Étolie sérénade Le huitième mouvement

例年より長いGWの連休も終わり、また桜蘭学院には生徒たちの笑い声がゆったりと響いていた。
「「たっだいまー!」」
声をぴったりと揃えた双子の声が、第三音楽準備室に響く。準備室には、既に鏡夜、、環、ハルヒまで先に着いていた。
「光、馨!連休の間はどこに行ってたんだ?」
「部室の扉を開ける台詞が『ただいま』なのはどういうことだか」
環の笑顔にも鏡夜の疑問にも見向きせずに、光はハルヒに馨はに小さな包みを手渡した。ハルヒとの手のひらにある包みは、どちらかと言えば大雑把な包装で小ぶりのものだ。包装紙も大きさもほとんど一緒だった。
「はい、お土産」
「お揃いだよ」
「ありがとう、光、馨」
「これ、何?」
晴れやかな笑みを見せるに対して、ハルヒは怪訝そうな顔で包みをためつすがめつしている。
「開けてみれば?言っとくけど、もうそれはあげたんだから、返却はなしね」
光にそう言われたハルヒは露骨に眉を顰めた。何かおかしなものが入っているに違いない、双子が選んだものだから、という先入観がある。返すな、と言われれば余計不安だ。
ハルヒがためらっている間に、が包みを開けて中身を取り出した。小さな包みから出てきたのは、髪留めのピンだった。燻された銀色で出来ていて、貝殻の飾りがついている。ハルヒはそれを確認してから、自分の包みを開け始めた。
「素敵ね。どこへ行ったの?」
「んー、バリの近くにあるリゾートにね」
馨はそう言いながらの手にあるヘアピンを取って、まだカツラを取っていないの髪(カツラは自毛で出来ている)にあてる。色違いの二つを比べるように並べて、やっぱり似合う、と満足げだ。の隣に座っているハルヒの手のひらには、と同じ貝殻のヘアピンがやっぱり二つあったが、色の系統が違った。のものはコーラルピンクと薔薇色で、ハルヒのものは菫色とターコイズブルーだ。
「こんな色の貝殻があるのね。それとも染めてあるのかしら」
「ハルヒ?」
貝殻のヘアピンを手に乗せたまま、ハルヒが黙っているので光が首を傾げて覗き込む。
「二人がまともな物買ってきたからびっくりしただけ。……ありがとう」
ハルヒは近づいてくる光の顔を両手で押しのけながら、渋々、といった様子で礼を言った。
「べっつにー?それ大したモンじゃないし。ハルヒと違ってバリなんてすぐ行けるし」
照れ隠しなのか本気なのか、光がハルヒの心証を害している頃、はヘアピンについている貝殻に目を凝らしていた。
「ねえ馨、これって本当の…むぐ」
がそれ以上言う前に、馨の手がの口を塞ぎ、もう片方の手でそのままを準備室の片隅へ連れて行く。
「言っちゃダメだってば。そんなこと言ったらハルヒが受け取ってくれないじゃん」
口が塞がれたままのが不思議そうに馨の顔を見上げた。
「確かにの言う通りだけどさ。でも、ハルヒに言っちゃダメだからね」
首を傾げるの口元から手を離した馨は、いい?と指先でハルヒを指し示した。
「このヘアピンが本物の銀製品でしかも貝殻は珊瑚で出来てる…なんて分かったら、ハルヒは絶対受け取ってくんないよ。でも僕たちはハルヒにあれを渡したいの」
にもね、と言って馨はの手にあるヘアピンのうち、コーラルピンクのヘアピンを髪に挿した。小さな耳が露わになる。
「どうして受け取ってもらえないって思うの?」
「んー、何て言うのかな、ハルヒは庶民だし、これ多分ハルヒの家の家賃ぐらいはすると思うんだよね。そんなものを素直に受け取る性格じゃないってのは分かるデショ?」
「……そうね、きっとそうだわ」
ハルヒはとても慎ましやかだし、控えめだからきっと馨の言う通りなのだろう。はそう思って頷いた。光と馨の思惑とは違った理解だったが。
「お、お前たち!いつまでそんなとこに二人っきりでいるんだ!お父さんはそんなことを許した覚えはありませんッ!」
「二人っきりというか部屋には俺たちもお前もいるんだがな?」
いつまでも部屋の片隅で内緒話(のように環には見えた)をしている馨とを、環が指差して震える。鏡夜の冷静な突っ込みに対する反応はなかった。
「はいはい。殿はほんっと過剰反応なんだから。行こ」
馨に手を引かれながら、は部員たちが集まっている場所より手前で立ち止まる。手を引いていた馨が振り返った。
?」
「髪飾り、ありがとう。大切にするわ」
「ん」
あざやかな笑みを浮かべたの顔を一瞬目に止めて、すぐに馨はまた歩き出す。不思議な女の子だと思う。知り合った頃も、今でも。今まで出会った他の女子ともハルヒとも全然違う。ハニー先輩とモリ先輩だけが友だちで、先輩たちと離れた京都にずっといたから、周りに友だちなんてほとんどいなかったって聞いた。なのに、どうしてあんなにきれいに笑えるんだろう。一人ぼっちだった、はずなのに。僕の傍に光がいなくて、殿とかハルヒとかもいなくて、一人ぼっちだったら、僕はあんなにきれいに誰かに笑ったりできただろうか。
「馨?どーしたの」
光が不思議そうな顔で馨に近寄った。馨は小さく首を振る。
「ううん。何でもないよ」




連休明けにあった中間考査も終わり、採点休み明けの月曜日。はふとした違和感に首を傾げた。席に座ろうとして、引いた椅子が何かいつもと変わった音を立てた気がしたのだ。
「どうなさったの?」
「いいえ…何でもあり…きゃっ」
答えながら座ろうとした途端、音を立てて椅子が壊れ、はそのまま床に落ちてしまう。
