硬派を気取ることとモテないことは、月とスッポンぐらい差があるぞ、覚えとけ
吉原の大門を浪士姿のままくぐった百合は、すぐさまみすぼらしい女物の着物に着替えた。着物はほつれや破れがあり、色もひどくくすんでいる。あたりの土を足や着物の裾につけていると、駒屋からの迎えがきた。
「…いつものようにお願いします」
百合の言葉を合図に、駒屋の不寝番が荒縄で百合を縛り上げた。そして半ば見せびらかすように百合の引きずって歩き始める。
吉原はまだ朝で、後朝の別れは済み、遊女も朝寝している頃だ。遊郭で働く者も、まだ大半が寝ているが、中には早くから起きている者もいる。
「おい、あれ駒屋の菊駒じゃねぇか」
「何度目の逃亡か知れねェなァ。今度ばかしはダメかと思ったが…やはり桶は桶屋、戻るところに戻ってくるってか」
店の前を掃除している若い衆の声を耳に挟みながら、百合は内心安堵していた。今度ばかりは間が空きすぎて失敗するかと思っていたのだ。
百合は駒屋の振袖新造、菊駒という名で通っている。菊駒は客の引きが悪いわけではないのに、なぜか逃亡ばかり企てる新造で遣り手も亡八も手を焼いている──というのが吉原者たちの共通認識だった。
真選組の任務の傍ら、折りにふれて百合は菊駒になって駒屋で情報を集める。まさか年季が明ける十年まで居続けるわけにはいかないので、逃亡という形をとって駒屋を抜け、また入るときには脱走したが捕まった、という形式を取るのだ。今回は逃亡したことになってから半年以上経っているので、さすがに忘れられたかと思っていたがそうでもないらしい。
「それにしても菊駒はいつ突き出し(一人立ち。客を取れる)するのかねぇ」
「そりゃ菊駒が突き出しすりゃァ客は来るだろうがよ、あの逃亡癖が直らねェ限りはさせねぇって遣り手が息巻いてるって話だ」
「違いない」
若い衆たちの声を聞きながら大通りを引きずられ、二軒先の駒屋に着いたと思ったら、店の中庭にある松の木にくくりつけられる。決して解けないように縛り上げられた後で、冷たい朝の水を頭から浴びる。まだ二月、水はかなり冷たく、また濡れた身体に吹き付ける風も冷たい。
菊駒は逃亡を何度も企てた遊女だ。当然、帰ってきた遊女に待つものは折檻である。
「お前ってやつァ!」
遣り手が声を張り上げ、革鞭で幾度も打ち据えられる。亡八に指図を受けた若い衆が冷たい水を幾度も浴びせかける。冷たい水で身体は芯まで凍りきり、打たれたところも痛みはあるが、そこは元お庭番衆、百合にとっては耐えられる範囲のことだった。もっと遠慮なくやっていいと言ってあるのだが、他の遊女は同じだけやると意識を失うらしい。もちろん、意識を失えば放置され、意識が戻った頃にまた折檻が始まるのだが。
「三日三晩そうしてな。おい、折りに触れて水かけてやんな」
遣り手は手が痛くなったのか、そう言って店に戻っていった。若い衆は頷いて、水を汲みに行く。まる三日はロスすることになったが、これで菊駒が帰ってきたことは誰の目にも明らかになるだろう。
折檻開始から三日目の晩。明日になればおそらく解放されるだろうが、こればかりは他の者の目があるので何も分からないし、これしきのことに耐えられないでは忍者は務まらない。拷問に対する訓練もしているのだ。
まる三日、交代で水をかけられ事情を知らない若い衆に腹を蹴られ身体を叩かれ、さすがに疲れてきた。
「……オイ」
「……!」
この声。
忘れることなどない。百合は気取られぬようにうっすらと目を開けて見せた。
「ひでェツラだな。お前ェが菊駒か」
「…そうでありんす」
「しばしば逃亡を企てることで有名な菊駒たァどんなヤツかと思ってみれば、濡れたどぶねずみみてぇじゃねぇか」
「わっちがねずみなら、ぬしさまは何でござんすか」
くくっと喉にこもった笑いを見せた高杉は、口の端を上げて百合を見やった。派手な着物に煙管、片目を覆う包帯。確かに高杉だ。あのご面相、一度たりとて忘れたことがない。真選組の敵、攘夷派浪士高杉晋助。
