黒橡 第一話
熊野三山と人々が呼ぶ聖域の中にはさらに結界に囲まれ隔絶された庵がいくつもある。熊野別当だの熊野水軍頭領だの、そんな長ったらしい名前を引き継いで二年になったオレは、このところ毎日のように庵を点々としていた。別に結界がどうのという話じゃない。ただ、自らの内から掬い上がってこようとしている、形にならない言葉のようなものを待って日々を過ごしていた。
「……ンだよ、極力来るなっつったろ」
結界を震わせる気配にオレが声を上げると、気配は小さく応えを返す。
「申し訳ありません。お耳に入れておきたいことがございまして」
「何だ。物騒な書状でも届いたのか?」
今は源氏と平家が争っている渦中。表立ってどちらにもついていない熊野だが、水軍の力を欲しているのはどちらも同じこと。まして、熊野三山は最近一つになったばかり、一枚岩というわけではない。
「いえ……平家が使役するという怨霊、それらを消滅せしめた者がおります」
烏の言葉に思わず身体を起こした。怨霊を消滅させる?烏は意を得たり、とばかりにオレの眼前に跪いた。頭を垂れて尚も続ける。
「怨霊を消滅させた者は武士ではなく、河原者のような身形をしている男でした。源氏の者と繋がりある風でもなく、一人で流れ旅をしているようです。その男は刀すら帯びず、手甲を嵌めた拳と己が身体のみを武器としております。得体の知れぬ術のようなもので怨霊を消し去るのです」
「……無手の術使い、ねぇ」
追い詰められた平家が源氏との争いに怨霊を持ち出したのは、数年前のことだ。平家の棟梁、平清盛自身が死して後怨霊として蘇っただけでなく清盛の嫡子であった重盛をも還内府として蘇らせた。京を追われた平家は怨霊を生み出す術をいつのまにか得て、戦場だけでなく京にも怨霊が出るのだと聞く。
怨霊は刀で斬ることが出来る存在だが、消し去ることは出来ないらしく倒してもまた復活する。死を超えた化生は滅することすらないのだと誰もが思っていた。ただ一つの例外はおれらのような極一部の者が知る存在──龍神の神子。過去に二度、京が鬼の一族に襲われた時鬼を倒し怨霊を封じて京を救った天女。かの娘だけは、怨霊を封じることが出来るらしい。けれど龍神の神子は過去全て娘、なぜ娘かは分からないが烏たちが見たという怨霊を殴り倒して消滅させる男が神子で無いとも言いきれない。
「その者がいつの頃より怨霊を消滅させ始めたのかは我らにも掴みきれませんでしたが、今は紀の国由良にいるようです」
「ふぅん……そいつの特長は?」
男の顔をわざわざ拝みに行く趣味などオレは持ち合わせてないのに、何故かそう言っていた。
「ざんばらの黒髪に黒い目、取り立てて変わった風ではございませんが怨霊と対峙する時、目が黄金に輝いた、という報告を幾度か受けてございます」
「黄金、ねぇ。麗しい姫君の瞳が輝くは道理、さてその男はどんなものかな」
「頭領?」
立ち上がったオレを仰ぐように烏は視線を上げる。
「離れずにその男を張っていろ、オレが捕まえるまでな」
「御意」
短い言葉を残して烏が消え、オレは数度頭を振って明かり障子の外に見える熊野の海を見下ろした。熊野の山、海、里に生きる人々。オレが守るべきもの、オレをオレ足らしめるもの。
「さて鬼が出るか蛇が出るかお楽しみだな」
熊野を出て数日。烏が告げた紀の国由良に男の姿は無いようだった。怨霊に襲われそうになったところを救われた、という鄙には稀な美人が言うところによると、その男は口数少なく彼女を助けてすぐにその場を立ち去ったという。名も告げず、留まりもせず。海沿いをどうも徒歩で移動しているらしい男に追いついたのは、そのさらに数日後のことだった。この半島はオレら熊野の者にとっては庭のようなものだ。
「なんだ」
後ろに感じた気配、烏のものに違いなくオレは振り向かずに歩きながら言葉を迫る。
「この先、雑賀崎の浜にいるようです。雑賀崎には先日、怨霊が出たとか」
「ああ」
海沿いを京に向かっているのか、怨霊に引かれているのか、そんなことはどうでもいい。烏から報告を受けて以後、ずっとオレの頭にこびりついて離れない言葉がオレを駆り立てる。
早く、確かめたい。
何をかは分からなかった。逢えば分かる、それだけを知っていた。
「……」
ついてきている烏はあれだ、とは言わない。言わずともすぐに分かった。明らかに気配が違う。市井の者とも武士の者とも違う、異様な気配。それは怨霊ではなく、怨霊に対峙している男のものだ。身の丈がさほど大きいわけでもない、僧兵たちのほうが大きな体躯をしているかもしれない、なのにその男は威圧感のみで怨霊を圧倒していた。
「すぐ、楽にしてやるよ」
横柄な言葉が漏れ、男は半身に身構える。遠目からでも、確かに気配が変わっていくのが分かった。竜巻のように激しい気配は、何故か黄金色に見える。そしてその目の色も。
男はオレがやっとのことで残像を追えるほどの速さで怨霊に近づき、拳ではなく掌底を怨霊に向けて気配を解き放った。黄金に断ち切られるように、怨霊は音もなく消滅していく。辺りに、怨霊が撒き散らしていた陰気は露ほども残されていない。完全に、消滅したのだ。
これが龍神の神子が行うという、封印か?
