花霞
[眼下に広がるは戦場。互いの陣まで見渡せるほどの高さで、百合は杉の枝に腰掛けていた。
「んー…伊達がやや劣勢、かな」
「みてぇだな。まァ、単に策が定石過ぎたとも言えるが」
「まだ子どもだもんね、伊達の大将」
百合は目を陣からその最中へと転じる。刀を振るう少年が一人。それに付き添うようにしている者たちが三人。
「子どもってお前、確か同じぐらいの年だぞ」
「…私は小さな頃から仕事してるから。初陣の若様とは違うよ」
「そりゃそうだ。百合、どーすんだ?帰るか?」
百合は戦が始まる少し前からここにいて、ずっと戦を見ていたのだ。もう陽も落ちかけている。
「ううん。もうちょっと見る」
隣にいた男は百合の言葉に少し驚いたのか、微かに眉を持ち上げた。いつもなら、百合は劣勢と見るや踵を返す。百合にとって戦場は見物するものではなく、これから先の命運がかかっている大事なものだ。こうも戦が起きる世の中で、一つの戦にかまけていては、他の大事な戦場を見落としかねない。
「確か、甲斐に下れば上杉と武田が小競りあってるって聞いたけど」
「らしいね。でも私はあれを見ていたい」
百合があれ、と指し示したのは百合と同じ年、伊達の嫡男。今日この戦が初陣の彼は、普通なら大将として本陣で傅かれているであろうに、なぜか前線で敵を斬っている。
面白いことは面白いけど、と男が口にしようとした途端、百合がぽつりと呟いた。
「あの人は、私たちに生きる場をくれるかな」
「…伊達の若造かい?さあな。百合が決めたなら、オレらはいつでもついて行くだけさ」
「そう。…決めた。あの方についていく」
主を探して半年。日本全国、隅々まで見回ったが、奥州で百合は主を見つけたらしかった。
「分かった。契約は初めてだな、頑張れよ」
「うん。行くよ!」
百合の声に、ざっと黒い影が動いた。その数、五十二。
政宗にとって初陣とは大事に守られて勝利を得るものではなかった。自分の力を示し、有無を言わせぬ戦果をあげる必要があった。それが故に、政宗は表情一つ変えずに敵兵を切り捨てていく。
「政宗様!」
傳役の声にはっとした瞬間、振り返った背中に白刃が迫ってきた。
「……!」
身をひる返そうにも右手の刀は真正面の敵の刀を受け止めており、それもままならない。
もはやこれまでか、と政宗が自嘲気味に唇を吊り上げたとき、迫ってきた白刃はそのまま力無く政宗の脇を通り過ぎていった。
「why?」
真正面の敵を押し切るように斬って捨て、身体ごと振り向く。そこには、全身を海松色に包んだ忍が立っていた。装束や手に持っている武器から忍と知れる。
「戦場にて失礼仕る!挨拶は後ほどを待たれよ」
「何だありゃ。小十郎、斬るか?」
傍で政宗を守るように刀を振るっていた小十郎は、しばらく黙って忍を見つめていた。その間にも、忍は次々と敵を倒していく。右手に持つ大手裏剣が倒れた敵の血を辺りに撒き散らしていた。
「…お待ち下さい。あの忍、私どもの敵だけを正確に屠っておりまする。お手討ちになさいますなら、戦の後でもようございましょう」
「それもそうだな。いつ斬っても同じか」
政宗はそう結論づけると、刀を構えなおした。
戦は一時劣勢だった伊達が勝利を収めた。敵の本陣に腰を下ろした政宗の前に跪く忍が、一人。
「伊達籐次郎政宗殿とお見受け致す」
「いかにも。俺が伊達輝宗が嫡男籐次郎政宗だが。お前、遜るくせに顔も見せねえのか。忍なのは分かるが、面布ぐらい取れ」
「承知致した」
忍はこだわりもせず頷いて、顔のほとんどを覆っている面布をはらりと落とした。年の頃は政宗と近い、少女とも思える顔。
「Ah-ha、女だったのか」