!?」
離れた席に座って予習をしていたハルヒ、携帯ゲームで遊んでいた光と馨も急いで廊下側にあるの席へやってきた。
「ちょっと、、大丈夫?」
さま、お怪我はありませんの?」
ハルヒや女生徒に囲まれるを見ながら、光と馨は壊れた椅子を裏返す。
「光、ちょっとこれ…」
「誰かがやったな」
椅子は木製の板に金属の足がついていて、ネジで止める作りになっているのだが、ネジが切れている。は小柄で、体重も男子より重いとは思えないし、一年使えば入れ替えをする上に高級品ばかりを揃えた桜蘭学院の備品がそう簡単に壊れるとも思えない。
「ええ、ちょっと驚いただけですわ。大丈夫」
ハルヒに支えられるようにして立ち上がったはスカートの埃を払い、集まった生徒たちに笑って見せる。
「大丈夫ですわ。ごめんなさいね、驚かせてしまって」
「そんなことありませんわ」
光が切れたネジをポケットにしまい、馨はの周りに集まっている生徒たちを眺めた。女子に人気が高いので、女生徒ばかりが集まっているが、隣の席にいる女子は少し気にする様子を見せただけで、輪に加わろうとはしていなかった。彼女はもともと一人でいることのほうが多く、輪に加わっていなくても不自然ではない。他にもクラスを見回してもいつも通りで、女子が集まっているの席を気にする男子は多かったし、廊下から誰かが見ているとか、そういったこともなさそうだった。
「鏡夜先輩に知らせたほうがいいな」
「そうだね」


椅子はすぐに取り替えられ、何事もなかったかのように数日が経った。ある日の放課後、部活にはいつも早くやってくる(女生徒の姿のまま、準備室に入るため)はずのが、営業開始時間になってもやって来ない。環は心配で準備室をうろうろしてばかりいる。
「環先輩、だって子どもじゃないんですから、用事で遅れることぐらいありますよ」
「殿は過保護すぎだって」
「…誰かに告白とかされてたりしてね」
「何ィ!?」
宥めようとするハルヒと馨には無反応だった環だが、光の一言で直立不動になったかと思えばすぐさま光に詰め寄った。
「それは本当か!?お父さんは男女交際など断じて許さんぞ!」
「いやだから、だったりして、って言う…」
どこのどいつだ!叩き切ってやる!と息巻く環に光が呆れていると、準備室のドアノブが回る音がした。全員が一斉にドアに注視する。
「あれー?みんなどーしたのー?」
ドアの向こうにいたのは崇と肩に乗っている光邦で、の姿は無い。廊下のほうからは、待っているお客らしき女生徒たちの声がした。
「モリ先輩、ハニー先輩、を見ませんでした?」
ちゃん?ううん?そういえば、どうしていないの?」
光邦の邪気の無い笑顔と言葉に、4人はうっと言葉を詰まらせる(鏡夜は見物中)。
「その…まだ、来ないんです。はいっつも早いからどうしてだろうっていう話をしてた所で」
ハルヒが喋っている間に二人は(実際に身体を動かしたのは崇だけだが)くるりと背を向けて、準備室を出ようとした。
「先輩、どこに」
「探してくる」
「探すってそんな大げさな」
少しだけ振り向いた崇と光邦はハルヒたちに向かって首を振る。
「ごめんね。僕たち、探して来なくちゃ」
「それなら自分も…鏡夜先輩?」
ドアに向かおうとしたハルヒを止めたのは鏡夜だった。ドアは閉まり、二人は廊下に出て行った。
「他ならぬのことだ、先輩たちに任せておけばいいだろう。いなくなったのがならうちの部員が探していても何の不思議はないが、いなくなったのはだ。のことを全く無関係と思われている俺たちが探しに行けば、要らぬ噂も立つ」
「無関係!?です!そんなこと言うなんて」
「あのな、ハルヒ。前にの椅子が壊れたことがあったでしょ」
怒るハルヒに馨が口を挟む。
「少し前だよね、いきなり椅子が壊れたのって」
「それね、誰かわざとやったヤツがいるんだよ」
「!?」
光の言葉にハルヒは目を見開いた。
「椅子の天板と脚を繋ぐネジが切られてた。ハルヒより小柄なの重さに椅子が耐えられないわけないし、第一桜蘭で使ってる物がそんなボロいわけない。ネジの劣化かとも思ったけど、明らかに人為的な切り口だったってさ」
「じゃあ何でに………言えない、か…」
意気込んだハルヒの声は力を失い、そのままハルヒはため息をつく。
は学校に来たことが初めてだし、いわゆるイジメなんてものに遭ったこともなかっただろうから、きっとあの事故はにとって単なる事故で終わってるだろう。イジメられているのだとわざわざ告げて、怖がらせる必要もない。それにあの事故以降は何もないみたいだしな。それに」
今までずっと黙っていた環が鏡夜の言葉を遮るように立ち上がった。
「環?お前まで行くつもりか」
「行くよ。その事故と、今がここにいないことと関係があったらどうするんだよ!鏡夜、こっちは任せたからな」
「…三人…いや四人もいなくなるとさすがにきついな」
環について部屋を出ようとするハルヒの姿を認めて、鏡夜はため息をつく。光と馨はソファに並んで座っていたが、馨の表情は硬いままだ。光がじっと馨の顔を覗き込んでいる。
「馨、行きたいんでしょ」
「……でも」
「馨が行きたいなら僕も行く。それでいいじゃん」
「……うん」
二人揃って立ち上がった双子を見て、鏡夜はゆっくり首を振る。
「今日は休業するしかないらしいな。後でこの分はたっぷり返してもらうからな」
「「了解!」」
