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八巻と黒澤
傷痕
その日、黒澤はいつものように交番で立番をしていた。
3日前、ここに拝命されて以来、初めての夜勤だった。
夜が深まってくると、遙か遠くからも聞こえる爆音が響き渡り、
周囲の閑静な住宅街の静寂を破る。
「宮田さん。ここにはまだ族なんているんですね?」
呆れながら、先輩にあたる宮田巡査長に話しかけた。
「ああ、都内にはな……オフィス街やそこらじゃない限りは
絶滅もしないではびこってるよ」
この幹線道路沿いには、大きな古い家々が建ち並ぶかと思えば
近代的高級マンションなどが混在する。
そんな中を、暴走族の改造バイクの不快な振動音、甲高い
ラッパのような音、重低音を強調した音楽が鳴り響く。
次第にその音が近づいてくる。
暗闇を切り裂くような眩しい光芒が閃き、騒々しいバイクの
集団が一斉にその姿を現した。
交番の前には信号機があるので、さすがに一旦はそこで止まる。
それにしても……
黒澤は、連中をじろじろと眺めた。
早く走る目的というにはあまりに滑稽な、走りの邪魔をしている
としか思えない悪趣味な装飾の数々。
白やら黒やらの、いわゆる『特攻服』と言われる独特の服装に
思い思いに刺繍された意味不明の散文。
全体で10数台はある改造バイクと、それに跨る金や茶の頭の
若者たち。
黒澤は、珍しいものを見た思いから唇に笑みを浮かべた。
その彼の様子を見て、群の中の一人が怒鳴った。
「何笑ってんだ、ああ?お巡りィ!」
彼らは知性にはまったく欠けるが、自分たちに向けられた蔑みや
敵意に対する感度だけは鋭い。
だから始末に負えない……
黒澤はそんな思いで苦笑した。
「見ねえツラだな。新人か、コラ?若造?」
また別な顔が言った。
「餓鬼が、何言ってやがる」
黒澤が小さく呟いた。
「あぁ?!聞こえねぇよ!はっきり言えや!」
「餓鬼は小便垂れて、とっとと寝ろと言ったんだ」
今度は明確にそう言い放った。
信号が変わると、彼らは再び爆音を響かせながら走り出す。
「土曜の俺らを止められんなら、やってみろや!」
「走龍連盟、舐めんなコラァ!」
口々に下品な罵声を浴びせながら、騒々しい一団は遠ざかった。
「宮田さん、なんなんです?あいつら」
「ああ、走龍連盟な。……連盟ったって、そりゃ昔はでかかった
らしいけど、今はせいぜい30台くらいのチームでしかない。
奴らのルートは、23区を出て都下に行くんだ」
「30台で連盟とは、そりゃ恐れ入りますね」
黒澤はそう言って苦笑した。
「ひとりひとりは、大したこたない。纏める役が、ちょっとな。
副長で八巻ってのがいるんだが……」
宮田はそこで言い渋った。
「そいつがなにか?」
黒澤は中に入り、要注意人物のリストを見せてもらう。
どこの交番にも、大抵はこんなものがある。
例えば痴呆で徘徊し、何度も交番にやってくる老人。
小銭がないと言っては寸借サギをあちこちで繰り返す常習犯。
それならまだいいが、やたらと警官に敵意を抱く者たち。
なにかと警察官のあら探しをし、それを鬼の首を取ったように
言い募る。
八巻は後者に属するようだった。
「ガタイはいいし、喧嘩も強い。それに奴らに影響力がある。
頭領は飾りで、実質は奴が掌握してるも同然らしい」
「ふん……」
黒澤は鼻先で嗤った。
「おまえ、奴に目つけられたかもな。野郎ら、バカにされたと
感じたらしつっこいぜ。ま、おまえのことだから心配無用だと
思うけどな……」
宮田はこのことを重大視していない様子でそう言った。
若い交番勤務の警官の仕事は忙しい。
巡回連絡、パトロール、喧嘩の仲裁や道案内。
