Étolie sérénade Le quatrième mouvement

 

二月三日、金曜日。ハルヒの誕生日前とあって、第三音楽室にはたくさんのプレゼントが届けられた。もちろん、女生徒たち持参だ。
「ハルヒくん、お誕生日おめでとう」
「ハルヒくん、ぜひ受け取って」
「…これは何事ですか鏡夜先輩…!!」
ハルヒはお客に誕生日を話したことはない。静かに誕生日を家族と過ごせると思ったのに、前日にこの騒ぎだ。もちろん、クラスにいるときにもプレゼントを渡されたりしている。ハルヒが怒りながら鏡夜に近寄ると、鏡夜はノートパソコンの前にハルヒを近づけた。
「うちの部のサイト…?これがなにか」
「ここだ」
鏡夜がマウスを動かして、カーソルをサイトのコンテンツに合わせる。new、のアイコンが光っている『profile』の欄に、ハルヒの詳細なプロフィールが載せられていた。身長、どこからか入手した体重、星座に血液型、得意教科に好物まで。もちろん誕生日も載せられている。
「んな…!?」
「好きな人のことをより多く知りたい。そんな可憐な乙女心にも全力で応えるのが我が部のモットーだからな。全員分ある…と言いたいところだが、今のところだけ空欄が多いな。まあ事情が事情だけに仕方ないが」
「……」
もはや、開いた口が塞がらない。いつ体重が分かったんだとも言いたかったが、どうせ学校のデータをちょっと拝借したと言われるのがオチだろうと思い、何も言えない。
「ハルヒくん、どうしたの?お具合でも?」
「……いえ。すみません、(あまりのこの部のバカさ加減に)言葉を失ってしまいまして」
「(感激で言葉を失うほど)そんなに喜んでもらえるなんて…!!」
なにやら意思の齟齬があったようだが、ハルヒは気にも留めない。
「ハニーくん、プレゼントは何がいいかしら?」
「んとねー、んとねー、甘いものっ!」
「まぁ、可愛い!」
同じく誕生日の近い光邦のお客たちも浮き立っている。音楽室内がいつも以上にきらきらと明るく、甘い雰囲気になっていた。

「はい?」
お客や部員にお茶を渡し終えて準備室に戻ろうとしたを鏡夜が呼び止めた。鏡夜に言われるまま、一緒に準備室に入る。
「『』は今のところプロフィールにも空欄が多い。下手な真似をしたらだとバレかねないからな。環の言い出したこととは言え、このまま『』でいるつもりか?」
「…ご迷惑でないのなら。『』として人前でピアノやバイオリンを披露出来るのも楽しいですし、みなさんと一緒にいられるのが何より楽しいので」
「そうか。ならば、こちらも手を打とう。『』がこの部にいてくれて助かっているし、環たちも喜んでいる。……
「はい、何でしょう?」
鏡夜はくい、と人差し指で眼鏡を押し上げた。
「海外生活の経験は?一番長い国はどこかな?」
「…フランスに。あとはオーストリアにもよく滞在していました」
「まだ社交界デビューはしていないんだろう?」
「ええ。18からですから。ただ名代としてお付き合いのある方とお会いするために出席したり、父や母に連れられて出席したりはしています」
「よし。ならば、こうしよう」
鏡夜はホワイトボードを持ってきて、なにやら書き始めた。
は15まで両親の仕事の都合上オーストリアで育った。去年の秋に日本へやってきて、編入試験を受けて桜蘭へ。両親ともに純粋な日本人で、父親の仕事は外資系商社マン…と。誕生日をどうするかが問題だな。と同じだとバレれば要らぬ詮索も受けかねないし…」
「鏡夜ー?あれ、もいるのかにゃ」
指名客を確認にきた環は、ホワイトボードの出現にびっくりして、さらに書かれていることに目を丸くしている。
「すごいな鏡夜!これはなんだ!?」
「『』の設定だよ。と似ているなどど言われるよりは、早くから別人だと思わせておいたほうがいい。そのために背景として詳細な設定を作っている最中だ。参加するか?」
「する!じゃあ今日の営業後はそれで決まりだな!」
「分かった。さて店に戻ろうか」
鏡夜がぱんぱん、と手を合わせる。分かった、と言って環は店に戻っていった。



