諸恋 第十六幕 あらたまの春迎えんとす
暦では冬至を過ぎて日が伸び始めていると言っても、申の刻(午後五時)過ぎにはもう日が落ち始める。冬も終わりのこの日、仕事を終えた跡部たちは自邸に戻った後、夕刻にまた内裏の中に戻ってきた。これから夜が更けた後、追儺があるのでそれに加わらなければならないし、元旦の行事にも伺候しなければならない。淑景舎に跡部が姿を見せると、よく見る面々がもう揃っていた。 「跡部。遅かったやん」 すぐさま目を留めて声をかけた忍足に扇を持った手を軽く上げることで応えて、跡部はそのまま座に加わる。 「邸のことでいろいろあったんでな。春になれば父院が行われる花宴の支度もある」 「第二皇子や言うても跡部は院に寵愛されとるもんなぁ」 跡部は主上と同じ、先代の帝を父にもつ皇子だが、母親の格と位が違ったために二品の皇子になっている。主上は左大臣の妹を母御に持ち、その当時の中宮から生まれており、跡部の母親は右大臣の妹で当時女御だった。女御は臣下、中宮は皇族なので位が違う。今の東宮は主上の実弟で、跡部よりも年下だ。 「さあな」 忍足の言葉に跡部は小さく肩をすくめてみせる。父院の寵愛を感じないわけではないが、兄弟である主上や東宮の手前おおっぴらに言うわけにもいかない。 母屋を見れば、据えられた炭櫃の傍には宍戸と鳳、そしてなぜか仁王と柳生が一緒にいた。珍しい組み合わせだ。慈郎は宍戸の傍でまた寝ている。 「…忍足も俺も秋冬と大人しかったものだな」 跡部の意図を察した忍足がしたり顔で笑みをこぼす。 「せやなぁ。萩の花に見とれてばかりおったから、他の花なぞつい見過ごしてしもたわ」 くっと喉にこもった笑いを見せる跡部に忍足は畳んだ扇でぽん、と跡部の膝をついた。 跡部も忍足も、恋の噂が耐えない公達の一人として宮中ではかなり有名な部類だ。親しい公達たちの仲では他に丸井や千石も有名な部類で、仁王も数多いはずだがさすがの如才なさで人に知られることはほとんどないようだ。 「ただ珍しいだけの毛色変わった萩かと思えば、それがそうでもない」 跡部はそう一人ごちて、ふっと頭に昔のことを過ぎらせる。冬の初め、の顔を直に見たときのこと。初めて温明殿に行って夜明かしをしたこと。そのとき耳にした琴の音。直に顔を見たときの、意思の強そうな目や無礼な振る舞いをした跡部に対する怒りを隠そうともしない様子。それでいて琴を弾かせれば雅な音を奏で、女人には珍しく真名(漢文)にも通じる才気。跡部はまだから文を返してもらったことがない。まだ三月ばかりしか経っていないというのに、何度文を出したのか自分でもよく分からない。 最初はただ、珍しいと思っただけだった。何事にも柔和でどちらかといえば左大臣始め公卿たちの言うことばかり聞いているような兄が、初めて自分から役職につけた女官。の出自に関しては跡部も調べようとしているのだが、なぜかはっきりしないのだった。出自がはっきりしないような、どんな身分の娘かも分からないというのに、なぜここまで深みにはまってしまったのだろうか。兄に何かと気にかけてやってくれ、と言われて単純に興味が湧き、興味だけで会いに行ってみると毛色の変わった女だったので、なんとなく心にひっかかった。 跡部自身、自分のしたいようにする性質である。生まれや育ちがこの上ないので、あまたの月卿雲客に自分の娘のことをほのめかされたり女人の側から勝手な噂を立てられたりすることが多いのだが、男の言うことをただ唯々諾々と聞くだけの女に興味はないし、かぼそいだけの女にも惹かれない。たとえ会ったとしても、はかばかしい返事をせずに何となく気を持たせるような女がいい、と世では言うらしいのだが、そんな女に跡部は興味がない。気の利いた返事があるほうが面白いし、自分の意志で生きている女のほうが面白みがある。以前は、美しいと噂される女のところに行ってみたこともあるし、後宮の女房たちから声をかけられることもあるが、すぐに興味が失せてしまう。