諸戀 第十幕 寄せて返す波

 

六条西の萩殿で漉き直させた紙がの手元に戻ってきた。漉き直せばそうなると分かっていながら、薄鈍色の紙が長々と巻かれているのを見たときは、やはり哀しい気持ちになった。紙はかなりの量になっており、互いに交わした文がそれほどの量になっていたのかと改めて見たは長く息を吐く。もう殿の手(筆跡)は見えない。まだが萩殿にいた頃、重陽の菊綿と一緒に送られてきた文があった。菊に綿が被せられたままの枝に文が括られており、共に白くなるまで、と誓いあったたものだった。その文も、もうこのなかのどれなのかすら分からない。
「…姫さま」
持経として持っている法華経の二十五品、観音経を開いているのに、はなかなか筆を取ろうとしない。やはり漉き直したことを悔やんでおいでかとが危ぶんで声をかけた。
「大丈夫よ。有難い御教えを書いて殿にお届けしなければね」
はゆっくりと筆をとり、尓時無尽意菩薩…と写経し始めた。も同じように写経する。の紙はついでにとの母が持たせた鳥の子紙だ。雪が音もなく降りしきる夕暮れ、静かに時が過ぎていった。
観音経はさほど長い文章ではない。ほどなくして一度目が終わったが、巻かれている紙はまだまだ余分があるようで、幾度も写経できるようすだった。一筆の運びごとに殿の面影をまぶたに浮かべ、殿の声を耳に篭らせる。今は天上で蓮の上にお生まれになったという殿の追善供養のために出来ることはもうこれぐらいしかに残されていなかった。





写経し始めてしばらく経ったある酉の日、女王禄ということでは御前に上がった。女王禄は名の通り女王に禄を被けることで、亜久津の従姉妹に当たる女王や跡部の姪にあたる女王なども名を連ねていた。今年は大嘗祭もあった後のことなので、特に多くの禄が被けられ、また与えられた。蔵人頭である仁王によって禄が読まれ、使者に授けられる。全ての女王に禄が被けられ、また人に応じて位が叙された後で、主上は特別にをお呼びになった。こういった公式の場で主上がを直接お呼びになることは少なく、は畏まって主上の御前で頭を垂れた。
典侍。従四位上に叙す。禄をこれへ」
傍に控えていた朝顔が紅梅の細長と雪の下の襲一式をに被ける。朝顔は優しく笑っていた。
「有難く」
叙位も禄も頂けるはずなどない身なのに、恐れ多いことには返り事もおぼつかなく、ただひたすら頭を下げた。主上は退出なさるときにに一声おかけになる。
「御母堂に春もお喜び頂けることと思うよ」
春といえば、正月で来年は女叙位がある。今特別に叙していただけたのに、またなどあり得ない。は固辞してゆるく首を振った。
「春風に谷の氷はけふや解くらむ」(春風が吹いて山々谷々の氷を溶かし始めたのでしょう)
主上はゆっくりと吟じた後、退出なさった。朝顔が付き従っていく。は頭を下げたままお見送りをして、細く息を吐いた。傍に控えている女嬬が被けられた衣を持ってゆっくりと立ち上がる。も顔を上げた。
「あなた一人では重いでしょう。だれか手の空いた方がいらっしゃればいいのだけれど…」
「俺が行こうかの」
女嬬がふらついているのを見ては自分が持とうかとも思ったのだが、はしたなく思い、温明殿に誰かを呼びに行こうとしたところ、御簾の外から声が掛かった。仁王だ。
「頭の弁の君さま」
「なんの、仁王でええ。温明殿へ戻るんじゃろ?こげな女童には重過ぎるじゃろ、貸しんしゃい」
女嬬は戸惑っていた様子だが、が小さく頷くと御簾を少し巻き上げて衣を仁王に手渡した。仁王は笑って受け取り立ち上がる。
「したら俺は先に行っとる。ゆっくり来んしゃい」