「私は伊賀秋月家が当主、百合」
百合と名乗った忍の告白に、小十郎が一人はっと息を飲む。
「で、何用だ。俺に話があるのだろう」
「私を、政宗様の草としてお抱え頂きたく存じまする」
「なっ…!」
声を上げたのは控えていた武将たち、政宗のものでも小十郎のものでも、そして政宗の傍にいる二人の男のものでも、なかった。
「忍風情が何を申すか!」
「政宗様への非礼、死して詫びるがよい!」
戦の後とあって、いきり立つ武将たちを政宗は一瞥して、は、と声をもらした。
「俺は確かに伊達の嫡男だが、跡を継ぐと決まったわけでなし、外様のお前が欲するほどの者とは思えんな」
「政宗様は、いずれ天下人におなりでしょう。御自身もそれを望んでおられる。忍は闇の者なれど、信じるもののために命を賭す心は持ち合わせておりまする故」
睨んでいるとも取れる、政宗のきつい視線を流すでもなく受け止めて、百合は言葉を紡いだ。本当に天下を取れるかどうかはこの若武者次第、しかしその資格を政宗は持っている。群雄割拠のこの世、単なる国主の嫡男なら山ほどいる。しかし、世を統べる資格を持つ者となると限られる。明らかに、政宗はその一人だった。生まれながらの忍であり、数多くの勇猛な武将たちを見てきた百合にはそれがよく分かった。もちろん政宗と同様に天下人にふさわしい人物はほかにもいる。しかし、百合は政宗を選んだ。
「…お前は俺が天下を取る器だと信じているか」
「左様。政宗様は必ずや伊達の名をお継ぎになり、天下に聞こえる御方となりましょう」
まるで先を読む巫女のような百合の言葉に、辺りがしんと静まりかえった。一人口元を緩めているのは政宗だ。
「Ha!酔狂な忍だ。お前の力は先の戦で分かった。だが、それ以外に出来ることがあるんじゃねぇのか?」
百合一人の力では物足りない、と言わんばかりの政宗の言葉に、百合はくすりと笑みを浮かべる。
「私の配下におります、忍五十二人が貴方様の新しき手足となりましょうぞ」
「五十二人…?」
五十二、という数字は、名のある武将が常に抱えている臣下の数より多い。居並ぶ武将たちの顔が嘲笑で満たされた。怪訝そうな政宗の表情に、小十郎が口を挟もうとした、そのとき。
一瞬にして辺りが黒に包まれた。
「!」
何者、という言葉さえ出なかった。居並ぶ武将全て小十郎に至るまで背後の忍にクナイを突きつけられている。他の忍たちは辺りをぐるっと取り囲んでいる。
「我らの力にご不満がおありか、伊達殿」
「…いたのか」
政宗の背後には誰もいなかった。さすがに政宗にクナイを向ければ、百合を含めて忍全てが無傷では済まない。
「秋月家当主百合様の命とあらば、我ら喜び勇んで貴方様の手足となりまする」
小十郎にクナイを突きつけている一人の忍がそう口にした。声から青年と分かる。
「…政宗様」
「何だ、小十郎」
小十郎は背筋に感じるクナイの冷たい感触に一度冷や汗をたらしたが、それでも顔を上げて政宗に進言した。
「秋月家は忍の中でも上忍と呼ばれ、他の忍たちを統べる立場にある家。上忍三家と呼ばれますが、その一つです。秋月家の当主が女子とは知りませんでしたが、これだけの忍が配下にいるのなら、その女子は間違いなく秋月家の当主」
「片倉殿にはお見通しでございましたか。…クナイを仕舞いなさい」
百合の一声で、忍全てがクナイを引き、武将たちの後ろに膝をついた。
「OK分かった。百合と言ったな。契約成立だ。今日からお前たちは俺の臣だ」
そう告げた政宗の顔は、初陣を終えた十五の若武者というより、一人の主として仕えることを誇らしく思えるような凛々しい笑顔だった。
