諸戀 第七幕 雪うさぎ
幸村は宿直にやってきた凝華舎で跡部たちと話している千石を見掛けた。
「やあ。君たちも宿直に?」
「そうだよ!萩典侍の話をしてたんだ」
幸村はの話と聞いて、輪にいざり入った。
「ぜひ僕も聞きたいな」
「こいつがな、典侍の顔を見たと騒いでんだ」
跡部は呆れた顔つきだが、内心では千石に対してささやかな優越感を感じていた。千石がの名を知らないからだが、この場で知らないのは千石だけだ。
「彼女の顔を?」
幸村は不思議そうに訊ねる。恋人であっても、まじまじと顔を見たりしない習わしである。仲が深まればそういうこともあるだろうが、面識のない千石がの顔を見れようはずもない。跡部はそうたかをくくっていたし、幸村は前にかいま見ているので余裕で構えていた。
「彼女は御簾の向こうにいたんだけどね、いきなり突風が吹いて御簾が捲れて。もちろん扇で顔を隠してはいたんだけど、隠し切らないし、一瞬だけど目があったんだよ!」
俺ってば幸運、と千石は上機嫌だ。
「千石」
今まで庇の端で話を聞くふりすら見せていなかった真田がいきなり歩み寄ってきたので千石はびっくりして振り返った。
「え、なに」
真田くんは真面目だから怒られるのかなあ、と思っていた千石を思わぬ質問が襲った。
「それは本当に萩典侍だったのか」
「うんそうだよ。それまで話をしてたんだから、彼女で間違いないと思うけど」
千石は知らないが、そのとき真田はこの光景を目撃していた。そして捲れ上がった御簾の向こうにいた女人に一目惚れしてしまっていたのだ。
「どうしたの、真田」
幸村が訝しむと真田はいや…とかうむ…とか生返事を繰り返す。
──本当にあのかくも美しい女人は萩典侍であったのか。あの美しい……。
「今年の舞姫はどこから出るん?うちからも一人出るけど」
忍足が真田を放って話題転換を図った。五節は大嘗祭の節会に行われる舞のことで、その舞姫は例年有力な家や国司から献上され、そのまま内裏に勤めるのが常であった。家ごとに装いを競い、絢爛豪華に飾り立てられることが多い。
「僕の家からも一人出すよ。後は芥川大納言の家じゃなかったかな。他には摂津と上総と聞いているが」
「せやった、慈郎の妹御が出るんやったわ。左大臣(幸村)とあらばさぞかし華やかなんやろなあ」
そう言った忍足は右大臣の嫡子である。幸村はそんなことないよ、と流して笑った。
「忍足の大臣は風流を解されるお方だから、素敵な舞姫なんだろうね」
当たり障りのない探りあいだ。今回のように左大臣・右大臣方が張り合うように舞姫を出すことはあまりなく、また大嘗祭(即位後初めての新嘗祭)ということもあって例年になく華やかなものになるだろうと思われた。忍足の父親は右大臣で、その妹が跡部の生母なので跡部と忍足は従兄弟にあたる。
「さあな。伯父貴も幸村の大臣も品の良いお方だから、兄上(主上)は喜ばれるだろうぜ。あでやかなことがお好きな方だからな」
跡部はそう言って隣で眠っている慈郎の頭を小突いた。慈郎は身じろぎもせず眠っている。
「こいつの妹はなかなかの美人だったな。和琴がわりと上手い」
「和琴か。それも素敵だね。僕の家から出る舞姫は琴の琴が上手いと聞いている。女性があでやかに弾いている琴は音も男のより優って聞こえるな」
「俺も跡部ももっぱら笛やもんなあ。琴も弾けへんことはないけど。なんや、幸村自分琴上手いて聞いとるけど」
「そんなことないよ。障りがあるとき(病や物忌みのとき)がつい多いから触れてる時間が長いだけの話だ」
幸村は謙遜して首を振った。忍足は残念そうに閉じている扇で膝を打つ。
「仁王は何をするん?」
話を聞いているのか、柳生と話しているのか、背を向けていた仁王に忍足が話を振ると、仁王は琵琶じゃの、と答えた。
「琵琶の低ぅて強い音が好きで弾いとる。まあ好きなだけじゃ」
「そうや、萩の典侍は筝の琴を前弾いとったわ。なかなかに趣深い音やった、なあ跡部」
