ホスト部影の王(ハルヒ命名)こと鳳鏡夜には、ホスト部部員以外誰も知らない秘密が一つあった。鏡夜は部員にも秘密にしていることがたくさんあるのだが、部員だけが知っていて、学校の人間も家族も知らない秘密。それは、鏡夜の恋人の存在だった。
、と鏡夜が呼んでいる彼女は3−Aの優等生。ハニー先輩やモリ先輩とも友だちの彼女の存在は、ホスト部の第一級機密。


naast van u tot het sterven


年が明けると、桜蘭学院高等学校は、いつもの噂に包まれる。卒業する三年生たちの婚約の噂だ。特にA組に在籍しているような女生徒は在学中に婚約が決まることが多く、卒業すると花嫁修業に移ることが多い。政略結婚である場合も、そうでない場合も、結婚という人生の一大事は数々の噂を呼ぶのだった。
先輩のお友だちも?」
環の言葉には頷いた。仲の良いクラスメイトが、ついこの間婚約した。相手とは一度しか会っていない、と不安そうに言っていた彼女を励ますことで精一杯だったが、そのときから自分の中にも不安の種が育っている。
鏡夜は…自分の恋人は、いつだったかにこう言った。付き合い初めてそう経たないときだ。
『婚約か…くだらんな』
それは桜ホスを見ていたときだったか、が何か話したときだったか、詳しいことは覚えていない。鏡夜のその言葉があまりにショックで、そのときどこにいたのかすら覚えていないのだ。
婚約というより結婚は女性にとって一大事だ。無論男性にとってもそうだろうが、女性は育った家を出て別の家に嫁ぐ。少なからず、特別な思いがある。それを一蹴されたこともショックだったし、自分との未来について何も考えてくれていないのも、ショックだった。
「環くんは婚約したりしないの?」
あの須王家の一人息子である環になら、たくさんそういう話が来ているだろう。そう思って話をふったのに、環は首を振った。
「いいえ。父も何も言いませんしね。…先輩にはそういうお話があるんですか?」
環の言葉にも首を振る。両親は能天気な人だし、卒業後は大学に進むことが既に決まっている。
「…鏡夜にそういう話があるとか、聞いてない?」
質問に質問で返しただが、環はしばらく考えて、知りません、とだけ答えた。
「あいつはああ見えても先輩を大事にしてますから、先輩以外の人とどうとかなんて」
環が優しくそう言っても、にはその言葉に頷くだけの自負がなかった。表情を硬くして押し黙る。


最初に好きになったのも自分で、告白したのも自分だった。男の人とあまり話したことすらなかったのに、持っている限りの勇気を全部出して告白して、受け入れてもらえたのだ。鏡夜のことは中等部の頃から好きだった。高二のときに告白して、それから一年ちょっと。鏡夜はホスト部や鳳家の用事で忙しいとはいえ、連絡もこまめにしてくれるし休みが合えばデートにも連れて行ってくれる。エスコートは完璧で、好きだという言葉もくれる。
けれど。
鏡夜がもしに黙って誰かと婚約を進めていたとしても、自分は気づかないかもしれない。婚約発表まで、だ。よくぼーっとしてる、とクラスメイトに度々注意されることがある自分と何事にもそつが無い鏡夜。おまけに実家の会社はあまりにも分野が違い、と婚約することでの鳳家のメリット、ひいては鏡夜のメリットはなさそうに思える。メリット。それだけが鏡夜を動かすと知っていた。
目の前にいる環ともメリットがあるから仲良くなったそうで、だとしたら、自分と付き合っていることに何のメリットがあるのだろう、と思う。そう思う度、鏡夜が図ったように好きだと言ってくれるから、その言葉で不安を霧消してここまで来たけれど。