最も多いのは道案内だが、それ以外にもこの交番のように
比較的暇な場所からは、駅前交番などへの応援もある。
さすがに駅前となると、活気が違う。
タフを誇る若い黒澤も、雑事の連続でこき使われ続けると
疲労を感じる。
年輩の警官には奥で休んでいてもらい、その替わりにと
休みなく働き続ける。
週末の駅前で、立番をしている間は立ち働くよりましだった。
立番とは、文字通りに交番の前に立って不審者などの
見張り番をする役割だった。
これを怠るわけにはいかない。
まして駅前ならば、なおさらに。
とはいえ、道案内などが仕事の大半でもある。
黒澤の鋭い眼が周囲のあちこちを射るように見据えている。
若く、長身で逞しい警察官が、腕を後ろに組んで立っている
だけで、威圧感とともに頼もしさをも感じさせる。
周辺の店の主人がやって来て、差し入れをしてくれることも
ある。
交番に毎日花を持って通う女子高生などもいる。
これに初めて遭遇した時は、話には聞いたことはあったが
実際にこんなことがあるのだと、驚いた。
もっとも、彼女のお目当ては別な警官だったが。
そのうちに、巡回に行っていた中年の高野巡査長がスクーターを
押した少年を引き連れて戻ってきた。
「バイク泥ですか」
黒澤が言うと、少年は声高に言った。
「違う!ほんとに貸してもらったって言ってるだろ!」
「まあまあ。今照会するから。ちょっとだけな、な」
なだめるように高野は言った。
「なんでここの鍵が壊れてるんだ?」
黒澤はキー挿入部分をこじ開けて壊した場所を指した。
「それは……友達が、貸してくれる時に、鍵がないって言うから。
壊したら、走ったから……」
よくある言い訳だった。
スクーターのキーボックスを破壊するのも、盗難には非常に多い
手口だ。
少年の態度を見ても、まだ白か黒かはわからない。
「この友達の家に電話して確認してもいいかな?」
高野が言った。
「なんでそんなことまですんの?」
少年の声が高くなった。
「君にやましいところがないなら、大丈夫だよな」
黒澤もそう言ってみせる。
交番の中でふてくされた様子を見せる少年を、じろじろと通行人が
見回して行く。
「わかったよ!電話でもなんでもしろよ」
少年は腕組みをして喚いた。
高野巡査長が、スクーターの持ち主の許に確認の電話をかける。
ちょうど、外を屈強な若者が通りががり、こちらをじっと見ている。
近寄ると、交番の中を覗き込むようにした。
「何してんだ?マサ坊」
マサ坊と呼ばれた被疑者の少年が叫ぶ。
「あ!タケちゃん!」
タケと言われたその若者は、一瞬鋭い目で黒澤と高野を睨む。
「俺、シンちゃんのとこからこれ借りたんだよ。ゼファーがエンジン
死んじまってさ。そしたら、このポリが……」
味方を得た勢いからか、マサ坊は調子づいて喋りはじめた。
「悪い悪い、ほんとだったらしいな。疑って悪かったよ」
電話を切った高野が、こちらに向かって来た。
その顔がしかめられる。
「八巻。おまえの舎弟か」
苦い声でそう言った。
八巻、と言われたのはタケと呼ばれたTシャツ姿の若者だった。
黒澤は興味深げに彼をじっと見つめた。
「舎弟とかじゃねえ。仲間だよ」
八巻はそう否定してみせた。
「うちの奴らには、パクリ(盗み)は厳禁にしてる」
ぼそりとそう呟いた。
「走龍の中で、そんなことしたらタケちゃんに殺されちゃうよ。なのに
俺がそんなことする訳ねえだろ!」
マサ坊はさらに喚いた。
「どうしてくれんだよ!恥かかせやがって。てめえら、名前なんて
いうんだ!覚えといてやらあ!」
「黙っとけ。もう気が済んだろうが」
八巻は低い声で一喝した。
その一声で、マサ坊は押し黙った。
高野の顔を見てから黒澤に視線を移し、八巻は言った。
