかんないや。
アリシアはいろいろ考える。
でも、お母さんがくれるものなら何でも嬉しいな。
――その時、閉じた瞼の中に一瞬紫色が広がって、消えた。
今のは、
「お母さんの……魔法の光?」
「アリシア、目を開けてごらん」
母にそっと手を引かれて立ち上がったアリシアは、ゆっくりと目を開く。
数え切れないほどの光の粒が、満天の星空を駆け抜けた。
「うわぁ……!」
宇宙をそのまま覗いているような、ずっと眺めていると地面がどこかへ消えてしまいそうな星空の中、幾筋もの流れ星が滑ってゆく。
遥か遠くにあるはずの星々が信じられない程に鮮やかで、手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあるようだった。
そんな星の一つ一つが様々な色の淡い星明りに包まれて、止まることなく流れるその様はまるで別世界。
夏の澄んだ空気の中、それはとても美しくアリシアの目に映った。白く輝く光の尾が夜空を埋め尽くす。
――アリシアが何度も夢に見た世界だった。
「お母さん、すごい、綺麗……」
幻でも見ているかのように、瞬き一つせずアリシアはその星空を見上げていた。
「これが流れ星よ、アリシア。本物の、ね」
アリシアの小さな暖かな手を両手で包む。
この夢のような世界は、決して幻ではない。
アリシアのために、プレシアが二年以上かけて作り上げた、本当の流れ星の魔法だ。
「流れ星――お願いしたら、叶うかな?」
はっと気付いたようにアリシアが言った。
「ええ、きっと叶うわよ」
「やった!じゃあ一緒にお願いしよう!」
アリシアが母に抱きつく。
プレシアは優しく微笑んで、アリシアを抱き上げた。
夏の夜の涼しい風が頬を撫でる。木々の葉の擦れ合う音が遠くの海の波音と混じって山に木魂する。足元に広がる花畑がゆらゆらと揺れる。
その静かな山の中、二人は星降る夜空を見上げる。
「お母さんと、」
「アリシアと、」
声が重なる。星がきらめく。
プレシアの胸に、アリシアの胸に、大好きなお互いの温もりが広がる。
二人の願いは一つ。ずっと前からそうだった。たった一つの大切な願いだ。
プレシアは知っている。
アリシアも知っている。
一緒に食事を作ったり、一緒にどこかへ出かけたり、一緒に遊んだり。
そんな当たり前の日々がこんなにも愛しいことを、一緒に生きてゆくことがこんなにも嬉しいことを。
時には泣いて、時には笑って、そうして気持ちを分けあって、助けあって。
共に過ごすかけがえのない時間がとてもとても大切で。
だから、
ずっと続いて欲しい。そんな想いを同じ言葉に乗せ、
「いつまでも」
流れる夜空の星に願う。
「幸せに暮らせますように――」
fin.