Another Introduce
1 予感
……美香はうたた寝をしていた。
週末の深夜に近い時間帯、帰途につく通勤電車内は人影もまばら
だった。
都心から郊外へ向かうにつれて、いつのまにか彼女のいる車両も
閑散としてくる。今は彼女と他数人しかいない。
そんな中、疲労のあまりうとうと眠りこむ美香に視線を送る男の
姿があった。
頭を垂れた姿勢で、無防備にひとときの夢の世界をたゆたう
彼女へとゆっくり歩み寄っていく。
狙う獲物を追いつめ、今まさに手中にしようとする豹のように
しなやかな足どりだった。
自分をつけ狙う捕食者を眼前にするまで、標的は気づかない。
鋭い牙と爪を隠し持つ優雅な野獣は、あくまでも悠然と、しかし
機敏に足を運ぶ。
男は眠る美香の傍らに立った。
まだ彼女は知らずにいる。
その男の胸の裡に、何が秘められているのかを。
不意に男の声が近づき、耳打ちするように囁かれた。
「あの、すみません……」
同時に、右肩に声の主らしき男の手が触れる。
美香は弾かれるように身を起こした。
けだるいまどろみから突如現実に引き戻され、彼女は今自分の
身に何が起きているのか把握しようと努めた。
「あ……。なんでしょう……」
慌てて瞼をこすり、居ずまいを正そうとする。
寝顔を見られてしまったことと、見知らぬ男にここまでの接近を
許してしまったことへの気恥ずかしさが交錯する。
見上げると、すぐそばに長身の男性が立っていた。
見た感じは二十代後半から、せいぜい三十そこそこくらいの
年令と思えた。
おそらく180pほどはある長身だ。
服の上からはすっきりとして見えるが、鍛えられた体躯を備えて
いるのがわかる。
整ったつくりの顔立ちに微笑を浮かべ、彼女の斜め横に立っている。
黒のレザーコートを着たその男の面差しは、男性的な魅力を感じ
させた。
やや鋭さを帯びた瞳の光が強い。
けれど険を感じさせないのは、二重瞼が切れ長の瞳の印象を和らげて
いるからだ。
眼に力のある人だ……
美香はそう思った。
彼女からすると、男の容貌は美男子と言えた。
単に俳優のようなハンサムというよりも、独特の雰囲気を持っている。
例えていうなら、羊の皮を被った狼といったところだろうか。
外見は羊というほど柔弱ではないが、内に硬質なものを持って
いそうに見える。
男は美香の好みの範疇に入っていた。
その眼が眩しいものを見るように細められ、瞬き、美香を捉える。
正面から見つめられて、美香はそわそわと落ち着かない気分になる。
「きみの足元に俺の持ち物が転がっていったんだ。それで、ちょっと
拾いたいんだけど……いいかな」
静かなやや低めの声、でもよく通る深みのある響き。
「えっ……そうなんですか」
足元を確かめようと視線を落とすと、靴の後ろになにか固いものが
触れた。それが落とし物らしい。
「ちょっと、ごめん」
男は美香の膝の方へかがみ、座席の間の狭い空間に身体を
押し込めて入った。
今日は膝上のタイトスカートを穿いている。
座っているうちにそれがめくれ上がっていて、覗こうとしなくても
男の目には下着の翳りが見えてしまうかもしれない。
慌ててずれたスカートの布を膝に押し下げた。
見知らぬ男に、落とし物を取るためとはいえ足元にかがみこまれて
いる。
それだけでも妙なシチュエーションなのに、膝頭に男の肩や頭の
あたりが触れる。
美香は何故か腰のあたりがざわつくような、不思議な感覚に
襲われた。
遠距離恋愛が破局を迎え、恋人と別れてほぼ二ヶ月近く経つ。
異性との肌の接触はその間皆無だった。
恋人に抱かれた三ヶ月も前を最後に、それっきり。
この男にそんな意図はないにしろ、どうしても性的なものを感じて
しまう。
美香はそんな自分が浅ましいと思い、密かに恥じた。
ほんのわずかな時間が長く感じ、彼女は自分の胸がいつのまにか
ドキドキとせわしなく動くのを知った。
「ごめん。取れたよ」
男は手にしたペンを懐に入れた。
なんと反応していいものかわからず、美香はあいまいな笑みを
浮かべていた。
「この前にも会ったよね」
唐突な、思いもよらない言葉だった。
男の言葉に、大急ぎで記憶を探り反芻する。
思い浮かばない。