何を分かったものだか、と鏡夜が呆れ顔のまま準備室に残された。環はハルヒと一緒に既にいなくなっている。
「さて…どうしたものかな」


いち早くを探し始めた崇と光邦は、既に1Aの教室にいた。数人の女生徒が教室に残っておしゃべりをしている。
「あら」
「埴之塚先輩に銛之塚先輩。どうなさいましたの?」
ちゃんを知らない?」
さまでしたら、もうとっくに教室をお出になってますわ。いつもあの方はお早いですから」
「いつ頃?終わってすぐ?」
光邦の言葉に一人の女生徒が頷いたが、そういえば…と言葉を続ける。
「そういえば、終礼の頃ですかしら。あの方、お手紙のようなものをご覧になってましたわ」
「ああ、そうですわね。私に、西校舎への道をお尋ねになったのでお教えしたのですが」
「西校舎?」
A組の教室があるのは東校舎、ホスト部の部室である第三音楽室があるのは南校舎で、が西校舎に行く理由が分からずに光邦は首を傾げた。
「西校舎か…」
「ありがとうねぇ」
ばいばい、と光邦は崇の肩の上で手を振り、二人は早々に教室を出る。
「何で西校舎に行ったのかな。誰かに呼ばれたとか」
「…手紙」
「西校舎って何があったっけ。んー、C組とD組の教室があってぇ、特別教室が少しあって、屋上にプールがあって…」
指折り数えるように教室の名前を口にしていた光邦だが、屋上にプールがある、というところではっと手を止めて崇と顔を見合わせる。
ちゃんって、泳げた?」
学校に通ったことのないは、体育の授業を受けたこともない。誰かが教えていれば別だが、今までから泳いだ話を聞いたことのない二人は、顔を見合わせてすぐに走り出した。光邦は走る崇の背から器用に下りて、崇の前を走る。
これが杞憂なら構わない。でも、何かあったら。
を守るのが役目だと言われて育ちながら、そしてそれを自分でも使命と課しながら、肝心なときに役に立てなかったら。その思いばかりが二人の胸を占めて、その他のことは全く頭から抜けていた。人目も憚らずに校舎を走り抜け、西校舎にたどり着いてすぐに階段を駆け上がる。ようやく屋上への階段にたどりついた二人が見たものは、何かを探すようにプールサイドを歩いているの姿だった。
「良かった、いた…」
「ああ」
もしプールサイドで足を滑らせたりしていたら、と考えていたことが杞憂になって二人はほっと息をついたが、次の瞬間にあっと息を飲んだ。 の身体が何かに押し出されるようにして、プールへ投げ出されたのだ。
さま!!」
「!」
の背後から出てきたのは人影で、プールサイドから走り去ろうとする。二人は一気に最後の階段を昇りきり、プールへの扉を開けた。
「光邦はそっちを」
「分かった」
光邦は人影を追い、崇はプールに飛び込む。まだ五月初旬、水は冷たく透き通っていた。おぼろげに見える女子制服に泳いで近づき、抱きかかえて急いでプールサイドに戻る。寒稽古には慣れているし、このくらいの冷たさなど崇にとっては何の問題にもならない。けれど、どうしても動悸が治まらない。に何かあったら。抱えているの身体が冷たすぎるような、逆に熱すぎるような気がして、崇は唇を噛み締めた。こんなことになってしまって、自分を自分が許せない。
プールサイドにの身体を先に上げ、自分も上がると光邦が一人の女生徒を連れて戻ってきた。女生徒は見知らぬ顔で、ひどく青ざめている。
さま、さま!」
光邦は連れてきた女生徒を放って、に駆け寄った。崇がの傍に跪いて上半身を抱き起こす。冷たい水を吸った服が風に晒されて酷く冷たい。なのに、その下の身体は熱いのだ。光邦が水で張り付いた髪を手で除けて、顔を覗き込む。元々あまり日に焼けていない肌だというのに、もっと白く唇は少し紫がかっていた。光邦はの顔を覗き込んだ後、険しい目線を女生徒に投げかける。
「……っ」
「しっかりして下さい、さま」
光邦が顔を何度も撫でて、崇が背に当てた手を軽く叩く。は青白い顔で唇をつぐんだまま、声さえ上げない。息すら。
「光邦、環たちを」
自分の制服に入れている携帯が水没して使い物にならないことに気づいた崇は光邦にそう伝えて、何度かの背を叩く。水を吐く様子もなく、胸が上下する様子もない。
「もしもし!?西のプールに来て!今すぐ!さまが大変なの!」
それだけ言って電話を切った光邦は、女生徒を睨みつけてじりっと間合いを詰めた。女生徒は震える手で制服を握る。
「許さない。さまをこんなに傷つけて。僕も崇も絶対にお前を許さない」
「わ、私は……っ」
さまにもしものことがあったら」
光邦が続けようとしたとき、やってきた環によって声が遮られた。環が入り口からプールサイドまで走ってきた間に、ハルヒが入り口に姿を見せる。
!ハニー先輩、モリ先輩、は」
「脈はあるが息がない」
「え」
環は目を見開いて、顎を指で持ち上げるようにしての顔を固定し、そのまま深く息を吸って崇の前でに口付けた。
「環、何を」
普段なら阻止するところなのだが、非常事態に動転していて震える手でを支えることが精一杯で、全く頭が回らない。
「人工呼吸ですよ。素人ですけど、しないよりは…モリ先輩?」
崇は自分の足にの顔を乗せ、顎を指で上げて片手で鼻を摘んで息を吸って口付ける。息を吹き込み終えてから顔を上げて息を吸い、すぐにまた口付けた。人工呼吸なら、やり方を習ったことがある。武道をやっている以上の心得程度でしかなかったが、環の姿を見てすぐに思い出すことが出来た。