仁王はすたすたと先に歩いて行ってしまう。その姿を見送っては立ち上がる。女嬬も後ろに続いた。紫宸殿から宣陽殿へ抜け、綾綺殿の庇を通って温明殿に抜ける道で、宣陽殿で政務を取っていた公達に声をかけられる。無論、御簾越しだが。
典侍どの、叙位おめでとうございます」
「ありがとうございます」
なぜ歩いているのが自分だと分かったのか、には分からない。さっき叙されたばかりだというのに、話の早い方というのはどこにでもいるものなのか。はその声に聞き覚えがあったので歩みを止めた。
「もしや、幸村の参議さま?」
幸村はの好む香が丁子の強い侍従だと知っている。香で知れた。
「ええ。分かっていただけて嬉しいです。さきほど仁王が通りましてね、彼から聞きました。春にもおめでたいことがあるとか。このところの典侍どのの働きぶりを見ていたら、それも道理というもの」
「とんでもないことです。さきほど戴いたことさえ身に添わぬことですのに。もったいないことで」
「ご謙遜なさいますね。藤壺の女御(実妹)さまや梨壺の女御(義理姉)さまからも典侍どののお働きぶりをお聞きするというのに」
「恐れ多いことでございます」
恐縮しきりのに幸村は笑いかけ、広げていた扇をたたんで膝を打つ。
「…あまり長くお引止めしても上の女房(内裏女房)たちに叱られてしまいますね、どうぞ」
「それでは失礼致します」
宣陽殿を抜け、あまり人がいない綾綺殿の庇を通って温明殿に戻ってきた。妻戸を押し開くと中にいる女房たちはもう知っているのか、みな一様に笑んでいた。
「姫さま、おめでとうございます」
おめでとう」
もう朝顔が帰っていて、それで知れたのだと分かった。はゆるく笑んだが、困ったように眉を寄せる。
「ありがとう。でも恐れ多いことだわ」
「他ならぬ主上がお決めになられたことですもの、笑ってお受けなさいな」
朝顔はこうやって叙された経験も豊富なのだろう、鷹揚に構えている。は泣き出さんばかりだ。
「お話によると春にも喜ばしいことがあるとか。嬉しく思っておりますのに、つい…」
出かかった涙を袂で拭ってが笑う。もそれに応じるように笑ってから、先に行っていた仁王のことを思い出した。
、頭の弁の君さまがおいでじゃなかった?御衣を戴いたのだけれど、重たくて運べなかったから、運んでいただいたの」
「頭の弁の君さまでしたら、さきほどいらっしゃいましたよ。土庇に衣一式を置いて、ご政務に戻られました。政務の後にお寄りになると仰っておいででした」
「そう…」
女嬬に土庇から局のほうへ衣を運ぶように伝え、は火桶(丸い火鉢)にいざり寄った。冷え切った渡殿を歩いてきたので足が冷たくなっており、冷たい風に晒された身も寒い。は文机に向かって文をしたためている。里に伝えるのだろう。
「もうすぐ臨時祭ね。確か明日が試楽の日だったと思うけれど」
祭などで管弦・神楽が行われるときには、調楽といって事前の申し合わせを行う。調楽を一月ほど前に行い、二日前などに試楽を行う。祭には列席出来ない女御や更衣たちにとって、調楽や試楽は神楽や管弦を楽しめる機会で、女御たちに仕えている女房にとっても楽しみな日だ。たちは上の女房、主上の女房なので主上のお世話のために伺候して祭の神楽を楽しむこともできる。
「臨時祭の試楽もそうだけれど、御神楽(内侍所御神楽)の調楽も近いわよ。いつもなら、近衛府の将監が人長を勤めるところを、今年は中将がおやりになるのですって。跡部さまや幸村の参議たちが主上に仰せつかったとか」