寝起きでぼんやりしているせいだろうか。
それとも、よくある手口の口説き文句だろうか。
美香の混乱を彼女の表情で悟ったらしく、男は自分から話の
穂を繋いだ。
「……覚えてないかな。こないだ、電車の中で口紅を落としただろう」
「ああ……。……はい」
そうだ、そういえばそんなこともあった。
その時……確か口紅を転がしてしまい、男が拾ってくれたと覚えている。
それが目の前にいるこの男、だったんだろうか。
あの日は恋人と別れた直後で、周囲のことを気にしている余裕など
なかった。
帰りの電車内で泣いていた、その時の出来事だった。
泣き顔に続いて寝顔まで同じ男に見られていたとするなら
不思議な偶然、というよりほかはなかった。
このことを口火に、男は美香を誘いこむという胆なのはなんとなく
気づいていた。
うすうすその気配を感じていながら、なぜ拒まなかったのか。
男のたたずまいに、どこか惹かれるものがあったからかも
しれない。
男が好みのタイプということもある。嫌悪は感じないし、スリリングな
やりとりをどこかで楽しんでいる部分もあった。それは美香自身も
自覚していた。
「その前にも……会ったことがある」
「え?前にも……?」
二度会っただけならともかく、同じ男と三度も接触を持って
いただろうか。
すぐには思い出せない。
「電車の中で、きみに足を踏まれたことがある。でも、その時
きみは謝って……降りる時にも重ねて謝ってくれたっけ。だから
印象に残ってたんだ」
「あ…………」
美香の通勤途中、ヒールで男の足を踏んだことなら何度もある。
気づけばその都度ちゃんと謝ってきたつもりだが、今そのことを
持ち出され、何度か小さな接触のあった男が近づいてきた訳を
美香は肌で感じとりはじめた。
「ごめんなさい……確かヒールで……」
「そう、その時は薄いピンクのヒールだったな。恋人とデートでも
あったのかな」
ヒールの色までも指摘されたのは、決定打だった。
間違いない、滅多に履かない色の靴。
そんなに着飾ったのはあの時だけだ。男の言うとおりに恋人と逢う
約束があったからだ。
かなり強く踏んでしまった感触があり、少し心配はしていたが
そんなことはすぐに忘れてしまっていた。
ゆっくりと、男の張りめぐらす周到な罠に陥ろうとしていた。
心のどこかで危険を告げる信号が明滅している。
けれどそれに気づかぬふりをして、美香は男に話しかける。
「あの……大丈夫、でした?あのあと、気にしてたんですけど……」
「大丈夫……。……と言いたいとこだけど」
男は相変わらず微笑を浮かべながら、美香の傍らに立っている。
手は美香の座席にかけたまま、彼女の顔に視線を送っている。
「ヒールの尖ったところで踏まれたせいか、右足の小指にちょっと
ヒビが入ってね」
「足の指に……。ヒビ…………?」
美香は男の言葉を復唱するように口にした。
みるみるうちに悲しげな表情に変わる。
「……ごめんなさい……。今更……だけど。謝ってすむことじゃ
ないでしょうけど……申し訳ないです」
こんなことを急に聞かされ、美香はかなり動転していた。
疲れきった週末、うたた寝の最中現れた男に何度も会ったことが
あると言われ、そして今自分が足を踏んだせいで男に怪我を
負わせていたと知らされた。
疲労困憊の中、眠りを破られて正常な判断力をかなり欠いた状態で
いたのは間違いない。
車内のアナウンスは、美香が最寄り駅を幾つも乗り過ごしていた
ことを告げた。
美香はこの突然降って湧いたような出来事を、どう収拾していいのか
わからなくなってしまった。
しかも周囲に人影はなく、もう終点に着くまでドアが開くことはない。
完全な密室の中、この男と二人きりでいる。
心臓の速い鼓動が電車の走行音とともに自分の耳の中で響き、頭を
圧迫されているような気分になる。
身体が熱い……そして腰が甘く疼く。
今何故か性的な反応を示しつつある自分の身体に、美香は驚き
唇を噛んだ。
こんな時になって、どうして……
感じるからだ。男の意図を、隠しようもない淫靡な空気を。
男の視線が、まるで直接彼女を愛撫しているようにからみつく。
瞳に犯される。裸に剥かれ、全身を舐め回されているような