移り気な性質なのか、自分は不実な男のようだと思ったこともあるが、と出会ってからというもの、全く他の女に興味がなくなった。月が面白くゆかしい夜があればに文を書きたくなるし、野分や雪霰のときにはどうしているのかと気に掛かる。おかしいというか、いっそ笑えるほどにのことばかり考えている。は典侍として人目に晒されることもあり、また主上のお傍に最も近く仕えている。何か起きないかと下手な勘繰りをしては、床に伏せるような羽目にもなった。たとえばがにべもない返事だとしても文をくれたとしたら。あの美しい声で自分の名を呼んでくれたとしたら。いつ叶うか知れない想像だけで跡部の心は満ちていた。 雪霰の折、ちょうど宿直をしていたのでこっそり抜けて温明殿に行ったことがある。あれは一月前のことだっただろうか。温明殿に近づいたらに似た女官が妻戸を背にしていたので驚いたが、後で考えればあれは本人だった。襲の色目が同じだったし、背丈も前見たときと同じぐらい、何より自分がを見間違えるとは思えない。そうだ、あのときは几帳を二重にかけられたのだった。千石が顔を見たと騒いでいたときだ。 跡部はそのときを思い出してくつくつと笑みをこぼす。北の対に来いと言ったときの驚いた顔。几帳越しだったので、わずかしか見えなかったが、几帳にある隙間から見えた顔は確かに驚いて言葉も口に出来ない有様だった。そして一番最近の顔を見たのは内侍所御神楽の晩、主上の傍近くに伺候していた姿をちらりとかいま見たときだけだ。年暮れは中務省の仕事に加えて来春に父院が行う花宴の支度や、春日院の御幸が近々行われることにもなっていたので、とても忙しく温明殿にも訪れる時間がなかった。 「…跡部」 「ん?」 気がつけば、傍にいた忍足が怪訝そうに眉をひそめている。 「なんやの、一人で笑うたりして。ええことでもあったんか?」 「いいこと…はあまりないな。まあ、萩の花は春になっても美しいだろうな、と思っただけだ」 「…同感やけど、跡部を相手に回すのはほんま気が重いわ」 忍足は本来、跡部より位が二つ下なのだが、従兄弟でもあり幼い頃から親しくしていたこともあって跡部に対して気安い。跡部も礼儀を求めたりしないので、なんとなく跡部の周りにいる公達たちも気安いのだった。 「ならさっさと降りろよ忍足。止めねぇぜ?」 挑むように笑う跡部に、忍足もまた笑みで返す。 「何を言うとんの。誰も降りひんよ。…誰も、な」 忍足の含みに気づいた跡部はそっと母屋を見回した。宍戸、鳳、仁王、柳生、慈郎、幸村、ここにはいないが千石や真田もそうだと言っていた。 「ま、誰が相手でも最後に笑うのは俺だ」 そういって跡部はにやりと口の端をあげた。 冬も終わりのこの日、仕事が終わり一年のことなど語らっていた内侍所に妻戸の外から声がかかった。 「典侍さま、主上が夕餉に伺候せよとのお召しでございます」 「すぐに参ります」 設えてある炭櫃の傍から立ち上がると、はそのまま自分の局に下がる。日も暮れかけ、さっき灯した高杯灯台をに持たせた鏡に近づけて化粧を整え、檜扇をかざしながら立ち上がった。 「今年最後のお勤めでございますね」 「そうね、節折や御贖物の支度を整えたのは私たちだけど、当日にお仕えする方は別にいらっしゃるものね」 宮中には大晦日・元旦にかけてとても行事が多い。節折と御贖物は天皇・皇后(中宮)・東宮が行う一連の祓えのことを言う。神祇官が行う宗教的意味合いの強い儀式なので、内侍所からは雑務を行う掌侍を出しただけで、たち典侍は儀式に伺候していない。 「…姫様?」 立ち上がったがそのまま動かないのを見てとったが不思議そうに首を傾げる。は檜扇を顔の前から外して、苦笑いを見せた。 「今頃、五条のお屋敷では御魂祭の時間だろうな、と思って」 にとって五条の屋敷とは、亡くなった殿の屋敷を指す。今は殿の母御が菩提を弔いながら住んでいるはずだ。亡くなった者の魂が帰ってくると言われる晦日の御魂祭、宮中でも行う儀式だが貴族の間にも浸透している身近な儀式だった。も出仕していなければ、六条西の実家で亡くなった殿の魂をお迎えするために心を砕いて準備をするはずだった。