先輩」
「なにかしら」
「何故先輩は婚約にこだわるんですか?女性にとって特別な事柄だということは理解していますが」
環の目つきは真剣そのもので、鏡夜のように一蹴しそうにはない。は小さくため息をついて、それから顔を上げた。
「付き合い出してそう経たない頃に、いつだったか鏡夜が言ったの。婚約なんてくだらないって。私はそれがすごくショックで…」
「あいつ…」
「お姉さまもお友だちも仲が良かった先輩も、みんな婚約していて、お姉さまはそのお相手ともうすぐ結婚するわ。だから、婚約をするのは普通のことだと思っていたの。でも鏡夜はそんなつもりがない。じゃあ私たちどうなるのかしらって思ったら」
そこまで言うのがやっとで、は涙声を詰まらせた。どうなるの。ずっとが不安に思っていたことだ。
自分は大学を出た後、恋愛をして結婚をするわけではない。きっとどこか付き合いのある良家に嫁ぐことになる。鏡夜が、何もしてくれないのだったら。そして鏡夜は何もしてくれそうになかった。鏡夜にとって婚約はくだらないことで、の実家と鳳家には付き合いもメリットもなく、鏡夜は何も言わない。優しいけれど、好きだと言ってくれもするけれど、それでも───。
「もうすぐ卒業するから、それでおしまいに…っ…」
鏡夜は優しい。優しいけれど面倒ごとは嫌いだし、わずらわしいことも嫌いだ。だから、自分が卒業するまで付き合って、そこでおしまいにしてしまうのかもしれない。卒業しても近くの大学に行くが、生活リズムも違うし、休みもきっと合わなくなる。鏡夜はいつだったか、海外の大学もいい、などと言っていたから。
泣き出したの背を環は何度もさすって、ただ黙っていた。抱きしめることこそ鏡夜に遠慮してしなかったが。
「…先輩。お芝居は得意ですか?」
しばらくして泣き止んだに環はそう言って、にっこり笑った。


環からの計画を聞いて、は久々に晴れ晴れとした気持ちだった。本当にダメになるかもしれないけれど、泣きながら待つよりはよっぽど建設的だし、誰だったか、『しない後悔よりする後悔』だと言っていた。これでダメなら潔く別れて大学に行こう。一度決めてしまうと気持ちがぐっと楽になった。

部屋の電話を取ると鏡夜の声が聞こえた。思わず環との計画を話しそうになったが、ここで話したら全部がダメになる。
「どうしたの?鏡夜」
『今日、環といるところを見たんだが、どうしたんだ?』
するどい。はこっそり肩をすくめた。さすが鏡夜。
「前に本を貸してもらったことがあってね、その本の話をしていたの。ボードレール」
環はロマンティストなので詩集や戯曲といったものも好きで読むが、鏡夜はそれより新聞を読むほうが好きだ。そう知ってわざと詩人の名を上げた。
『……そうか。大したことじゃない、声が聞けてよかった。おやすみ』
「ええ、おやすみなさい」
鏡夜は本当に環とのことを確認するためだけに電話をしたようだった。


環が最初に言い出したのはこうだ。
偽婚約者を作って、それを鏡夜の前で発表してしまおう、と。鏡夜だってそうなれば動揺して本音が出るだろう、というのが環の読みだがは一つそれに提案をした。偽婚約者に、環を指名したのだ。別に同じクラスの光邦でも崇でも問題は無かった。二人は友だちだ。事情を話せば驚くだろうが、快く協力してくれるだろう。だから環は二人の名前を挙げ、常陸院双子の名すら上げたのだが、は首を振った。双子は可愛い後輩だし、光邦も崇も仲の良い友だちだが、環でなければダメだと思ったのだ。
環は鏡夜が唯一本音を見せる相手で、唯一コンプレックスをくすぐられている相手だ。そして、鏡夜の力ではまだ須王に働きかけることが出来ない。だから、環である必要があった。
が全てを話すと環はしばらく黙っていたが、やっぱりにっこりと笑ってお引き受けします、と言った。環はやるからには徹底的にやりますからね、と言ってを喜ばせた。


