the second day  la mer

 

着いてすぐの一日目は、あっと言う間に過ぎ去った。昼食を食べたその足で買い物に向かい、当座に必要なものを買い込んだ。といっても、私はいくらか用意をしていたので水着とパレオにミネラルウォーターを買ったぐらい。景吾は準備する時間がないほど忙しかったのか、いろいろ買いこんでいた。水着とパレオの柄で悩んでいる私を見て景吾は笑っていたけれど、ちゃんとアドバイスもしてくれた。結局景吾のアドバイスと私の好みで買った水着を着て、今コテージの周りを泳いでいる。ほとんど日焼けなんてしてない白い肌にも合うように見立ててくれた水着は、シックな赤煉瓦色のホルターネックビキニで、左胸に一輪白いハイビスカスの花が咲いているものだ。同布のパレオを今は脱いで、南国の海をしきりに見つめていた。泳ぎながら、顔を下に向けて目を開けて海を眺める。一日目は買い物と休憩で終えてしまって、今日ようやく海に入ることが出来た。今日はこっちでは23日になる。
、そんなに海が見てぇなら、シュノーケリングするか?」
「んー…これでもけっこう見られるよ」
「バカ、目傷めたらどーすんだ」
景吾は呆れた風に言って、私を陸に引き上げる。腕を掴んで陸に上がり、濡れた髪をばさりとかきあげた。景吾はにやりと口元を緩める。私の髪が長いのは元々だけれど、それを切らないでいるのは景吾のせいだろう。長い髪のほうが殊に女らしく感じるのだという。けれど、そのとき景吾は『短くてもはイイ女だけどな』と付け足すのを忘れなかった。パーフェクト。
「もう上がるの?まだ時間あるでしょう?」
日はまだ中天にある。景吾は笑った。
「もう少ししたら出かけるんだよ。シャワー浴びてこい」
「分かった」
こうやって景吾と旅行するようになったのは、そう前からのことじゃない。景吾が大学に入って、時間が自由になってからだ。なんでも、景吾はイギリスの大学に行く予定だったのに、急に日本の大学に変えたのだという。理由は知らないけれど、日本のほうが一緒にいられる時間が多いから、私にとっては嬉しいことだった。知り合ったのは──わりと、昔のことだけれど。
身体と髪についた塩を落として、アメニティのボディミルクをつける。嬉しいことにブルガリだった。私のつけている香水──ブルガリレディとは違って、オ・パフメだったけど、それも好きなので構わない。もとより、こんな自然の最中で香水を殊更重ねてつける気はしない。ボディミルクやシャワージェルがちょうどいい。シャワージェルで身体を浸してボディミルクで包むと、重なり合った香りが肌の上でやがて溶けて匂い立つ。キャミソール型のサンドレスを身につけてアンクレットを踝に、指輪とピアスをつける。海で落としたら大変なので、何もつけていなかったのだ。
、準備出来たか」
「ええ。どこへ行くの?」
片方のピアスを通しているときに、景吾がバスルームに顔を出した。片手でつけたばかりのパールのピアスをいじっている。
「…何か羽織るもの、あるか。戻ってくんのは夜だから、少し冷える」
そういう景吾は片手に夏物のジャケットを持っている。
「あるわ。ちょっと持ってくる」
「あぁ。別に急いでるわけじゃねーから、ゆっくりでいい」
景吾は片手の腕時計で時間を確かめて(この部屋には時計なんてものはない)そう付け足した。リビングのバゲージラックに置いてあるボストンから、薄手のパーカーを取り出してハンドバックと共に持った。ちょっと考えて、軽く化粧をする。薄く粉をはたいて紅を引く。眉を薄く描き足してから、チークをつけた。マスカラまでやろうかと思って、手を止める。こんな自然の中に、あまりにも作りこんで出かけていくのも気が引けた。
「お待たせ、景吾」
「すっぴんでいいって言ってるだろ」
「だって」
いくら景吾が構わないと言っても、少しでも美しく見せたいと思ってしまうのは女をやって長いせいだ。誰かのため──というよりは、自分が自分らしく立つために。
「お前は、そんなこと忘れちまえ」
「……そうするわ」
装うことも、自分らしくあることも、全部忘れてただ傍にいろ。そう景吾は言いたいらしかった。応えて微笑んだ。すっと景吾が私の腕を取って身体を引き寄せる。腕を絡めて、身体を寄せた。こうすると、景吾の匂いが漂ってきて、それだけで満たされてしまう。同じアメニティを使っているから、全く同じ匂いのはずだけれど、景吾の体温や煙草の匂いが混じって、やっぱり違う香りになる。
景吾は最初、ブルガリのブラックをつけていた。最初に会ったのが冬だったのもあるだろう。それから景吾の香りは時々変わり、今はもうブルガリのブルガリしかつけていない。私と会っているときは、だけれど。でもそれは一つの誠実さだ。いくつか持っているのだろうと思っていたら、いつでも二つきり、なのだという。常日頃使っているファーレンハイトと、もう一つ。景吾はそうしている理由を言わなかったけれど、それは分かる気がした。私の鏡台にももう使わなくなった香水がいくつもしまわれているから。
そうして連れ立って水上コテージを後にした。