内侍所の局でもゆづり葉を黒羽や天根たちに持ってきてもらえば良いことなのだが、何となく宮中でやる気にはなれないまま、当日を迎えてしまった。ここは主上のための内裏、私事を挟みたくなかったと言えば聞こえは良いが、本当は違う。 「さようでございましょう。やはりこちらでも行われますか?至急用意させますが」 気遣っているのだろう、いつもよりさらに優しげなの声音には一瞬戸惑ったが、首を横に振った。 「いいわ。里でも行うと母様が仰っていたし、殿にはそれでお許し戴くことにしようと思うの」 殿以外の男の人からもらった文がたくさん置いてある局を、あの優しい殿に見て欲しくなかった。殿が怒るとは思えなかったが、それでも心は痛むだろう。内裏女房が公達から文をもらうことはよくあることとは言っても、やはり良い気持ちではないだろう。東寺の長者に諭され、自身も変わろうと思ってはいるのだが、やはり刹那に過ぎるのは殿のことだった。 長者さまは殿がお許しになると仰った。殿はたとえこの局をご覧になっても微笑まれるだけで、決して私をお叱りになることもお嘆きになることもない。そう分かっていてもなお、殿の目から遠ざけたいと思う抗えない気持ちは、文を戴いた何方かに対する私の思いの形なのかもしれない。それが誰かは、どういう形なのか、今は分からないけれど。 「お優しい殿のことでございますから、もちろんお許し下さいましょう」 はいささかも表情を崩すことなく、笑顔でを見上げて鏡をもう一度掲げた。 「ご準備は宜しゅうございますか?主上もお待ちでいらっしゃいますよ」 「…ええ。行ってくるわ」 は言葉少なに温明殿を出て行った。いつものように承香殿の庇を通って清涼殿に赴く。台盤所から昼の御座に膝行で参ると、主上は大床子(椅子)にお座りになっておられた。 「ゆっくりと支度をしていたようだね、」 「申し訳ございません」 大床子からもその前に置かれた台盤からも離れた母屋の入り口で、は額と両の手を床につけて平伏した。夕餉の支度をしている蔵人たちは一言も喋らない。ややあって、主上からお声がかかった。 「お前たちはもう下がってよろしい。後は典侍に」 「承知致しました」 蔵人たちが連れ立って昼の御座から殿上の間に下がる。は平伏したままだ。大床子から主上が立ち上がられる物音がして後、は自分の側に主上が近づいて来られる気配を感じて後退さろうとしたが、震えおののいてしまって身体が言うことを聞かない。主上をお待たせ申し上げるなどあってはならないこと、は震える身をさらに硬く縮こまらせて、より頭を下げようとする。 「、顔を上げなさい」 「……」 そうは仰られましても、主上の御勘気を蒙ったとあっては合わせる顔もございません、と反駁したいところだが、主上ともあろうお方に出来るはずもなく、は黙った。あまりの恐れに目もつぶってしまっている。 「私が怒るとでも思っているのかな?それはおかしな話だ。…顔をお上げ」 主上の命とあらば逆らうわけにもいかず、は恐る恐る顔を上げた。間近いところにある尊顔はにこにこと笑みを湛えている。 「ほら怒っていないだろう。もとより、私があなたを怒ることなど、到底想像がつかないのだがね」 主上は大床子に御戻りになられ、にこにこと笑みを浮かべたままを見つめていた。 「さて、夕餉の支度をしてくれるかな。今日は特別な日だからね」 「かしこまりまして」 は一度深く平伏した後、立ち上がって夕餉の支度を進めた。台盤に盛られたたくさんの食事の中からゆづり葉を敷いた懸盤に主上の夕餉を整えていく。台盤には、それこそ何人分もの食事が盛られているが、主上がお召し上がりになるのはほんの一部だ。 「ゆづり葉は特に珍しい形をしている葉ではないけれど、やはりそれを見ると物思う人が多いのだろうね」 「左様でございましょうね」 師走晦日の食事にゆづり葉が敷かれるのは、亡くなった人たち(主に祖先霊を示す)がこの日に帰ってくるとされているからだ。