その日の営業終了後。自分宛のたくさんのプレゼントを整理するハルヒと、プレゼントを見ては難癖をつける双子、そしてホワイトボードを囲む五人。
の誕生日設定だが…。これは苗字の問題とも関わってくる。という苗字を使えば、にも目が行きかねない。まして同じ苗字で同じ誕生日となれば、多少穿った見方をする人間も現れかねない」
「そうだねえ」
光邦は残り物のケーキを食べながら、うんうんと頷いている。
「いっそありふれた苗字に…いやでもにありふれた苗字は似合わないか…?」
「……」
ぶつぶつ呟きながら考え込む環に無言で考え込む崇。
はどう思うんだ?」
「…そうですね、という苗字は何も私の一族に限ったものではないので、同じ苗字でも問題はないかと思います。ただ、やはりそうしたら誕生日は変えないといけないでしょうね。苗字も誕生日も変えて別人としての『』を作ってしまうのも、それはそれで面白いと思いますが」
鏡夜に振られたはそう答えて、紅茶を口にした。
「そうだな、やはり全くの別人としての『』を作るべく、両方変えてしまうのがいいだろう。ありふれた苗字か…」
「佐藤はどうかにゃ」
「鈴木ちゃんってのはー?」
「…田中」
「どれもありふれているな。日本人で一番多い苗字なのは佐藤、次は鈴木、三位が高橋で四位が田中だ」
ちゃん選んで!」
「そうですわね…。じゃあ、佐藤にしましょう」
鏡夜がホワイトボードに『佐藤』と書き足す。
「次は誕生日だな」
ちゃんが三月だからー、ちゃんは他の月がいいよねえ」
「十月はどうかにゃ?ちゃんと部で祝うことも出来るし、他に誕生日が重なる部員もいない」
「いい考えだ。じゃあ、十月のいつにしようか?」
いつのまにやら十月のカレンダーがホワイトボードに貼られている。
「まあ、好きな日を選べばいいんじゃないか、
「……二十二日か二十七日がいいです。今年平日なのは二十二日ですね」
「その日は何かあるのかにゃ?」
「二十二日はリストの、二十七日はパガニーニの生誕記念日なんです。どの日でも同じなら、一緒にしたいなって思ったんです」
はおだやかに微笑んだ。そのさまに環は頬を紅潮させ目を潤ませる。の両の手を取って、外から包み込むように握り締めた。
「なんて可愛らしい思いつきなんだ…。音楽を愛する乙女らしい発想…素晴らしいよ!」
「ありがとう…ございます…」
「で、どっちにするんだ?」
光邦のきらきらとした期待に満ちた目線と崇の暖かな眼差し、そして何より興奮している環の視線を受けてはゆっくりと笑う。
「二十二日に。ショパンの次に好きなのは、リストですから」
「よし。決定だな。名前が『佐藤』で誕生日が十月二十二日、と。まあ、星座はてんびん座になるし、血液型はと同じO型でいいだろう。これはもう書いてあるしな。、得意教科と好きな食べ物は何だ?」
鏡夜の問いには驚いたように目を瞬かせた。
「得意、と言われましても、テストのようなものを一度も受けたことがないので、何が得意なのか分からないんです」
「そうだったな…」
今は二月上旬、三学期の期末テストまではまだ時間がある。
「じゃあ好きな科目はなんだい?お父さんに教えてくれたまえ」
「そうですね、古典全般が好きです。歴史と政経も面白いですね」
「総じて暗記系か。では『』の得意科目は漢文と歴史、ということにしておこう。漢文は好きか?」
「ええ。面白いですね。今は白氏文集を原文で読んでいるところです」
の言葉に一瞬、場が固まる。
高校課程の漢文では、読み方の基礎を習い決まりごとを覚えた上で、有名な文章(史記や三国志など)の一節を読み下すのが普通だ。読み下し文ならともかく、白文(原文)で読めるようにはなかなかならない。
「…他には何を?」
恐る恐る環が尋ねると、は片手の指を折りながら数え始めた。