ロビーのあるフロアに連れてこられて、どこに行くのだろうと思ったらホテルマンが景吾に近寄ってきて、お待ちください、と言ってロビーのサロンで待つように伝えていた。サロンで景吾はコーヒーのブラックを、私は紅茶をストレートで飲む。紅茶は南国の飲み物だから、南国で飲むと本当の味がするような気がした。ここはスリランカやインドにはほど遠いけれど。
「ねえ、どこに行くの?」
「すぐに分かる」
景吾は欧州で育ったせいか、サプライズをしようという精神がけっこう強い。ホスピタリティ、と言い換えてもいい。ただ景吾のホスピタリティは私一人にしか向かないけれど。ロビーのサロンには私たちみたいにお茶をしている人たちや、本を読んでいる人、どこかからホテルに戻ってきた人たちなんかがいた。
さっき待つように伝えていたホテルマンが戻ってきて、ご案内致します、と先導を始めた。着いたところはホテルの入口にあたる船着場で、そこには一艘のヨットが泊まっていた。サービスマンなのか、現地人らしき人が何人かいるものの、観光客の姿は一人もない。
「Bon voyage!」
ホテルマンはそう私たちに告げてにっこりと笑った。それを合図にヨットが岸から離れていく。どんどん島から離れていって、別の島も見えてきた。
「どこか別の島に行くの?」
でも、ホテルマンは良い旅を、と言った。別の島に移動するのは旅ではないだろう。景吾を見上げると、彼は笑って首を振った。
「いや。ただクルージングするだけだ。今日は天気が良いから、夕日が綺麗だろう」
「サンセットクルーズか。素敵」
島を二つほど巡った頃から、だんだんと陽が落ちる速度が速くなってきた。地平線と水平線が一緒のここでは、太陽は海に落ちる。陽が高いときには地平線と水平線の間は茫洋とした青で、はっきりした見分けはつかない。でも今は、燃えかえるような太陽のせいで、はっきりと見分けがついていた。空の地平線は太陽の朱と青が入り混じり、薄紫が広がっている。海の水平線は太陽の部分が黒くなっていて、波が陽の光に照らされて、本当の紅の海だ。そっと隣の景吾を見上げる。夕映えした景吾の顔はひどく力強くて、なのに繊細だった。
太陽がもう沈もうとしたとき、急に視界を遮られて顔を上げる。そこには間近に迫った景吾の顔。じっと見つめてくるブルーがかった瞳を見つめかえす。スタッフの誰かが囃す声さえ、遠くに聞こえた。
ここには、私たちしかいない。
「……ん…」
しっとりと唇が合わさって、幾度も重ねられる。そしてそれはすぐに深いものに変わった。
「っ……んん…」
離れた唇を惜しむかのように、景吾は軽く舌先で私の唇を舐める。そして、小さな音がするほど軽い、バードキスを残して唇を離した。
「…バカ」
私の言葉が意外だったのか、景吾はひゅっと眉を上げる。でも、瞳の奥は笑っていた。
「一生、忘れられないじゃない、こんなキス…」
夕陽の中で、波の上で、景吾と。
くくっ、と景吾らしい喉にこもる笑いが返ってきた。
「そうしてやったんだよ、
「本当に、バカなんだから…」
それ以上、何も喋らずに二人で海と太陽を見ていた。太陽は沈んだけれど、残照が波の上を照らしていて、その光はヨットにも届いていた。残照が届くぐらい明るいのに、もう頭上には星がいくつも見える。普段、日本にいても少ししか分からないのに、こんなところでは何の星座なのか、何星なのかさっぱり分からない。景吾は熱心に見ながら、何かを探していた。
「マドモアゼル」
「メルシ、ムシュ」
ホテルマンは英語を喋るけれど、現地スタッフはフランス語とタヒチ語しか喋らない。差し出されたフルート型のシャンパングラスを手に取る。景吾も受け取っているが、私と同じように中身は空だ。
スタッフの一人がシャンパンのボトルを持って、船べりに近づく。彼はにっこり笑って、刃先の長いナイフでもってボトルの首を切り落とした。途端にシャンパンが溢れ出て、海に注がれる。船とともに、海とともにある彼らは、海の女神に先にご馳走しているのだろう。シャンパンボトルを持ったスタッフが戻ってきて、まず私に注いでくれた。ラベルにはクリュッグ、と書かれてあって、私は少しだけ首をすくめた。ものすごく、いい品だ。しかも95年ものだもの。景吾は満たされたグラスを私のグラスに近づける。重ねずに、近づけて乾杯した。景吾は一気に、私は半分飲み干す。クリュッグの細かな泡が豊かに喉に広がっていく。そして残る芳しい香り。こんないいお酒を飲んでばっかりいたら、他のお酒が飲めなくなりそう。
すっかり陽の落ちた海を背景にシャンパンを空け、スタッフが歌ってくれた現地の歌を笑んで聞く。ついフレーズが耳に残ってしまって、口ずさむと彼らはすごく喜んでくれた。夜の闇は、日本よりもかなり濃い。東京は夜にも明かりがたくさんついているから、寝るときに電気を消してしまうと、むしろ窓の外のほうが明るいぐらい。島にはいくつもホテルがあって、ホテルにはコテージがいくつもあるけれど、どれも独立しているせいかちっとも闇を邪魔しない。闇に手を広げる。手の先には一等輝く星があった。
「…アレをやろうか」
背後から私を抱きすくめるようにしている景吾の声が耳元に響く。くすぐったさに身をよじりながら、笑って応えた。
「ケラエッセレキュ(ちょうだい)、アリ(王様)」
フランス語と覚えたてのタヒチ語を混ぜて喋ると、どっとスタッフが沸く。景吾はしばらく黙って、やがて抱きすくめる腕の力を強くした。
「デュマン、アモーレ(明日な)」
「ウィ」
私たちがそう囁きあっている間に船はホテルに戻ったらしく、ヨットを船着場に固定しているのが見えた。暗い中、スタッフにリードされて陸に上がる。そう長い間海にいたわけでもないのに、揺れない陸の感覚が妙に足に不思議だった。跡部は迎えに来たホテルマンと何か喋っている。陸に上がって空と海との境目を見ようと目を凝らす。もうそれは闇に溶けてしまっていて、とても曖昧なものになっていたけれど、とてつもない広さを感じさせる光景だった。この星の広さを感じさせるような。
、食事行くぞ」
「ええ」