「ああ、素晴らしかった。俺と忍足はつい気負って上手く吹けなかったが、一緒にいた朝顔典侍も琴の琴を上手く弾いていたな。萩典侍の音は当代でも指折りかもしんねえな」
「……跡部が褒めるの珍しくねえ?」
今まで大人しく話を聞いていた宍戸は横にいる鳳にそう耳打ちした。跡部は遊びに関してうるさい男だったが、特に耳がいいのか音に関してはうるさい。名のある弾き手を家に呼んでは合奏していたり、宴の際にも当代随一の弾き手をわざわざ呼び寄せたりする。
「そうですね、宍戸さん。でもあの萩典侍の音は本当に美しかったっすよ」
「まあな。俺は楽は苦手だが、あれは本当に素晴らしかったな」
二人は思い出したかのように揃って外を見やった。あのときよりは冷えて月も寒々しくなったが、こういった少し物寂しい折に聞けばさぞ素晴らしい音だろうと思われる。
「いつか俺らも聞きたいもんじゃの、真田」
「……うむ」
「え」
常日頃、女人の所に出かけていく皆をたるんどる!と戒める真田が同意を示したので、座の一同驚愕して二の句が告げなかった。問いかけた仁王ですらぱち、とまばたきしたほどだ。
「えーもしかして、真田くんも萩典侍狙い?」
「狙いとは何事だ。俺はただ…」
「ただ?」
好きなだけだ、と言おうとした真田は自分が何を言おうとしているのかに気づき、はっと口を噤んだ。
「真田もかよ。っていうか、ここにいる全員じゃねえの」
跡部の言葉に互いが探り合うように顔を見合う。幸村が提案した。
「どうせなら、はっきり言ってしまわないか?ここで探りあいしていても意味がない」
「そうやな。俺ははっきり言わしてもらうわ。萩典侍が好きやで」
忍足を皮切りに次々と俺も、と申告者が続出した。
「跡部はどうなん?」
「狙ってるに決まってるだろ。ま、誰が来ても俺さまのものになるが」
「敵が多いのって困るけど、俺もだよ」
跡部、千石、ときて一同の目が幸村に集中する。幸村は諸手を上げて降参の姿勢を見せた。
「僕もだよ。みんなそうなんじゃない?」
「俺もそうじゃの。柳生もそうじゃろ?」
「え、私は……。まあ、そうなるんでしょうか」
「宍戸たちはどうなんだよ」
跡部の視線が宍戸に刺さる。宍戸は居心地悪そうに口を尖らせた。
「悪ぃけど俺も。譲る気はねえ」
「これに関してはおれも先輩たち譲る気は無いっすね」
「良い度胸じゃねえかてめえら。…真田は」
女人に関する噂もなければそぶりも見せない真田である。一同黙して答えを待った。
「……俺も、だ」
真田の答えに一同がため息を漏らす。敵が多すぎる。分かっているだけでも九人だ。この場にいない者や寝ている慈郎も可能性は高い。
「分かったからには互いの遠慮は無用だぜ。これは──戦いだ」
誰かがごくりとつばを飲む音が、聞こえた。
跡部たちが物騒な話をしている頃、当のは宿下がり(実家に帰省)していた。物忌みしなければならないとされる日が続くので一旦家に帰ったのだ。
「姫、もう眠い?大丈夫?」
「大丈夫よ、天根。明日も物忌みでお篭りだからたくさん話せるわね」
しばらくぶりで帰った娘を母親が宴でもてなし、酒の入った後に皆で語らいとなった。仕えている者たちは下がって、内々での語らいである。
「、内裏で嫌なことはないの?大丈夫?」
「お母様、それ四度目ですわ。本当に大丈夫なんです。みなさん良い方だし、主上も目にかけて良くしてくださいますし」
「そりゃああの方はがお気に入りだもの。それより内裏女房たちとの仲が心配なのよ、母様は。あれだけの人がいたら嫌がらせもあるでしょうし…」
娘がいじめられている姿を想像したのか、の母は涙を浮かべている。
「物語の読みすぎです、お母様。あのようなこともあると聞きますけど、私の勤めている内侍司はみなさん良い方で、新参者の私にも良くして下さいますし、仲の良い方も出来ましたの。朝顔の典侍という方で、気さくな方ですわ」
「がそう言うなら安心しました。お父様にもそうお伝えしておくわね」
父親に五万と恨みのあるは押し黙ったが、父親を心配させる必要もないので大人しくしていた。