「こっちのお巡りさんには何度かお世話になってるけどよ。そっちの
お兄さんは初めて見る顔だな」
やや上目遣いに黒澤を見る仕草は、日頃から恫喝に慣れきっている
証拠だった。
「俺は、先週こっちの管轄に来たばかりなんだよ」
黒澤は苦く笑った。
「もっとも、あんたらのお仲間に聞けば知ってるだろうな」
八巻の目が、解せないらしく瞬いた。
「なにか文句があるなら、辻のハコに来いと言っとけ。ただし、黒澤
本人が相手になるとな」
黒澤は、そう言うと立ち上がった。
「辻のハコ?」
それが黒澤の本来いる交番を指していた。
ハコとは隠語で交番を指す。
八巻もまた、ゆっくりと席を立つ。
「へえ。あんたがか」
面白がっていそうな声を出すが、顔はそうではなかった。
「なに?タケちゃん。知ってるポリさんなの?」
会話を誤解したのか、マサ坊は態度をだいぶ軟化させていた。
「じゃあ、こいつが世話になった礼は、あんたに返せばいいのか?」
黒澤に向ける八巻の眼光は鋭くなった。
「熨斗も付けてな」
黒澤は笑みを浮かべながら言った。
八巻も微かに笑う。
「黒澤さんへ、か。……行くぞ、マサ」
二人は交番を出ると雑踏の中に消えていった。
「黒澤。おまえ、頼むから問題起こさんでくれよ」
高野はおろおろしながら言った。
平和主義というのか、腰抜けというのか、これでよく駅前の班長が
勤まるものだと黒澤は思った。
「あいつはな、ちゃんと立ててやればおとなしくはしてるんだ。
奴がチームを抑えてるから、今のところおさまってる。あいつが
パクられでもしたら、頭じゃ下を抑えられない」
そうやって、餓鬼を甘やかすから、奴らはつけあがるんだ。
そうは思っても、さすがに口には出さない。
昔は喧嘩チームだったという来歴を、黒澤は聞き流しながら適当に
相づちを打った。
黒澤の中に澱む、鬱屈した感情を彼らは刺激する。
警官としての正義感の他に、暴走族に迷惑を被る義憤も、そこから
発する侠気ももちろんある。
久しぶりに、身体の内圧が高まっていく気がした。
そして翌週、土曜深夜。
その夜は、いつにも増して彼らの暴走行為はひどかった。
チャルメラホーンと呼ばれる甲高いメロディ、盛んに空ぶかしを繰り
返す不協和音。
近隣の住民からの苦情が110番にも寄せられる。
この日黒澤は夜勤ではなく日勤だった。
彼らの傍若無人な振る舞いを止めるには、交通機動隊などのプロに
任せなければならない。
結局その日は、嫌がらせのように交番の周囲をぐるぐると回るだけに
留められた。
非番の夕方。
黒澤は、独身寮の近所へ買い物に出た。
ついでに足が向いて、署に置いてある物品を整理することにする。
カジュアルな私服で署の裏口から入り、ロッカーに置いてあるものを
処分しにかかる。
それが終わって同僚を冷やかしに受付に行くと、そこに意外な顔が
あった。
その体格のいい男は、先日の件で見覚えがある。
「おまえ、八巻とかいったな。なんでこんな所にいる?」
黒澤は単に疑問を口に出した。
八巻は鋭い視線を黒澤に返す。
「あんたに関係ねえだろう」
吐き捨てるように言うと、八巻は途端に所在なげな素振りをした。
黒澤は興味を惹かれて、少し離れて八巻の様子を見る。
「お待たせしました。八巻さん」
受付の女性職員が彼の名を呼ぶ。
「半年と14日経った時点で、落とし主がわからなければ、拾った
人……つまりあなたにこの物件を受け取る権利があります。
引き取り期間は、その権利が生じた日から2か月間です。その際には
今お渡しした『拾得物預かり書』と印鑑を持参してください」
「はい」
八巻は書類を受け取ると、足早にそこから立ち去ろうとした。
くっ、と黒澤の口から笑いが漏れた。