徹底的、の本当の意味が分かったのは翌日だった。桜ホス号外が校門で配られていたのだった。何気なしに受け取ったとき、目を紙面に落として立ち尽くした。そこに載っていたのは、環と自分の婚約話。
「…!?」
環と話をしたのが昨日の夕方、そこからどうやって新聞部に記事を書かせたのだろう。ぱちぱちと瞬きを繰り返すに、気づいた生徒たちが祝福の言葉をかけていく。
さん、おめでとうございます」
「全く存じ上げなくて。本当におめでとうございます」
「あ、ありがとうございます…」
笑うのがやっとで、言葉はぎこちなかった。鏡夜をだますためには、生徒全員をだまさなくてはならない。下手をしたら、教員も。やっと徹底的の真の意味に気づいては途方に暮れた。
そしてホームルームが終わる頃になっても鏡夜からの連絡は無かった。そのことがを泣きたい気持ちにさせた。


昼休みには環が食堂に誘いに来てくれた。今まで秘密にしてましたけれど、と言いながらの友人にも堂々と挨拶をしてエスコートまでしてくれた。その横に鏡夜の姿は、なかった。
帰りももちろん車まで送ってくれる完璧さで、女生徒の羨望を浴びながら車に乗る。車の窓に顔を近づけて、環は一言だけ、大丈夫ですか、と言った。誰にも聞こえない小ささで。一日の間、鏡夜からのメールは一切無かった。そのことに心が痛くて折れてしまいそうだけれど、ここで泣いては意味がなくなる。環だって頑張って付き合ってくれているのだ。自分が頑張らなくてどうする。
「大丈夫。じゃあね、環くん」
「気をつけて。夜には電話するよ」
まるで恋人のような自然さでそう言って、環は音楽室に行くために去っていった。車が学校の門を出て家に近づき始めたのを見て、ようやく涙が出てくる。
鏡夜は何も言ってくれなかった。


もしかしたら夜に電話をくれるのかもしれない。泣きながらそう思って、夕食も食べずに部屋にいたけれど、日付が変わっても鏡夜からの電話は無かった。泣きながら寝たようで、翌朝は目が腫れていた。
と環が婚約した、というお芝居を始めてから一週間。鏡夜からはメールも電話もなく、学校ではいつも環が傍にいてくれるので、会いにいって詰め寄ることさえ出来なかった。人が見ていないところでは泣いてばかりのを支えてくれたのは環だった。
先輩、もう少しの辛抱ですよ。きっと鏡夜はあなたのことを好きであなたのことを考えていますから」
環の言葉が本当だと良いと思いながら、一方では環を好きになれば良かった、とも思っていた。こんなに優しくて、友人の彼女というだけで茶番劇にも付き合って、きっと彼にもデメリットはあるはずなのに。
「でも、俺も大概怒ってるんですよ」
「…環くん?」
「鏡夜の態度に、です。男らしくないですよ、あんなの。……あ、すいません」
鏡夜の彼女である自分に気を使ったのか、環は律儀に謝った。
「……いいの。きっと鏡夜にとって、私はそんなに大きな存在じゃなかったのね」
鏡夜が理事長と話していた形跡もなく、須王本家と連絡をとった形跡もない。鏡夜は、環との婚約について、何もしない。
先輩。明日、ホスト部に来てくれますか?」
は鏡夜と付き合っていたが、ホスト部に来店したことはなかった。鏡夜が誰か別の女の子と笑顔で話しているところを見るのは嫌だったし、お金を使って一緒にいるのは、まるで彼を買うようで嫌だったからだ。鏡夜も来てくれと言ったことは一度もない。
「あいつの目の前で見せ付けてやりましょう。目の前で先輩と俺の姿を見れば、あいつだって…」
環は怒っていると言いながら、男らしくないと非難しながら、それでも鏡夜を信じているのだ。それが分かっては別の意味で泣きたくなった。