「おい」
黄金の竜巻が小さくなり、するすると男の身におさまっていく。そして男はくるりとこちらを向いた。
「──!?」
「そこにいるお前ら、何してんだ?怨霊なら消したぞ」
男がいる浜と、オレたちが隠れている林は一里ほど離れている。辺りには誰もいない。なのに、男は真っ直ぐオレを見て、もう一度言った。
「もう危なくはないと思うんだが。怨霊に襲われたくないんだったら、これまでみたいに俺をつけないほうがいい」
今度こそ、オレと近くにいた烏が息を飲む。
オレが言うのも手前味噌な話だが、熊野の烏はかなりの手だれ揃いだ。そこらの武将より腕が立つし、気配を断つことや諜報に関しては随一だと自負している。その烏がつけていたことを、この男はずっと前から気づいていた。背筋に伝う怖気は、恐怖では無く。
「……アンタの気を害したんならオレが謝るよ、お兄さん」
烏を制してオレが一人浜に降りると、男は不思議そうに首を傾げた。途端に、表情が幼く見える。年の頃はオレより少し上だろうか。
「謝ってもらう必要は無い、俺は何をされたわけでも無いからな。つけるのはそちらの勝手だが、とばっちりで怨霊に襲われたら困るのもそちらだろう」
「そりゃそうだ。お兄さん、酒は好きかい」
近寄って男の顔をよく見ると、男の目は既に黒いものに戻っていた。あの黄金に見えた瞳は、何の見間違いだったのだろうか。オレが尋ねると、男はややあってふっと表情を解く。
「嬉しいお誘いだが、奢ってくれるなら酒より飯にしてくれ。日の高いうちに舐める酒は好きなんだが、酒じゃ腹は膨れないしどうも俺は酔えない性質らしくてな、お前さんに付き合ってもらっても面白みが無いと思うぜ」
「へえ?ま、じゃ飯でも。急ぐ旅じゃないんだろ?」
男は頷いてオレに合わせて歩き始めた。歩きながら、手甲をしまっている。手甲は金物で出来ているようで、まるで黄金で出来ているような眩い光をきらりと見せていた。
「ずいぶんと綺麗なモノ持ってるね」
「ああ…でもこれは黄金だの銀だのそんな値打ち物じゃない…と思うよ。多分」
「多分?お兄さんのだろ?」
自分のもの、しかも武具について曖昧な知識しか持っていないことを指摘すると、男は不意に立ち止まる。
「俺のもの…だとは思うんだが、どうにも分からない」
「分からない?」
さっき、目の前の男がオレと烏を見つけたときに覚えた怖気は奮い立った興味だった。でも、今は違う。
「名も、暮らす術も分かる。何をしなきゃいけないのかも。でも、俺は生まれ里も今まで何をしてきたのかも親兄弟も何も覚えていないんだ」
「じゃあ怨霊を消したあれは?」
「どうすればあいつら──怨霊を倒せるのかは分かる。倒さなきゃいけないってことも。でもどうして俺にそんなことが出来るのか、俺はその前まで何をしていたのか、全然分からない」
ふっと俯いて幾度か頭を振る。オレより少し大きなほどの体躯しか持たない、けれども計り知れない未知なる力を秘めたこの男が何故か頼りないものに見えた。可憐な姫君たちと同じとは言わないまでも、何かしら守らなければならないような気がして。
「お兄さん──アンタ、名は?オレはヒノエ、熊野の者だ」
思わず、男に手を差し出していた。
「俺は……」
男はと名乗った。寿永二年白露を過ぎた中秋の頃、紀の国雑賀崎での出逢いだった。
熊野は様々な神仏を奉じていて、三本足の烏を神の使いとしている。それにあやかってオレたちの間者は烏と呼ばれているのだが、少し前からこの山には龍が棲んでいた。
「、やっぱここか。お前は那智が本当に好きだよな」
「ヒノエ」
ぱっと顔を上げて微かに笑ってみせたのが、熊野に棲む龍。どこからどう見てもオレと同じ人だが、オレも親父ものことを只人だとは到底思えなかった。
「済まないな、何か用だったか」
「いや?オレの龍が気紛れだってことぐらい、重々承知さ。水浴びでもしてたのかい」
那智滝は神域にあり、飛龍神社と呼ばれる那智大社の別宮は那智滝そのものを御神体として奉っている。だから那智大社の神官どもでさえ立ち入ることを容易には許されない厳格な神域で、オレだってそんなに気軽に来ていい場所じゃないことぐらい分かっていた。外側から見る分には問題無いし、多少なりとも飛沫を浴びることは許されるが滝の中に入るのはご法度だ。人的に結界を張ってもいるが、古来の神域は穢す存在の立ち入りを決して許さない。それなのに、は何かを請うようにここを度々訪れていた。
