黒橡 第五話
ヒノエが熊野の龍ことくんを連れて望美さんの八葉になって、しばらく経った。初めこそ六波羅にあるヒノエの隠れ家に戻った二人だが、今では六条櫛笥小路にある景時の邸を仮住まいとしている。僕や九郎は邸の主である景時と同じ寝殿にいるが、ヒノエとくんは譲くんと同じ西の対に住まっていた。譲くんが言うには、ヒノエとくんを起こした記憶など今まで無いそうだ。先に起きているのか、気配で起きるのかは分からないらしいけれど。
三草山での戦を数日後に控えた梶原邸は昼夜無く慌しい。その慌しさに引き摺られることなく、まるでいつものままだったのは九郎と望美さんの師であるリズヴァーンさんとそもそも源平の戦を傍観する心持であるヒノエ、ヒノエの龍を自称するくんだけだった。白龍は神子である望美さんの心境を映すように所在無さげだし、初陣になる望美さんと譲くんの緊張は言うまでもない。望美さんのほうが幾分落ち着いていて、まるで何かの覚悟を決めたような表情を時折見せている。さすが白龍の神子、とでも言うべきなのだろう。
「くん、ヒノエを知りませんか?昼から姿を見ないんですよ」
「…ヒノエならもうすぐ戻ってくる。急ぎなら捕まえてくるが」
ふい、と彼は頭を巡らせて船岡山の方へと視線を向けた。その方角に居る、とでも言いたいのだろうか。
「それほど急ぎではないので、もうすぐ戻るのであれば構いません。でも…貴方はヒノエの居場所が分かるのですか?」
白龍はどこにいても望美さんを見失うことは無い。他の誰でもある程度近づけば分かるようだった。特に八葉である僕らは数里離れていても分かってしまう。
「ヒノエの氣なら、もう覚えたからな。八葉になったせいか、氣がかなり際立って分かりやすくなった」
「分かりやすく、ですか」
うん、と頷いてそのままくんは濡れ縁に腰を下ろした。倣って横に安座を組む。
「熊野にいた頃より分かりやすい。熊野はヒノエと同化するから」
「それは……ヒノエが結界を張っている源だから、でしょうね」
「そうだろうな。この街は熊野より陰の氣が濃いから、余計陽の氣が強い者は目立つ。白龍や望美だけじゃなく、八葉は皆そうだ」
「僕もですか?」
「もちろん弁慶もだ。かえって俺のほうが分かりにくくなったとヒノエは思ってるかもしれない。俺の持つ氣は、何故か陽のものだけでは無いから」
「え…?」
陽の気だけでは無い、とくんは事も無げに言った。神泉苑で見た、黄金に輝く神氣は確かに白龍のものとも誰のものとも違ったけれど、陰陽の神氣を合わせ持つ人間というのがいるのだろうか。陰陽合わせ持つ怨霊ならば──知っているが。
「白龍やその神子である望美は陽の氣の固まり…みたいなものだろう。白龍と四神から加護を受けている八葉もそうだ。ヒノエは特に神職だからか、陽の氣が元々強いみたいだけど。俺は陰陽併せた氣を持っているから、白龍が黄龍と呼んでしまうのかもな」
「黄龍というものについて、覚えがあるのですか?」
彼は昔の記憶が無いのだと、ヒノエに聞かされている。生活に関することは覚えていても、己のことをほとんど覚えていないのだと。
「朱雀たち…四神に触れたからだろう、少し思い出したんだ。黄龍について知っていた、ということを。四神を統べる龍神の長、陰陽五行の和を成す龍脈の具現。黄龍は応龍と同じように、陰陽合一だ。応龍の陰が黒龍に陽が白龍になったみたいだけど」
「ええ、そう……聞いています。応龍は陰陽合一の姿、それを半身に分けると白龍と黒龍になる。龍脈を成すほどの龍神というのは、そもそも陰陽合一なのかもしれませんね」
「だろうな」
他愛も無い相槌しか打たなかったくんは、帰ってきた、と小さく呟いて腰を上げる。見上げる格好になった僕に笑ってみせた。
「ヒノエが帰ってきた。用があったんだろう、呼んでくるから待ってろ」
「…ありがとうございます」
言われてみれば、確かに近くにヒノエの気配がする。けれどヒノエはもともと隠密行動を好むから、僕か白龍ででもなければ気がつかないような微かなものだ。