「鏡夜、が…」
環が電話をしている声が聞こえて、すぐに聞こえなくなる。何度も呼吸を繰り返して、視界いっぱいのの顔が少しでも生気を帯びないかと願うのだが、顔は青白いままだ。光邦は突き落としたらしい女生徒を許さないと言っていたが、それ以上に崇は自分のことを許せない。なぜ守れなかった。守る力があると思っていた。心には届かなくても、の身を守ることは出来ると思っていた。
「…っ…
細い身体をかき抱いて、目を閉じる。堅く閉じた目から涙が流れていった。ぎゅっと抱き寄せたとき、かすかな音が聞こえる。
「っ…っ……けほっ」
「!」
ばっと身体を離して、の顔を覗き込むと、は目を閉じたまま、咳を繰り返していた。
さま、息が出来ますか」
咳を繰り返すの背を幾度か叩くと、は何度も空咳を繰り返した後で、水をいくらか吐き戻す。吐き戻した水がかかっても、崇は全く気に留めない。
「苦し…っ…」
「ゆっくり、深く息をして下さい」
さま!気がつかれたんですね!」
光邦がぱっと駆け寄ってくる。環は鏡夜に連絡をしていたが、さっき鏡夜から連絡を受けた双子がようやくプールサイドにやってきた。
「光、馨」
「ハルヒ、どうなってんの?」
「よく分かんないんだけど、が溺れてたらしくて、さっきまで環先輩とモリ先輩が人工呼吸してた。なんか近寄れなくて…」
ハルヒはたちのいる少し手前で立ち止まっている。双子もそこで立ち止まったが、泣いている女生徒を見つけて近寄っていった。ハルヒもついていく。
「あんたどーしたの?」
「さっきまでハニー先輩がすごいその人に怒ってたんだ。声はよく聞こえなかったけど」
「お、泳げないなんて知らなくて…私…っ」
女生徒の言葉に双子の目がすっと細められ、ハルヒは眉根を寄せて険しい表情を作った。
「あんた、をプールに落としたのか」
馨の声に女生徒は泣きじゃくって顔を手で覆う。馨がぐいっとその腕を掴んで顔を見た途端、唖然と口をあけた。
「うちのクラスじゃん…」
「はぁ!?」
光が驚いて馨と同じように顔を覗き込む。そこに立っていたのはの隣の席にいる、1Aの女生徒だったのだ。双子とハルヒが驚いているとき、はようやく息を整えて喋ることも出来るようになっていた。まだ足がおぼつかないので座り込んだままだが。
「良かった、。もうすぐ鏡夜のところから医者が来るから、ちゃんと見てもらうといい」
「ありがとうございます」
環の言葉に頷いたの前に、光邦と崇が膝をついた。不思議がる環をよそに、二人はそのまま手をついて頭を下げる。
さま」
「この度の失態、申し開きもございません。如何様にもなさって下さい」
目を丸くしてあわあわしている環のところに双子とハルヒ、それに女生徒がやってきた。
「なぜ?」
対するは細い声だったが、はっきりしている。
さまを御守りするためにいる私たちが、さまをこのような危険な目に遭わせてしまうなど、許されて良いことではありません」
「…モリ先輩がすげー喋ってる…」
「当主様へもどうぞお伝え下さい。どのような沙汰でもお受けします」
「ハニー先輩がちゃんと喋ってる…」
双子が的の外れたツッコミを入れているが、ハルヒは環が真面目な顔でと二人を見ていることに気づいた。
「……分かりました」
、それは」
頷いたに女生徒から事の顛末を聞いたハルヒが口を挟もうとしたが、環に止められる。
「ダメだ。と、先輩たちの問題だ。俺たちが口を挟むものじゃない」
「でも、先輩たちが悪いわけじゃ」
ハルヒに向かって環はふっと笑みを浮かべた。
「大丈夫。はちゃんと分かってるよ」
「二人とも、顔を上げて」
の声は穏やかだったが、二人は謝る姿勢を固持するかのように頭を上げない。しばらくは黙っていたが、やがて微かな笑みを浮かべる。呆れたような、でも決して嫌ではないような。
「二人とも、おじさまたちにそっくりね。頑固で、真面目で」
座り込んでいた身体を少し動かして、二人のすぐ傍に膝立ちする。
「顔を上げて。私は一つも怒ってないわ」
「けれど」
さま」
「お父様にはわたくしからお伝えします。学校の中で不慮の事故に遭った際、二人が身をもって守ってくれた、と」
毅然としたの言葉に光邦と崇は揃って顔を上げた。
「おじさまたちにもそのようにお伝えします。それが真実ですもの」
「しかし…」
尚も言い募ろうとする光邦にはゆっくりと首を振る。
「今回のことは、わたくしにも落ち度があるのです。このプールは立ち入り禁止なのでしょう?それを知っていてここに来たのはわたくしです。話があるから来て欲しいと手紙を戴いて、差出人も確かめないままに来たわたくしに落ち度があります」
「そんなの、この子が悪いんじゃん!」
馨が女生徒を突き出すように声を荒げた。は顔を確かめて、一瞬目を丸くしたが、すぐに目を伏せる。
「あなたは、どうしてこのようなことをなさったの?」
全く責める色の無い声が逆に怖くなって、女生徒は唇を震わせた。
「ごめんなさい…ごめんなさいっ…」
泣きじゃくって顔を俯かせる女生徒に立ち上がった光邦が詰め寄る。
さまがお前に何したって言うんだ。突き落とされて息も出来なくなってあんなに苦しむようなことを、何であの方にした!」
プールに身を投げ出されていく姿が、今でも光邦の心を震えさせる。失うかと思った。何より大事で、ずっと守っていくのだと決めた大切な人を、目の前で失う絶望に苛まれた身体の震えは今でも止まらない。人目が無かったら、この生徒をどうしていたか、光邦にも分からない。あのままが息をしなかったら、きっと光邦は誰に止められても同じ目に遭わせただろう。
