深夜、自宅でひとりバーボンをロックで飲んでいる黒澤。
唯一の、彼のくつろぎの時間だった。
深く満足げな溜息をつくと、静寂が支配する部屋に不穏な物音が響く。
「…………?」
気のせいだ。
いや、気のせいだと思いたい。
『カサッ』
「………………」
黒澤の身体に緊張が走る。
こんな緊張感は、対象を尾行して気づかれそうになった時以来だ。
そろそろと、音の発生源である台所に忍び足で向かう。
すると彼の眼前に、あの忌まわしい黒い物体が現れた。
「……☆▲□%$&=!」
彼の口から意味を成さない呻き声が漏れる。
電話で美香を呼び出す。
「美香?例のものが出た。来てくれ、頼む……」
精一杯冷静さを保とうとする声も、わずかに震えている。
「またなの?困ったわね……じゃ、迎えに来てね」
黒澤は、自慢のボルボで赤信号もぶっちぎって彼女のもとへ駆けつけた。
美香の後ろに隠れるようにして、黒澤は自室へ入った。
「スプレーでいぶり出すのよ。そうすればこっちへ来るわ」
黒澤は、本当のところ『冗談じゃねえ』と思っていたが、普段のように
冷静さを保とうとして必死の努力を続けていた。
「そうだな。おまえのやりたいようにしてくれ。任せる……」
語尾がわずかに震えているのが、情けないとは彼自身思っている。
美香は無造作に、冷蔵庫の陰のあたりにスプレーを向けた。
「こういうところが、くさいのよねぇ〜〜……」
心なしか、美香の目が据わっているような気がする。
1度目にゴキブリの襲来を受けた時は、情けないと思いながらも
「俺は、ゴキブリだけは苦手なんだ……」と一応冷静ぶって忌避してみた。
すると美香の顔に、嬉しそうな笑いが浮かんだ。
「あら、私は平気よ。私が退治してあげるわ!」
と勢いよく新聞紙を掴むと、見事な腕さばきでゴキブリを仕留めた。
黒澤は、懸命に叫び声を押し殺した。
「私、よく女の子の友達にも呼ばれるのよね。夜中に出た時、一人
暮らしじゃ退治するのもいやだけどほっとくわけにもいかないでしょ?」
にっこりと照れくさそうに、でも満足げな笑顔を見せる美香に、黒澤は
真剣にプロポーズを考えたほどだった。
しかし、この前の美香とは今回は明らかに目の光が違う。
なんというか、尋常ではなかったのだ。
いやな予感がする……
持ち前の鋭い勘で、黒澤は身辺に迫る危機を正確に予知していた。
しかして、それは的中した。
スプレーで苦しくなったゴキブリが、美香の足元を通り過ぎて黒澤の
方へと素早く移動したのだ。
「…*★○◎※□!#+→」
黒澤は錯乱した。
瞬間、美香の視線はゴキブリの動きを捉え、素早く彼の足元へと走らせた。
すると美香の手が鈍い音をさせて、床に叩きつけられた。
「やったわ……」
嬉しそうな美香は、興奮のためか息を弾ませている。
美香の掌の下には、哀れ絶命したゴキブリが内臓破裂した無惨な躯となって
いたのだった。
「………………」
黒澤は、手で懸命に口から漏れそうになる声を殺した。
脳貧血を起こしそうになるが、倒れると美香の汚れた手で介抱されてしまう。
よろけそうになる足を、男のプライドをかけて踏ん張る。
待てよ……この女、素手でゴキブリをブチ殺してなかったか?
「ねえ、貴征さん。紙くれるかしら?」
美香はゴキブリをひょいとつまみあげて黒澤にそう言った。
「……な、なんだ、おまえ……」
いかん。明らかに声が震えていく……
黒澤は動揺を美香に悟られまいと平然と振る舞おうとするが、うまくいかない。
「だって……あなたが危なかったから。咄嗟に手が……あら、やだ。つい
いつも紙なんか使わないで、手で潰しちゃってるから。だって紙捜してると
その隙に逃げられちゃうでしょ?」
黒澤は美香からじりじりとあとずさりして離れると、「風呂に入る」と浴室に
逃げ込んだ。
そのあと、美香がどうやってそのゴキブリを始末したのかは知らない。
衝撃のために発熱してしまったようだったが、美香に「ミューズとキレイキレイで
よく手を洗っておけ!」と怒鳴ってしまったような気がする。
もう深夜の二時だったから、美香を帰すわけにはいかなくて泊まらせる
羽目になってしまった。
「ねえ……」
ベッドに伏しても、いつもと違い手も出してこない黒澤に焦れて、美香は
彼の手をとってみた。
「悪い、疲れた……寝かしてくれ」
知恵熱とショックで本当に具合が悪くなってしまった黒澤は、その夜
ついに美香に手を触れることはなかった。
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