ゆづり葉は『ゆづって永続する』ことを示す葉、祖先から繋がることを示す意味合いもある。また、春に新しい葉をつけるときまで古い葉が冬でも残っていることから、交代を示す葉としても師走晦日に相応しいとされる。 「…主上には申し訳なくも、私も物思う一人にございまして、お待たせ申し上げた始末でございます」 主上のお好きなものや、身体に良いとされているものを懸盤に整え、御前に奉った。主上は箸をお取りにならず、ふむ、と嘆息して顎元を手で押さえられる。 「私は幸いにして近しい者を亡くす悲しみを未だに知らない。けれど、三世に渡って契った夫を亡くしたあなたの気持ちは未だに癒えないのだね」 「詮無いことで自分の気持ちを徒に沈めるならばいざ知らず、主上のお優しい御心からお情けをいただけようとは身に添わぬことでございます」 は主上から少し離れた場所でまた平伏した。少し哀しげな主上の御目元には気づかないままだ。 「あなたの膳も用意させているから、もう少しでこちらに来るだろう。共に夕餉をとるのはいつぶりかな」 お優しい主上の声にはゆっくりと顔を上げ、ようやくのことで微笑んでみせる。 「お久しゅうございますね。年暮は何かと気忙しいものですし、新たな春を迎えるのに何か支障があってはならぬものでございますから」 「は仕事にとても真面目だといろんな者から聞いているよ。真面目なのはお母上譲りだろうね」 「…そうでございましょうか」 主上はの父親とつながりがあり、萩殿に来たことはないがの母親とも面識がある。の母親は、を産む前には別の邸にいたのだ。を産むときに実家である萩殿に移った。萩殿はもともと、の祖父になる母方の家で今はの兄が主として母親と一緒に住んでいる。兄は大学の出で、式部少輔を勤めていた。兄とは父が違い、の母親はと同じように一度夫との別離を経験していた。は夫と死別したが、母親は何故別れたのかを詳らかにはしない。 「主上。こちらで宜しゅうございましょうか」 「典侍の傍に」 の分の懸盤にもゆづり葉が敷かれていた。運んできた蔵人がの前に畏まって膳を据える。 「退ってよい」 主上のお言葉を受けて蔵人は退出し、の前には温明殿で戴くものよりも幾分豪華な膳が並んだ。二人して箸を取る。 「ところで」 「はい」 なぜか主上は箸をお置きになって、を呼び止めなさる。は不思議に思いながらもそのまま手を止めて箸を置き、顔をあげた。 「お父上には会っているのかな」 「…父も忙しいようで、私が里に下りたときにもなかなか会えぬままでございますね」 「お父上から文が来たよ。がどう過ごしているか、というお尋ねだった」 娘の自分にも黒羽や天根を通じて文を寄越しているというのに、主上にまで文を届けているとは。しかも主上に向かってあまたいる女官の一人に過ぎない自分のことを尋ねようとは。 父らしいと言えばらしいのだが、なんというか、は思わず嘆息をつきそうになってしまった。父親は何事も自分でやらなければ気が済まない性質だし、思い立ったらすぐに実行するような人である。父と主上は昵懇の間柄だが、それでも一の御方である主上に対して私的なことを尋ねるために文を出すとは、あきれ返る。 「の家人のことも書いてあったな。正月の除目で少し位をあげるのはどうかという話でね、今はまだ地下の者(六位以下)だと聞いたからせめて青き衣に袖を通すほどにはしてやろうということになったよ」 「ありがとう存じます」 青き衣、とは六位の者が身につける縹色の袍を注す。は黒羽と天根の正式な位階を知らないが、六位に叙していただけるのはとても嬉しいことだ。五位以上とそれ以下とは深い隔たりがあり、待遇もかなり違うのだが黒羽や天根のような出自が鄙びた者が六位に叙していただけることはあまりなく、とても喜ばしい。 「のことをたいそう心配している様子だったから、心配には及ばないと書いておいたが良かったかな」 「…はい」 親というものは皆そうなのか、父も母も心配が過ぎる、とは思う。それほど心配なら家に置いて大人しく殿の菩提を弔わせてくれても良さそうなものなのに、心配だと言いながら宮仕えを勧めるのだから変な話だ。