翌日。夕方、ホスト部には予約もせずに突然行った。そうしてくれと環に言われたからだ。ホスト部は、鏡夜以外全員がこの婚約が偽で、鏡夜を試すためであることを知っている。環はそう言っていた。
「いらっしゃいませ」
第三音楽室の扉を開けて鏡夜の顔を見つけたとき、はしたなくも駆け寄りたかったのだが、鏡夜はいつもの済ました顔でそう言って接客に戻ってしまった。環が駆け寄ってくる。
「……」

もう、本当に鏡夜にとって私は要らない人なんだね。

「よく来たね、
環がにっこり笑ってエスコートして、席に着かせてくれた。二人がけのソファに並んで座る。
「「ご注文は?」」
注文を取りにきたのは常陸院双子で、殿と婚約して平気〜?などと笑っては環とをからかった。
「アッサムティを。ミルクを少しだけお願いね」
「「承知しました、お姫様」」
環は双子が去ると間の距離を詰めて、隙間無く身体を寄せる。驚いてが逃げようとするとぐっと肩を寄せられた。環の顔が近づき、周りの女生徒から甲高い声が上がる。環は小さく呟いた。
「ごめんなさい、少しだけ我慢して下さい」
そうだった。婚約者なのだから、拒絶してはいけない。環の傍にいられることが幸せであるかのように振る舞わなければ。は内心震える心を隠すように晴れやかに笑ってみせる。環もほっとしたように笑顔を見せた。
「はーい」
「アッサムティをどうぞ、お姫様」
双子が仲良く紅茶を持ってきて、お茶菓子と一緒にテーブルに置いていった。環がジノリのカップに注いでいく。半分ぐらい入れて、クリーマーからミルクを注いだ。
「はい、
「ありがとう、環くん」
環、と呼べば自然だったのかもしれないと思いながらも、それは出来なかった。自分にとって特別なのは鏡夜だけで、泣きたくなるほど好きなのも、傍にいて欲しいのも、ミルクティに砂糖を大目に入れることを知っているのも、鏡夜だけだ。
鏡夜にとって、もう私が要らない人なのだとしても。
その言葉は、心で反芻する度にを泣かせたい気持ちにさせるが、それでもは笑顔を保ってミルクティを口にした。砂糖の入っていないミルクティは味気ない。
鏡夜にとって私が要らない人だとしても、鏡夜を嫌いになんて、なれない。大好きなのは、鏡夜だけだ。これからもずっと。
それだけがにとって真実だと思った。