奥州米沢城に、勇ましい物音が響く。
「政宗様がご帰還遊ばされたぞ!」
ほとんど無傷に近い政宗に小十郎が続き、馬上の武士を徒歩の足軽たちが警護している。
政宗は米沢城に帰還すると、装束を正して城主の前に畏まった。
「大儀であったな、政宗。首尾のほどは聞いておる」
「はっ」
「怪我も無きようで何よりじゃ。小十郎、成実、綱元、そなたらも大儀であったな」
政宗の後ろに控えている三人が一様に頭を下げる。
「これで少しは静かに過ごせるじゃろう。政宗、しばらくは修練に勤しむが良い」
「はっ」
城主の居室ではなく、広間の上座に輝宗は安坐をかいており、戦に出た政宗や家臣たちは広間に座していた。そして、その広間の屋根裏に百合が潜んでいた。無論、勝手に入り込んだ。
「あれが政宗様の父御かぁ…」
百合はそう唇を動かしたが、一切声は出ていない。屋根裏で音を出す忍などいない。共に潜んでいる忍が離れた梁の上で肩をすくめた。
「温厚そうな御仁ですね」
やはり声は一切出ていない。息すら。
忍の言葉に百合は頷いて、天井板の隙間から見える景色に目を凝らした。ほとんどの家臣を退出させ、広間に残っているのは政宗と三人の従者だけだ。
「政宗、初陣はいかがであったかな。何でも敵方の侍大将を討ち取ったと聞き及んでおる」
「次の戦が待ち遠しゅうございます。控えております者どももよく働いてくれました」
「はは、さようか。これは頼もしいことじゃのう。政宗、成実と共に下がるが良い。詳しい話を小十郎と綱元から聞くでの」
「承知いたしました。失礼いたします」
「失礼致します」
政宗と、成実が頭を下げ、広間を去って行く。忍が百合の顔を伺った。政宗のところに行くのか、という問いに対して首を振る。
「さて。小十郎、綱元。政宗は如何様であったか」
「政宗様のお働き一様でなく、我ら家臣も色を失くさんばかりのお働きでございました。敵方の侍大将とも存分に渡り合い、首を討ち取ったお姿も晴れやかで、伊達の未来は明るいと存知ます」
小十郎がそう答えると、輝宗は黙り込んだ。
「殿?」
「何。いずれ伊達の頭領は政宗が継ごう。少々時期を早めても良さそうじゃな」
小十郎と綱元は一瞬目を交し合い、そして輝宗に視線を注いだ。
「初陣の前から考えておったことじゃ。あやつはこの乱世に望まれて生まれたような男児よ。小次郎も良い男児ではあるが、優しすぎる」
「しかし、殿はまだお若く戦場でも存分にご活躍なさっておいでですのに、なぜそのような…」
綱元の言葉を輝宗は片手で遮った。
「いつの世であっても、変革をもたらすのは下からやってくる若い者と決まっておろう。このまま縁戚関係にある諸城主たちと温い関係を続けておっても、伊達の未来はない。さりとて、全てのしがらみを絶つにはわしはその温湯に浸かりすぎた。伊達が生き残っていくためには、政宗のような頭領を戴くことが必要じゃろう。…乱世が収まり、平穏な日々がくれば小次郎とて良い頭領になろうが」
屋根裏では百合と忍が目線を交し合って頷く。自分たちが必要になる時が訪れる。それも近いうちに。政宗が無事に頭領になるまでには、幾多の血が流れることだろう。それは隣接する地域の武将たちかもしれないし、政宗の身内のものかもしれない。それを政宗が厭わないのであれば、いくらでも身を血に染める覚悟はとうにあった。忍なら血を厭いはしない。主が望むのであれば尚更だ。
いつの間にか広間の話題は政宗の小さい頃の話に移っていた。百合はしばらく聞き耳を立てていたが、やがてそっとそこから抜け出た。忍も続く。米沢城の天守閣に登り、屋根に横たわる。
「百合の読み通りになりそうだな」
