Naturlich blau
午後の営業を終えると本社から直帰の指示が出たので、おとなしく、というかかなり喜んで家に戻る。直帰の指示は滅多に出ないので貴重だ。もう決算期を終えていることや私が今月の目標をクリアしていることも多分に関係しているのだろうけれど。
玄関の前に、猫が一匹いた。
「…景吾?」
うな垂れていた首が持ち上げられて、あるはずのない鈴がちりんと鳴ったような気さえした。
「おせぇよ」
「これでもいつもよりずっと早いのよ」
景吾はゆっくりと立ち上がり、制服のズボンを手で叩いている。ドアに立てかけられているラケットケースを持ち上げ(結構重くてびっくりしたのはずいぶん前の話だ)ドアを開ける。私より先に景吾が玄関へ入っていった。
「…寝ていいのに」
「ハナからそのつもりだ」
景吾はそう言い終わる前にベッドに突っ伏す。寝姿勢を決めかねているのか、しばらくもぞもぞ動いた後は静かになった。すうすうと立てる小さな息がなんだか子ども相応だ。学校の鞄やらラケットケースを置いて、キッチンに立った。
景吾はここに眠りにきている。少なくとも、眠ってご飯を食べることしかしない。
独身OLの部屋に眠りにくる男子中学生だなんて、変な取り合わせ。下手したら犯罪ものだ。でも景吾にはここしか眠る場所がないという。立派な家があることを知ったときに景吾に尋ねてみたことがある。
『あなたはお家じゃ眠れないの?なぜ?』
途端に景吾の顔が子どもみたいに(実際子どもだが、普段彼はそういうことを感じさせない)なって、きれいな形の唇を尖らせた。そしてしばらくの沈黙の後、彼はきっぱりとこう言った。
『あの家では眠れない。ここでないと駄目なんだ』
何が景吾の家と私の家で違うというのだろう。立派な家だと聞いたのに。もちろん見に行ったことや尋ねたことはない。景吾を迎えに来た忍足くんという不思議な名前の人に聞いた。立派やけど、と忍足くんは前置きして私の部屋を見やった。
『…俺もあそこよりここのがええと思うわ。跡部は目利きやし、鼻も利くから』
忍足くんの言ったことが半分分かったけれど、残りの半分は分からなかった。
私が景吾をこっそり猫にたとえているのには理由がある。犬か猫かといえばもちろん景吾は猫系だが、外猫がふらりと人に擦り寄るように、そしてそれに人が見入ってしまうように、景吾は私のところへ来た。
『お前、この近くか?』
中学生の知り合い──制服で中学だと知れた──はいなかったので一瞬びっくりしたが、とりあえず聞かれたことに応えると彼はふっと小さく息を吐いた。
そのとき景吾はずっと寝ていなくて、身体が限界だったらしいのだけど、私にはそのまま倒れてしまいそうに見えたのでひどく慌てた。
『あなたのお家は近くなの?戻らないと、顔色が悪いわよ』
景吾はひどくもどかしい様子で首を振った。駄目なんだ。彼はそう言った。
『後から何でもする。頼む、寝かしてくれ』
『寝るって…私はあなたと寝るつもりはないけど』
『そういう意味じゃない。純粋に睡眠が取りたい。お前の家で』
純粋に、のところを強調した彼の顔をじっと見やった。きれいな顔立ちだと思うけれど、すこし頬の辺りがそげていて、やつれていた。倒れてしまいそうなのに、両目だけはしっかと開いていて、深い青だった。景吾が私の何かに惹かれて声をかけたとしたのなら、私は彼の目に惹かれた。だから、面倒なことになることも承知で彼の手を引いたのだ。
『分かった。小さいベッドだけど』
私より体格の大きな彼の手を引いて、エレベーターに乗り込む。住人と鉢合わせないように、心の片隅で祈りながら。
部屋に通すと彼はふらふらした足取りでベッドに近づき、腰を下ろした。
『寝てていいよ。私は好きにするけど』
『構わない。…ありがとう』
そのときの景吾のありがとう、にはとてもとても意味があるのだと後で分かった。忍足くんから彼が謝るということはとても珍しい──忍足くんの言葉を借りるなら「夏に大雪が降る」ぐらい──ことだと聞いた。もちろん、それ以来景吾が私に謝ったりしたことはない。