最初の頃こそ宮仕えに抵抗もあったし、公達にも過剰な拒絶を示したものだが、慣れてしまったのか今はそこまで嫌でもない。 「が素晴らしい内侍であることは皆が存じていることだし、推挙した私としても嬉しいことだ」 「もったいないお言葉でございます」 「春になったら相応しい位につけてあげよう。あなたは出自から言ってももっと上の位であるべきなのだから」 「けれど私は…」 反駁しようとしたに主上はゆっくりと首を振られる。 「あなたの出自を明かさない、というのがお父上との約束だ。それはもちろん守ろう。だが、あなたが低い位にいて良いということはない。…何か勘繰る者が出てくるとも限らないが、私にはあなた一人を守るぐらいの力は十分にある。安心していなさい」 自分の身を憂うばかりではない。ひいては自分の父、そしてこうまで目をかけてくださる主上の御身にも何か影を落とさないかと不安では顔を曇らせた。 「そんなに心配せずとも、私とお父上に任せていなさい。さ、食べてしまおう」 「……はい」 夕餉を終えてが温明殿に戻ったのは、いつもよりかなり遅い刻だった。清涼殿といわず、南殿の庭、殿上の小庭、至るところに灯台が置かれとても明るい光景で物珍しい。紫宸殿を南殿と言うが、まずそこで陰陽師による儺祭が行われる。そして紫宸殿と清涼殿を渡す長橋から清涼殿の東庭、滝口と疫鬼を追う。追うのは方相氏と小儺だが群臣もそれに続く。四門を経て京の街に至り、街に入るところで京職が追う役を変わって京の街の端まで疫鬼を追いやって儀式は終わる。 清涼殿で公達が儺やらいの支度をしていた頃、の元に蔵人がやってきた。 「典侍殿はおいでか」 が御簾に近寄る。 「私が姫付きですが、いかがなさいましたか」 「主上から下賜の品があってお届けに参りました」 「どうぞ」 一も二もなく、さっとは御簾を巻き上げる。御簾の隙間から、そっと唐箱が差し入れられた。 「それでは私はこれで失礼する」 は渡された唐箱を持ってが下がっている局に急いだ。局では、火桶の傍にいるが唐箱を前に眉尻を下げて思案している。 「姫様、主上からの御下賜の品だそうですよ」 「主上から?」 何はともあれ主上の品を拝見するのが第一、とは目の前に並んだ唐箱をそっと押しやって、が持ってきた唐箱を据えた。御物なのか、見たこともない見事な意匠の施された唐箱だ。 「…まあ」 蓋をそっと開けてみれば、中にあったのはやっぱり桃の弓と葦で出来た矢だった。矢に文が括りつけてある。開くとそこには主上の御手で厄払いをするように、と書かれてある。徒に心を沈めずにこれで晴れやかな年を迎えなさい、とも。 桃の弓と葦の矢は、儺やらいで群臣が疫鬼を追い払うのに使う、一種の呪具である。桃も葦も清いもので、魔を払う力があると言われている。そして桃の弓と葦の矢は、既にの手元にもあった。主上の文とそっくりの文言を書いて父親が早々にに届けていたし、中務卿(跡部)や頭の弁(仁王)、左大弁(忍足)や参議(幸村)からも届いていた。は主上の文だけを手元にとどめて、弓矢はきちんと唐箱にしまった。主上からの頂き物だ、何かあってはいけない。が主上からの唐箱を持ってきたとき、の眼前にあったのはこれら公達から届いた唐箱だった。もう一度その唐箱たちを手元に引き寄せる。 中務卿からの唐箱はさすがというべきか、とてもゆかしい品だった。冬の終わり、という意味なのか雪の意匠が幾重にも散りばめられた蒔絵螺鈿の品で、雪花が無数に散っている。中には小ぶりの桃弓と葦の矢が入っていた。主上から下賜されたものに比べて二つとも小ぶりで、おそらくは儀式用でなく作らせたものだろう。桃の枝らしい、まだ固いつぼみをつけた枝に文が括りつけられていた。 うつせみのひとめも見えぬ逢坂の関のこなたに年をふるかな(見る人もいないのに一度たりとて逢ってくれないままこうやって隔てられたまま年を経ることだな) ゆみひけば本末寄りて我が方に君が身をこそ我に寄せなむ(弓を引くと弓の上下が自分の方に寄るが、そのようにあなた自身をも我が身に寄せたいものだ) 中務卿はいつも一首書き付けて寄越すばかりだったのだが、二首したためてある。