「奥方様、姫さま凄くてらっしゃるんですよ」
が意気込んだのではもしや、と危ぶんで一瞬身を引いた。殿方が押しかけてきたり文が連日届いたりさらには扇越しの対面をしてしまったことなど言うつもりだろうか。黒羽たちには口止めしたけれど。
「何があったの」
「殿上人からの御文がすごいんです、ひっきりなしで。温明殿にまで姫さまに逢いに押しかける始末で」
「まあ」
母親は口を手で覆って驚いている。はああ…とがっくりして肩をうな垂れた。黒羽がぽんと肩を叩いて慰める。
「どの御文も素晴らしいお手(筆跡)で趣向もそれぞれ凝ってらして。主上の覚えめでたいみなさまでございます」
「どんな方から頂いたのか覚えていて?」
「もちろんでございます。中務卿の宮(跡部)が四度、忍足の左大弁が四度、幸村の参議が二度、頭の弁(仁王)が二度、左京大夫(千石)が三度、右近中将(鳳)が二度、左近中将(芥川)が一度、兵部大輔(宍戸)が一度にてございます」
がすらすらと諳んじていくのを母親が嬉しそうに、はげんなりと見やっていた。黒羽と天根は姫の傍で慰めの言葉をかけている。が男女仲に積極的でないことも、その理由も、二人にはちゃんと分かっていたからだ。
「素晴らしいこと。、お返事は差し上げたの」
「それが姫さま気まぐれでいらして、時折にしか書かれません」
が母親に言いつけてしまったので、取り成そうとしたはまた肩を落とす。もう恋沙汰はうんざりなのに。
「だめよ、きちんとお返事差し上げないと」
「でもお母様、私結婚する気ありませんから」
「またそれを…」
には前の夫の喪が明けたときから相応の縁談もあったし、第一後宮にも声を掛けられている。それら全て断って宮仕えしているのだから、内裏で素晴らしい殿方と出会ったりするのだろうと母親は勝手に推測していたのだが、出会ってはいても にその気が全くない。娘の晴れ姿を見たい親としては悲しい限りである。
「貴女がもう一度幸せになった姿を見たいという親の願いを聞き入れてはくれないの、」
「一度は尼にと思った我が身です。みなさま物珍しさで文を下さるだけ。一時の夢に身を任せて、あとは辛い日々が待つのでしたら、最初からそれを選びませんわ」
黒羽は痛々しいの姿に奥歯を噛み締める。もし自分が家人ではなくどこかの家の殿上人なら、こんなに悲しませずに幸せに出来るのに。攫ってかしづいて暮らすのに。身分が違うからこそ傍にいられるが、その身分の差が今はただ辛かった。
「もし貴女が本当に結婚してもいいと思う人が現れたら、なに憚ることなく思いを遂げなさい。母様の家はこんなですけど、お父様に頼めばちゃんと用意もしてくださいます。あなたは何を思い煩う必要もないのよ」
「お母様…」
は憚ってなどいない。もらった文が気に食わないわけでもない。ただ、本当に、男女の仲などかりそめにしか思われないのだ。前の夫は を家に引き取って北の方としてよくしてくれたが、頼みにしていた夫に先立たれてしまい、どうすることもできなかった。喪が明けて自宅に帰ってきた は憔悴しきっていて、見舞いにきた父親がその様に驚いてすぐさま祈祷の法師を遍く用意したほどだ。半年掛けて身体を養った後、主上からの申し出があり、後宮を断ったは出仕することになった。
「一時の夢ではない、終夜終日夢を見せてくださる方がきっといらっしゃいます。心に響くものがあれば、お返事するのですよ」
「…分かりました」
は渋々頷いた。こうまでしての幸せを祈ってくれる家族がここにはいる。この人たちを裏切るような真似は出来ない。
「さあ楽しいお話をしてちょうだい。母様は内裏に行ったことがないのですから、内裏のお話が聞きたいわ」
「でしたら…」
が受けあい、内裏でのの活躍が語られて夜は更けていった。
が里(実家)から内裏に戻る日は、今年の遅い初雪の日であった。下りているのは霜かと思いきや、早朝より降った雪であった。
「雪だわ。昨夜から寒い寒いと思っていたけど雪だったのね」