陰陽合一の、龍。応龍だけではなく黄龍もそうなのだ。黄龍であるはずのくんがなぜ記憶を失い力を失い人であるのかは知らない。けれど、もし、この地に黄龍の加護を齎すことが出来るとしたらそれは贖罪として相応しいものになるだろうか。熊野ではなく京に彼を縛ろうとしたら──ヒノエは、どうするだろう。父母だけでなく、熊野そのものに祝福され慈しまれて育った、年若い別当殿は己が龍を手放すだろうか。
くんに呼ばれたヒノエがいつになく不機嫌な顔でやってくるまで、僕はそんなことばかり考えていた。
三草山へと行軍している最中、白龍と望美さんだけでなくヒノエとくんが突然同じ方向を警戒し始める。望美さんは剣の柄に手をかけているし、ヒノエとくんに至ってはそれぞれ武具を手に嵌め直した。少し列を後ろに離れている僕や九郎が慌てて駆けつけようとした、その時。
「お前たちは自分の兵を守ってろ!……はッ」
声と同時に目の前を黄金色の光が過ぎった。
「……っ」
「何だ!?」
「くんです……何て力だ」
周囲からは兵たちのどよめきが止まない。僕たちの目の前で、くんは何がしかの光を放って怨霊を消し去ってしまったのだ。白龍の神子のものだと思っている者もいるが、そうでないことは僕たちが良く分かっている。望美さんの封印の光とは異なる、黄金色の光。癒し慈しみ解放する光では無く、全てを打ち祓い薙ぎ倒す圧倒的な力としての光。
「お疲れさん、。お前、遠当てなんて出来たんだな」
「ん?ヒノエは見たことなかったか。ある程度なら飛ばせるよ、この隊列の最後尾ぐらいまでならな」
「へぇ…他にはどんな、って聞きたいけど後のお楽しみにしておこうか」
くんは笑いながら手甲を仕舞い、ヒノエもジャマダハルを腰に戻した。その途端、望美さんと白龍が競うように詰め寄る。
「黄龍!私の神子を、守ってくれて、ありがとう!」
「今のって封印なんですか?さんのそれって…」
「はい、待った。とりあえずは先に進もうぜ?陣に着いたら話す時間ぐらいあるだろうしね」
「ごめん……ヒノエくんの言う通りだね。先を急ごう」
白龍の神子の言葉、とあって混乱はいくらか収まり隊列が整って先へと進み始めた。隣にいる九郎が足を止める。くんが怨霊を薙ぎ払った時に立っていた場所だ。何かの跡が残っているわけでも無く、怨霊がいたはずの場所もただの荒地に戻っている。
「あれがくんの力、ですか……ヒノエは昇華と言っていましたね」
「望美の封印とは確かに異なるものだ、だがあれは人の力なのか…」
出逢った当初、白龍や望美さんの力に懐疑的だった九郎とは思えない言葉。それは多くの兵たちと同じ言葉だったろう。剣で斬りつけて動きを鈍らせることも、弓で射って動きを止めることもせずに、嵐が山の木々をなぎ倒すように怨霊を薙ぎ払った、力。
「さて、どうでしょうね。彼の力がどのようなものであるにせよ、彼は僕たちの仲間──味方なのですから」
「……その通りだな。戦の前には些末事かもしれん。怨霊などという卑怯な手段を使う平家との戦だ、こちらが助かることはあっても困ることは無い」
今度の戦で出てくるのは還内府、宇治川での戦のような楽はさせてもらえないはず。戦の前に考えることは少ないほうがいい。
三草山へと対抗するための陣を馬瀬に布いた。平家の本陣は山ノ口にあるという。景時の部隊が戻ってくるのを待ち、いざ山ノ口へ向かおうとするその時、望美さんが声を上げた。
「このまま攻め込むのは…危険です。あの陣は偽者、還内府の罠だから」
「なっ!?」
驚く九郎にリズヴァーンさんが偵察することを提案し、九郎を本陣に残して僕たちだけで偵察に出ることになった。山ノ口の陣の手前、三草川を越えたところで一端立ち止まる。あまりにも、静か過ぎるのだ。
「どこか変なの?陰気はどこにもないよ?」
「だからおかしいんですよ。怨霊を使役できる平家の陣に近づいていて、ここまで何も無いだなんて」
「と、いうか…人そのものがいないぞ、あちらには」