しばらくして起きた彼と一通りの自己紹介のようなものをして、その日は別れた。単に具合の悪かった人を看病した(私はベッドを貸しただけだけど)ようなものだと思って、連絡を取ることはなかったし、景吾からも連絡は来なかった。
もう二度と来ないだろうと思っていた景吾はあれから度々来て、いつのまにか私は彼を「景吾くん」ではなく「景吾」と呼び捨てるようになっている。彼ももちろん「百合」と呼び捨てだ。
だからといって私たちの間にはなにもない。見つめあうことも手を握ることも、ましてキスをすることもなかった。景吾はベッドで眠る。私はその間ご飯を作る。起きたら二人で食べて、それでお終い。合間合間にいろんなことを話したりはするけれど、それも他愛のないものだった。
今日は鯵が安かったので塩焼きと胡麻鯵にしようと思っていた。純和風。景吾は和風の食事が珍しいらしく、面白がって食べる。好き嫌いをあまりしないのも彼の長所の一つだ。
味噌汁が出来上がった頃に炊飯ジャーから小さな電子音が鳴った。ベッドの固まりがもぞ、と動く。
「…起こした?」
景吾は限界まで我慢してから私の家に来るので、些細な音でも起きてしまうことはよくあった。感覚が変に冴えてくるのだと彼は言っていた。全身が研ぎ澄まされてひどく疲れる、とも。
「いや、だいぶすっきりした。…飯の匂いで起きるってのは悪くねぇ」
景吾はくくっと笑ってベッドを軽くメイキングする。しなくてもいい、と言ってあるのだが律儀に毎回きちんとやる。几帳面な一面ももちろん、彼の長所。
「魚か?」
「鯵よ。初夏が鯵の旬なの。焼いたのと胡麻で合えたの、あとはおひたしとお味噌汁。…普通よ」
一度だけ、景吾に普段食べているものを聞いたことがある。なんだかすごいお金持ちらしいから、ちょっとした興味で。オールカタカナでよく知らない料理の名前がずらっと並べられたので本当にびっくりした。一人になってからパソコンで検索してみたのは内緒の話。本当に住む世界が違う。
「百合、これは?」
景吾がおひたしの入った小さな容器を箸で指している。
「とりあえず、箸で指しちゃだめ。それは春菊のおひたし。ちょっと苦いけど美味しいよ」
苦味のある食べ物を子どもが苦手にしていることぐらい、分かっている。でもそういう意味で子ども扱いをする必要など、全くないことも分かっていた。景吾は私と同じか、下手したらそれ以上に大人な振る舞いをする。
「忍足の家で食ったのに似てるな」
「仲良しなのね」
「そんなんじゃねえよ」
傍から見たら十分仲良しだ。見ず知らずの女の家に迎えに来た忍足くんは、詮索などしないでおだやかに帰っていった。信頼している、とでも言えば少しは納得しただろうか。
「ごちそうさま」
「はい、おそまつさま」
きちんと手を合わせる景吾を見ながら、思わず笑みがこぼれた。最初にご飯を食べたときは、いただきますも言えなかったのに。
「また忍足くんが迎えに来るの?」
「いや。別のやつだ」
「…迷わないの?初めて来る人なんでしょ?」
「あいつなら大丈夫だ」
景吾は携帯の画面と壁掛け時計をちらちら見て、そろそろだな、と呟いた。驚いた。まさか食べ終わる時間を見計らって迎えに来させているのか。
ドアホンが鳴ったと同時に景吾が立ち上がる。一応インターフォンを取ろうとしたが、いい、と景吾に制された。
「じゃあな、百合」
「じゃあね。あんまり無理しないように」
「俺はそんな弱くねえよ」
玄関を開けた先にいたのは、ずいぶんと体格のいい男の子だった。景吾も私より大きいけど、その景吾よりまたずいぶん大きい彼。
「行くぞ樺地」
「…ウス」
大きな彼は一度私に向けてお辞儀をして、景吾の後ろをついて歩いていった。
「変なの」
景吾の手を取ったときに、いろんな面倒ごとも引き受ける気でいた。でも面倒なことなんて何一つない。暮らしにちょっと色がついた程度。色は、もちろん青。
end.
…初の夢小説です。あんまり夢ぽくない…?ヒロインの家で眠る跡部が書きたかったので、そこは満足。出来れば忍足と絡ませたかったけど、長すぎるので却下。残念。
お付き合いありがとう御座いました。多謝。
2005 7 5 忍野さくら拝