気分になる。
ショーツの股間に滴りを感じるほど、美香は濡れていた。
男にそれらすべてを見透かされているような気がして、身震いする。
今自分は淫らな表情をしているんじゃないか。
頬が上気し、紅く染まっているんじゃないか。
隠さなければ、気づかれないようにしなくては。
でないと…………。
彼女にとっては息づまるような緊迫の時間を、美香は途方もなく
長く感じた。
しばしの沈黙を破ったのは男の方からだった。
「もう治ってるから。別に今更、きみにどうこうしてもらおうと
いうんじゃないんだ。……ただ、こんなふうにきみと何度も偶然
会っているのが、不思議だと思えてね……」
「でも……私……」
男の口調からすると、彼女を脅迫したりするような強い意志は
こめられていないようだった。
ただ、あっさりと男が許してくれるとは思えない。
男のちょっと見柔らかそうな物腰の中にも、どこか油断のできない
ような匂いを感じる。
こうしているのは美香を警戒させないための擬態だ。
ひしひしと身に迫る危うい気配を、美香は皮膚感覚で察知していた。
戸惑い……不安……怯え……畏怖。
そして……ある種の期待。
瞬間的に、複雑な感情が美香の中で走り抜ける。
怖いと思うのはこの男に対してでなく、むしろ常に揺れ続けている
彼女の心と身体そのものだった。
自ら男の思惑に乗ろうとしている、そんな自分があった。
それが男の次の行動で明確になった。
すっと上体を折り曲げると、男は美香の頬に口づけた。
咄嗟のことなのに、キスをされる時の癖というべき反応で彼女は
思わず目を閉じてしまった。
あまりのことに驚き言葉を失う美香を、男が素早く抱き寄せる。
今度こそ唇を奪われてしまった。
さきほどまでの美香の畏れは現実になった。
男から逃れようともがいても、力強い腕は彼女の身体をきつく
抱きしめ、か細い両手は押さえつけられている。
いや、と叫ぼうとする唇の上を執拗に男が追う。
意味をなさない呻きが男の唇と合わさった間から漏れ、次第に
美香の抵抗は弱まっていく。
男の力に逆らうことなどできない。
抵抗を続けても無駄と悟り、言いなりになったふりをし、男の油断を
誘ってそこから隙を作ろうと思った。
このままでは、いずれ犯されてしまう。
それだけは嫌だった。
以前、電車内の痴漢に身体が反応してしまったこともあった。
嫌なのに、恥ずかしいことに見知らぬ男の指に、巧みな愛撫に
感じてしまった。
相手は二十代後半の、こんなことなどしなくても女に不足して
いなさそうな男だった。
はじめは下着の上から触るだけだったのに、その途中で
じわじわと感じはじめてしまった。
美香が濡れているのを知った男は、下着の中、秘所に指先を
忍ばせてきた。
感じる部分に侵入を許してしまい、何度かそこを探られてついに
美香はイってしまった。
興奮した男の勃起したものが、美香を誘うように背後から尻と
秘所をこすり、大胆につついた。
うっかり脚を開くと、そのまま脱がされて挿入されてしまいかねないと
思った。
感じてはいても犯されてしまうのは嫌で、それだけは必死でこらえた。
焦れた男が服の上から勃起したものを握らせた時、美香の欲情も
限界近くまで高ぶっていた。
電車を降りる寸前、美香の反応に気をよくした男に腕を引かれ
ホテルに行こうと誘われたところで、振り切って逃げた。
あと少しというところで犯されずに済み、彼女は安堵すると同時に
何故か満たされない気分になってしまい、自らを慰めずには
いられなかった。
ただ、もしもあの時イキたいのにイかせてもらえなかったら……
イキたかったらついて来いと言われたら。
男の誘いに乗ってしまったかもしれない。
心と身体の葛藤が美香を責め苛んだ。
成熟した女性が、心ならずも性的な刺激に反応してしまうことは
罪ではない。
そうとわかっていても、自分にそう言い聞かせていても、美香は
自己嫌悪に陥った。
女という性の、自分の業の深さを知らされる思いだった。
あの時は恋人と不仲になり、気が緩んでいたせいだ。
遠距離恋愛の恋人とはベッドをともにする仲だった。
求められれば躊躇なく身体を開き、快楽も絶頂も知っていた。