「私は読み違えたことないんだってば」
「そーでした。でもお前、本当にいいのか?」
まだ引き返せる。そう忍は百合に言っているのだった。
伊賀忍の、しかも上忍三家のうち最も勢力を誇っている秋月家の当代が、わざわざ誰かに仕える必要など本当はない。上忍というのは、伊賀地方の郷士を指す呼び名だ。郷士なれば土地もあり、小作人もいる。小作人たちが普通は下忍と呼ばれ、諸大名たちの求めに応じて派遣される。下忍たちの小頭が中忍だ。元締めは上忍で、報酬のアガリも取るし、収穫した米のほとんどは上忍のものだ。上忍は忍の技を持っていても、家にいるだけで暮らしていける身分なのだ。下忍たちは上忍を殿と呼び、上忍の血筋であり当主の百合を姫と呼ぶ。けれど、百合は政宗に仕えることを選んだ。それは半年前に伊賀の里を出たときから変わらない決意だ。誰に仕えるか決めずに里を出ることを反対する翁もいたが、百合には誰も逆らわず秋月家の下忍のほとんどがこうしてついてきている。
「家には父上がいらっしゃる。父上がご健在なれば後顧の憂いなく、こうやって忍び働きが出来る」
「そりゃ殿はご健勝だし田畑もお任せすれば平気だろう。他の家との交渉も殿にお任せしたほうが良いかもしれねえし。でも、百合がわざわざ人に頭下げる必要なんてないんだぜ?」
忍は伊賀の中では中忍と呼ばれる位置にいて、その名を木猿という。まるでましらのように身軽であることからついた名で、本名はない。物言えぬ幼い頃に口減らしに遭い、秋月家に仕える忍に拾われたのだ。
「でも私は忍でしかないんだって。それに……田畑だけではお前たちを養っていけない」
木猿は苦笑した。秋月家は、伊賀の里の中で群を抜いて下忍の数が多い。その数、六十二。中忍も合わせると七十になる。伊賀の里始まって以来の異例で、下忍の修行中に脱落者が一人も出なかったのだ。忍の修行は幼い頃から始めるが、十人に一人が物になればよいほうだと言われている。八割は死に、残り一割は耐え切れても術がおぼつかなくて外には出せない。残った一割だけが下忍と呼ばれ外で忍び働きが出来る。しかし、秋月家始まって以来、伊賀の里始まって以来の異例として、修行を行った子ども全員が生き残り、下忍になることが出来た。決して秋月家の修行が優しかったわけではない。それは木猿も百合も身をもって知っている。なぜかは分からない。伊賀の里としては喜ぶべきことだが、秋月家としては大問題だった。秋月家の田畑は広いほうだが、七十もの人間を養うほどの石高はない。それぞれ諸大名へ送ることも考えられたが、百合が皆を率いて天下人に仕えたい、と言い出したのだ。田畑に必要なだけ小作人を残し、長年の手練れを父のために幾人か残し、残りを皆率いて百合はこの半年旅をしていた。主を探す旅だ。
「姫のそういうとこ好きだけどよ、オレらのために姫まで働くことねぇのに」
「私は誰かの働きのアガリを取る生き方は好きじゃないの。父上のやり方は伊賀の上忍としてあるべき姿だと思うけど、私の思ってることとは違う。私は自分のために働きたい。そもそも忍なんて、自分勝手な生き物じゃない」
木猿も、百合が思う全てのことを知っているわけではない。修行をする前から身近な存在であったし、常に傍にいた。けれど木猿は中忍であり、下忍を束ねる役目に過ぎない。主筋である百合の考え全てが読めるわけではないのだ。
「自分のために、ね」
「そう。どうせ忍び働きをするなら、天下に関わる大事のほうが楽しそうだもの」
あー、こりゃ根っからの忍だ。