ひょいとくんは本陣の方向を指差す。平家の赤い旗が翻り、煌々と篝火が焚かれているのが遠目にもはっきりと分かる陣だ。確かに物音はしない。
「やっぱりそうなんだ?おれもいないと思うよー。囮じゃないかなあ」
「大勢人が集まってる場所はここじゃない、あの山の麓だ。怨霊と人と混じった気配がする。人にしては強すぎる氣が混じってるが、名だたる将ってのはそんなもんなのかもな」
今度は暗闇の向こう、三草山の麓をくんは指差した。そして眉を顰める。
「大きな固まりが麓で、もう一個あるけど…陰氣が濃すぎて場所がはっきり掴めない。陰氣の固まりだ、怨霊の束かもしれない。白龍、望美、何か分からないか?陽の氣を強く持つお前らには、ものすごく嫌なものでしかないけど」
「ごめんなさい…分からない」
「私にもよく分からないんです、でも、二つってことは平家の軍は分かれてるってことですよね」
「だろうな。陰氣の固まりと俺たちが出遭えたらいいが…怨霊の束と普通の兵を戦わせるわけにはいかないだろう」
僕と景時に投げかけられた問いだ。揃って頷く。
「そんなの絶対だめだよー、普通の兵に怨霊なんて相手に出来るわけがない。生きて戻れれば御の字ってぐらいなんだから」
「景時の言う通りです。けれど、その怨霊たちがどこにいるか分からない以上、警戒する以外の策は取れません。まずは平家の本当の本陣を見つけないと」
囮の陣で平家の本陣が鹿乃口にあると知れた。途中、この地に詳しいという少年に出会い福原まで街道を使わず山道で抜ける方法があるとも分かった。
そしてヒノエから出た、提案。名より実を取る、いかにも熊野別当らしい判断だ。大義ではなく、原因そのものを根底から覆すやり方は海に生きた者でないと出ないのかもしれない。海の上では、どんな名より実が勝る。どれほどの貴種であろうと船に乗ってしまえば、その危難は皆平等なのだから。
「では、福原攻めの策を練りましょう。何より時間が惜しい」
ヒノエの提案を望美さんと九郎が受け入れ、頑強に反対していた景時が折れたことで方向は定まった。そうと決まれば手早く策を練り直すしかない。自分が言い出したから、という意味なのか珍しくヒノエが軍議に顔を出して的確に意見を挟んでいった。ヒノエ自身は嫌がるだろうけど、僕の取りたい策とそれは似ているから二人で意見を出し合いながら固めてみせ、福原にある雪見御所を急襲する手筈を整える。
「もう終わったのか、早かったな」
少し離れた陣中で白龍や譲くん、朔殿と待っていたくんは腰を上げて僕たちを迎えた。正確にはヒノエだけ、かもしれないが。
「奇襲は何よりも迅速でなければ意味がない」
リズヴァーンさんの一言が、全てだ。僕たちはすぐに雪見御所へと山道を辿った。雪見御所にたどり着いた僕たちを迎えたのは、突如御所内から上がった鬨の声。
三草山に陣を布いていたはずの還内府が既に雪見御所へ戻ったのだとうろたえる兵たちに、九郎が太刀を抜きざま言い放つ。
「それがどうした。おれたちは還内府と戦うために京を出たのではなかったか!場所が何処であれ、還内府を討つことこそ我々の勝利」
「……望美、ちょっと」
九郎の言葉に士気を取り戻す兵たち、その声に紛れてくんが望美さんを呼び止めた。傍にいるヒノエは黙って見守っている。
「どうしたんですか?また何かおかしな気配でもありますか?」
「中に、多分怨霊がいる。数が多そうだ。雑魚は俺に任せて、お前は九郎たちと一緒に大将格をやれ」
「え……」
驚く望美さんにくんは首をゆるく振った。
「俺は源氏の者じゃない、ヒノエの龍だから。でもお前は源氏の神子だ、お前が頭と戦うことに意味がある。そうだろ?」
「の言う通りだよ姫君。白龍の神子は源氏と共に平家と戦うことを選んだ、ならお前は九郎と共に戦う必要がある。怨霊に怯える兵たちを守って安心させられるのは、お前しかいないんだから」
初陣の女性にずいぶんと酷な事を、と思う僕の憂いを振り払ったのは望美さんのあまりに美しい笑みだった。