「俺か?そうさな…狙った獲物は逃がさねェ、祭り好きの蛇ってとこか……」
ここで百合が真選組監察だとバレれば、殺されかねない。廓に上がるときには刀を茶屋で預けるのが通例だが、高杉ほどの人物ならば懐刀の一本は仕込んであるだろう。ねずみは蛇に頭から丸呑みにされる。
「祭り好きの蛇でござんすか。あまり大きい獲物をお飲みになりやしたら、蛇の喉は裂けると言いなんす」
「…てめェ」
遊女である菊駒は、この目の前の人間が過激派で人を何人も斬ったことなど知らない。単なる威勢の良い客の一人に過ぎない。百合はすっと流した目で高杉を見やった。あくまで、客をとろうとする遊女の目で。
「菊駒、てめェの姉さん(新造を世話している姉女郎。花魁)はどいつだ」
「…鳴駒姉さんでありんす」
「ほう」
高杉は少しだけ楽しそうな表情を口の端に見せて笑った。鳴駒はもとから高杉の敵娼だ。
「鳴駒の新造か。にしては会ったことがなかったが…」
「はて。蛇は目が前についていると言いなんすね」
しばらく高杉は黙っていたが、百合の意図を解したのか、声を立てて笑い始めた。蛇の目は前についているのだから、横にいる新造の顔など覚えていないだろう、と百合は言おうとしたのだ。もちろん、鳴駒に夢中なんだろう、の意もある。
「…お前いいな。とっとと座敷上がってきな。少なくとも、退屈はしなさそうだ」
その言葉を残して高杉は座敷に戻っていった。とりあえず、最初の接触には成功したようだ。少なくとも、高杉は菊駒に興味を持った。それも良い方に。
その翌日、遣り手から説教を食らいながらも菊駒は部屋に戻ることが出来た。昼見世の前に解放されたので、風呂に入って身繕いをする。食事をもう四日ほど取っていないが、四日程度なら耐えられるし丸薬を口に含めば腹の空きも収まる。髪結いに櫛を入れてもらい、髷を島田に結ってもらう。化粧をしながら、久々に会う遊女たちと言葉を交わした。
「どこに行ってたんだい、半年も」
「あんた要領が良いから」
「…三日三晩のうちに忘れちまったよ」
他の姉女郎についている新造たちは、羨みと嫉みの目線を菊駒に送る。それを難なくかわしながら、呼ばれた鳴駒の部屋に急ぐ。冷たい廊下を踏みしめる足は素足だ。遊女は年季が明けるまで足袋を履かない。
「菊駒かえ」
「あい」
「昨晩、高杉さまにお会いしたとか」
「…松の木の下で」
鳴駒は黙っている。部屋の隅に腰を下ろして菊駒は姉女郎の言葉を待った。鳴駒と親しいと言っても、それは菊駒が真選組監察隊長百合である、と言わないだけの話だ。女郎としての仕事となれば、話は別だ。鳴駒は菊駒の姉女郎でしかもお職の花魁、かなり高いプライドがある。
「あのお人も困ったところがありんす。…今日のお座敷、高杉さまはそなたを是非上げろと」
「あい」
「…上げろも何も、そなたはわちき付きの新造、付いて座敷に出るは当たり前のこと。そのつもりでおいやんせ」
「…あい、姉さん」
勝手に高杉と喋ったりしたので悋気を焼かれて折檻か、と考えもしたが鳴駒はそう話しただけで、手紙を書き始めてしまった。昼見世はもう始まっているが、菊駒は振袖新造でまだ客を取らないし、鳴駒は呼び出しの花魁、格子の中で客を待つ必要のない女郎だ。
しばらくそのまま部屋にいたが、鳴駒はまるで菊駒などいないようなそぶりで禿に手紙を預けたりしている。様子を見て、自分の部屋に戻った。
部屋には百合が屯所から持ってきた荷物がそのまま隠し置かれていた。髪に櫛を入れることはもう明日の朝までないのだから、髷に入っているかんざしを自分で持ってきたかんざし形の忍具に取り替える。上半分はかんざしだが、下半分はクナイのようになっていて、毒が塗られている。着物は座敷に上がる前、夜見世の前に着替えるのでまだ何もしない。
「…とりあえずは成功か」
駒屋にも上手く戻れたし、高杉にも接触できた。こうも早く高杉と会えるとは思っていなかったのだが、この分ならすぐ帰れるかもしれない。高杉を捕捉して狙いを掴みさえすれば百合の仕事は終わる。後は真選組本体の仕事だ。