「三国志を一番最初に読みました。次に史記と論語を始めとする四書五経、詩経を読んで漢詩にも興味がわいたので、楚辞や李白、杜甫を読みまして、白居易の白氏文集を今読んでいます」
先生は近現代にも面白い作品があるよと仰るのですが、やはり古典が好きで…というの言葉はほとんど誰にも届いていなかった。
「なんていうか」
「得意のレベル超えてる気がすんだけど」
「お父さんは秀才の娘を二人も持てて幸せだようー!」
「だからぁ、ちゃんはすごい人なんだってばぁ。ねえ崇?」
「…ああ。すごい方だ」
口々に勝手なことを言う部員を尻目に、ハルヒは驚いて目をぱちぱちと瞬かせている。
「三国志を白文でなんて…。すごいな、
、ペンシルパズルが得意だろう?」
「…ええ。好きです。なぜ分かったのですか?」
の言葉に鏡夜はふっと笑って簡単だよ、と続けた。
「白文を日本人が読めるようになるには、ルールを覚えてそれを当てはめていくことが肝心だ。後は慣れもあるかな。そういう読み方が得意ならば、ペンシルパズルも得意だろうと踏んだだけだよ。語学は量をこなすことと慣れることが大事だからな」
「「じゃあ殿がフランス語で育ったのに日本語や英語が上手いのも慣れってこと?」」
「無論。環は日本の文化に興味があったし、家の都合上英語が必要な場面も多かった。フランス語と英語は歴史的に近しい存在だから似た点も多いし、そんなに学習は難しくない。……最も、環自身も努力しただろうが」
「母さん…そんなに俺のことを…!」
環がきらきらとした空気をまとって鏡夜に擦り寄ったのだが、鏡夜はふいっと交わしてホワイトボードの前に立つ。
「さて、好物だが好きなものは?」
「好きなものですか?紅茶とチョコレート、あとは果物でしょうか。食事なら和食が好きですね」
「和食の中で特に好きなものはあるか?」
「…土瓶蒸しかしら。秋しか食べられないってところもいいですよね」
鏡夜が土瓶蒸し、と書いたところで小さなハルヒの声が聞こえてきた。
「土瓶蒸しって美味しいのかなぁ…」
ハルヒの声に、環と鏡夜に双子、光邦と崇が部屋の隅に集合する。はそのさまをぽかんと見ていた。
「「土瓶蒸しとか知らないんだぜ、多分」」
「用意しようにも、今の時期では外国産が関の山だな…」
「今から京都に行けば、一軒ぐらい出してくれる店があるやもしれんぞ」
「食べさせてあげたいよねえ」
「……(無言のまま頷く)」
隅に集まってしまった六人を遠巻きに見ていると、その横にいるハルヒは頭を抱えていた。
「やってしまった…」
「ハルヒ、松茸は好き?」
の無邪気な問いに、よくパックで売ってある松茸ご飯セット(出汁込み)しか食べたことがない、と言い出せずにハルヒはちょっとだけ頷いて見せた。
「う、うん。(ちっちゃい固まりしか食べたことないけど)歯ごたえがあって面白いよね」
「今年の夏休みに、京都に行きましょう?美味しいお店があるの」
「夏?松茸が獲れるのは秋じゃないの?」
「はしりの松茸がね、夏の終わり頃に獲れる山が丹波に一つだけあるのよ。セスナで行けばすぐよ」
「やっぱりってお嬢様なんだ…」
「?」
松茸山にセスナ…ハルヒが想像し得る限りのお金持ちワードをあっさりと口にしたは、ハルヒの言葉に首を傾げていた。
「夏休みって私初めてだから、とても楽しみなの」
「あ…」
は今まで学校に行ったことがなかった。ということは、夏休みなどの長期休みも体験したことがない、ということになる。
「初めての夏休みに友だちと過ごせるなんて嬉しいわ」
「(が喜んでるみたいだから)まぁ…いっか」
「ハルちゃん!」
光邦の声にハルヒとが二人揃って部屋の隅に目を向ける。
「…何ですか?」
「ハルヒ!今からお父さんと京都に行こう!」
「「庶民には手の出ない松茸だよー」」
「お断りします」
「「「「えええっ!」」」」
ハルヒのにべもない返事に、四人は身体をのけぞらせた。双子は早くも文句を言っている。
「京都にはと行きますんで。ね、