舞人や神楽の演奏者はあまり位の高い者はやらないのが常だが、主上が特別に跡部たちにお役目を申し付けたのだという。
「ならさぞかし素晴らしいものになるんでしょうね」
この前に聞いた跡部の朗詠は素晴らしいものだったし、周りにいた公達の管弦の手も素晴らしいものだった。あの方たちがやるというなら、さぞかし立派なものになるのだろうと思われる。も形式張らずに琴を奏でるのは好きだし、聴いているのも好きだ。ただ、人前でやるとなるとどうしても臆してしまう。これは女だからだろうとは思っていたし、日頃から人前で披露する機会の多い公達ともなれば手馴れているのだろうと思っていた。





その頃、梅壺では幸村、仁王、跡部、忍足、宍戸、鳳、慈郎が集まっていた。試楽と御神楽の調楽がすぐ近いので予行である。人長といって取りまとめる役を鳳に任せていたのだが、練習だというのに緊張して間違えてばかりなので、ほとほと手を焼いていた。
「せやから、なんで誰もおらんのに緊張しとるんかが分からんわ。お前やったら見栄えもええし、声も通るし、何と言っても近衛府なんやから(近衛府は元々警護の任にあたっていたが、次第に神楽などを奏じる役になっていく)しゃきっとせい!」
「だって、隣(藤壺)には女御さまがいらっしゃるし、他にも聴いてるかたいっぱいいらっしゃるじゃないですか…」
鳳はしゅんとなって身を縮こまらせる。宍戸が幾度も発破をかけているのだが、なかなか鳳のあがりがとれない。
「おい慈郎」
「んー?」
まだ夕べ前なので慈郎は半分起きていて、眠たそうに目を擦る。
「お前出来るか。近衛府って言ったらお前か鳳なんだよ」
「口上は覚えたしーたぶん出来ると思うー」
「それなら慈郎を人長にして始めるぞ」
鳳はさっさと捨ておかれ、神楽には出番のない宍戸に慰められていた。人長が慈郎、歌い手が跡部、忍足が横笛、仁王が篳篥、幸村が和琴だ。神楽には琵琶と筝、笙は用いない。催馬楽や唐楽になると用いられる。大歌所(いろんな歌を司る役所)の職員に聴いてもらいながら、自分勝手な演奏ではなく、公式の演奏に直していく。鳳は筝を爪弾いて慰みとし、宍戸は笛の教えを聞くのに必死になっていた。
幾度か重ねるうちに段々堂に入ったものになり、もともとが素養あって教養高い公達ばかりなので、職員たちが見事と言葉も出ない出来になった。
「私どもでお教えできることなどもうありませぬ。ほんに素晴らしい神楽でございます」
「そうか。ならばあとは俺たちでしばらく奏することにしよう」
職員たちが帰っていき、梅壺には公達七人が残される。
「しかし慈郎が思ったよりいい出来だったな」
「へへー」
跡部に褒めてもらって嬉しい慈郎はゆるりと笑む。
「さっきはどうしようかと思っていたけれど、芥川中将がなかなかに立派で」
幸村にも褒められ、慈郎はにこにこしている。
「せやけど仁王、琵琶が好きやて言うとったわりに、吹き物(笛の類)も上手いやないの。どこで教わったんかいな」
「忍足の小枝(笛の名前)には到底敵わん。なんせ、二条院からの伝来ものじゃ」
忍足が吹いている横笛、名を小枝というが古来より伝わる名器で二条院のときに忍足の祖先に下賜されたもので、忍足は去年やっと父から授けられたものだ。忍足家の家宝といっていい。この笛が伝わるせいか、忍足の一族は特に笛を好み笛の達者な者が多い。跡部や忍足もその一人だ。
仁王が吹いている篳篥は吹くさまが美しくない(頬を膨らませて大きく吹き込むため)としてあまり上流の公達には好まれないものだが、太く伸びやかに奏でられる音が小さな頃から好きな仁王はほとんど独学で上達してきた。仁王は一貫して低く太い音のものが好きで、篳篥や琵琶を好む。横笛や和琴といった華やかなものにはほとんど手を触れない。