「お前が…っ」
収まらない怒りに震えて光邦が腕を振り上げたとき、鋭い声が投げかけられた。
「お止めなさい」
環や双子たちが声にびっくりして辺りを見回してしまうほど、誰のものか分からなかった鋭い声はのもので、光邦の腕は崇が掴んで止めている。
「彼女を傷つけることはわたくしが許しませんよ」
「だって…さま!」
「ダメだ、光邦。お前が彼女を傷つけて、苦しむのはさまとお前だ。俺たちはそんなことのためにいるんじゃない」
「……うん」
を苦しめたり傷つけたりするためにいるわけではない。全てのものから守るために自分たちはいるのだ。光邦は腕を下ろしたが、恐怖に震えた女生徒はその場にへたり込んでしまった。座り込んで泣きじゃくる女生徒にハルヒが近寄る。
「あ、鏡夜先輩」
「遅かったネ」
「環が適切なことを喋らないからだ。が大変だの一点張りで」
「「あー」」
鏡夜は数人のスタッフを伴ってプールに来ていた。
、立てるか。下の保健室にうちの医者が来ている。ともかく診てもらったほうがいい。」
「…ええ。ありがとうございま…きゃっ」
立とうとしたがよろけて倒れかけたが、すぐに崇が腕でを支え、両腕で抱きかかえる。
「無理をなさらないで下さい」
「ありがとう」
崇の足元をぴったり離れずに光邦が移動し、プールサイドには環たちが残された。
「で?何がどうなってたんだ?」
「椅子が壊れたのも彼女の仕業らしいな。は今日の授業終了前に、一通の手紙を受け取っている。差出人は無記名で、ハニー先輩やモリ先輩のことで重大な話があるからプールに来るようにと指定された手紙だ。そしてプールサイドに来てみれば、二人からへと頼まれたものをここでなくしたから一緒に探して欲しいと言われた。探しているうちにプール際に寄り、そこを突き落とされた」
「本人は警告のつもりだったらしいが、は一度も水泳の指導を受けたことがない。泳げない上にいきなり突き落とされて、水を飲んで喉を詰まらせ、息が出来なくなった…というところだな」
環に応じて鏡夜が事件の顛末を明らかにする。
「動機は分かったのか?」
鏡夜の問いに、双子が頷いた。
が一月に編入してきてからこっち、クラスでもけっこう人気があるし学年の違うハニー先輩たちとも仲が良いってことが気に入らなかったらしーんだよね」
「モリ先輩のこと好きっぽいみたいだし」
「…彼女も途中からの転校組だ。彼女は海外からだが、しばらくは馴染めずに苦労した様子だから、が苦もなくクラスに受け入れられているように見えて腹が立ったのかもな」
双子と鏡夜が解説をしている間、ハルヒと環は黙っていたが、環が座っている女生徒に目線を合わせるように座り込む。
は、君に何かひどいことをしたのかな」
「……何で…あの人は…お二人とも皆さんとも仲が良くて、クラスでも…っ」
「それはがみんなのことを好きだからじゃないかな」
環はやっと顔を上げた女生徒の目線を捉えて笑う。
「あのね、姫。周りを変えたいと思ったら、自分から変わるしかないんだ。自分が変わったら周りだって変わる。世界だって変えられるんだよ。はみんなのことが好きで、それには何の思惑もない。小さな子どもみたいな真っ直ぐさであの子はみんなが好きなんだ。だから、周りのみんなものことを好きになる」
「私は…」
のこと、すごく嫌いかい?顔も合わせたくない?」
「…嫌いじゃないけど…私に無いものを全部あの人は持ってて…私には何も無くて」
「何も無いなんて言ったらダメだよ。君を大事に思う人はいるんだから。君にだって好きな人や友だちや家族がいるだろう?君が誰かを傷つけようとしたと聞いたら、きっとその人たちはすごく悲しむよ。君のことが大事だから」
環の隣にハルヒが座り込んだ。
「少しなら、気持ち分かるよ。自分は小さいときに片親を亡くしてて、両親揃ってる友だちが羨ましかった。親の仕事が忙しくて、家族で休みの日に出かけたっていう友達の話を聞くのはあんまり好きじゃなかった」
「ハルヒくん…」
「でも、友だちのお父さんたちより、自分は自分の父親が好きだし両親が自分の両親で良かったって思うんだ。誰かが羨ましいとか、そういう気持ちってすごくきついよね」
「…うん…っ…」
慰めるように頭を撫でるハルヒに、父親が好きだという単語に気を良くして顔を赤らめている環がこほん、と咳払いをして言葉を続ける。
「姫、立てますか?」
「…え、ええ…」
のところへ行きましょう。俺たちに話したことを、ちゃんとに伝えて下さい」
「大丈夫だよ、はきっと許してくれる」
不安がる女生徒にハルヒと環はにっこりと笑ってみせた。



西校舎の保健室では、ベッドの上に診察を終えたが寝かされていた。両脇には崇と光邦がぴったりと張り付いている。崇に運ばれて保健室までたどり着いたは、診察を受けている途中で気を失ってしまったのだ。医者によると、二次溺死の原因になる肺浮腫を起こす様子はないとのことだが、短時間とは言え息が止まっていたこともあり、しばらくは絶対安静とのことだった。
「……僕たち、どうしたらさまを守れるんだろう」
崇の返事はない。の両手はそれぞれ、崇と光邦が握っていた。小さくて、いつもはどちらかというと冷たいことの多い手が、熱のせいで熱い。
「僕、さっきもさまに守られて」