墨の濃淡や筆運びも洗練されていて、人柄を思わせる。中務卿自身はきらびやかな人物だし、生まれ育ちもこの上ないのだが、こうやって文を見たり音を聞けば情深い人柄がこちらに伝わってくる。は一度だけ中務卿の顔を見たことがあった。勤め始めたばかりの頃、渡殿で不意に腕を掴まれて顔を無理やり晒されたのだ。公達である中務卿はもちろん顔を隠したりなどしないから、はっきりと顔が見えた。主上の御弟君とあって少し似ていて、麗しい顔立ちに自信が滲んでいた。この世の女人の常として、男君の顔など見比べられるほど見たことはない。が見たことのある殿方と言ったら、父親に殿、主上、それに東寺の僧都ぐらいのものだ。それでも十二分に多い。左京大夫の顔もちらりと見えたはずだが、そのときはそれどころではなかったのでほとんど記憶にない。殿は優しさが顔だけでなく気配にも滲むような方だったし、父親はどちらかと言うと中務卿のように威厳が姿形に見える人だ。 「姫様?いかがなさいましたか?」 「……何でもないわ」 前までなら中務卿の文など一瞥して終わりだったというのに、何故か自然と物思う時が増えている。は何となく胸にわだかまりを覚えて中務卿の文を唐箱にしまって弓矢ごと奥へ追いやった。 「頭の弁の君さまはさすがに風流に通じた方でいらっしゃいますね。参議さまや左大弁さまもたいそう美しい品で」 頭の弁から届いたものは、唐箱ではなくて陸奥紙に弓矢と文をつけた枝が包まれていた。仰々しくないところが頭の弁らしく、包んだ陸奥紙を結ぶ元結がわざわざ裾濃に染めつけられているのが心にくい。文をつけた枝は盛りの紅梅で、匂いがかぐわしかった。 豊後なる柳ヶ浦浪立たぬ日はあれども人をこひぬ日はなし(豊前にある柳ヶ浦には波の立たない日もあるでしょうが、この私はあなたを恋しく思わない日などありません。常に恋しく思っています) 豊後、と書いてある。豊後とはいつだったか、頭の弁が育ったところだと聞いたことがある。海で遊んだこともあると言っていたから、この柳ヶ浦がその海なのかもしれない。淡海は波が立たない大人しい海で、豊後の海は日によって波の激しさや色合いが違うと教えてくれたのも頭の弁だ。そして立派な海の花貝を二つ寄越して、さらには明け暮れ手慣れた撥をも寄越した。海の花貝も撥ももらった唐箱に入れてしまっているが、時折開けて眺めることもある。頭の弁が遊び、黒羽や天根たちも遊んだという海が見てみたいと思うことは一度や二度ではない。淡海ではなく、もっと力強い海。 「こひぬ日はなし…」 は自分でも気づかないままに頭の弁の歌を口ずさんでいた。がそのことに気づいて片付けをしていた手を止めて目を向ける。 「、あの箱を取って」 「はい」 示されたのは、今までもらった文が取ってある箱だった。唐箱と一緒にもらった文も、ただの結び文もまとめてしまってある。二階厨子の中から、文ばかりが入った唐箱をは持ち出しての前に据えた。は蓋を開けて中を見る。宮中に来てまだ三月しか立たないというのに、唐箱に満ちた文。この文のどれが本物で、誰が母親の言う『終夜終日夢を見せてくださるお相手』なのだと言うのだろう。もしかしたらどれも仮初の、行きずりのものかもしれないし、をあまたある通い先の一つとして増やそうとしているのかもしれない。けれど、殿に出会って結ばれたことが縁なのだから、こうやって文を下さるのもまた一つの縁、もしこれから先誰かの傍にいるのだとしたら、きっとこの中の方なのだろう。いつか訪れが絶えて侘しい身の上になるとしても。 今はまだ誰が…といった思いはない。どの方もみな素晴らしく、こと自分と引き合うようには思われないのだ。主上が夕刻仰ったように、出自があって位がつりあうとしても、人の品は母親方の身分で決まるものだ。の母親は中納言の娘、蔭位で言えば母親の位は六位か七位になり自身も本来なら八位程度の位しか持たない。