「ええ。初めての夏休みに友だちと過ごせるのが、今から楽しみなんです」
がにっこりと笑いかけてしまったので文句も言えなくなり、四人はまた隅に集まってこそこそと話し始めた。
「「どーすんの殿。よりによってに先越されてるよ」」
「麗しい女の子同士の友情じゃないか!これでハルヒにも女の子としての自覚が芽生えてくれれば…」
「京都ってことは、本家に行くってことなのかもねぇ」
「「「え」」」
光邦ののんびりとした指摘に、双子と環が目をかっと見開いて反応する。
「「!」」
「ハルヒを連れて実家に帰るというのは本当か!?」
お父さんそんなの許しません!と意気込む環にはやや気圧され気味だ。
「初めて外で出来たお友だちだから両親にも紹介したかったんですけど…いけないことなんですか?」
みるみるうちにの目が潤み始め、涙が零れ落ちんばかりになっている。
「…環先輩」
「タマちゃん」
「「(ちゃん)泣かし(まし)たね…?」
ハルヒはただ怒っているだけなのだが、光邦がダークオーラを背負っている上にれんげ事件で見せた表情を再現しているので、環たちは震え上がった。光邦は徐々に距離を詰めてくる。
ちゃんを泣かすなんて…タマちゃんはいけない子だねぇ…」
「いや、ハニー先輩落ち着いてください!俺はただ父として…ギャー!」
環が光邦に襲われている間、崇がそっとの傍にやってきて肩を抱いた。
「崇くん」
は何も悪くない」
「そうだよ、環先輩の不可解な理屈は気にしないでいいよ、
崇の指がの目元をぬぐう。何度も頭を撫でられてようやくは小さな笑みを見せた。
「ありがとう、崇くん、ハルヒ」
「ねえねえ
「僕らも連れてってよ、京都」
「いいわよ、みんなで行きましょう?…環先輩も」
光邦にぼこぼこにされていた環は急に話を振られて、一瞬驚いたが瞬く間に光邦の関節技から抜け出しての前に移動した。
、父さんを許してくれるのかい…」
「許すも何も、怒ってないですよ。剣幕には驚きましたけれど」
環が芝居がかったしぐさでの両手を取ると、はあっさりそう答えてにっこり笑った。
「何!?さっき泣いたのは!?」
「私、急に大きな音を出されることが怖いんです。涙腺も弱くて、子どもみたいにすぐ泣いてしまって。みっともないところをお見せしましたね」
ごめんなさい、と小さく頭を下げるに、環は拳を握り締めて震えている。
「か…可愛いよ!あたかも小動物のようだ!うう!」
「そりゃ殿に比べりゃ小動物だろーよ」
はそれでなくても小さいんだから」
環がをぎゅうぎゅうに抱きしめている(懐に入れようとしている)ので、光邦と崇が救出しようとしているが、双子は足を組んで様子を眺めているだけだ。
「ま、なんにせよ『』のデータは揃った。さっそく更新といくか…」
鏡夜はホワイトボートの内容を整理してさっそくノートパソコンに打ち込んでいる。
「自分はそろそろ失礼します。今ならタイムセールに間に合うし」
「「僕らも帰ろーっと」」
「待ってハルヒ!」
環の腕の中から、ようやく救出されたが包みを抱えてハルヒを追いかけてきた。第三音楽室を出ようとしていたハルヒは歩みを止めて振り向いた。
「どうしたの?
「明日も明後日も会えませんから、今日渡しますわね。お誕生日、おめでとうハルヒ」
はい、と手渡されたのは綺麗に包装された包みだった。
「開けても?」
「ええ、もちろん」
リボンを解いて中を見ると、料理の本が二冊とアンティークの手鏡が入っていた。
「…ありがとう」
料理の本は家庭用ではなさそうだったし、手鏡が必要な場面もハルヒには思いつかない。けれど、気持ちが嬉しかった。
ハルヒがそう言って笑うと、も少しだけ表情を綻ばせる。
「良かった。誕生日パーティも楽しみにしていてね」
「分かったよ。じゃあね
「ええ。さよならハルヒ」
ハルヒを見送ったの姿から戻るべく、準備室に戻っていった。