☆☆☆   ☆☆☆   ☆☆☆





環とが婚約者として学園に広まって十日。鏡夜は部員が揃う前の準備室で一人ため息をついた。長いそれは窓ガラスに当たって薄く曇る。
「…あのバカ…」
と環の婚約なぞ、大嘘だと鏡夜は知っていた。そんなこと理事長に確かめたり須王に働きかけずとも分かる。が、自分以外の人間をパートナーに選ぶとは思えない。もし、仮に家同士が決めた婚約なのだとしたら、真っ先に自分のところに来るだろう。嫌だ、と。
からの愛情は感じているし、自分だって愛情を示している。なのに、なぜこういうことになったのか。相手が環な以上、環が何かおかしなことを考えだしたに違いないのだが、なぜはそれを拒否したり止めたりしなかったのか。環はに割合懐いていて、リョウが嫌だと言えば実行したりしない。
裏を取るまでは動かないでおこう、といつもながらの慎重な性格でそう思ったのだが、この間裏が取れた。店にが現れた後の話だ。
環がよりによっての肩を抱いたり息がかかるほどの距離で話したりと好き放題にやったので、その場で環をぶっ殺そうかとも思ったが、デメリットが多すぎてやめた。客を不必要に怖がらせることなどないし、環をどうにかしたいのなら影ですればいい。環はと共に帰り、ハルヒも帰った後のこと。
「おい」
いつものように片付けをせずに遊ぶ常陸院双子を呼びつけると、双子はシンメトリーなポーズで振り向いた。
「「なに、鏡夜先輩」」
「お前らどこまで知ってる」
「「なんのこと?」」
嘘は上手い双子だが、面白いことに目がないのも双子だ。光の目が楽しそうにきらりと輝いた。
と環のことだ。婚約なんて嘘だろう」
「えー?殿、あんなに幸せそうなんだよ?」
馨はそう言ってふあ、とあくびをする。
「そうそう。鏡夜先輩も殿には勝てないってこと?」
堪忍袋、というのがもし体内に存在するのなら、この瞬間に全て破れただろう。そう思いながら鏡夜は顔をひきつらせた。俺があのバカに勝てないなどという法はない。
「あのな…嘘だっていう裏は取れてるんだ」
「「へえ?」」
「新聞部に、昔のディスクの話をして脅して記事を書かせたな?ディスクのコピーがあると言って」
双子の顔が面白いほど同時に同じ角度でひきつった。
「残念だが、ディスクはもう一種類あるんだ。俺が保険をかけない、行き当たりばったりなヤツだとでも?」
ちら、とそのディスクを見せると双子は揃ってため息をつく。
「あーあ、バレちゃった」
「だから殿に無謀だって止めたのに」
「…止めたのか」
それは意外だった。双子のことだから、面白がって話に乗ったのだろうと思ったのだ。
「「だって」」
「「殿が鏡夜先輩に勝てるわけないから」」
「……よく分かってるな」
あと、と言って馨が少しだけ表情を曇らせる。
「殿が、先輩が泣いてたって言うから」
「泣いた?」
俺の前でなく環の前で?
「殿から話を聞いたのは、新聞書かせる前の日の夕方だよ。先輩が大変で可哀想だから片棒を担ぐって。手伝えって」
相変わらず光の説明は要領を得ない。
「僕らだって先輩のこと嫌いじゃないし。泣いたって聞けばちょっとぐらい手伝ってやろうかなっていう気になるじゃない」
「……なぜ泣いたかは知っているか?」
双子は揃って首を横に振る。
「知らないよ。でも殿は鏡夜だって先輩のことが好きなはずなのに、ってそればっか」
「……?」
好きに決まっている。好きでもない女生徒と付き合うほど暇を持て余しているわけではない。
「殿は僕らとかハニー先輩たちを想定して婚約のフリをするつもりだったんだけど」
先輩が殿じゃなきゃダメだって言ったんだってさ。鏡夜先輩を動かせるのは殿だけだって」
「……」
一理あるようなないような。
「光、馨」
「「なに?言っとくけど、怒るなら殿に怒ってよね」」
「違う。クリスマスパーティのことだがな」
「「ああ、殿は先輩呼ぶって言ってたね。……仕返しするの?」」
「環にはな。手伝うか?」
面白いことが好きな双子は揃って頷いた。それが三日前。
そしてクリスマスパーティは明日に迫っている。準備は抜かりない。けれどどうしてが環の前で泣いたのか分からなかった。双子の言葉を総合するに、自分の愛情表現に関係があるようだ。鏡夜自身は恋愛経験がそう豊富なほうではないが、女性をエスコートする方法も快く付き合う方法も心得ていた。連絡も欠かさないし、愛情をきちんと言葉にもする。何が辛くては泣いたというのだろう。

鏡夜は、あの婚約記事以来に連絡を取っていない。
号外記事が出たときは、あまりに驚いて(もちろん気取られないように装うのは得意だ)自分の中で整理をつけることで精一杯でに会って確かめることが出来なかった。学校では環が始終にくっついているし、夜は夜で忙しいし。
忙しいしな、と思って鏡夜は連絡を取らなかった本当の理由に気がついた。