四日ぶりの食事を取った後、夜見世が始まった。といっても菊駒は鳴駒付きだから、鳴駒に客がこない限りは暇だ。その名の通りの赤い振袖姿に忍具を少しだけ仕込んで高杉の登楼を待つ。鳴駒が今日の座敷、と言ったからには高杉は今日も来ると約束をしたのだろう。
「今度はどなたかな」
店の入り口で亡八の声がする。こびへつらったような、その声に続いて、別の声が聞こえてきた。
「高杉さまだ。鳴駒花魁を」
「…変わった人」
高杉には自分が指名手配中の極悪犯であるという認識が薄いのだろうか。本名で登楼してくるとは思っていなかった。馴染みの女郎には名前を明かしたとしても不思議ではないが、引き出し茶屋の男衆にまで本名を呼ばせているとは知らなかったのだ。今まで幾度も駒屋に潜伏したが、こうやって高杉と相対するのは初めてになる。今までは寸でのところで食い違ったり、別の仕事が入ったりで上手くいかなかったのだ。他の攘夷派の情報を得ることが出来たので、無駄骨にはならなかったが。
「菊駒!菊駒!」
「あいー」
赤い振袖翻して、部屋のある二階から一階へ降りる。鳴駒が引き出し茶屋に客を迎えに行くときは、鳴駒付きの新造である菊駒と鳴駒が面倒を見ている禿たちも一緒に付き添う。花魁道中の一種である。
鳴駒の道中に、町行く人々が振り返っては眺め、連れの者とひそひそ話をしている。百合にはそのほとんどが聞こえていたが、たわいない話ばかりだった。鳴駒は当代一の花魁だとか、菊駒の突き出しはいつだ、とか。そして鳴駒を連日呼んでいる上客の話題になって初めて、百合は少しばかり意識をそちらに向けた。
「何でも高杉とかいう、侍だとよ」
「侍?このご時世にか?」
「待てよ高杉って、もしかして指名手配犯の高杉なんじゃねェか?」
「さすがのお上も里の中までは入ってこれねえってか」
笑い合う声を尻目に、鳴駒に続いて引き出し茶屋に上がった。まず茶屋で座が持たれ、その後に置屋の座敷に移るのだ。
「来たか。待ちかねたぜ」
「わっちゃも晋助さまにお会いしとうござんした」
「嬉しいことを言ってくれる。…ああ、来たな菊駒」
「…あい」
高杉はそう言って一瞬だけ百合を見たが、すぐに視線を戻して座りなおした。鳴駒がすぐ傍に腰を下ろして、少しだけしなだれかかる。
茶屋の座は単なる宴会で色めいたことはしないが、そこは色里、会話が既に色めいている。
機嫌がいいのか、高杉は新造である菊駒や禿たちにまで食事を振る舞った。禿はまだ子ども、食事も食べて眠たそうだ。
眠たそうな禿の頬を叩いて起こし、置屋までの道を行く。高杉は姿かたちこそ小さいが、立ち方歩き方はずいぶん粋で見栄えがする。片目を包帯で覆っている顔に煙管をだらりと銜え、にやりと笑む顔を格子の中にいる女郎たちも目で追う。人目を引くことが好きな高杉らしいしぐさだ、と判断して澄ました顔で置屋への道を戻った。置屋の二階にある、鳴駒専用の座敷にはすでに吉原芸者やお太鼓持ちが座を用意して待っていた。食事は置屋で済ませたので、酒宴を張りお遊びなどをして床入れまでの時間を過ごす。
鳴駒とは反対側に座って高杉に酌をする。高杉は酒が強いのか、ペースが速い。これで酔って何か話してくれれば百合としては仕事が楽なのだが、そうもいきまい。高杉には連れがいた。
黒眼鏡をかけて髪を少し立てた大柄の男、やたら顎がしゃくれている能面のような顔をした男。どうみても高杉の部下、高杉は部下の前で醜態などさらさないだろう。
「晋助、ずいぶんと華やかでござるな」
「…万斉、お前初めてだったか」
「拙者、このような場は初めてでござるが、ずいぶんと面白そうな場でござる」
「面白い…ね。そうさな、面白ェことがこの世には少なすぎらァ。一つ自分でおっぱじめるしかないってもんよ」
「晋助さまはほんに面白いことがお好きでありんすな」
鳴駒の言葉に高杉は頷いて杯を空けた。差し出されたそれに酒を注ぐ。隣の万斉、と呼ばれた男の杯も空になっていたので酒で満たした。万斉は済まぬ、と一言断って酒を口にした。万斉といえば、人斬り河上万斉に他ならない。