一日目に食べたのはフランス料理中心だったけれど、今日のものは現地のものだった。私が面白がっていろいろ訊ねるので、放って置かれてる景吾は途中でむくれてしまった。
「ごめんね」
「まぁいい。あんなに聞いてたんだ、帰ったら作ってくれるんだろうな?」
「んー…善処します」
日本にいてマヒマヒとかどうやって手に入れるか分からないけど、そう言ったら景吾は空輸しそうで面白い。バーラウンジによって、ちょっとだけお酒を飲むことにした。景吾はタンカレーをストレートで、私はアレキサンダーをジンベースにしたアレキサンダーズ・シスターを。二人揃ってジンが好きなところが共通している。しかも、ロンドンジンが好みで、タンカレーかゴードン。
「明日はどうするの?」
「…そうだな、明日は夜遅くまで動くから、昼ぐらいまで寝てていいぞ。まぁ、寝かさねえけどな…?」
にやりと景吾は口の端を上げて、挑戦的な眼差しを寄越した。さらりとその眼差しを受け止めて、微笑み返す。
「いいわよ、昼寝するから。波の音聞きながら眠るのって、本当に気持ちいいし」
「そりゃ、朝までってことだな」
「さあ?」
笑ったまま、グラスを空にした。タンカレーを舐めていた景吾もグラスを空けたようで、バーテンダーに注文している。運ばれてきたショートカクテルはオレンジ色で、バーテンダーはさり気に呟いてグラスを置いた。
「ビトウィーン・ザ・シーツ」
思いっきり、直截な名前に思わず笑みがこぼれる。ストレート。景吾らしい。