怖いのだ。

嘘であることは分かっている。に確かめたとしても、本当なの、という答えなぞ返ってくるはずがない。けれど環が言い出したにしろ、が言い出すことは考えにくかったが止めなかった以上は言い出したも同然で、これがの意思表示だとも取れた。自分から離れたい、という意思表示。なぜ偽婚約などという考えに至ったかは謎のままだが、確かめてしまえば、その場で別れることになるのではないかと思っていた。気がつかないままに。
鏡夜にはを手放す気などさらさらなかったし、をよりによって環に取られるつもりもなかった。けれど、こればっかりは鏡夜一人だけで決めることではない。の意思が問題だ。の想いが離れているとしたら──その想像ですら鏡夜に体験したことのない痛みを連れてきたが──自分にはもうどうしようもない。自分が辛いとしても、自分とを比べるのなら、のほうが鏡夜にとって比重が重い。が幸せであるほうがいい。そう分かってはいても、を手放すことを思うと眩暈すら覚える。
手放すことなど出来ない。
婚約だ何だと騒ぐことはバカげているし、そもそも噂の域を出ない記事もバカらしい。けれど、婚約ということは思った以上に人を動かすものらしかった。一生共に生きていく証としての婚約。そして結婚。



クリスマスパーティ当日。例年のように華やかに進んでいくパーティだが、今年は少しだけいつもと違っていた。ホスト部メンバーには今まで公に恋人がいたことがなかったのだが(鏡夜とは付き合っていたが、公にしたことはない)、今年は環の婚約者としてが出席していた。
皮肉なものだな、と思いながら鏡夜は常連客と和やかな表情を保って会話を続ける。
鏡夜がとの付き合いを公にしなかったのはホスト部の集客を気にしたことも一つの理由だが、普段大人しくて目立たないが要らぬ詮索や度の過ぎたイジメを受けないように、との配慮もあったのだ。は男性と付き合うこと自体が初めてで、オープンにしたいとは言い出さなかったし、むしろ恥ずかしそうにしているのが常であったから、隠していることがのためにもなっているのだろうと鏡夜は思っていた。しかし、今はどうだ。
環の傍に常に佇んでいるは恥ずかしそうではあるが、嫌がっているようにも困っているようにも見えない。湛えられた笑みはどことなく幸せそうで──環たちの上客でさえ祝福するしかないムードなのだ。婚約者、と言ってを紹介しておきながらお客の女生徒を泣かせないあたりはさすが環なのだが、そう言ったことに感心している場合ではないし、感心もしていない。
────見てろよ、環。
四日しかなかったが、そもそものパーティの計画は完璧と言えるほど立っていたし、陣頭指揮は鏡夜に任されていたから多少計画外のことを付け足すことなど、造作もなかった。鏡夜の手駒には優秀なスタッフが大勢いる。
「環様!」
お客の声にすっと目線を移すと、環がを抱きしめてその細い顎に指をかけている所だった。鏡夜は無言のまま片手を上げて照明スタッフに合図する。
「きゃあ!」
一瞬で、会場の電気全てが消えた。外に飾っているツリーの電球も全て消したから、会場には全く光が届かない。鏡夜は黙ってのところへ行った。明かりが消えても元々の位置は記憶にあるので、少しお客を避けるだけでたどり着いた。
「大丈夫だよ……え!?」
やお客を安心させようとしていたのか、環が何か言っていたが無視して環の腕からを救出する。そしてそのまま環を足蹴に敷いた。
「…!!」