ハルヒと光邦の誕生日パーティまであと十日。今日はバレンタインズディ当日だ。1−Aのクラスでは、朝からの周りをいつものように女生徒たちが取り囲んでいた。ただ、全員が手にプレゼントを持っている。
さま、チョコレートはお好きでいらして?」
「我が家のパティシェが作るチョコレートは逸品ですのよ、ぜひお食べになって」
「サティ・ドミニクに作らせたチョコレートがございますの、受け取って下さいませ」
「ありがとう。お気持ちがとても嬉しいですわ。大切に頂きますわね」
はにっこりと笑ってチョコレートを全て受け取る。
「…すごいな、さんは」
「あの『家』の跡取り娘で、あの容姿に優雅な物腰。ただでさえ男にモテるのに、ホスト部みたいな言動で女にもモテモテ、と。どうなってんだかな」
「男みたいなわけじゃないのにな。…あれだ、宝塚みたいな感じか」
「あー、あの妙なヤツね」
クラスメイトの男子の声を耳に挟んだ双子とハルヒはそのまま視線をに移す。は相変わらず女子からチョコレートを受け取ったり、一緒に遊ぶ約束をしたりしていた。
は良くも悪くもマイペースだよな」
「あんまり他人のこと気にしないし」
「…それは光も馨も一緒でしょ。てっきりお金持ちってそうなんだと思ってたけど」
「「それとこれとは別」」
双子にとって他人は『バカなヤツら』でしかなかったのだし、他人と付き合う気になったのもここ最近のことだ。とは根が違う。
「そういうもんなんだ。とっても良い子なのにな」
家の跡取り娘であるということ、女子としては一風変わった言動、容姿に成績、他人は外から見ることが出来る条件でを量ろうとする。それがハルヒには残念に思えた。