恋人との行為に特に不満だった訳ではない。
なかなか逢えなくとも身体の疼きは自分自身で鎮めてきたし
それでも充分だと思っていた。
今、美香の身体を襲っているのは未知の快楽だった。
諦めて身体の力を抜いた彼女の口腔内を、男の舌が探る。
22歳の彼女は、今まで三人の男性経験があった。
その男たちの誰もが与えてくれなかった快感だった。
優しく唇の内側に入り込み、歯の表面から上唇を舐める。
閉じた歯の隙間を開くように、男の舌先が何度もつつく。
それに従って口を開けると、ゆっくりと男の舌が入ってきた。
触れるか触れないかの微妙なタッチで、美香の口蓋に何度も
出入りする。
美香の舌の表面にもそっと触れると、すぐに違う場所を刺激
するために移動する。
以前の恋人のキスが荒々しい自分勝手なものに思えるほど、男は
繊細に、じわじわと彼女の唇を攻めていった。
こんな感覚は、今まで知らなかった…………。
上下の歯の裏側を、余さずに舐められて彼女の身体に震えが
走った。
身体のあちこち、脇腹や背筋、すっきりとくびれた胴から張り出す
美しいヒップラインにまで男の手は及んだ。
撫で回される優しく熱い掌にも美香の快感は増幅された。
その時、もう完全に美香は男の性戯に夢中だった。
ここが電車内であることも、男が誰であるかもどうでもよかった。
下着が重くなるほど濡れているのを自覚した頃、もう何分間も
男の唇と手に支配され続けていた。
うっとりと目を閉じ、抱きしめる男の体の熱さを感じ、与えられる
ままの快楽にただ身を浸していた。
美香が抵抗する気力もなくしたのを察したか、しだいに男の腕の
力もゆるみ、やがて唇を合わせたまま乳房に愛撫が移った。
今までは決して触れられなかった乳首のあたりを、服の上から
つままれる。
美香は思わず喘いだ。
「あ…………」
自分の唇から出る声が、甘く男に媚びているのに気づいた。
「……だめ……。ああ…………」
男の唇が耳元に這い、美香は妖しい快感に身をそらす。
男にのしかかられ、白いセーターの上から乳房をまさぐられる。
ミニスカートが半分以上めくれあがり、ストッキングに包まれた
秘部を男の手がさぐる。
「……濡れてるのがわかるぜ。……感じてるんだろう?」
男の声が、笑いを含んでいるのがわかった。
嘲りをおびたその声に、さらに美香の性感は刺激される。
「いやっ…………」
言わずもがなの事実を指摘され、美香は身体中が燃え上がる
ような恥辱に苛まれた。
そんなことを言わないで。
これ以上追いつめないで。
恥ずかしくてたまらないはずなのに、何故か腰の奥が潤いを
増していってしまう。
熱い吐息を吹きかけられながら、首筋を舐められる。
ストッキングの下、じかに下着の中に男の指が入り込もうとする。
「いや…………」
拒む声も、やっとのことで出せた。欲情で掠れているのがわかる。
男の指を押さえる白い繊手にも、力が入りきらない。
太腿を閉じて男の指の侵入を拒もうとしても、どうしても肝心な
部分の近くに男の手が入る隙間がある。
幾度もクリトリスの上をこすられる。
感じすぎて、もう声も出せない。
だめ……
これ以上のことをされたら、もう……
最後の守りがはかなく打ち砕かれそうになっていた。
電車のアナウンスが、もうじき終点に着くと知らせた。
男は軽く舌打ちし、美香の秘所からゆっくりと手を引き、彼女に
のしかかっていた身体も起こす。
まとわりついていた熱い空気が、少しずつ冷めていく。
これで男の魔手から逃れられる。
美香は密かに溜息をつくと、男に背を向けてめくられていた
スカートを整えた。
男は黙って美香を見つめている。男の視線が身体中を這い回って
いるのがわかる。
まだ男は美香を諦めるつもりなどなさそうだった。
とりあえず、なんとかして男から離れなければと思った。
美香は傍らに置いたカバンとコートを持って座席を立ち上がろうと
する。
もうじきイキそうなほど高ぶっていたせいで、身体がふらつく。
よろけながら戸口に向かう美香を、男の手が追って捕らえた。
肩口を両手で捉えられ、男の方へ向き直らされる。
男の双眸にまっすぐに見据えられる。
身体が痺れたようになる。
