諸戀
第一幕 狩られる紅葉葉
「内侍所に新しい典侍が来たて?そんなんいつものことやん」
岳人が意気込んで告げた言葉に忍足はにべもなくそう返し、瓶子から直接酒を注いだ。女房たちは跡部が人払いをしたのでいない。
「それがさ、どこどこの娘、とかじゃねえの。家はあるらしいんだけど、誰の口利きかも分かんねえし、第一父親不明」
一息に喋ってから、器の酒を啜る。
「あれだろ、一夜のなんとかが…とかそういう落ちなんじゃねえの。激ダサ」
「そうは言っても宍戸さん興味ありません?」
宍戸の器が空になったので、鳳が手近にあった瓶子を傾ける。
「ねえよ」
満たされた器をくっと一気に飲み干して、お前はどうなんだよ、と跡部に振った。
「新しい典侍って萩の典侍のことだろ。ちょっと面白そうではあるけどな」
「へえ。跡部が面白い言うなんてなあ」
肴である戻りの鮎を口にしながら跡部は喉に篭る笑い方をした。
「そいつの口利きはな、主上だ。俺も目にかけるように言われてるんでな」
跡部は先の天皇の皇子、ニ品の親王である。現天皇の主上とは異母兄弟になる。
「主上が口利きて、どんなんやねん。普通主上に口利き、やろ」
忍足は驚いたらしく、空の器を一瞬取り落としそうになった。岳人が見咎めて笑う。
「じゃあじゃあ、跡部の親戚ってこと!?」
今まで黙っていた慈郎がいきなり話に割って入ってきた。脈絡の無さに宍戸が呆れる。
「なんで主上が口利きなさったからって跡部の親戚になんだよ」
「だって親子とかなんじゃないの?その萩の人と主上」
隠し子か、と話が傾きかけたときに跡部がひゅっと眉をひそめた。
「それはねえな。一瞬俺もそう思って確かめたが、兄上は違う、とはっきり仰ったからな」
物腰の柔らかい、大人しい今上がはっきり断言することなどさほどない。その人となりを知っている忍足たちは、つまらなそうに酒を啜った。
「ま、どっちにしても会うて見ればええやん」
「だよな!」
働いている場所は同じ宮中、暇を見つければ会える機会はあるだろう。深窓の姫なんかだと会う機会はまずないが。
忍足たちが跡部の邸で新しい典侍のことを口にしてから三日目。物忌みなどが重なっていた面々がようやく揃い、さっそく訪ねるか、と温明殿を訪れた。温明殿は内侍所とも呼ばれ、典侍たちの仕事場兼住居である。
「あら、中務卿宮さま。みなさまお揃いでどうなさいまして?」
入り口近くにいた典侍はよく主上の傍にいたこともあって、顔見知りだった。朝顔、という。
「新しい萩の典侍の機嫌伺いにな」
「さようですか。萩は奥におりますから、呼んで参りますわ」
「すまないな」
こういうときにすっと一言出るから跡部さんはもてるんだよなあ、とぼんやり鳳は思った。自分なら女の人を目の前にしてこんなに余裕たっぷりに離せない。家にいる女房たちならともかく、よその女の人と喋るなんて。
「中務卿宮さま。萩でございます」
廂に出てきた女房は衵扇を顔に翳している。楓紅葉の襲色目で菊唐草の表着、袴は濃色でなく緋色。袴の色を見た途端に、忍足の表情がややげんなりした。
「ここは忙しそうだな」
「今月も祭りが多うございますが、来月が大嘗祭ですので、それはもう」
天皇が即位してからの初めての新嘗祭を大嘗祭という。新嘗祭自体が一年の中で最も大事とされる祭りであるから、大嘗祭の重要さは相当なものだ。従って、宮中の祭祀を司る内侍所の仕事も増えまくる一方である。
「忙しいときに悪かったな。
こもりくの 泊瀬の山の 紅葉葉を 人知れずこそ 思い狩る」
萩は口を微かに綻ばせて、顔を俯かせた。
「青丹よし 都の紅葉 あまたあれど 狩られる紅葉 いづこにか」
「どこだかな」
跡部はそう言い残すと踵を返した。忍足は一瞬その後を追おうとしたが、踏みとどまって萩に近寄る。
「心あらば今ひとたびの行幸待たなん」
「さて」
萩の言葉に満足した顔で忍足は温明殿を後にした。宍戸たちはもう先に行っている。
「待ってえな」
──ほんま、おもろいもんが見つかったわ。
萩が一日の勤めを終えて温明殿の母屋にいると、廂の向こうの濡れ縁に人影があった。
「誰か」
女嬬たちを呼ぼうと声を上げた途端に、人影が近寄ってくる。
「姫。俺たちっすよ」
黒羽と天根が揃って立っていた。の家の家人である。とは小さな頃から一緒に育ったから、本人たちの気持ち的には兄弟に近い。
「ああ、あなたたちなの。驚かさないで」
「なんつうか、趣向?」
天根がぼけると横で黒羽が拳骨を見舞う。その光景は家で見ていたものと違わないもので、はほっと顔を綻ばせた。
「姫に文と贈り物。こっちは殿からで、こっちは奥方から」
黒羽と天根はが出仕した後もの実家におり、こうやって時々取り次ぎをしている。の父親は同じ家ではないので、その家にも出入りしているようだ。
「その返事は?」
「急ぎじゃないみたいだったぜ。姫が出仕してまもないから、心配なんじゃねえの、殿は」
「心配、ねえ」