「宍戸、どう思う」
跡部はさっきからずっと聞いていた宍戸に感想を求めた。宍戸は落ち込みっぱなしの鳳にちらりと目をやった。
「そうだな、跡部の声はただでさえ力があって艶のあるものだから、幸村の琴が優しすぎるかもな。それより跡部、本の歌い手はお前だけど末の歌い手はどうすんだよ」
「そんなのお前に決まってんだろ。鳳はあがりきって使い物にならねえし」
「俺?…お前と同じ役(歌い手)っての嫌なんだけど…」
跡部の歌声は予てより賞賛されており、その跡部と並ぶのは宍戸ならずとも気が重い。
「つべこべ言ってんじゃねえよ。末ならそんなに目立たねえし、気負ってんじゃねえよ」
「分かった。神楽の文句なら覚えてるし、さっさと通しでやろうぜ」
「何言ってんだ、これからお前と俺で特訓すんだよ。俺に押されて末の声が聞こえないなんてことになったら大変だからな」
「……」
分かっていたことだったが、この宮の暴走は止められない。宍戸はため息を深くつくことで思考を追いやり、歌に専念することにした。
「慈郎に何かあったときのために、忍足と慈郎で鳳に人長の次第を仕込んでくれ。幸村と仁王にはこっちに付き合ってもらう」
「いいよ」
「承知じゃ」
二つに分かれて楽が始まり、日が暮れていった。
宍戸が根を上げずに跡部に食らいついていったので、跡部が思っていたより宍戸の練習は早く終わった。宍戸は元々根性が人並み以上なのでこれと決めたらやり遂げる力がある。そこを見込んで跡部も宍戸を指名したのだ。単純に見栄えや声の大きさを問うのであれば、体格の大きな鳳のほうがいい。
「…これでいいんじゃないのかな」
幸村がそう言ったとき、既に日は落ちて周りの格子は下ろされていた。
「そうだな。これで終わるか。明日の臨時祭の試楽はこれでいいだろうが、内侍所神楽の調楽はまだ日にちもあることだし、またの機会だな。お前ら、内侍所に誰がいるのか分かってんだろうな」
鋭く視線が交わされ、誰も答えない。内侍所にいるのはもちろん典侍で、ここのいる全員とも典侍を想っていることは露呈している(第七幕)。
「…明日の試楽にも明後日の臨時祭にも伺候するかもしれないと聞いたこともある。気を抜くなよ」






仁王は試楽の予行が終えて後、一旦校書殿の蔵人所へ寄ってから温明殿に向かった。ああいった話をした後で温明殿に向かったら皆がついてくるかもしれなかったし、たまには一人でゆっくり典侍と話してみたかったのだ。
温明殿に向かったときは既に宵の入りで、格子も下ろされて御簾の向こうにはいくつか高杯灯台が燈っている。外にも石灯篭があるが、風が吹けば消えそうな頼りない明かりだ。温明殿の北土庇に立ち、閉じた扇でぽんと拍子を打つ。
「庭上に立てれば頭鶴となる」
朗々とした仁王の声が暗い温明殿に響いたその後、温明殿の東庇と北土庇との間の御簾が女嬬によってゆるやかに巻き上げられた。東庇の内には三方を四尺几帳で覆った中に炭櫃が一つ据えられていた。四尺几帳はとても高い几帳で、仁王の背では立っても辺りを見回すことがかなわない。几帳の裏地は紅の平絹で表が白、雪ノ下のかさね色目になる。炭櫃の傍に腰を下ろした仁王は口の端を上げた。
仁王が朗じた詩は菅原道真公の詩だ。
庭上に立てれば頭鶴となる 坐て炉辺にあれば手亀まらず
(雪が降っているとき庭に立っていると頭に白く積もって鶴の髪のようになります。炉辺に坐っていると寒い夜でも手がひびわれしません)