あのまま、激情に任せて女生徒を傷つけていれば、おそらく女生徒以上に光邦のことは大事になっただろうし、光邦自身も無抵抗な女性を傷つけたという負い目をずっと背負わざるを得ない。武道を修めている人間にとって、無抵抗のしかも弱い女性を傷つけることなど、あってはならないことだし恥ずべきことだ。はそれに気づいたからこそ、厳しい言葉で光邦を止めた。
さまは怒ってないって言ったけど、でも、でも…!」
光邦の大きな目からどんどん涙が溢れてくる。
「僕、自分を許せない…!!」
を危険な目に遭わせたこと。が息をしていない時、震えて何も出来なかったこと。加害者である女生徒に危害を加えようとしてに守られたこと。その全て、光邦は自分を許せない。は怒っていない、と言った。危険な目に遭わせたということを父親やの当主に告げる気はないとも言った。でも、そうやって守られる自分の小ささが許せない。
「…それは、俺も同じだ」
左手を両手で包むようにして握っている崇が、ぽつりとこぼした。
「俺も、自分を許せない」
を突き落とした加害者より、自分のほうが許せない。自分が無力だと、まざまざと見せ付けられた。環が目の前で人工呼吸をしなければ、あのまま自分は何も出来ないでいたかもしれない。そうしたら、は息を吹き返すことがなかったかもしれないのだ。濡れた服も身体も乾いているけれど、その可能性を思い至るだけで崇の身体は身震いが起きる。
「俺は、このままさまのお傍にいていいのだろうか」
無力な自分がこのまま傍にいて、また彼女を危険に晒すことになったら。想像するだけで苦しいことだが、と離れる苦しさより、それはもっとひどいことに思えた。傍にいることが叶わなくても、彼女が笑っていてくれるのならそれでいい。大事なのはで、自分ではない。
「……そんなことを言わないで」
さま」
「気がつかれましたか」
身体を起こそうとしたの背を崇が支えて、枕を立たせて背当てにする。は体勢を落ち着けてから、じっと崇を見つめた。
「崇くんのことだから、きっとおじさまに全部話してお叱りを受けようとしているんでしょう?」
自分が突き落とされたのは、崇のせいでも光邦のせいでもない。不用意にプールへ行った自分が悪いのだし、突き落とされるようなことを彼女にした自分が悪い。明確に彼女に何をしたのか、には自覚が無かったがだからと言って何もしてないわけではないはずだ。思えば、彼女の気配が濁っていることには気づいていた。まとう色が澱んでいることに気づきながら、何でもないと言われて少し具合が悪いだけなのだと思ってそのままにしていたのは自分なのだ。
「おじさまにもお父様にも私が話します。…二人とも、そんな顔をしないで。私を精一杯守ってくれたのに」
水に落とされて驚いたあまりに水を飲んでしまい、息が出来なくなった後の記憶はない。苦しくて苦しくて、意識が薄らいでいたのに、何故か二人の声が聞こえていたような気がするのだ。聞いているこっちが泣きたくなるような、辛そうな声で。
「守れてなど、いません。あんな苦しい目に遭わせてしまって…当主様に会わせる顔がございません」
「光邦の言う通りです。俺たちは最低限以下のことしか出来なかった。何も出来ていなかったことと同じです」
「…本当に頑固なんだから」
がため息をついたとき、天蓋の向こうから話し声が聞こえてくる。
、入っても大丈夫か?」
「環先輩?ええどうぞ」
天蓋を捲くるようにして入ってきたのはホスト部の面々と、を突き落とした女生徒だった。
「ちょっと前にの椅子が壊れたのも彼女がやったってさ」
「泳げないってのは知らなかったらしーけど」
「……そうなの」
双子の言葉には頷いて、そっと目線を女生徒に合わせる。おどおどした目がに向けられた。
「ごめんなさい!」
ばっと頭を下げた女生徒は、顔も上げずにそのまま続ける。
「私、あなたがずっと羨ましかった。どうして私の持ってないものを全部あなたは持っていて、いつも笑っていて楽しそうで。銛之塚先輩たちともとても仲が良くて…羨ましいばっかりで苦しくて」
「冷泉院さん、顔を上げて下さらない?私、怒っていないわ」
「なんで!?私、あなたにひどいことを…」
顔を上げた女生徒は泣きはらしていて、目もひどく赤い。馨はその様子を見ていたが、の髪に自分たちが贈ったヘアピンが止まっていることに今気がついた。
「あなたがしたことは、褒められることではないでしょうけど、あなたはこうする前からずっと辛かったのよね。そして今も苦しいんだわ。ごめんなさいね、気づいてあげられなくて」
わっ、と女生徒はが寝ているベッドに寄りかかるようにして泣き出す。
「ごめんなさい、私…どうやってお詫びしたら…」
「いいの、お詫びなんて。私は泳げないからちょっと大げさなことになってしまったけれど、どこもケガをしていないし、先生たちにも言うつもりはないわ」
「許して、下さるの…?」
涙顔の女生徒にはにこりと笑いかけた。美しい笑みに見えるのだが、環にはそれがやはり美しいだけのものには思われない。鏡夜が言っていたことを思い出す。これは、氷山の一角ではないか、と。は人に羨まれるようなものをたくさん持っている。自分も同じようにたくさんのものを持っていることに気づかずに、に矛先を向ける生徒が現れても不思議ではない。
「ええ。もちろんよ」
「…ありがとう…」