それを聞き逃す八巻ではない。
「なにがおかしい?」
振り向きざまに黒澤に向かって食ってかかる。
「見かけによらず律儀なんだな。見直したよ」
「うるせえ!」
八巻の顔は少し紅潮し、声も高くなった。
「盗みは好かないという訳か。感心感心」
笑いながら言う黒澤に八巻は怒りを隠せない。
「てめえこそ、なんでこんなとこにいる?この前の土曜は、よくも逃げて
くれやがって」
馬鹿にされていると感じるのか、いつになく激昂した口調だった。
「逃げた訳じゃない。あの日はたまたま日勤だった。おまえらの都合に
合わせてられるほど、暇じゃないんでな」
笑みを片頬に浮かべながらも、黒澤の眼は笑っていなかった。
「そうかよ。じゃあ、次の夜勤はいつなんだよ?」
黒澤は下を向いて低く笑った。
「俺の予定を聞いて、どうしようってんだ?わざわざ会いに出向いて
くれるってのか?あいにく、野郎とデートする趣味はねえんだよ」
「ふざけやがって…………」
からかわれているのに気づき、八巻の声がわずかに震える。
ここが警察署の受付でなければ、黒澤は間違いなく胸倉を掴まれて
いることだろう。
八巻は黒澤に背を向け、黙ったまま玄関に向かって歩いた。
「次の土曜だ」
黒澤は、立ち去ろうとする八巻の背中に向けて言った。
「その日はあそこで夜勤だ。俺の顔を拝みに来たけりゃ、いつでも
来い」
八巻はそのまま外へ出ていった。
「黒澤さん、あの子知ってるんですか?」
一般職の女性が彼に訊いた。
「ちょっと……」
黒澤は苦く笑って見せた。
「あいつ、あれでも族の副長なんですよ。律儀な野郎だな……」
「えっ!」
女性職員の目が驚きに見開かれた。
「奴、何を届けに来たんです?」
「現金が10万円も入ってるお財布ですよ。対応も悪くなかったし、そんな
暴走族やってる子には見えませんけど……」
「へえ……」
今度は黒澤が驚く番だった。
確かに八巻は髪を少し茶色にしてはいるが、他の連中のようにあからさまな
ワルの雰囲気を持っている訳ではない。
ただ時々見せる暗い光を帯びた眼が、ただの高校生ではないと思わせる。
身体を鍛えているのか、晩秋だというのに半袖のTシャツに筋肉の束が
浮かび上がっていた。
八巻は、黒澤に馬鹿にされたと怒り狂っていることだろう。
それに、暴走族の副長をやっている彼が、落とし物を届けに来ている
ところを、よりによって黒澤に見られてしまった。
そのことを茶化されて、今頃は羞恥と憤りに燃えているに違いない。
彼らの曲がったプライドは、自分たちを馬鹿にし、見下げる者たちを
徹底的に叩き潰すことで保たれる。
その標的として黒澤は彼らの敵意を向けられた。
だからどうしたというのだ。
黒澤は胸の裡で呟く。
交番での揉め事で、酔っぱらいなどに絡まれて殴られそうになった
ことも多数ある。
そんな輩は、交番の裏手に引きずっていって気合いを入れてやった
ものだ。
面白いことになりそうだ……
黒澤は、腹腔の底から熱気が立ち昇っていくのを感じた。
翌週の土曜日。
夕方から曇り空はにわかに暗くなり、濃い灰色の雲が垂れ込める。
そしてまもなく、雨粒が降り注いできた。
足早に帰宅を急ぐサラリーマンやOL。
そんな人々に混じり、黒澤は交番に夜勤に赴いた。
まったく、お誂えむきの陽気だ……
黒澤は唇だけで笑ってみる。
奴らはきっと、性懲りもなく俺のいるここに出向くだろう。
侮辱されたということには敏感な連中だ。
俺に土下座でも迫り、謝罪をさせるまでは執拗に追ってくる。
交機(交通機動隊)でもない、ただの交番の……しかも新参のお巡りに
馬鹿にされたというのは、許し難い屈辱だろう。
どうやって迎えてやろうか。