木猿はため息交じりに笑った。忍の仕事は陽に知られることはない。中には名前が知られている忍もいるが、どこでどういう風に働いて誰を殺したかなどということは話題にもならない。武将であれば誰の首を取ったか、どの戦でどう働いたかは話になる。忍は自分の仕事が公にならないことを知っている。ときには意味をなさないことがあることも知っている。仕事を選ぶ上で重要なのは対価と自分の価値観だ。善悪は考えない。忍にとってそれは意味を成さない。善悪は移ろい易い、紙の裏表のようだと知っているからだ。
自分の満足を第一に考える忍は数多く、仕事のついでに趣味の盗みを働いたり、仕事のついでに悪戯をしかけたり、百合のように大きな仕事ばかり選んだりする。もちろん、自分の技量を考えなければその先には死があるのみ。忍ならば、いつでも死ぬ覚悟がある。それが座興であっても。生に執着しているようでは、危険な忍び働きは出来ない。
「ま、オレらは姫についていくだけだけどね。冬は寒そうだなー」
「そうだね、早いうちに寝床探さないと」
二人が甍に背を張り付けたままそう話していると、下から百合を呼ぶ声が聞こえた。まだ微かに子どもの影を残している声は、百合が半年かけて探し出した主のものだ。
「お呼びみたい」
「行ってらっしゃーい」
木猿に見送られて、百合はすっと屋根から下りて声の元に近づいていった。
「百合、居らぬのか」
「ここに」
政宗の求めに応じて百合は政宗の眼前で膝をつく。顔は伏せたままだ。
「お前、伊賀者だろう。伊賀者は金子で雇われると聞く。いくら欲しい」
百合はちらりと顔を上げて、政宗の後ろに控える小十郎を見やった。政宗が伊賀と甲賀の区別がついたとは思い難い。小十郎の入れ知恵だろう。
「それは仕事に応じていただきまする」
「なら、仕事をやらないといけねぇな。何もしないでは食べるものにも困るんじゃねえのか」
「忍なれば、しばらく食べずとも平気でございますし、人様の飯を気づかれずに盗って食うぐらいのことは簡単でございますれば」
気づかれずに盗るのだから、盗られたほうも意味が分からない。思い違いかともう一度支度をしなおすだけだ。
政宗は百合の言葉に片目を細めてじろりと百合をにらんだ。
「父上の城でそのような振る舞いは許さぬ。伊達領の民百姓の物を盗むこともならぬ。銘じおけ」
「はっ。承知致しました。下忍にも全て肝に銘じさせまする」
平伏しながら、百合はこっそりと口の端を上げた。このような人物であればこそ、天下も取れようというものだ。民百姓と自分とのつながりが理解できている。この歳で。
「仕事だったな。俺の身辺警護、伊達領の国境警備及び諜報、そして最上の諜報。とりあえずそんなとこだな」
「割り振りはこちらで致しますが、私はどの任につけばよろしゅうございましょう」
「…好きにしろ」
「承知」
また深く平伏する。
「金の話は小十郎か綱元としろ。ああ、綱元っつっても分かんねぇか。おい、綱元はいるか?」
政宗の声に、足音が返ってくる。
「政宗様、お呼びでしょうか」
「ああ、呼んだ。こいつがさっきの忍だ。仕事を与えたから、小十郎と話して金を渡してやってくれ。藤五郎知らねぇか?」
綱元と小十郎は百合を見て互いに目線を交し合い、政宗が勝手に雇った忍の価値について話していた。小声だが百合には全て聞こえている。
「成実殿でしたら、さきほどお見かけいたしましたが」
「あいつ必要なときにいねぇんだから。おい、百合」
「はい」
「下忍たち全員呼んでこい。城の人間に気づかれず、一室に集めることは可能か?」
「造作もなきこと」
百合の言葉にふっと政宗は笑みを形作った。
「ならば、西の対にある広間に呼べ。一人残らずだ」
「承知」