「……そうですね。私はもう選んでしまった。二人の言う通り、九郎さんたちと一緒に戦うね。他の怨霊は任せます、さん」
「ああ、構わない。俺は怨霊を倒さなければならないから。……多少派手にやっても構わないよな?我が君」
くんの笑みにヒノエは苦虫を噛み潰したような表情になる。やれやれと大仰に首を竦めてみせた。
「オレがお前の意を遮るとでも?好きにしなよ。お前は天駆ける龍、何をするにも自由だ」
「御意」
雪見御所の門が開こうとしている。くんはいつか見せたように、右の手で作った拳を左の掌に突き立てた。眩いほどの黄金が、気配として彼の内から溢れてくる。これが──黄龍の、神気。
「オレの龍に見惚れてる暇、あるのかい?軍師殿?」
「君こそ、彼の傍にいなくていいのですか」
てっきり彼の傍にいるだろうと思っていたヒノエは僕のすぐ横にいた。望美さんとともに戦うために。
「あいつはオレの助けを必要とするほどヤワじゃない。望美に他の怨霊を任されたのはアイツで、オレじゃない。オレは守りたいものを守って、あいつが戻るのを待てばいい」
くんの戦いは、どこか人間離れしていた。舞のようだと称される望美さんの剣技とは違い、乱飛や熊野の烏のように身軽だ。手足が天地無用とばかりに縦横を駆け、身体にまとう黄金の神気がことごとく怨霊を消し去っていく。
「あんな男がいるなんて聞いてねえ…!」
「怨霊を消すのは白龍の神子じゃなかったのか!?」
「あいつが白龍の神子だと!?神子は女だろう!」
混乱の極みに陥った平家軍に、望美さんがすらりと剣を抜いた。
「彼は私の仲間だよ。私が──白龍の神子」
望美さんや九郎の名乗りに平家軍はさらに怨霊を増やし、あたふたと逃げ惑う。やがて御所から出てきた格の違う大物に、望美さんは剣を握り直した。
「あれが大将格、ってところかな。さんが言ってた」
「だろうね。怨霊使いの姿は無いし、時間稼ぎだろうけど放って追いかけたりはしないんだろう?」
「当然。みんな!怨霊は私たちに任せて!」
大きな怨霊は手強かったが、他の怨霊の殆どをくんが相手として消してしまったため、僕たちだけでどうにか封印することが出来た。怨霊の姿が消えた御所の庭、疲れきった兵たちが座り込み御所の内部に上がりこんだ僕らを尻目にくんが立ち尽くしている。
「くん?」
「……ああ、悪い。少し経ったらそちらへ行く」
そう言うや否や、彼は再び神気を練り始めた。跪いたかと思うと掌を地に押し当てる。神気が地へと送られ、くんから円状に広がっていった。
「すごい…黄龍の気が、この土地を清めていくよ。陰陽の偏りが正されて、あるべき陰陽を取り戻していく」
白龍が興奮気味に言って、すごいすごいと繰り返す。庭にいる兵たちも、僕たちも、呆然と見守るしかなかった。やがてくんは立ち上がり、何事も無かったようにヒノエの傍へ戻ってくる。
「死者が新たに怨霊にでもなったら困るからな。御所は幾分マシみたいだが…強い陽の気が残ってる」
「え?」
帝の御座所だったのだろう、奥にある御簾の向こうをくんは指差した。
「あちらに何か強い陽の気があった、今はもう無いから名残だけだが。白龍、望美、お前たちには力になるから行ってくるといい」
「黄龍は?一緒がいい」
「分かった。ヒノエもどうだ?お前も元々陽の気が強いから、少し楽になるぞ」
「姫君と龍神のお供ってわけかい、喜んで」
4人が御簾の奥へと消えていく。帝の御座所にあった、強い陽の気。それは後白河院が返却を求めている三種の神器の一つ、草薙の剣ではないだろうか。神器が残した神気ならば、白龍やその神子、そして神職であるヒノエにとって害を為すはずがない。
「…ならば、おれたちは景時の援護に行こう。この場は望美たちに任せても大丈夫だろうからな」
「分かりました、先輩には俺から伝えておきます」
譲くんと心配そうな朔殿を残して僕と九郎、リズヴァーンさんは御所を出た。
というわけで平泉ルート。ただ、この後平泉には行きません。主人公は陰陽併せ持つ器、龍斗と同じです。龍麻は陽の器だけど。