「この世は面白くもねェしみったれた世の中だが、自分で変えていく楽しみがあらァな」
「お強い方でありんす。わちきは苦界に落とされて、耐え忍ぶしか術がござんせん」
「そう言うなよ、鳴駒。お前がいるからこの里(吉原)はずいぶん面白ェよ」
高杉もやはり男か。拗ねる鳴駒をあやす言葉など、他の男となんら変わりない。
「おぬし、名は?」
左隣に座っていた万斉に声をかけられた百合は少しだけ表情を崩してみせた。
「菊駒と申しんす」
「晋助についているのが鳴駒で、おぬしが菊駒か。ああ、ここは駒屋というんでござったな」
「あい」
万斉はうんうんと頷いて見せ、空いたままになっていた百合の杯に酒を満たした。
「おぬし、さきほどから酌をしてばかりでござろう」
「ありがとうございんす」
杯をたおやかに持って口元に運び、口をつける。馴染みと対する女郎は馴れ馴れしい振る舞いもするし、初会や裏のときとは違ってくだけたことも言う。それも手練手管の一つだが、客をとらない振袖新造である菊駒は、女郎のような振る舞いはしない。
百合は酒を飲むことが出来るが、さほど好きではない。真選組の仲間たちとする宴会は楽しいが、今は仕事中、酔えるはずもない。
「…鳴駒花魁、ちょっと」
座敷の障子が開けられ、若い衆が鳴駒を呼びに来た。
「早く戻れよ」
「あい」
鳴駒は名残惜しそうに高杉を見ながら少しづつ歩いて、最後にちらりと百合を見る。鳴駒は若い衆と別の座敷に移っていった。高杉といえど、お大尽クラスの遊び方は出来ない。高杉よりもっと上客がやってきたのだろう。
「菊駒よ」
「あい」
「ずいぶんと大人しいな。逃亡企ててばっかのどぶねずみのツラァ見に来たんだがよ」
「…ぬし様は鳴駒花魁のお人、わちきはまだお客をとりんせん」
つん、と顔をそびやかして見せれば高杉は声を立てて笑った。
「どぶねずみとは何だ、晋助。こちらのお方はずいぶんと綺麗なお方だが」
万斉の声に今度は喉にこもった笑いを見せた高杉は煙管で持ってトン、と菊駒の膝を叩いてみせた。
「こいつァ、足抜けが趣味みてェな女郎でな。客を取ってるわけでもねェのに、隙さえあれば足抜けするってェ話だ。昨日の晩、とっ捕まって水責めにあってるとこに出くわしたのさ」
「水責めとは…」
「女郎の足抜けは何より罪が重てェ。こいつらは見世に多額の借金がある身だからな。水責めにあってずぶ濡れのとこは、そっくりどぶねずみだったぜ」
万斉は高杉から聞かされた境遇に言葉も出ない。初めて見世に来たのだ、何も知らなかったのだろう。
「そなたは辛い思いをしているのだな」
「…わちきは苦界に落ちた身でありんす。生まれては苦界、死しては浄閑寺と申しんす」
俯き気味でそう口にすると、赤い振袖を身にまとった肩に男の大きな手が添えられた。その手の力に逆らわずに顔を少し上げると、万斉がやや悲しげな表情でこちらを見ていた。
「なんという潔さよ。晋助、どうした?」
「河上万斉ともあろう者が、一人の新造に骨抜きたァな」
そのさまが面白かったのか、高杉はくくっと笑いをこぼして酒を飲んでいる。
「骨抜きではござらん。このような境遇に置かれた女性が哀れであると思うただけだ」
「どうだかなァ」
高杉は心底楽しそうに酒を手酌で飲んでいる。百合がお酌をしようとすると、その腕を捕まれた。腕ならいいが、指に触れられたくなかったので少し手を捩る。指には、傷や肉刺がいくつもある。女郎に変装するために、クナイや手裏剣を構えて出来たタコや肉刺は少し小刀で削ってやわらかくしてきたが、高杉ほどの者なら、気づくかもしれない。緊張から、息を飲んだ。
高杉は腕を取り、そのまま身体を引き寄せようとした。逆らわずにもたれかかる。身体を寄せたときに、高杉が腰に懐刀をしのばせているのがはっきりと分かった。ここで下手を打つわけにはいかない。高杉一人ならなんとか相手が出来るだろうが、万斉も人斬り、二人いっぺんに相手をするのは少しきついかもしれない。