の笑みにつられるように女生徒がほのかな笑みを見せたが、環の表情は硬いままだった。女生徒は何度も頭を下げて、帰宅していった。双子もハルヒも時間が遅いということで帰っている。ホスト部の部室に環と鏡夜だけがいた。
「なあ、鏡夜」
「なんだ」
「その、のことなんだが」
「教師には言っていないが、理事長には報告したぞ。さすがに理事長が知らないのはまずい」
「…なんで、笑って許せるんだろうな。息をしてなかったんだぞ」
「さぁな。に聞けばいい。ただ」
「ただ?」
「おそらく、がこういう目に遭ったのは初めてじゃないだろうな。今回みたいに命の危険があったかどうかはともかく、人に羨まれて攻撃された経験はきっとあるだろう。苦しいこともたくさん経験しただろうな」
お前がそうだったように、とは鏡夜は環に言わなかった。
「人より恵まれるってことは人より攻撃される可能性も増える。負う義務も増える。良いことばかりじゃない。…はもうそれを分かってるんだ」
たくさんの人に傅かれて、贅沢な暮らしをしてたくさんのものを与えられて育って。いびつなほど中身ばかりが大人びて。
はすごいな。俺も守ってやりたい」
お父さんだからな!と笑う環に鏡夜は首をすくめた。環はモリ先輩とハニー先輩はすごいな、武士だなナイトだな!とはしゃいでいる。



あの後、夜になって迎えに来た車に乗せられてと光邦たちはそれぞれの家に帰った。は自分で約束した通りに埴之塚・銛之塚の当主に話をして、家当主である父親にも同じ話をした。が、光邦と崇がそれぞれきっちり全てを話したために、全部の話が家当主に伝わってしまった結果、がいる家別邸に三家の当主・跡継ぎが揃うことになってしまった。奥座敷の上座にの父親が座り、少し離れた場所にが控えている。対面するように埴之塚・銛之塚の当主が座り、後ろには光邦と崇が姿勢を正していた。
から聞いた話と、お前たちから聞いた話の齟齬をどうしたものだかな」
「学校側にも確認をいたしましたところ、愚息どもから聞いた話が全てのようです」
光邦の父親の言葉に、家当主はふむ、と頷いて後ろに控えている娘に目をやる。
。何故お前は違う話をしたのか、ちゃんと話しなさい」
「あのような事件に遭った責任の端はわたくしにございます。彼らはわたくしを守るために出来る全てのことをしてくれました。ですから、そのようにお伝えしたまでです」
「同じ敷地にいて、事件を未然に防ぐことも出来なかったのに、か?」
家当主の言葉に光邦と崇が身体を硬くする。
「未然に防げなかったのはわたくしとて同じこと。彼らだけに落ち度があるわけではございません」
「お前が二人を気に入っていることは知っているが…私はお前に二人と馴れ合えと言った覚えはない」
「お父様、なぜそのような愚かを仰るのですか。わたくしは公平にご処分なさいませ、と申しているのです。いつもいつもわたくしばかり守られて…彼らがわたくしを守ろうとしてくれているように、わたくしも彼らを守りたいと思っているだけです」
「ならば、なぜ真実を全て話して公平な処分を求めなかった」
「…わたくしにとっては、お話したことが真実です。事実が真実ではないこと、ご存知でいらっしゃるでしょう。わたくしにとっての真実は、わたくしを二人が守って助けてくれたこと、それだけでございます」
崇は自分たちの父親も身を硬くして緊張する空気の中、一人が毅然と頭を上げて当主と話をしている様をじっと見つめていた。彼女は、自分たちを守りたい、と言った。自分たちにはまだ力が足りないということなのだろうか。何の気兼ねもなく、ただ幸せになって欲しいだけなのに、守ろうとする自分たちの手ごと、彼女は自分たちを守ろうとする。
「……、お前の話は分かった。下がりなさい。後はこちらで話をする」
「…失礼いたします」
は当主である父親に一礼し、光邦と崇の父親たちにも頭を下げて座敷を出て行った。さて、と家当主が座りなおす。
「どうにも気性が強くていかんな。…処遇だが」
当主の声を遮るように、崇と光邦はその場で手をついて頭を下げた。
「責は私たちにございます。様には何の咎もございません。どうぞ、私たちだけに」
「如何なるご処分でもお受けいたします、どうぞご存分に」
ぴたりと額を畳に擦り付けた二人を見ていた当主はしばらく黙っていたが、やがて笑い出す。
様」
「はは、いや、悪い。二人とも、頭を上げなさい。三人とも似ているな、と思ってな」
「笑い事ではございません、様。二人には厳しい処罰こそあるべきです」
光邦の父親の言葉に、当主は首を振った。光邦と崇がゆっくりと頭を上げると、目じりを下げて笑う当主の顔が目に入った。
はしばらく安静が必要だと聞いている。医者の見立てでは一週間ほどだそうだが、同じ期間、二人は謹慎するように」
様!まさかそれだけで」
「…どれだけ厳しい処罰を科しても、本人が反省していないのだったら、意味は無いのだよ。人を裁くことが出来るのは、本当は己だけだ。己の良心によって、罪は裁かれる」
崇の父親の言葉を遮って、当主は太い笑みを浮かべて見せる。
「もう二人は十分償いをしている。を危険な目に遭わせたことに責を感じて一番苦しんでいるのは彼らだ。お前たちが私に十二分に仕えてくれているように、彼らもに仕えている身だ。彼らをどうするか、最終的に決めるのはだよ」
様は二人に…いえ、四人にとてもお優しい、お優しすぎるところのある方です。誰かが厳しく接することが必要だと存じますが」