父親の位が高い故に今の位を叙され、典侍の職をも戴いているのだが、ずっと母親のところにいて、下流貴族の暮らしをしてきたからすれば中務卿の宮など雲井の彼方にしか思われない。幸村の参議にしても左大弁にしても、群臣の頭として勤める頭の弁にしても同じことだ。どなたも皆出自晴れがましく、未来も洋々としている。 がこうやって自分の出自や位を気にするのは、大きな理由がある。公達に限らず殿方はいくつも通うところを持つのが普通だが、その際にたくさんいる女人はすべからく身分に応じた扱いをするべきだ、という風があるのだ。身分の高い女人のところへ繁々と通うのが良く、卑しい女のところへは戯れで通っても良いがあまり頻繁に訪れるのは良いとされない。位の高い公達が、身分卑しい女を寵愛することをあまり良しとしない風があり、それは主上においても同じことだった。後見もないような更衣よりは身分がしっかりとした女御や中宮を寵愛するのがよい、とされている。もちろん、公達は自分の思いに応じて通う頻度を決めるものだから、身分が卑しくとも愛され邸へ引き取られる場合もある。けれど、それは決して良しとされず、多くの場合は女人が涙を絞ることになるのだった。 の出自はいくつかの理由があって、公にはなっていない。女官を始めとする宮人の名帳を管理している中務省といえども、の父親は不明のままとなっているはずだ。それはの父親の意向でもあったし、東寺の長者の勧めもあった。生まれたときに公にしないと決めたそうで、はおおよその理由を知ってはいるが、なぜこうまでして隠さなければならないのかというところまでは知らなかった。 「…?」 がぼんやりと物思いに耽っていた頭を上げて、外の音に耳を澄ませた。なにやら、外がとても騒がしい。 「なやらいの声でございますね」 「儺やらふ、儺やらふ」 「鬼やらふ、鬼やらふ」 たくさんの声が温明殿にまで届いている。儀式は南殿を始めとして清涼殿の近くから始まるものだが、温明殿にまで声が届くということは疫鬼を追って四門へ近づいてきたということなのだろう。は庇によってそっと御簾の傍に立った。 「方相氏とかいう方は見えるかしら」 「小儺ならともかく、方相氏は見えるでしょうか…」 小儺は二十人ほどいるが、方相氏は一人きりだ。方相氏や小儺の後には群臣が続くのが常だから、殿方に姫の姿が見えては大変、とばかりにがを局に戻そうとする。 「姫様、お戻りくださいませ。小儺は童と聞きますが、追って続く殿方ばらにお姿が見えでもしたら大変でございます」 そう言うの声にが渋って庇の傍にまだ立っていたとき、急に足音が近づいてきた。 「夜もすがら咲く萩を追って参った」 朗々たる声がすぐ傍に聞こえて、は思わず後ずさった。中務卿だ。 「姫、そこにおいでか」 驚いてしまって、声が出ない。大事な儀式の最中に中務卿は何をしているのか。 「確かそなたの局はこちらだったはずだが…。まあいい。先に贈った弓矢は御身の闇を払う真弓、ぜひとも鳴弦を」 「私の闇…」 御簾の向こうでふっと息が解ける。 「そうだ。俺にもなびかず、他の誰になびくでもない。聞けば背の君(夫)を亡くしたことがおありだとか。亡き人を思うがあまり徒に心を沈めるは身の闇、払ってさしあげよう」 普段は少ししか明かりがない外も、今日ばかりは四門に抜ける者たちのために煌々と明かりが焚かれている。御簾に出来た影で中務卿らしき人物が弓を構えたのが見えた。ぐっと弓を引き寄せて弦が鳴る。よく見れば何か番えていた。 「何をなさいます!」 が声を上げるが中務卿は構わずに弓を引き絞って矢を放とうとする。 「御身の闇、払ってさしあげる。俺のところへ早く来いよ」 「…止めて!」 闇を払うと中務卿は言う。その闇とは即ち殿を思う自分の心だとも中務卿は言った。その心を払って自分のものになれと。 は初めて出す大声で中務卿の動作を遮った。自分でも大声が出たのが不思議で、胸が落ち着かない。 「止めぬ」 あまりの大声に温明殿の女官がざわつき始めた頃、中務卿はもう一度弓を引き絞って土庇に矢を放った。