「…蛇に睨まれたねずみってか。そう身を硬くすんな、取って食やァしねェよ」
高杉は耳元でそう言うと、身体を解放した。手のひらには触れられなかったので、その点で少しほっとした。緊張したが、その緊張を生娘が男に対して構える緊張だと勘違いしたらしい。酔っているのだろう。
万斉はそのさまを一部始終眺めていた。高杉に気取られることも不安だったが、人斬りである万斉にも気取られる不安があった。河上万斉は一流の人斬り、人の呼吸を読むことには長けているはずだ。人斬りは、決して一瞬の隙を逃さない。そういう人種だ。
「ちょっとは愛想ってモンを見せろよ、お前。そんなんじゃァ、突き出ししても客なんてつかねーぞ」
「ぬし様が、困りんす」
「あァ?俺が困る?そいつァどういうことだ」
それ以上、何も言わない。酔っているついでに話が聞きだせるならともかく、こんな話をしていても意味がない。
「おい菊駒」
高杉がぎろりとこちらを睨む。どうということはなかったが、おそらく女郎ならば耐えられないだろう。渋々、といった態で口を開いた。
「…ぬし様は鳴駒花魁のお人。わちきに惚れたら、困りんす」
見世では、浮気をすることが禁止されている。お客は、一人の遊女についたのなら、ずっとその遊女を指名しなくてはならない。黙って他の遊女を指名したら罰があるし、他の見世に行ってもいけない。擬似夫婦関係というのが成立しているので、手切れ金を払って離縁しなくてはならない。金が全てだ。
「は!言うなお前。そんな無愛想なツラで俺を惚れさせようたァ、大した度胸だ。その度胸ぐらいは買ってやってもいいぜ」
「けなげじゃないか、晋助」
「お前なァ…。本当に骨抜きだな、オイ」
高杉はやや呆れ気味の面持ちで万斉を見ている。百合はその様を眺めながら、未だに一言も発しない脇の男にちらりと目をやった。あごがしゃくれた能面の男は、無表情のまま一人で酒に手をつけていた。時折、花魁付きの禿たちや百合に目線を運びながら。
「…菊駒どの、どうなさった」
「あのお方は…ずいぶんとお静かでありんすな」
尋ねてきた万斉にゆっくりとそう尋ねて、視線をやると、万斉はふっと小さな笑みをこぼした。
「武市殿でござる。武市殿、何か話されよ。どうなさったのでござるか」
武市。武市変平太か。高杉派の策略家として名がしれている。
「…どうも何も、私はこちらのお嬢さん方のほうが気になるだけです」
武市が扇子で示したのは、花魁付きの禿たちだった。一人はあまりに遅い時間なので眠たいのか、うつらうつらとしており、もう一人はあまりに長い花魁の不在に涙目になっている。
「…………」
「…。放ってろや。菊駒、酌」
「あい」
呆れた様子の高杉は、眉間に皺を寄せたまま百合に空の杯を向けた。酒を注ぐとすぐにぐいっと飲み干し、また杯を向ける。幾度も杯を干した後で、高杉は身体を横たえた。座っていた座布団をたたんで枕にしている。
「遅ェな。このまま鳴駒が来ねェんじゃ、お前に代わってもらうしかないな」
菊駒はまだ客を取らない。それは形式上のことで、振袖新造に手を出そうとする客はいくらでもいるし、実際に手を出されてしまう新造も多い。正式な水揚げ(初体験)は突き出ししてから後の話、ということになっているが、本当の意味での水揚げなら、別の女郎の客に手を出される場合はよくある。
「それともあれか、万斉、お前こいつの客になるか」
「お客は取らぬと菊駒どのが申されたであろう、晋助」
「お前ェは堅物でいけねぇよ。まァ、お前ほどの堅物が女郎にハマる様を見るってェのは面白いモンだがな」
「だから拙者は…」
万斉がなおのこと言いつのろうとしたとき、座敷の障子が開けられる。
「高杉様」
鳴駒が戻ってきたのかと思いきや、顔を出したのは駒屋の男衆だった。
「ンだよ。鳴駒は来ねェってか」
高杉の言葉に、男衆は一瞬言いよどんだが、それでも顔をきっと上げて答えた。
「…左様でございます。いかがなさいますか」
「ちっ…。おい、こいつは名代じゃねェのか」
ほとんど空になっている煙管で高杉は百合を指し示した。