「ああ、しばらく来ていなかったからどうしても来たくなってしまって」
雑賀崎での出会いから、オレはを熊野へと連れ帰った。は何を思ったものかオレについてきて、何をするでもなく熊野の中に身を置いている。初めてが那智滝に姿を見せたのは熊野へと連れ帰って、数日後。熊野三山の結界域であればどこでも自由に過ごして構わないと伝えてすぐのことだ。
那智滝に人が立ち入り、あまつさえその水の流れに身を浸していたのだから、那智大社の神職は泡を吹くほどの慌てようでオレにの横道を訴えてきた。とりあえず様子見と那智に行ったら、何あろう、那智滝にいるは怨霊と対峙していたときに見せたあの黄金の気配を纏っていたのだ。
オレを見つけて微かに浮かべた笑みの、その瞳は黄金。水の流れが見せた幻か真か、黄金の龍を見たという神職まで出る始末。
が神域を穢すどころか、が那智滝に訪れる度に那智の気配は清浄そのものに近づいていく。ここに至って神職はの行動を遮ることなく、好きに振る舞わせるようになった。龍ならば水を好むは道理、熊野は山深い聖域だから水を恋しがったのだろう、そう口々に言いながら。
龍神の加護を失って荒れ果てたという京の噂を口にしながら、この熊野の里人たちは熊野に現れたという龍の噂を立ち上らせる。ただ、この龍は熊野の守護をしているわけではない。
「禊が済んだならちょうどいい、京に行ってみないか。お前のそもそもの目的地は京だったんだろ?」
「──本当に京だったのか、分からないさ。海沿いには何故か怨霊が多く出て、しかも京に近づくほど増えた。怨霊を追っていたのか、龍神の加護を失ったとかいう京に何かあるのか、今じゃもう分からない」
「それを確かめに行こう、。オレも確かめたいことがあるし、何よりお前のことが分かるかもしれない」
「ヒノエ……」
京には龍神の神子が現れたという。源氏の御曹司に庇護されている神子姫様は、もともと源氏の軍奉行の妹である黒龍の神子の対である白龍の神子。そして、白龍そのものが神子姫に付き添っていると聞いた。が持つ、龍の気配とそれは似て非なるものなのか。どうしても、それが確かめたかった。
龍にオレは逢ったことなどないけれど、のあの黄金の気配は、どうしても龍そのものをオレに想起させる。親父もまた同じように、に龍そのものを見ていた。記憶の無い、人にしては稀なる気配。その解はきっと京にある。
「でもいいのか、今ここを離れて。何かあったら」
の言葉におれは首を振った。平家が操る怨霊どもは熊野の裾にさえ入って来られないはずだ。厄介なのは人の軍そのものだが、京を追われた平家はもちろん、怨霊で多くの兵を失った源氏にも熊野を攻める余力は無い。もっとも、熊野の力を得たがっている両軍が攻め入るとも思えなかった。
「熊野を心配してくれるのは有難いけどな、お前が心配するのはオレのことだけでいいんだよ、オレの龍」
オレがそう言うと何故かは眉根を寄せてオレを見つめる。
「だからここを心配してるんだろ、この土地はお前そのものだ。ここを荒らされたらお前が傷つく。俺はそんなの嫌だ」
熊野別当、熊野水軍頭領。オレの二つ名をはとっくに知っていた。でも、の言う意味は違う。
「お前が行くっていうんだからまず大丈夫なんだろうけど、それでも心配ぐらいさせろよヒノエ」
。優しいオレの龍。あの時出逢ったのは気紛れだとずっと思っていたけれど、ひょっとしたら何かのさだめがオレたちを出逢わせたのかもしれない。あの時確かめたかったもの。それはが龍神の神子かどうか、そんなことじゃなくて。
「ああ──ありがとな」
熊野別当・熊野水軍頭領藤原堪増ではなく、それを含めて尚単なる男としてヒノエとしているオレの傍を望む者、その存在そのもの。
親父殿に言い置いて後、烏を平家側に増やしてからオレとは京へ向かった。龍神の加護を失った都は今にも滅び去りそうな陰気を街そのものが発している。は京に着くなり驚いた表情を見せたが、すぐに痛ましそうな顔に移った。失った龍神のことでも、思ったのかもしれない。
「……とりあえず六波羅に行けば…?」
六波羅にある隠れ家の一つへ案内しようと視線を上げると、そこにの姿は無かった。稀なる気配を辿ろうにも陰気が濃くて人の多い街中では上手くいかない。
「チッ……を探せ、見つけ次第オレに知らせろ」
変事を悟って姿を見せたはずの烏にそう告げて、オレは足早にその場を後にした。
本編では二章からスタート。神子様は何周かしてます。