びいん、と弦が鳴る。 「お前が俺のところへ来るまで、俺は誰も迎えまい。誰のところへも行かぬ。宮家が不満だと言うならば姓を賜り臣を極めてみせる」 「……」 そんなことをしてほしいわけではない。そも、は中務卿に不満などないのだ。自分の相手として思われないというだけで。 「…姫。どうすれば俺のことを信じてもらえるのだろうか。文も無く返り事も無く、このままでは俺は何をよすがにすれば良いのか」 何か喋ろうとしたを手で制して、は一度深く息を吸った。 「…私は」 「私は宮様に不満などございません。どなたに対しても不満など申せる身でなし、私と皆様では身がつりあいませぬ。華やかな暮らしを求める気持ちもなく、ただ一人の方と静かに暮らせたらそれで良いのです」 御簾の反対側にいる跡部はぎり、と奥歯を噛む。華やかな暮らしがしたいと言ったなら、権勢並びない幸村家をも凌ぐ暮らしをさせてやるつもりだった。確かな証が欲しいというなら、天地神明にかけて誓っても良かった。けれどが欲しいのはそれではないと言う。自身の位は跡部と比べても少しの違いしかないが、が言っているのは実家の位のことだろう。 「身がつり合うことがどれほどのものか。風評に手折れそうなほど頼りない身ならば、俺が横で支え続ける。俺は…」 うっすらと見えていた御簾の向こう側で、人影が去って行く気配がした。庇の側にいた姫が母屋へ戻ったに違いない。 「俺は、お前だけでいい…」 他の女になど興味がもてないのだ。がいればそれでいい。なのに、はいつだってすぐに身を引いていく。 跡部はそう小さく呟いて、しばらく立蔀の側にいたがやがて立ち去った。元日の儀式に伺候しなければならない。 「…姫様。お具合はいかがでございますか」 は中務卿の無礼とも言える振る舞いに怒り心頭だった。いくら第二皇子とは言え、女人に向かって射かけるとは。矢は土庇に放たれたようで、そもそも姫を狙っていたわけではないだろうがそれにしてもやりすぎだ。 「……元日に伺候するまで、まだ時間があるわよね」 「ええ。お休みになられますか」 はゆっくりと一度頷いて、そのまま畳に臥せってしまった。 元日のまだ夜も更けぬ曙には起きだして、かねてから用意していた衣を身につける。主上が四方拝を行われている頃だが、も土庇に薦と莚を敷いて四方を拝む。まず北に向かって属星を唱え、様々な神々を拝んだ後に父の居る方角である卯、母の居る方角である巳をまた拝む。土庇で拝んだ後に顔を上げると、中務卿が昨晩射った矢がそのままになっていた。 「……」 主殿司にでも言って取り去ってもらおうと思ったが、矢の様子がもらったものと違ったのでは近寄って矢を手ずから取り上げた。 「何か書いてある…」 何か違う、と思ったのは矢の表面に文字が書いてあるからだった。 この世をば何にかせむと生まれける逢ふを限りと思うばかりぞ(この世に何をしようと生まれてきたのだったか、今はあなたに逢うことが最後だと思っているだけだ) しばらく眺めた後で、はそっと矢を手に取って庇へ戻る。 「姫様?その矢は…」 「あの箱にしまっておいて。主上のお側へ上がる刻限だわ」 は何か言おうとしたが、の言うとおりに矢を唐箱にしまい、鏡を立てかけての支度を助けた。が今着ているのは、祝にふさわしいとされる松襲で、紅の単の上に萌黄の匂を重ね、蘇芳の濃き淡きを重ねてある。表着は白地に織のあるもので唐衣は特に許された青色の二陪織物、裳は地摺りと呼ばれる金銀泥で摺られたものだ。青色は主上の今年の生気の色にあたるので、今から行われる歯固と屠蘇の儀式に伺候する者はみな青色を着ることになっている。 「典侍様。刻限でございます」 「今から参ります」 はすっと立ち上がって、扇をかざした。 何はともあれ、年は明けたのだ。殿と年を離れ、たとえ何があっても許される限りは主上に心尽くしてお仕えしなければ。 年の明けた朝は、いつもより少しだけ冷え冷えとしていた。 姫様、いかがだったでしょうか。 |