心配してくれるんならこんなとこ放り込むなと言ってやりたい。少しは社会性をとか何とかいっては宮中に放りこまれたのだ。十四で結婚した夫を去年亡くしてからというもの、塞ぎこんでいたのは本当だが、昼間のような事件(にとっては事件だ)に巻き込まれるような社会性なら要らない。
「家に帰りたい?」
表情から読み取ったのか、天根がそう呟いた。はゆるく首を振る。
「いいえ。ここで尻尾巻いて帰ったら女の名折れよ。少しは社会性でも身につけてきますってお父様に伝えといて」
「分かった」
「まあ、そう無理すんなよ。俺らもときどき顔出すし。奥方が五節のときには衣を贈るって言ってた。つっても届けるの俺らだけど」
黒羽はそう言いながら少しも迷惑がらずに笑う。彼らとしてもに会えるのは嬉しいのだ。は宮中勤めの身、そうそう会えるものではない。
「姫なんかあった?さっき俺らが来たときびっくりしてた」
天根の問いかけにはやや息巻いて答えた。あんな事件に巻き込まれるなんて。
「昼間ね、中務卿の宮さまとその取り巻きが私の顔見に来たの。わざわざ去り際に歌なんか詠んで。私が返しきらなかったら後でみんなで笑う腹積もりだったんだわ!」
「…姫って有名人なの?」
痛いところを突く、とは目を伏せる。有名人になどなりたくなかったのに。ひっそりと宮仕えをしてお父様の気が済んだら家に帰って黒羽や天根たちと過ごしたかったのに。
「お父様がね、主上に直接取り次いじゃったらしくて、主上からの口利きで来た娘、ってことになってんのよ」
主上からの口利きで来た娘とはどんな娘か。直接の上司である尚侍(ないしのかみ)にも同僚である典侍にもいろいろ尋ねられたし、昼間みたいに覗きに来る公達も現れていた。覗くぐらいなら仕事手伝えよ、と言いたいところを我慢しておしとやかに対応するにはなかなか胆力がいる。
「あー…そりゃあ…」
黒羽はいろいろ察したらしく、気まずそうな表情を浮かべた。天根は別段気にせずに有名人すごいじゃん、と返した。
「どっかのうわさじゃ落とし胤説まで出る始末よ。もう、早く本当のこと言ってすっきりしたいわよ」
「でも言ったらまずいんだろ?」
「まあね。お父様からも果ては主上からも口止めされちゃったら言えないわ」
父親の頼みならうっかり忘れたとかなんとか言い様があるが、都で比類なき権力者である主上からの頼みごとを忘れたとあっては都に居られなくなりそうで怖い。そうなっては黒羽も天根もまた行くところが無くなる。
「おっとそろそろ閉門か。このまま閉じ込められたら大変だな」
「じゃあね、姫。元気でね、無理しないでね」
「天根もね。黒羽もあまり無理しないで」
「了解。姫もな」
は答える代わりに手を振った。彼らの姿は小さく見えなくなり、手元に残った文と萩の花を目に留めてゆっくり笑う。本当に、遠いところに来てしまった。
第二幕『秋の人』
姫、いかがだったでしょうか。『諸戀』第一幕終了でございます。氷帝メンバー+六角しか出てませんけど…。次は立海と頑張れば山吹が出るはずです。
跡部たちと話しているときの姫様を書いてるときが一番むず痒かったです(笑)。普段は黒羽たちと話しているときのような、普通の子です。ちょっと見栄張っておしとやかにしてる、みたいな。宮中だしそれぐらいしてるかな、と。姫のお父さんについてはずーっと引っ張りますので。いつかはちゃんと明かします。
そして何より歌だよ。これを詠むのに本当に頭絞った(絞ってもこれかよとか言わないで…)。跡部の歌は
「こもりくの 泊瀬の山の 紅葉葉を 人知れずこそ 思い狩る」 で、現代語訳にすると
「隠れている山の紅葉葉を人知れずと思って狩るように、隠れているあの人を自分のものに」ぐらいの意味で、返歌は
「青丹よし 都の紅葉 あまたあれど 狩られる紅葉 いづこにか」
「すばらしい都に紅葉はたくさんありますけど、狩られてしまう紅葉はどこのでしょうね(誰のことですか?)」の意です。
大体、で読んでやってください。本人無い知恵を絞って死にそうです…。もちろん、主人公が紅葉の襲色目なので紅葉、です。
忍足の呟いた「心あらば今ひとたびの行幸待たなん」は元の歌があって、百人一首25番歌「小倉山峰の紅葉葉心あらば 今ひとたびの行幸待たなむ」(小倉山の峰の紅葉葉よ、お前に心があるならばもう一度天皇がおこしになるまで散らないで待っていてほしい)が本歌です。この話的に言うと、「もっかい来るから待っとれよ」と。少し歌に仮託して洒落てみたわけです、忍足。前の歌で紅葉が出てきてることにちなんだ洒落です。こういうこと言いそうなの忍足ぐらいだったんだもん…。あ、忍足が文中で「緋色の袴でげんなりした」とあるのは緋色の袴が既婚者を指す(と思われる)からです。姫は今はもうフリーですが、お父さんからのお言いつけを守って緋色袴を穿いています。
長々とお付き合いありがとう御座いました。もし私が不勉強な点などありましたら、いつでも仰ってください。では。
2005 9 24 忍野さくら 拝