音もなく飛び上がり、屋根に戻る。屋根上で百合はまだ寝そべっていた木猿の肩を揺さぶる。ややあって木猿は顔をあげた。
「お、百合」
「寝てもいないのに寝たふりしない」
「はは。で、若様なんだって?」
「全員呼べって言われた。仕事ももらった。みんなを西の対の広間に集めて」
「承知!」
木猿はさっと屋根から飛び移り、姿を消した。百合も追うように姿を消す。西の対ならばここからでも見える。東の対には政宗の母御である義姫と弟である小次郎がいる。政宗は嫡子なので母親と離れて西の対で育った。
西の対の屋根に飛び移り、ぺたりと張り付いて下の様子を伺う。
「政宗様、忍どもを全て集めよとは如何なる下知でいらっしゃいますか」
「草づれとはいえ、五十を超す数、何か起きましたら…」
「そんときゃ、俺が責任もって全員ぶっ殺す」
「オレも加勢すんぜ、梵」
百合は動かさずに肩をすくめた。あの腕で五十人を超す忍を全員殺そうとは片腹痛い。まして自分や木猿まで。
「あいつらは俺が雇った忍だ。お前ら三人の顔は覚えさせたほうがいいだろうからな」
「それならば、頭であるあの女子だけでもよさそうなものでございましょう」
小十郎は、政宗が下忍全てを集めようとしたのが納得いかないらしい。
「…俺の臣下だ、俺が顔を覚えてなきゃ意味がないだろ」
「草づれなればそのようなご配慮は無用かと存じますが」
綱元の言葉だ。
「草づれだろうと足軽だろうと、一領具足だろうと俺を戴く者全て俺の臣下だ。俺は臣下の顔も知らぬ大将になぞなりたくない」
「政宗様…」
小十郎の声が聞こえたところで、西の対の周りに下忍たちが集まってきた。小作人の身分である下忍は、上忍の屋敷ですら上がらない。いつだって庭に平伏する。しかし、西の対の広間は本丸との間に中庭を挟んでおり、中庭側に下りると誰かに見つかる可能性が高い。百合は手のしぐさだけで塀との境目にある木々の植え込みに下忍たちを呼び、音もなく塀に面している障子を開けた。
「何者!」
小十郎と綱元のものだろう、鍔を鳴らした音がする。
「Stop!百合、お前か」
「さよう」
塀に面している廊下に音もなく降り立ち、片膝をついた。
「で?俺は下忍たちを集めろと言ったはずだが」
政宗の言葉に百合が片手を上げる。塀沿いに植わっている木々からあふれるように忍たちが玉砂利に膝をついた。
「What's it!」
「うっわ、すげ」
「成実殿。感心している場合か。面妖な」
「忍をあまりご覧になったことがないので?」
百合の問いに小十郎と綱元は苦々しく頷いた。戦乱の世といっても伊達は周りの国々と縁戚関係にある。面だって戦を起こすわけにもいかず、城攻めなどほとんどしたことがない。もちろん下忍を使ったことはあるが、このように大量に使った覚えなど小十郎にも綱元にもない。
広間に面している部分では全ての下忍たちは膝をつくことが出来ず、木々から顔を出している者もいる。
「わざわざ広間に呼んでやったんだ、こっちに来させろよ」
「なりませぬ。下忍は本をただせば小作人の身。お城に上がることなど」
「…お前は?」
政宗の隻眼がはたと百合を見据えている。
「私は秋月家当主。郷士の身でございます」
「I understood it.それがお前たちの流儀なら仕方ねーな。おいお前ら」
視線を塀沿いに向け、隻眼で下忍たちをなめるように見ていく。
「その面布取れ。顔覚えるから。端から名前」
下忍たちは戸惑うように互いの顔と自分たちの雇い主の顔を見比べている。不躾な視線だったが、小十郎たちが遮ることはなかった。
「政宗様の御随意通りに」
百合の一声で、次々と下忍たちは面布を取って名乗っていった。もちろんまともな名前などほとんどない。通り名がほとんどだ。