そんなサディスティックな思いが渦巻く。
彼らがやってくる時間帯は、深夜近く、夜の10時から11時にかけての
間だった。
それまでは、書類の整理でもしたり通常の勤務を淡々とこなす。
この交番は暇なことが多いが、今日は駅前には応援に行かなくても
いい。
ただここで座り、雑務をしていることで足りた。
黒澤の他の警官はここに二人いるが、一人はパトロールに出かけ、
もう一人は奥の座敷で仮眠をとっている。
静かな雨の夜だが、ときおり遠雷がどこからか響いて静寂を破る。
じっと座っていると、いつもなら退屈のあまりに眠くなってしまうところ
だったが、今日はそうならない。
そして雨足は、次第に近づく雷鳴とともに激しくなっていった。
夜の10時を過ぎる頃には、アスファルトを叩く雨の音が響く。
稲光が光ってから5〜6秒で、落雷していた。
「近いな……」
黒澤はひとり呟いた。
その時、遙か遠くから雨音に混じって独特の音がしてきた。
まるでバカにしているような間抜けなラッパの音。
それに続く、騒々しい爆音が雷の音に混じって聞こえる。
「馬鹿どもが……来やがったな」
チッ、と乱暴に舌打ちすると交番の戸を開いた。
通常は、戸口は常に開け放っていなければならない建前だが、こんな
激しい雨の日にはさすがに閉じていても黙認される。
間もなく、その一団が交番の近くにまで迫る。
黒澤は何も羽織らずに外に出た。
制服が大粒の雨に濡れても構わない。
「馬鹿野郎!ほんとに来やがって……」
こんな激しい雨の日に、わざわざ集団を引き連れて。
呆れた奴らだ。
「黒澤あ!」
先頭の八巻がノーヘルで叫んだ。
その声に、黒澤の足が歩を進める。
その時、黒澤の視野の隅に黒い影が映った。
その影は、素早くバイクの前を駆け抜けようとした。
それに気づいた八巻は、思わずハンドルを切って避ける。
影の正体は、小さな黒猫だった。
交番の斜め前に位置する公園の歩道に、八巻のFXが横倒しになった。
タイヤの焦げるようなスリップ音とともに、水を切り裂く音が響く。
「タケちゃん!!」
口々に叫ぶと、彼らはバイクを道の端に止めた。
「馬鹿野郎……やっちまいやがった」
口の中で罵りながら、黒澤は転倒した八巻に走り寄った。
「おい!大丈夫か」
八巻の身体は動かない。
転倒した方向の、左腕と頬の左側から出血している。
血だまりが、雨水に混じって道路に広がり始めた。
「畜生…………」
八巻が呻いた。
周囲を取り囲む暴走少年たちは、八巻に意識があることを知って
安堵の空気が広がる。
「無線で救急車を呼ぶ。それまで動くな」
身につけている警察無線を手に取ると、救急車の手配をする。
「糞……てめえの世話に、なるなんて……」
八巻の顔は苦痛に歪み、出血量の多さから顔色が白っぽくなっている。
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろう。頭は打ってないか?」
「……打ってねえ。畜生……それより、腕が……」
黒澤がレインコートをかけてやろうとすると、八巻が振り払おうとした。
「おまえ、こんな雨の日に……何考えてやがる」
黒澤は地面に横になったままの八巻に語りかけた。
「……新入りのポリ公なんぞに、舐められて……黙ってられるか」
案の定、彼らの行動原理というのはそういうものだった。
黒澤は心中に浮かぶ苦笑を禁じ得なかった。
だが顔には出さない。
「こいつが黒澤なんだろ?タケちゃん」
「詫び入れろ!コラァ!」
「てめえのせいで、タケがこんな目に遭ったんだ」
口々に罵声を浴びせられる。
周囲は険悪な空気が漂い始めていた。
救急車のサイレンが、遙か遠方からこちらに近づいてくる。
「猫を避けて、自分が転ぶ方を選んだのか……」