「菊駒は未だ振袖新造ですので、花魁の名代には…」
せめて突き出ししている新造であれば花魁の名代が務まるのだが、菊駒はまだ振袖新造、そうもいかない。
「固いこと言うなよ。大体他のヤツもやってるだろうが」
「そうは申されましても…」
百合は空のままになっている高杉の杯に酒を満たした後で、一瞬だけ部屋全体に目をやる。武市は禿から目を離さないし、万斉は高杉と自分とを交互に見やっている。高杉は鋭い目線を男衆に向けていた。
高杉の相手をすることになっても構わないが、鳴駒から客を盗ったとなると後々面倒だし、この一回で話を聞きだせるかどうか、そこが問題だった。百合にとって高杉と寝ること自体は何の問題でもなかった。好きでも嫌いでもないが、情報を得るためなら簡単なことだ。性的なことをしているときにも平常心を失わない教育は受けているし、そもそも行為に溺れた経験がない。感情も知らない忍だった頃なら当然のことで、多少人らしくなった今とあっても、根はさほど変わっていないだろう。土方に言われたので、真選組に入ってからは仕事で寝ていないので、そもそも行為の手順すら忘れかけている。男が勝手にやるだろう。忍だった頃、寝たのは数回だが、仕事以外で寝たことが一度だけある。初めてのときだ。そのときは、さすがに覚えている。相手は、兄にも当たるような先輩の忍だった。仕事で寝るときのために、と彼はさまざまなことを百合に教えてくれたのだ。彼が教えたことは後々役に立ち、百合は今まで生き延びることが出来ていた。
「鳴駒を袖になさると仰るのでしたら、相応のものを頂きますが」
普通、客の敵娼は最初から最後まで同じ女郎が務める。他の妓楼に上がることも許されない。擬似夫婦関係、ということが大事なのであって(もちろん客は素人の女ならばいくら付き合っていてもいい。女郎の話だ)それを壊すには手切れ金が必要になる。手切れ金を妓楼に渡して前の女郎との関係を清算してからでないと、別の女郎に移ることは許されない。無論、手切れ金は些少のものではない。
「…足元見てやがる」
高杉は舌打ちして身体を起こした。百合の目線を受けて、ふっと不敵な笑みをこぼす。
「金がねェわけじゃねぇが、俺一人で使い込むわけにはいかねーからな。ま、今日はこれで帰るが、近いうちにまた来るぜ」
「お帰りでございますか」
「ああ。おい、こいつはいつ突き出しするんだ?」
百合をあごでしゃくって示した高杉に対し、男衆は頭を下げる。
「手前には分かりかねます。旦那さまがお決めになることでございますから」
「…そうかよ。それじゃ帰るとするか」
男衆は一足先に部屋を後にして、高杉たちが帰るための準備を始めた。静かになった部屋の中で、高杉は百合が満たした杯に口をつける。
「菊駒。てめェが突き出しする頃にはよう」
高杉が着崩れた着物を直しているので、近寄って手伝うと腕をまた掴まれた。目線が合う。
「この世の中、俺が変えてやるぜ」
「…世の中を、でござんすか」
「おう。たとえ俺がいくら破壊したとしても、花街ってのは残るもんだ。どんな世の中でも女郎はいる。ここは全ての支配を逃れた場所だからな」
高杉が目線をちらりとも動かさないので、百合もひたと高杉の目を見つめた。包帯に包まれていない目はひどく鋭く、そのくせ眸には強い光が宿っていた。ただの人斬りやただの犯罪者にはない、強い光。
「ぬし様は何に支配されているんでありんすか?」
「…獣さ。黒い、かなり性質の悪ィ獣になァ。そいつが呻くままに俺は世界を破壊する」
強い光を持った目が、ゆらりと揺れる。狂気、といっても良かった。こいつを、捕らえなければ。百合は知られぬように微かに息をつめた。常に冷静であること、個人の感情を仕事に影響させないこと。百合は忍としてその二点をずっと守ってきたし、もともと感情がほとんどなかったのだが、真選組に来て人らしい感情を覚えてからというもの、昔に比べると動揺しやすくなってきている。百合はまるで物が分からぬ子どものように、あいまいに笑んでみせながら、掴まれた腕を寄り添わせる。