庭上に立てれば、と聴いた内裏女房たちが炉辺を設えて仁王を迎えた。詩を実行したことになる。
典侍、本日は特にめでたいことで」
呼びかけられたは中央に置かれている炭櫃から離れて、ゆっくりと几帳の近くに移動する。局から火桶を持ってこさせた。
「ほんに身に添わぬことで」
「前から思っちょったが、典侍は謙遜しすぎじゃの。女人とはいえ、朝顔典侍のようにもっと大仰に構えてもええもんじゃ。とは言うても、そういうゆかしいところもええとは思うがの」
引き合いに出された朝顔は少し驚いた顔をしていたが、扇を翳して笑う。が来る前から典侍として伺候していた朝顔はもちろん頭の弁としての仁王ともいささか付き合いがある。
「主上から戴いた禄と引き比べるのはご勘弁願いたいんじゃが、一つ」
仁王は咳払いをして、梅が枝を謡いだした。
「梅が枝に 来ゐる鶯や 春かけて はれ 春かけて 鳴けどもいまだや 雪は降りつつ あはれ そこよしや 雪は降りつつ」
(梅の花が咲く枝に来てとまっている鶯よ、冬から春にわたって、春にわたって鳴いているけれども、いまだによ、雪は降り降りしていて 雪は降り降りしていて 春はまだ浅いことだ)
春の訪れを謡う、催馬楽だ。謡いや朗詠といえば宮中の若い公達のなかでは跡部の宮がやはり有名なのだが、その名すら忘れるほどに仁王の謡いも素晴らしいものだった。華やかさというよりは繊細で、声が重々しくならないので澄んだ印象になる。は前に一度仁王が朗じているのを聴いたことがあるが(第八幕)、今のように長い謡いとなるとまた感じが違う。声が伸びやかで若々しく、繊細で人の心に染み入るような優しさを添えて一声一声はひたすらに澄んで聞こえる。声色のように心根も澄んだ方なのだとには見受けられ、またそのような澄んだ方が折に触れて戯れるような柔かい心も持っている。仁王とは前に海の話をしたことがあるが、水のように適宜姿を変え、どこまでも澄んだお方だ、と思う。
降りしきる 雪やさなかに鶯の 涙もとける人の声
(降りしきっている雪のさなかにあって、鶯の涙も溶けようかと思われます、あなたの声が素晴らしくて)
引き寄せた硯箱に入っていた薄様に筆でゆるりと書き付ける。鶯の涙、とあるのは古来歌に読まれるもので人が泣くときに流す涙を鶯は鳴くときに流すものだと思われている。無論、寒いので涙は凍っているのだ。
さして上手い歌とも思われなかったが、仁王の謡いは素晴らしかったので何か返礼をと薄様を差し出す。女嬬に手渡すと女嬬はそのまま仁王の前の几帳から差し入れた。
仁王はしばし薄様に目を留めていたが、不意に顔を上げた。
「鶯も 人も涙を留めにけり 雪のさなかに道見えずして」
(鶯のように私も涙を留めていることです。雪のさなかにあってあなたのところへいく道が見えなくて。あなたにお逢いする道がほしい)
すぐさま読み返して、さらに意を含めたところはさすが仁王さまだ、と思いつつ返歌を記す。
わがやどは雪ふりしきて道もなし見えぬ道をぞいかにして来む
(私の家は雪が一面に降りしきって通ることのできる道さえありません。見えない道をどうやっておいでになるつもりでしょうか)
赤香色の薄様に書き付けて、さっきと同じように女嬬に渡す。几帳の下から受け取った仁王はやがて破顔した。
「…俺の負けじゃの。見えぬ道こそ訪いたくなるもんじゃが、そげん雪が降りしきっとるなら、なかなか」
すっと身を引くところも好意を強引に寄せてくるような人とは違い、には好感がもてる。の父も、人は引き際にこそ真の価が見えるものだとよく言っていた。