光邦の父親の言葉に、当主は笑った。
「それはお前たちの役目で十分だろう。は何も分からないだけの子どもではない。中身ばかり大人びた、いびつな子どもに育ててしまったが、物の善悪は分かる子だよ」
「しかし…」
「二人への処遇は一週間の謹慎。その後、二人をどうするかはに任せる。今まで通りに守役として傍仕えをするのか、の判断を仰ぐように。勝手な処罰は私が許さん。……二人とも」
「はい」
「よく、を助けてくれた。礼を言う」
当主が深く頭を下げて、光邦と崇だけでなく、父親たちも目を丸くして唖然としている。
「離れて暮らしているから、今回のことを聞いたときは肝が冷えた。大事に至らなかったのは二人と、ご友人たちの対応があってこそだと聞いている。ありがとう」
「もったいないお言葉…有難う存じます」
崇の言葉に合わせるように光邦も一緒に頭を下げた。父親たちも揃って頭を下げている。
「娘を守ってくれたんだ、父親としては当然のことを言ったまでだよ。頭を上げなさい。を呼んできてくれるか」
襖障子に声をかけると、外に控えていた使用人の返事があって、しばらく後にが姿を見せた。
「お父様、お呼びですか」
「ああ。入りなさい。処遇を決めた」
は自分の父親と同じ上座には移らず、光邦と崇の横に腰を下ろした。それが答えだ、と言いたいように。
が自宅で安静が必要な一週間、二人は自宅謹慎で鍛錬に励むこと。その後、二人をどうするかはに任せる」
「わたくしに?」
思っていたより、ずっと軽い処遇には戸惑いを見せて表情を曇らせる。自分の父親はともかく、光邦と崇の父親たちがよくそれで納得したものだ、と思った。
「そうだ。今まで通り守役として傍仕えを許すのも、今回の失態の責として許さないのも、お前が決めることだよ。二人はお前に仕えているのだから」
様、どうぞ厳しいご処分を」
光邦の父親の声はゆるぎない。応じるように、光邦と崇は頭を下げた。
「そうですね。どうか、今まで通りわたくしの傍にいて下さい。わたくしには、あなたがたが必要です」
「……様、甘すぎます」
「それはどうでしょう?彼らは今回のことでずっと自分を責めています。おそらく、これからも。そんな状態で原因であるわたくしの傍にいることこそ、辛いことなのではないかしら。原因であるわたくしを遠ざけてしまえば、やがて自責の念も薄れるかもしれませんが、わたくしの傍にいる限り、それはない」
崇の父親にそう答えて、は光邦と崇を見やる。の父親は満足そうに笑みを浮かべていた。
「頭を上げて。本当はここで二人と離れれば、二人とも楽になれるのかもしれないって分かっているのだけれど、私、どうしても一緒にいたいの。ごめんね、わがままで」
また、同じようなことがないとも限らない。似たようなことが起これば、きっとまた二人は自分自身を責めるのだろう。それはひどく辛いことだ。原因であるが傍にいれば、その思いが薄らぐこともない。そう分かっていてもなお、傍にいて欲しいと願うのは自分の我儘だ。二人のことが大好きで、傍にいたくて、離れたくない、という我儘。
「とんでもない、です…」
顔を上げた光邦は大泣きしている。は近寄って光邦の涙を拭った。拭っても拭っても溢れてくる。崇も顔を上げた。泣いてこそいないが、目がうっすら潤んでいる。
「…俺は、様をお守りできなかった。無力です。それでも、一緒にと仰って下さいますか」
「僕も、崇と同じです。何も出来なかった…」
はゆるく首を振った。あの日からずっと着けているヘアピンに彩られた長い髪が揺れる。
「そんなこと言わないで。助けてくれたのはみっちゃんと崇くんよ。こんなことがあって、私の傍にいるのは苦しいかもしれないけど、でも、お願い。私の傍にいて」
二人を失いたくない。どうか、どうか傍にいて欲しい。二人がいなければ、自分はこの街で笑うことさえ出来ない。
「…お傍にいられるのなら、どんなに苦しくても、苦しいとさえ思いません」
崇はそう言いきって、ぐっと膝に乗せた両手を握り締める。
を守れない自分を思い知るのは苦しい。今まで続けてきた鍛錬が何の役にも立たず、無力さばかりを思い知るのは辛い。でも、の傍にいることが叶わないのは、もっと辛い。大切な、大切なひと。無力さを思い知らされて、敵わないと思い知らされて、それが身を切るような痛みでも、傍にいられるのなら。それがどんな苦しみでも耐えられる。笑っていられる。彼女のためなら、何だって出来る。
光邦と崇は目線を交わして頷いた。
様、僕たちからお願いします」
「どうぞ、俺たちをお傍に置いて下さい」
二人の言葉を聞いて、はふっと唇を綻ばせる。
「もちろんよ。ずっと、ずっと一緒ね」
この生を全て賭けてこの人を守る。何があっても。それは、二人同じ誓いだった。




お嬢様、いかがだったでしょうか。オリジナル話、モリハニと環を活躍させよう編。がいつのまにかモリハニばっかり…環はどこ…。人工呼吸に関しては次回にツッコミを入れたいと思います!環がハニー先輩に殺されそうです!(笑)
ヒロインパパ初登場。ハニー先輩のパパは厳しそうな人なのでああいう感じに。
次はシロちゃんですかね。でも今回のフォローみたいなのも入れたいです。つうか次こそ環…!!


お付き合い、有難う御座いました。
2007 0604 忍野桜拝

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