黒澤の言葉に八巻が反論した。
「転びたくて転んだんじゃねえ!」
恥と怒りから、伏せている身体を起こそうとする。
「ああ、そうだろうな。誰だって、転びたくて転ぶんじゃねえよな」
黒澤の声が低くなった。
「だがな。よく見ろ」
八巻の襟首を掴んで上体を起こさせる。
彼らからほんの少し離れた場所に、桜の巨木があった。
「あそこに、ノーヘルで激突していたらどうなったと思う」
ゆっくりをその木を指で指し示す。
「くたばったろうよ!……畜生、放しやがれ!」
瞬間、黒澤の眼が底光りした。
「喚くんじゃねえ!」
鋭い一喝がただならぬ気配を感じさせるのか、八巻は黙った。
「おまえら、血とはらわたブチ撒いて死んだ人間を見たことがあるか」
少年たちは、雨の中でもよく通る黒澤の声に黙した。
「頭蓋骨割って、脳味噌が飛び散った死体を見たことがあるか!」
黒澤の声が鋭くなった。
「おまえらが走って、どっかにぶつかってくたばるのは勝手だ」
八巻の襟首を掴んだまま、周囲にいる少年達を見回す。
「だがな、おまえらの最期の最期、血と肉片になった死体を拾い
集めていくのは、俺たち若い警官なんだ!」
土砂降りの雨が、彼らの重い沈黙を押し包んだ。
黒澤の頬に伝うのは、雨粒だけなのかは八巻にはわからなかった。
まもなく、救急車が現場に到着した。
1ヶ月後――――
包帯を左腕に巻いたままの八巻が、駅前交番で働く黒澤の姿を
認めた。
最初黒澤は彼に気づかなかったが、こちらを見つめる視線に気づいて
顔を上げた。
一瞬黒澤の顔が怪訝な表情を作る。
八巻は黒澤に向かって黙礼してみせた。
雑踏の中に踵を返そうとする八巻に、黒澤が歩み寄った。
「もういいのか」
うなずく八巻の左頬に、ひどく擦ったあの時の傷痕が残っていた。
「この傷は、残るかもしれんな……」
黒澤は言った。
「仕方ないっす。自分でしたことだから」
そう言う八巻の顔に、もう暗い影はなかった。
「高い授業料だったがな」
黒澤と顔を合わせるのが気恥ずかしいのか、八巻はうつむいていた。
「黒澤さんに……言われたこと、もう……心臓鷲掴みにされた気分
でした」
ぽつりぽつりと、そう呟く。
「あの時、一瞬タイミングが狂ってたら……俺、黒澤さんの言ったように
頭割って、くたばってました」
黒澤は黙って視線を落としたまま聞いていた。
「俺、走龍やめました」
「そうか……」
黒澤はそれだけ言った。
残りのメンバーは、八巻を慕って辞めたり、別の族に吸収されたりと
散り散りになったという。
あの時の黒澤の言葉が彼らに何かを感じさせたのか、走龍連の残党が
襲ってくるということはなかった。
「黒澤さん。なんで俺らをあんなに挑発してたんですか?」
八巻は黒澤の横顔を見てそう訊いた。
「頭の悪い餓鬼には、身体でお仕置きしてやろうと思ってな」
黒澤は八巻の腕のあたりに視線を走らせた。
「見たところ、おまえもちっとは腕に覚えがありそうだったしな。おまえを
奴らの前で叩き伏せてやるつもりだった」
「そんな……」
八巻は絶句した。
「そんなことしたところで、残りの連中が黒澤さんを……」
「頭をつぶせば、蛇だろうが龍だろうが身動きがとれなくなるだろうよ」
黒澤は笑った。
「あの……黒澤さん」
一拍置いて、八巻は咳払いをした。
「今の科白……決まった、と思ってるでしょ?」
八巻は複雑な表情で言った。
「俺、頭じゃなくて副長だったんすけど……」
少しの間が空いたあと、二人は腹を抱えて笑った。
冬のはじめの明るい空が、風花を運んできた。
八巻と黒澤 傷痕
―了―
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