ひとしきり抱き合って肌を寄せ合った後に、景吾がぽつりと呟く。外はとうに白み始めていた。朝が近いのだろう。
「喉、渇かねぇか」
「…渇いたかも」
ミネラルウォーターのボトルが一本しか残ってなくて、分け合うようにして飲んでも、まだ喉が渇いている。
「…ちっ…何か頼むか」
「今から寝るんでしょ?…ホットカルーアにアマレットクリーム入れたヤツがいい」
正式名称を思い出せなかったので、味で表現すると景吾はああ、と頷いて受話器を取った。バーラウンジに繋がっている電話口で、景吾はホット・タレア・カルーアとホットドラムを頼んでいた。二つともナイトキャップだけれど、なぜかシャンパンまでついでに頼んでいる。しかも一本を。その後に、私にルームサービスのメニュー表を投げて寄越した。
「景吾?」
「朝飯の時間には間に合わねぇからな、昼時にでも持って越させる。何がいいか選んでろ」
「ああ、そういうこと。えっと…」
コンチネンタルスタイルではなくて、ここはアメリカンブレックファースト主体だが、アラカルトとなるといろいろ選べるらしい。パンケーキにフルーツ、紅茶とフルーツジュースでいいと告げると景吾は自分の分と合わせて注文している。電話を切った後に、ドアがノックされる。景吾がガウンを羽織った姿で出ていったが、私はシーツに包まったままだ。まさにバースデースーツ。
「おまけだとよ」
グラスを乗せたトレイを持ってきた景吾が、何かを投げて寄越す。それは小さなチョコレートだった。四つあるから、二つずつってことだろう。小さな、どこにでも売ってそうなチョコレート。
「素敵。さすがフランス領」
「だな」
トレイをサイドボードに置いて、シーツに包まったまま二人でカクテルを飲む。外は陽が昇ってきたのか、部屋にも明かりが差し込んできた。不意にシーツを一枚剥ぎ取って身体に巻きつけ、ベランダに寄る。
?」
「こんなに朝焼けが綺麗だと思わなくて。それなのにナイトキャップ飲んでこれから寝るって面白いと思って」
景吾もガウンを羽織ってカクテルのグラスを持って隣に来た。二人揃って朝を迎える。そして、一緒に眠る。これ以上の幸せなんて、ないと思った。


二話目です。さんと跡部さまのクリスマス。作中で出てきた「ブルガリのブルガリ」っていうのは、ブルガリが出してる「ブルガリ」って名前の香水です。ブルーとかブラック、オ・パフメなんかに比べると知名度は低いようです。なかなか手に入らない…。それのレディスラインをヒロインがつけてます。
相変わらず名前変換のチャンスが少ない夢で申し訳ないです。でも、私の貧困な発想から思う「エグゼクティブ」なタヒチの過ごし方、いかがでしょうか。三話目はラストです。辿り着けるか、今から死にそうです…(現在クリスマス当日朝の四時半)。十二時には家出ないと飛行機間に合わないんですよ………。
バースデースーツの意味、分からなかったら調べてください。普通に恥ずかしいので人に聞かないように。彼氏さんならいいかな…?

お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 12 24  忍野桜拝

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