バレンタインズディともなれば、ホスト部はチョコレート一色だ。通常営業ではあったのだが、室内の装飾をピンクや赤が目立つように変更し、ハートモチーフがあちこちに配置されている。
「はい、ハニーくん、チョコレートどうぞ」
「わーい、ありがとうねえ」
「私のチョコレートもどうぞ、ハニーくんのために特別に作ったのよ」
「みんな大好きー!」
チョコレートとお客の女生徒に囲まれた光邦はいつもにも増して嬉しそうだ。の姿でそっと眺めながら微笑みをこぼす。そのの姿を遠くで見ていた環が頬を赤く染めて、得意客に追求されていたがは知らない。
「ハルヒくん、チョコレートはお好き?」
「えっと…普通ぐらいですかね」
「お勉強の合間にでもぜひどうぞ。受け取って」
「ありがとうございます。頂きますね。…飲み物を何かいかがですか?」
バレンタインズティ特別メニュー、と鏡夜に手渡された赤いベルベットが表紙のメニューを手渡した。
「今日だけのメニューなのね、ショコラ・ショーを頂くわ」
「分かりました。少々お待ちください」
ハルヒは立ち上がって準備室に入った。中ではの姿をしたが飲み物の用意をしている。
、接客はいいの?」
「今ちょっとだけ時間が空いたから、飲み物の用意をしようと思って。ハルヒのお客さんは何を?」
「ショコラ・ショーって言ってたけど、何か分からなくて」
「それはね、温かいチョコレートの飲み物のこと。ちょっと待ってね、すぐ用意するから」
刻んであるチョコレートと少しの牛乳を小鍋に入れて火にかける。その間にショコラエチールを用意した。ハルヒはが今までやっていた紅茶を手伝って淹れている。
「ショコラ用のカップはこれね。軽く沸いたら出来上がり」
ショコラエチールにショコラ・ショーをいれ、ショコラカップを添える。高い取っ手と長い胴体がショコラカップの特徴だ。
、紅茶入ったよ」
「ありがとう。ショコラ・ショーも出来上がったよ。カップに注いだら、ほんの少しこれを入れて」
「…黒コショウ?チョコレートに?」
「クラシックスタイルはスパイスが入っていたんだ。ほんのちょっとでいいからね」
「分かった。じゃあ持っていくね」
ハルヒはショコラエチールとカップ、それに黒コショウの入ったミルをトレイに乗せて準備室を出ていった。も紅茶をトレイに用意して準備室を出る。崇のお客にお茶を振る舞った後、準備室に戻ろうとしたは、音楽室のドアが少しだけ開けられていることに気がついた。音楽室のドアはとても重厚なもので、勝手に開いたりすることはない。
「…どうなさいましたか?」
ドアの向こうに人の顔を確認したがそう声を掛けると、一気にドアが開いた。
「あ。あの!」
「はい」
ドアの向こうにいたのは三人の女生徒だった。
「お入りになりますか、お姫様?」
さん、ですよね」
「ええ。私がです」
がそう答えた途端、ばっと腕がいくつも伸びてきて、は驚いて目を瞬かせた。三人とも、手にプレゼントらしきものを持っている。
「え?」
「これ、受け取って下さい!」
「あたしたち、さんのリサイタルを聴いてからずっとファンなんです!」
「いつも遠くから聴いてます!」
「ありがとうございます。ちょうど空いてる椅子もありますし、どうぞ中へ。…何か?」
三人は揃って俯き、目を伏せてしまった。
「…お姫様がた?」
「私たちは、C組なんです」
「A組のみなさんのように、オークションでお金を使ったり出来ないんです」
「ホスト部はオークションのポイントによる優遇制だと聞きました。一度もオークションでお金を使っていない私たちには…」
オークションがあっていることは知っていた。が、それに付随して優遇制が働いていることを知らなかったはしばらく黙った後で、分かりました、と言って笑ってみせた。
「店長に掛け合ってきますね。待ってて下さい。お姫様がたの暖かいお気持ち、無にはしません」
さん…」
ドアを閉めずにそのまま中に入り、接客を終えた鏡夜を捕まえる。
「鏡夜先輩」
「どうした?」
「……という訳なんですが、こういう場合はどうしたらいいんですか?」
「ああ、それなら入ってもらって構わない。飲食も普通にしていただいていい。優遇制っていうのは、予約順や限定イベントの問題だ。今の時間、には予約客がいないのだから、次の予約客が来るまでは接客してていいぞ。…ついでに」
ドアのところに戻ろうとしたを鏡夜が呼び止める」
「はい?」
「ついでに、お得意様になってもらえ」
「…それは、お客様がお決めになることですから」
はにっこり笑って三人の女生徒が待つドアのところへ向かった。
「お姫様がた、短い時間ではありますが、どうぞ中へ。何も気になさらないでいいんです」
「じゃあ…」
「ええ、いらっしゃいませ、お姫様」
の笑顔に、お客も笑顔になって入ってきた。恐る恐る、といった感じだったお客の女生徒も音楽の話をするうちに打ち解けて、顔を綻ばせたり、声を立てて笑ったりするようになった。
も接客が安定してきたな。独自路線がウケているようだ」
「丁寧キャラ&音楽家キャラね」
「丁寧で庶民なのがハルヒ、丁寧で大金持ちなのが、と」
「「まー、二人とも天然みたいだけどね」」
「キャラがバラけることは重要なことだからな。とハルヒは属性こそ似ているが境遇の違いから、おのずと対応や会話にも違いが出てくる。それによって惹かれるお客様の層も違う、と」
接客の終わった双子と次のお客を案内してきた鏡夜が好き勝手なことを言っているが、もちろん二人は知らない。
さん、先週ウィーンであったマウリツィオ・ポリーニのコンサート、お聞きになられまして?」
「ええ、慌しい日程ではありましたが、聴くことが出来てよかったです。彼は今活動中のピアニストの中でも、最もすばらしい一人ですからね」
「他にお好きなピアニストは?」