「よく統率されてるな。変な名前が多いみてーだが、まあいい。俺が伊達藤次郎政宗、お前たちの雇い主だ。こいつが片倉小十郎景綱、こっちが鬼庭綱元、んでこいつが伊達籐五郎成実。俺がいないときには、この三人の下知を得るように。金の話ならこの二人にしろ」
「それと」
政宗の目が険を帯びる。
「さっき百合には話したが…この城並びに伊達領の城全て、伊達領の民百姓に至るまで全ての物を盗むこと罷りならぬ。些少であっても、その命で購わせる。心しておくように」
皆、声もなく平伏する。
「この身にかけましても、そのような狼藉させませぬ」
百合の言葉に政宗は頷いて、ずらりと居並ぶ下忍たちを見渡した。
「しばらく戦はないが、戦のないときが忍び働きの時と聞く。存分に働くように。…下がって良いぜ」
百合がすっと手をうごかした、その一瞬で膝をついていた者も木々から顔を出していた者も全て政宗たちの視界から消え去った。
「すっげー!百合って言ったっけ、なあ、どういう仕組みなんだよ」
「…仕組み、と申されますと」
「あいつら、どこ行ったんだ?」
成実は目を輝かせて百合の答えを待っている。成実はまだ十四、元服を済ませているとはいえ子どものようなところが残っていた。
「どこ、と決まった場所があるわけではございませんで、お答えできませんが、忍として育てられる子どもは物言わぬ頃より修練を積みます。跳躍する技術もその一つ」
「へー。じゃあ、足も速い?」
百合は黙って頷く。完全に子どもだ。
「ここから京までならどれくらいかかる?」
尋ねたのは政宗だった。政宗と成実は一つ違いの従兄弟、中身にそう差はないのだろう。
「飛ばして二日でございましょうか。着いたその日は疲労でほとんど忍び働きなど出来ませんが。着くだけでしたら」
「馬でか?」
「駿馬なら三日あれば。ただ、馬に乗るとなると人目につきやすうございますから、隠密時には馬にはあまり乗ることはございませんね」
武士のなりをして忍んでいるのであれば馬に乗るのも自然な格好だが、あまり武士のなりをする忍はいない。放下師や虚無僧といった河原者になりすまして放浪することが多い。
「…最上などすぐなのだな」
「はい」
最上は隣国だ。普通の忍の足ならば、一刻もあれば十分だろう。
政宗は何か考えているようだったが、急に踵を返して広間の中へどんどんと歩いていった。小十郎、綱元が付き従う。成実だけは百合を気にしていた。
「百合、来い」
「来いって」
成実に言われるままに立ち上がり、広間を横切る。久しぶりに畳の上を歩いた気がした。中庭に面した廊下に出ようとしたところで百合は人影を見つけて、ふっと姿を消した。
「おい、どこ行ったんだよ」
「放っておけ。どうせ付いてくる」
政宗は確信ぶってそう言い、すたすたと歩いていった。西の対の中でも、あまり使われていない小部屋の前で立ち止まる。西の対は嫡子の政宗のために使われており、政宗に仕えている三人も西の対に部屋がある。
「降りて来い」
政宗の声に音もなく天井板が開き、百合がするりと下りてきた。身には埃一つない。
「この部屋をやる。他にもいるようなら言え。西の対の部屋はいくつか余ってるからな。お前の部下はどこで寝泊りしてんだ?」
「仕事を仰せつかっていない時、という意味でございますね」
「ああ」
「仕事を仰せつかっていない時は、忍んでおります」
「は?」
間の抜けた声を上げたのは成実だった。
「忍は、忍としての顔ともう一つの顔を持っていることが多うございます。城で下人として働いている者もおれば、僧侶として寺院にいる者もおります。中には旅の者を装うている者もおります。忍として気取られずに、もう一つの顔として人生を終える──それが良い忍だと言われております」