「ところで典侍、こちらには琵琶は」
「ございますが、手に触れるものがおりませんで、絃の調子がどうか…」
「調弦をさせてもらいたいんじゃが。どうぞ御前には弾き物(琴の類)を」
女嬬に琵琶と筝を取らせ、琵琶を仁王へ差し入れては手元に筝を置いた。仁王が調弦をしている間、は几帳の影からそっと仁王の様子を見ていた。室内のほうが外の闇に比べれば明るいので、どうしても室外に近い仁王の辺りは暗くなるのだが、それとなく雰囲気が伝わる。仁王は居住まいも澄んだ感じでさらりとしており、懸想ばんだことを言っていても尾引く感じではない。黒羽や天根のようにからりとした人柄を愛しているには近しい仁王に好感がもてた。公達には良い人もたくさんいるのだが、があまり得意ではない、粘着した人柄の者もいて、辟易していた。
冬ならば黒方の香がもてはやされ、またそうあるべきと言われるのに、仁王からは百歩香の麝香が強い香が漂ってくる。自分自身も侍従を冬までも使っているは人に左右されたり流されたりしないお人なのだと仁王を仰いだ。
しばらく調弦していた仁王がいくらか撥を返しなどして絃を調え終える。静かに盤渉調音取が始まり、も筝で合わせる。音取の後に盤渉調調子があり、四句あわせたところで明月楽となった。笛のない弾き物だけの音はいっそしみじみとして趣深い。一対一で弾いているせいか、仁王に寄り添うているような感覚を覚える。まるで傍にいて共に弾いているかのような。冬の夜に庇で雪が月のあかりに照り映えているところを見ているようで清らかな楽だ。筝は元々寄り添う琴で、仁王の確かな琵琶の音に引かれながら寄り添うていると穏やかな海すら見えてきそうな気がする。は海というものを見たことがないので絵物語で見る海なのだが。
明月楽はそう長い曲ではない。ほどなくして終わり、が最後の一音を掻き合わせてその余韻が残った。
「前に和琴を聞かせてもろうたが、筝もまたええ調子じゃの。…簾中ならば仔細も聞こえるもの」
仁王は前に、簾中をして仔細を聴かしむることなかれとの前で朗じたことがある(第八幕)。御簾の内にいる者に琴の音を聴かせればその心を溶かしてしまうもの、との意だ。そのときは御簾の内にいて和琴を弾いており、御簾の内でなる音ならば御簾の内に篭って聞こえませんのであなたのお心には届きませんでしょうとは返り事したのだが、今は御簾の中に同じく居るので音が篭ることもなくは一瞬返答に窮した。
「……頭の弁さまの琵琶の音が素晴らしく、掻き合わせ(筝)などとても…」
なんとかそう答えるのがやっとで、とてもはかばかしい答えが返せなかった。
「筝の音に比べれば琵琶は音が強ぅて大きいかもしれんが、なんの筝の音とて細やかに寄り添うような、確かな音じゃ」
も弾いていて寄り添うような心地を覚えていたから、同じように仁王が感じ取っていることに少しだけ驚き、俯かせていた顔を少し上げる。合奏して同じような心地になることもあるのだ。父親や前の殿と奏することはあっても、このように公達と合奏する経験の乏しかったにとってはそれは数少ないことで、仁王にいささかの親近感を覚える。仁王はが何かしら今の合奏に感じ取ることがあったのだと見てとって、腰を上げる。
「あまり長居をしては本当に道が見えんごとなってしまうかもしれんの。ぜひこの絃の調子が変わらぬうちにまた」
傍に控えていた女嬬がさっと御簾を巻き上げ、仁王はすっと立ち去っていった。几帳を元に戻そうとしたときに、仁王がつけていた百歩香がふっと風に乗っての元へ香った。
「…不思議な人」