「姫、これ持ってって」
さっきから庭でなにかやっていた天根が盆に雪うさぎを乗せて戻ってきた。黒羽が南天の実と葉を持ってくる。
「耳と目をつけて…っと。一丁出来上がり。なかなか可愛いだろ」
雪うさぎは全部で三匹いる。中ぐらいのが一つ、小さいのが二つ。
「これが姫で、横にいるのは俺たち」
「まあ」
中ぐらいの雪うさぎにそっと寄り添っている小さい雪うさぎが自分たちなのだという。その発想には胸を熱くした。
「こんなに寒かったらきっと保つわ。、持っていっても大丈夫よね?」
「可愛らしい雪うさぎですね。牛車では揺れがひどいですから、歩いて持っていった方が無難ですが…」
「じゃあ俺らが持っていくよ。ついてってもいいだろ」
「嬉しい」
が素直に喜んだのでは止めず、黒羽・天根を従えての戻りとなった。
「ばねさん」
「なんだよ」
牛車を見上げながら歩いていた黒羽は横でお盆を抱えている天根に呼びかけられる。内裏まではまだ四町ほどある。
「姫喜んでたね」
「おう。お前の良い思いつきのおかげだな。姫の笑顔が俺らの生きる糧みたいなもんだ」
黒羽は晴れ晴れとした顔でそう言う。天根は知ってる、と返した。
「何を知ってんだよ」
「ばねさんが姫のこと本当に好きなの知ってる。俺も姫のこと好きだけど、それとは違う好きなんでしょ」
「……知ってたのか」
驚いた顔をした黒羽は、しかし天根なら分かっても仕方ないかもしれない、と思い返した。
「だってずっと一緒にいるんだよ、分かる」
「そうだな。ずっとだな」
姫に仕える前も、仕えてからも。二人はずっと一緒だった。
「姫、幸せになるといいね」
それが誰によってのものであっても。二人の願いは、の幸せだけだった。黒羽は、少しだけ、自分が幸せに出来たらいいと思ってはいるけれど、の幸せが第一だ。
遠いと思っていた内裏までの道のりはあっけのないもので、すぐに温明殿に車を寄せることになった。
「姫、雪うさぎどうする?」
「うーん、外に近いほうがいいわよね。そこの孫庇の傍に置いてちょうだい。そこなら炭櫃もないし」
「分かった」
天根が雪うさぎの盆を据えてしまい、里からの荷物の運びいれを手伝うと、二人の仕事は終わりだ。別れのときになる。
「またすぐに来る。そんな顔するなよ」
の顔が物寂しい感じで、離れがたくなった黒羽は安心させようと無理に笑った。
「分かったわ、きっと来てよ」
「絶対。約束」
天根が小指を出したのではそれに自分の小指を絡ませた。ゆびきりげんまん、とやって離す。黒羽もそっと指を差し出した。絡められるの指の冷たいこと。細く冷たい手が内裏での仕事をしている手なのだ。殿上人と渡りあい、時には文を書いた手。
「…なあ、姫」
「なに?」
「辛かったり嫌なことがあったらすぐに言えよ。絶対助けてやっから」
身分が物言うこの世界では、きっと黒羽なんかでは助けられない場合もある。けれど、黒羽はそれを分かっていて、絶対、と言った。
「ありがとう」
晴れやかに笑った姫をここで攫ってしまえたら──詮無い思いを抱いた黒羽は、しかしそれを打ち消して姫に笑い返した。
「それじゃあ帰るな」
「ええ。ありがとう。帰りも気をつけて」
「おう。じゃあな。行くぞ天根」
「じゃあね、姫」
黒羽と天根は一度手を振って…温明殿から去っていった。残されたのは三匹の雪うさぎ。
ずっと、一緒にいるから。
にはそんな声が聞こえたような、気がした。
第八幕『夢の通い路』
姫さまいかがでしたか。諸恋第七話。黒羽の思いが走ってしまい、ちょっと切なめの仕上がりになりました。伊勢物語もそうですが、身分違いの恋というのはそれだけで切ないものですね。
前半は源氏の「雨夜の品定め」風です。ただ品定めしてるのはお互いを、ですけど。ここにいる全員が姫争奪戦に参加していきます。真田の初恋(笑)は書いてて楽しかったです。
お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 10 16 忍野さくら拝