「へえ」
「どこに忍んでおりましても、命あればすぐに呼び寄せられまする」
百合は呼び寄せる方法は口にしなかった。忍の術の一つだからだ。
「お前は?」
「私は…今までそういった意味で忍んだことがございませんで」
「上忍ってやつだからか?」
政宗の言葉に百合は頷いた。下忍は仕事のないときは伊賀に戻って田畑を耕すものだが、もう一つの顔として市井に暮らしている者も多い。上忍である百合は仕事だけをして、仕事のないときは伊賀の家にいた。人心離反のような長い時間かかって行うものをやったことはなく、ほとんどが城入りや暗殺任務だ。
「忍ってのはいろいろ流儀があんだな。…正式に雇ってやれるようになるまで時間がかかるかもしれねーが、そう何年もかからねぇ。父上はおそらく首を振らないだろうしな。とりあえず、これから頼むぜ」
「承知」
成実は政宗と百合をきょろきょろと見回していたが、やがて百合の前にしゃがんだ。
「あのさあ、百合って歳いくつ?オレらと同じぐらい?」
「十五にございますよ、成実様」
「十五?梵と一緒じゃん。オレは梵より一つ下で十四」
じゃあお姉さんだなー、と笑う成実に何とか笑ってみせた百合ははっと視線を懐に落とした。
「政宗様にお渡しすべきものがございました」
そう言って百合が取り出したのは、上忍三家全ての当主の署名が入った書状だった。百合たちの身分を保証するものだ。また忍び働きをするにあたって、身元を照会する割符もある。下忍も割符がなければ働くことは出来ない。身元が確かでなければ、敵国の忍でない保証がない。
「あー、小十郎、とっとけ」
政宗は面倒臭そうに手を払い、百合は仕方なしに小十郎に書状を差し出した。小十郎はその場で書状を広げて二つともに目を通し、綱元に手渡す。
「確かに受け取りました。あなたは確かに伊賀の上忍なのですね、要らぬ疑いをかけて申し訳ない」
「草づれでございますれば、そのようなご配慮は無用にございます」
綱元は目を通した書状を元のようにたたんで懐深くにしまった。百合に目線を向ける。
「忍というのは、おぬしのような若さで家督を継ぐものなのか?」
「稀なことでございます。この度は少し我が家に事情がございまして、父に家を任せて参りました」
「…父母は息災なのか」
政宗の声に今までの覇気が少しだけなかった。百合はこの家に起きていることを既に知っている。調べもせずに主と戴いたりはしない。
「母は私と引き換えに亡くなりました。故に顔も知りませぬ。父と家に居る中忍や爺たちが私を育ててくれました」
「そうか」
政宗はそう一言、返しただけだった。
音に聞く黒脛巾組の前身である伊賀忍軍が、この日より伊達政宗に仕えることになった。
やっちまいました、同時に連載スタート。
あーほーかー!という声が聞こえます。きっと幻聴じゃないはずです。
このヒロインは典型的な忍、という感じで書きたいですね。戦姫とはまた違った忍像を書きたいです。
本当は黒脛巾組は伊賀者ではなく、地元の武芸者だったらしいのですが、まあ、伊賀上忍ってのがやりたかったので(根来忍とかも考えたんだけど、そしたら孫市出さなきゃいけなくなって、孫市と政宗にも関係あったっぽいからそれはそれで面白かったか?)、とりあえずこの設定で。
戦国時代の勉強はこれからです。芸能の原稿もこれからです。押忍!
お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 9 19 忍野桜 拝