身を捩って逃げようとしたの耳元で名前を呼ぶと、一切の抵抗が止んだ。
「鏡夜…」
か細い声に抱きしめる腕の力を強くする。無線で照明スタッフに合図を出すとツリーの明かりと室内にある蝋燭(を模した電球)の明かりが点いた。
「鏡夜!これはどういう…むぎゅ」
「環…俺の恋人を取って婚約者ごっことは良い遊びだな、オイ」
「鏡夜、環くんを怒らないで!言い出したのは環くんだけど、お願いしたのは私だから!」
やっぱり言い出したのは環だったらしい。鏡夜はと顔を合わせて、キスが出来るほど顔を近づける。
「お前には聞きたいことが山ほどあるが──それはとりあえず後でじっくり聞いてやる」
「…ごめん、なさい…」
は鏡夜が怒っていると思ったのだろう、目にうっすら涙を浮かべてしまった。少しだけ濡れた瞳に唇を押し付けるようにして涙をすくう。
「お前には負けたよ。…あんなに取り乱したのは生まれて初めてだ」
「鏡夜…」
出来る限り優しく笑ってみせるとも少しだけ笑顔を見せてくれた。あの騒動があってから以来だから、ずいぶん久しぶりにの笑顔を見た気がする。
「だがな」
「え…?」
「俺の愛情を疑うとは良い度胸だ。一生かけて分からせてやるから覚悟しておけよ」
「鏡夜それって」
訊ね返したのはでなくなぜか環だった。は目を瞬かせてぽかん、としている。
「ああ。今朝方正式に婚約することが決まった。俺と、で」
「……!!」
さすがに意味が分かったらしく、頬を紅潮させたは片手で口を覆って目を潤ませていた。
「事後報告になったが、かまわないな?」
耳元で囁くと、が小さく一度頷いたのが分かる。
「……良かった」
ほとんど誰にも届かないほどの小ささで鏡夜はそう言ってを抱く腕に力を込めた。
「鏡夜、先輩、おめでとう」
「…環。お前にはたっっぷりと礼をしてやるから覚悟してろよ」
笑顔で祝福した環にそう返すと環はぎょっとした顔を見せたがそれも一瞬で、すぐにまた笑う。
「やっぱり鏡夜は先輩のことが好きなんだな。信じてたよ」
「……当たり前だろう。そういうわけで、俺とは抜ける。後は任せたぞ環」
「え?うん」
の手を引いて会場を出る。去り際にが振り向いたので立ち止まると、は珍しく大声を上げた。
「環くん、ありがとう!」
「どういたしまして、姫」
ようやく事態が飲み込めたお客たちが環を取り囲んでいたが──無視して鏡夜はとその場を去った。




☆☆☆   ☆☆☆   ☆☆☆






「…何?」
車に乗るまでに、鏡夜に全部を話した。鏡夜は黙って聞いてくれて、静かに頷いていた。今は自宅に向かう車の中だ。
「到底ありえないことだが…もし俺が何もしなければどうしていた?」
「卒業するまで環くんに付き合ってもらって、そのまま大学に行って…誰かと婚約したんじゃないかしら」
鏡夜が何の反応も見せなかったときに覚悟した未来を話すと、鏡夜はため息をつく。
「だって」
唇を尖らせると鏡夜はもう一度ため息をついてみせた。
「鏡夜にとってもう私は要らない人なんだって思っていたから…」
それは幸福な誤解であることが分かったけれど、あの時は本当にそうなのだと思っていた。
「そんなこと、あるはずがないだろう。…俺はずいぶん信用がないんだな」
「違うわ。…私が、臆病で自信がないだけなの」
自分がメリットのある存在なのかも分からない。鏡夜にとって負担にならない存在でいられるのかも。
「少なくとも」
声に俯かせていた顔を上げると、鏡夜はふっと笑う。
「少なくとも、俺にとって一生離したくないぐらいの価値はあるから安心しろ」
「……ありがとう…」
お礼を言うのも変かもしれないけれど、それしか言葉が出てこなかった。顔が熱くて思わず両手をあてた。気恥ずかしくて窓の外を見ていると、急に身体が引き寄せられる。
「鏡夜?」
引き寄せる腕の力に逆らわずに身をゆだねると、暗闇の中でさっき抱きしめられたことを思い出す。あれは本当に驚いた。鏡夜と分かった途端、まるで怖くなくなったのだからおかしな話だ。
「愛してるよ」
「…私もよ」
の言葉に鏡夜は確信めいた笑みを見せる。当たり前だ、とでも言いたげな鏡夜に身体を預けて、鏡夜を見上げる。それはひどく幸福な景色だった。






〜Fin〜



さん、リクエストありがとうございました。鏡夜で「お前には負けたよ」でした。
偽婚約者事件なんてホスト部じゃないと書けないネタですね!(笑)とても楽しかったです。楽しいリクエストありがとうございました。
あんまラブラブなお話を書く機会が少ないので(夢書きとしてどうか)ラブいオチはとても恥ずかしいです……。



お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 11 29  忍野桜拝

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