すっと歩み寄ったかと思えばするりと引いてしまう。海の波というものは寄せて返すものだと聞いているけれど、その波のように寄せて返していくさまがにはとても不思議で、今まで知っているどの公達とも違う感じがする。
「姫さま、素敵な明月楽でございましたね」
「ええ。だけれど、あの方は変わった方だわ。なんか不思議な感じ」
「あらあら。頭の弁さまは理知者として名が知れているけれど、折々には趣深いことをなされたりして、いろんなものが備わった方よ」
朝顔はがほうっと余韻に浸っているさまを見て笑みがちになり、あの泣いていた様子からはすっかり立ち直られたようだと思った。若い心というものは、何にせよ柔軟に出来ているものだ。
せっかく筝を出したのだから、ということで和琴や琴の琴を出し、みなで合奏をする。琴の琴を朝顔がが和琴を弾き、掌侍の中でとくに上手な弾き手の者に筝を任せて琴の曲をいくつか奏じた。夜が更けるに従って、音がますます冴え渡り、温明殿には遅くまで琴の音が響いていた。






遅くまで合奏をしていたせいで、ついつい朝寝をむさぼってしまったがようやく起きだすと、朝粥が既に出来上がっていた。いつもなら身支度を整えてから朝粥が出来るのを待つ間もあるというのに。寒さに凍えながら上の衣を纏い、鏡台に掛かっている鏡を覗き込む。暦を調べたところ日柄が良かったので髪に櫛を入れることにして、とりあえず手で整える。化粧を軽く直した後に朝粥を戴く。
「昨夜は楽しかったわね」
「今日はもっと楽しいわよ」
「…どうして?」
「あら忘れたの。今日が試楽の日よ。まったく臨時祭と変わらぬものだから、それはもう見ごたえがあるの」
は宮仕えを始める前は、こういう宮中の行事に全く関わったことはなかった。四月の葵祭など普通の女人でも見物に行く者は多いのだが、家にいて殿と過ごしたり黒羽や天根たちと過ごすほうが楽しかったにとって、宮中で行われるような盛大な行事はどれも初めてのことだ。それを分かっている朝顔が適宜教えながら過ごしてきた。
「試楽をおやりになるのは跡部宮、幸村の参議、頭の弁、忍足の左大弁、左近中将(慈郎)、右近中将(鳳)、兵部大輔(宍戸)の方々。お名前に覚えがないとは言わせないわよ」
起きぬけだというのに朝顔は手厳しい。顔は笑っているが。確かにどの方も覚えがあるお名前で、聴いてみたいような、聴きたくないような気分だ。
「本当に朝顔はどうしてそんなに詳しいのか不思議だわ。それが一番の不思議よ」
「ふふ。先帝にも仕え今上にも仕えている身ですもの。いろいろあるの」
朝粥の膳を終えて女嬬の幾人かに髪を梳いてもらっていると、外の北土庇のほうから声がした。
典侍どののお付きの方はいらっしゃるだろうか」
女嬬に手を止めさせて、女嬬を監督していたが立ち上がる。長く伸びた髪は先にいくに従って細く脆くなっており、童が力任せなどでやってしまうと髪を損ねかねない。ゆっくり、慎重に、気を長くもってやらなければならず、童ではなかなか上手くいかないのだ。
「私が典侍付きでございますが」
「頭の弁さまより預かって参りました」
のほうを振り向いて意を訊ねる。は大人しく頷いた。
「承りましょう」
土庇から母屋へ御簾の隙間から唐箱が差し入れられる。
「頭の弁さまは今日の試楽を大変お楽しみに思っておいでです。御前に伺候なされる折があれば、ぜひお聞かせしたいと申されておりました」
「確かに」
が唐箱を受け取って御簾を閉める。使いの者は踵を返して帰っていった。
「姫さま、いただきものでございますよ」