こいつは本当に灰燼に帰すほど、この世を壊しかねない。なぜそこまで破壊することに固執しているのかは知らないが、高杉の興味はこの世の破壊、その一点だった。鳴駒に入れあげているといっても、高杉は派手なことや面白いことが好きなだけで、心底鳴駒に惚れこんでいるわけではなさそうだった。それならば、菊駒である百合に声をかけたりしない。吉原に来るのも、江戸に上がってきた数日だけで、鳴駒を身請けしようとかそういう素振りは一切無かった。最も、鳴駒には高杉でも敵わない上客が数人ついている。その誰かが身請けするだろう。
「高杉様。お帰りの支度、整いましてございます」
「おう。んじゃ帰ェるとするか。お前ら、行くぞ」
高杉より前に万斉が立ち上がり、一度百合に会釈をして高杉の前に立った。露払いなのだろう。万斉の後ろに高杉、その後ろが武市だ。高杉は部屋を出る直前、一度だけ百合を見てにやりと笑んだ。
「待ってろよ」
そう一言、残して。
武市が出て行き、障子が閉められる。階段を下りていく足音が聞こえ、やっと百合は小さく息を吐いた。既に禿の二人は座ったまま眠っている。
「菊駒、とっとと部屋に戻りな。お前たちもだ、二人とも起きるんだよ。まさや、せいじ」
座敷を片付けに来た男衆にこづかれて、ようやっと禿の二人は目を覚ました。それでもまだ眠たそうに目をこすっている。百合は襟首を掴むようにして二人を持ち上げ、座敷を後にした。
「寝るんなら、鳴駒姉さんの部屋で寝なんせ」
鳴駒は自分の部屋と別に自分の座敷を持っている。花魁の中でもトップクラスの新造付き呼び出しの女郎にしか、専用の座敷は用意されていない。高杉が案内されていたのは鳴駒の座敷だが、鳴駒の部屋はまた別のところにある。
鳴駒の部屋に二人を放り込んで、自分の部屋に戻った。他の新造たちはまだ座敷にいるのか、そう気配がない。今のうちだと思い、百合はそっと明かり障子を開けた。外からはたっぷりと濡れて冷えた夜気が流れ込んでくる。定例の時間にはまだ早いので、監察のメンバーの姿はない。この一週間は山崎が担当のはずだ。山崎はたまに抜けているところがあるが、変装はメンバーの中では一番上手いし、如才ないところがあるので百合はたいそう信用している。
空を見上げると、月が寒々しく輝いていた。明日は晴れるようだ。
「どうしようかな…」
このまま流れに任せれば、菊駒はすぐにでも突き出しをして、部屋持ちの新造になるだろう。部屋持ちになったからには、客を取ることになる。客を取ったからと言って寝る必要はないのだが、全く寝ないというのも不自然な話だ。何より、高杉が客としてついたら寝ることになるだろう。その方が仕事がやりやすいし、高杉のように閉鎖的な世界にいる人間は、外に自分のことを吹聴したがるものだ。百合自身はそれで構わないし、高杉を捕捉出来るのなら全く問題はない。ただ、問題は土方だ。
仕事上で寝ることは禁止だと、あのとき土方はそう言った。別に約束をした覚えはないので、百合が寝ようと勝手だが、土方の怒りを買うことは想像に難くない。寝なくても仕事が出来ると土方に言った自負もある。
「なるようにしかならない、か」
亡八や遣り手が突き出しをいつにするのかも分からないし、高杉がいつまで江戸にいるのかも分からない。百合はともかく、菊駒は客にすがって生きることしか出来ない、か弱い女郎だ。流れに身を任せる他ないだろう。外に向かって息を吐くと、白く長い息が夜気に紛れて消えた。
いかがだったでしょうか。高杉様編。しかも微妙に続くっぽい。次辺りには真選組も出したいところです。そして百合さんの初めてのお相手については、後々書く予定です。もう誰だかお分かりでしょう。
高杉と寝るかどうかはまだ決めてません。客を取っても寝ないで済む方法はいくらかあるので、そうしてもいいですしね。
万斉書くの超楽しかった。
お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 6 18 忍野桜拝