「そうですね…全く私と方向性は違いますが、グレン・グールドも素晴らしいと思いますよ。独自路線がはっきりしていて、好き嫌いが分かれたようですが、私は好きですね。他には日本人だとフジ子・ヘミング、スタニラフ・ブーニン、ルービンシュタインも好きです」
さんは、活動なさらないのですか?私たちだけがお聞きするにはもったいないと思うのですが…」
お客の言葉には首を振った。それはしないと決めている。
「私はもともと好きで弾いているだけなんです。人にお聞かせすることも稀でした。この部に入って、みなさんに喜んでいただけるだけで、私は十分満足しているんです」
「…そんなの今週のリサイタルチケット、まだ余っておりますがいかがですか?」
すっと現れた鏡夜がチケットを片手に営業している。女生徒は三人揃って一番安い席を購入していった。
「ありがとうございます。…そうだ、一つ贈り物をしましょう」
さん?」
「私のために勇気を出してこの部を訪れて下さった、その思いに応えたいのです。リクエストをどうぞ。今週のリサイタルでお応えします」
三人は顔を見合わせていたが、やがて声を揃えた。
「「「ショパンの、バラード第四番を」」」
「承知しました、お姫様がた。必ず、バラード第四番を。楽しみにしていてくださいね」
「「「はい…!」」」
「さてお客様、残念ながらお時間でございます」
鏡夜に案内されて、三人は帰っていった。
「バラード第四番か…ちょっと頑張らないといけないな」
ショパンが作曲したピアノ曲の中で、最も評判が高い曲の一つが、バラード第四番だ。技法と表現力も最上のものとされ、弾くピアニストはその能力を問われる。もショパン弾きである以上、レパートリーの一つではあるが、人前でしかもリクエストを受けて弾くとなると、また弾きこまなければならない。
「「いいのかよ、。簡単にリクエストなんて受けちゃって」」
「光、馨。いいんだよ、お客様の気持ちに応える方法を他に私は知らないしね。私が弾くことで喜んでもらえるのなら、いくらでも」
「「なら僕たちもリクエストしていい?」」
「え?」
「「ショパンの幻想ポロネーズ!」」
光と馨が声を揃えて言うと、は黙って首を振った。
「なんだよ
「弾けないのかよ」
「…それはコンクールで弾いた曲だから、さすがにバレるかなと思って」
「「あー…」」
コンクールで弾いたのはで、耳の良い人間が聞けば似た演奏だとバレるだろう。それはだとバレることにつながりかねない。
「じゃあ、リストは?」
「そっちなら平気?」
「それなら大丈夫。リストの何がいいの?」
「「ラ・カンパネラ!」」
「分かったよ。リストのパガニーニ大練習曲第三番、ラ・カンパネラね。それにしても、二人ともクラシック好きなんだ?何か意外」
の言葉に、光と馨は揃って腕を組んでの両横に座った。
「失礼な」
「そのぐらいの教養はあるよ。弾けないし進んでは聴かないけどさ」
「そうなんだ。じゃあ光と馨のために頑張ってたくさん練習するね」
そう言うに、双子は黙って目線を交し合った。何を言いたいのか、互いに分かっている。
「…そんなに練習しなくても」
は十分上手いだろ」
初めてのリサイタルのとき、家で四時間練習していると言った。学校に十一時間ほどいて、四時間も練習しているのだったら、生活に必要な時間はほんの少ししかない。もちろん、睡眠時間も。これ以上練習するとなったら、は迷わず睡眠時間を削るだろう。きれいなピアノやバイオリンの音を聴くのは楽しいけれど、無理はさせたくない。
「そんなことないよ。上手い人ならたくさんいる。でも、私が練習するのは自分のためだから」
家の跡取り娘であるにとって、好きなことだけをやれる時間はそうない。跡を継ぐための勉強もしなければならないし、家の娘として当然要求される教養や嗜みも学ばなければならない。全てやって初めて自分の自由な時間が取れる。それが今は四時間。その全てを好きなことに捧げたかった。好きだった読書をする時間も削られ、今では通学時に車の中で読むしか出来なくなった。
ピアノもバイオリンも父親から与えられたもので、がねだったものではない。に必要と思われるものは、ねだる前から全て与えられていたので、がはじめてねだったことは「髪を切ること」と「高校に通うこと」である。ピアノもバイオリンも小さなにとっては、お勉強の一つでしかなかった。しかし、今では大事な自分の一部だと言える。『』として振る舞わなければならないという自己の抑圧も、音楽によって感情を解放することによってバランスが取れるし、今では毎週の音楽を楽しみに待つ人々も増えた。肩書きが要らない、音だけが必要とされている。それが、にとってはシンプルに自分が必要とされているように思えるのだ。
「…ま、あんまり無理はしないようにネ」
「馨…」
の頭を一つはたいて、馨は先に接客についた光のところへ急いでいった。



→第五話




いかがでしたか、お嬢様(メイド気分・笑)。
今回は『』のプロフィール作りとバレンタインズディ、でした。次回はハルヒとハニーのお誕生日パーティです。お嬢様は古典がお得意ですが、高1で白氏文集を白文で…。やりすぎた?(笑)お嬢様の才能は文系にあると思います。でも思考は右脳系。
紹介したピアニストは素晴らしい方ばかりですが、個人的にはフジ子・へミングが一番好きです。ピアノを愛していて、音楽を愛していて、それがどんな音からも伝わる気がします。


お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 5 19 忍野桜拝

 

 

 

 

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