唐箱には文が入っていると思いきや、何か物音がする。は脇息にもたせかかっているの前に唐箱を置いた。絵物語で見た近江の様に似た蒔絵で、浜に散らばっている貝一つ一つに螺鈿が施され、海辺と思われる浜に柳が揺れている。海と思われる絵は波の様子もはっきりと鮮やかでその線を指で辿っているとゆっくりと心地まで海にとけていきそうだ。
「中になにか入ってございましたよ、なにやら物音がいたしまして」
女嬬たちに指示をしながら姫の髪を梳いていたが付け加える。少し身体を起こして唐箱の蓋を開ける。中にはそれこそ海でも入っていそうなものだが、中に入っていたのは意外なものだった。
「……撥?」
琵琶を弾くのに使う撥が入っていた。ずいぶん手慣れたもののようで、新しい感じはしない。表面になにか書いてある。
雪の夜のかわらぬ琴の調べ寄せ たのみに思う君の手になれ
(雪の夜で交わした約束の通りに変わらぬ琴の調べに託して、この撥を手慣れたものとして欲しいと思う。撥の主である私もあなたに馴染みたいものだ)
「まあ…」
唐箱を開けた途端に香った百歩香の匂い。そしてこの手慣れた撥。まるで仁王がここにいるようだ。この撥であの琵琶を弾いて欲しいということだろう。あのとき感じた同じ心地をきっと仁王も感じていたのに違いない。
唐箱の中には撥が一つと、海の花貝を呼ばれる貝が二つ、結び文が一つ。結び文はが叙されたことを言祝いであり、調絃した琵琶の絃の調子が変わらないうちにまた合奏したいと書いてあった。ずいぶんそっけない一通りの文だというのに、撥に書かれてあった歌が情深い歌なので、かえって密やかな感じさえ沸き起こる。撥に書かれてあった歌は情深いだけでなく、契りをも催すような艶な趣がある。
海の花貝は一つだけ里にあったのだが、こんな立派なものを二つも見たのは初めてで、は手にとってゆっくりと眺めた。海に咲く花がこの貝だとも、この貝から花が咲くのだとも言われる。
「姫さま、もうしばらくのご辛抱でございます」
長い裾から梳いていた髪はもうだいぶ梳かれて、肩にかかるほどにまで進んだ。女嬬たちはほんの女童だというのに、大人しく丁寧に梳いてくれている。家ではの母になるの乳母がやってくれていた。
「朝顔典侍さま、典侍さま、試楽において御前に伺候せよとの勅でございます」
「承知致しました」
朝顔付きの女房が返事をしているとき、朝顔はこっちを向いてこっそりと笑う。も笑い返したあとで、頭の弁さまがおやりになるのはどの弾き物だろう…と考えていた。


第十一幕『雲井の果てに咲く花』


姫さま、いかがだったでしょうか。仁王編。最初あんま仁王と絡みがなかったので後半頑張りました。仁王はよくネタがあるわりに小ネタが多いのでなかなか一本にするのは難しいのですが。途中、試楽の予行練習で鳳が跡部さまに捨て置かれていますが(笑)鳳は繊細な作業に向いてないと思うんですよね。サーブも一球入魂で当たり外れが大きいし…。でも心はとても繊細な男なので、歌などで挽回できることと思います。宍戸さんは雅な歌を詠むのは下手ですが、根性だけはあるのでああいった大舞台にも跡部と並んで立てるのでは、と。宍戸さんは跡部に対して対抗心があると思うんだよね。跡部みたいに生まれも育ちもいいヤツに負けてたまるか、という。当時からすれば珍しい対抗意識。跡部はそれを読んで上手く使ってる(苦笑)。
試楽、臨時祭と全く同じ内容ですので、どちらか片一方を次回に書こうと思っています。

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