鋭さと甘さの入り交じった深い黒瞳に、意志の自由を奪われそうな
ほどの物理的な力を感じる。
逃がさない。
男の視線はそう物語っていた。
その瞳に射すくめられたように動けなくなる。
美香は虎口に囚われた哀れな牝鹿のようだった。
逃れることなどできはしない。
このまま嬲られるも、ひといきで貪り食われるかどうかも男の
気分次第で決まる。
凌辱を受けようとしている。
それなのに……
濡れていく自分が止められない。
溢れてくる。たまらなく欲しくなっていく。
だめ…………
また、どうしてか感じてくる…………。
美香は一度は醒めかけた情欲が、再びかき立てられていくのを
知った。
「悪いと思う気持ちがあるなら……」
男は美香の目を見つめ続けたまま、ゆっくりと言った。
「これから一晩、俺につきあってもらおうかな」
美香は目をしばたたかせた。
立ちすくんだまま動けない。
男の言葉を解釈すれば、美香を抱くという宣言に等しい。
そう思い至った途端、胸元から腰にかけて、崩れていってしまい
そうなほどのだるさと快さが突き抜けた。
はじめは穏やかそうだった男が、突如美香の身体を奪おうとし
しかも、その愛撫は誰よりも巧みだった。
美香の身体は、正直にもっと味わいたいと欲していた。
現にもう、下着を通して男にも知られるほど濡れてしまっている。
嫌よ、と言えなかった。
まだ達していなかった。
最後のとどめを、男は与えてくれないままだった。
満足したい……
もうここまできたなら、せめて最後まで……。
それが美香の偽らざる本音だった。
抗いようのない、淫靡な誘惑だった。
男は美香の好みと言える姿、そして巧妙な性戯を持っていた。
男の唇は、相変わらず笑みを湛えている。
ほんの数秒ためらっていると、電車は終着駅のホームに着いた。
美香の沈黙を合意と取った男は、彼女の腰に手を回して抱き寄せた。
まるで夢の中にいるように、足元がふわふわとおぼつかなかった。
ぐっしょりと濡れているショーツのせいで歩きづらく、酔ったような
足どりになった。
拒否の意を示せなかった。
これは、合意……だ。
レイプではない。
美香自身男の足を踏み、ヒビを入れるほどの怪我をさせてしまった
罪の意識もある。
男に抱かれることで、それを詫びることにもなる。
嫌ではなかった。
もっと強引に迫られたなら話は別だが、男はあくまでも美香の
意志を確認していたようだった。
唇を奪われた時は驚き、やめて欲しいと思った。
それなのに、男のテクニックは美香の身体をたやすく溶かして
しまうほどのものだった。
恋人と別れてひと月になるが、実質三ヶ月もの間、男性に抱かれて
いなかった。
忘れかけていた感覚……それ以上のものを、性の愉悦をこの男に
よって目覚めさせられた。
この男を拒む力も出ないほどの虚脱感があった。
男に身を投げ出し、すべて奪い去られてもいい。
理性で制御できないほど膨れあがった情欲の炎が、美香の
全身を覆い尽くし、飲み込んでいった。
最初は好奇心だった。
キスだけであんなに感じるほど敏感になっている自分の身体が
男の技巧にどれほど反応するのか。知りたかった。
恋人と別れ、やけになって自分を汚したい気持ちもどこかに
あった。
人肌のぬくもりも恋しかった。
…………どれもが言い訳にすぎない。
男に火をつけられたのは単にきっかけで、高まった性欲に抗しきれず
男を求める自分を正当化する屁理屈でしかなかった。
けれどこうして自分自身に言い訳していないと、ただ快楽を追う
目的で男に身体を任せようとする自分が許せなかった。
それでも、欲しかった。
この男が、今たまらなく欲しかった。
性の欲求を満たすことが第一義で男と交わるというのは、彼女に
とってもはじめての経験といえた。
男の整った横顔を見上げると、相手も美香を見る。
視線が絡み合うと同時にキスをされる。今度は軽くだった。
傍目から見ると、完全に恋人同士にしか見えないだろうと美香は
ぼんやり考えた。腰に回された手が熱い。
男の導くままに、駅前のホテルへと歩を進めていった。
それが、彼女の生き方さえ変えるほどの大きな転機となるのを
知らないまま……。
エントランスへ
