世界を変える方法
――世界を変える方法を知っている?
あの日の彼女の声が忘れられない。穏やかで澄んだ声。
――簡単よ。好きな人と抱き合えば世界は簡単に変わる――
校舎の屋上、手すりの手前で彼女は静かにターンして笑った。俺もつられて笑ったような気がする。今屋上に彼女はいなくて、俺は一人で空を見ていた。
「あーっ!!侑士こんなとこにいたのかよ!」
錆びた扉の立てる金属音に混じって岳人の声が聞こえて、仕方なしに身体を起こす。
「なんや、まだ部活には早いんちゃうん?」
「ちげーよ、昼休みに委員会あるんだよ、保健委員。朝言われただろ」
「そうやったかもしれへんなあ」
岳人に引っ張られるままに屋上を後にする。扉はやたら響く音を立てながら閉まった。昼休みだと言われれば少し腹が減ったような気がする。
百合がいなくなって二年。俺は無事に高校へ上がり、テニスのレギュラーも取れた。でも。
世界を変える方法が一つきりなのだとしたら。
百合と抱き合わない限り、俺の世界は永遠に変わらない。
委員会があっている教室に行く前に購買により、パンとコーヒーを買う。一つしかパンを買わなかった俺を不思議そうに岳人が見上げた。
「そんなんで足るのかよ?」
「俺は岳人と違ぉて食い意地張ってへんねん」
「何それムカつく」
ムカつくと言いながら岳人の顔は笑っている。シリアスに考えない。それが岳人の長所であり短所だった。
教室に着くと他の委員はもう来ていて、二つ空いている席に二人で座る。と同時に委員会が始まった。生徒会からの連絡事項と教員会議からの連絡事項を伝達して委員会は終わる。保険委員なんて実務がない委員だから委員会も楽でいい。
教室に残って昼飯を食べてしまう者、早々に立ち去る者などばらばらだ。岳人が早く教室を出たそうにうずうずしていたので食べかけのパンを袋にしまって立ち上がる。
「屋上行くわ」
「あ、おれも行く」
暇だったのか、岳人がついてきた。ついてくるなとも言えず、黙って重い扉を開けた。
「良い天気だよなー。跳ぶのに絶好ってカンジ」
「岳人は雨でもよう跳びよるやろ。ここで跳んだらセンセに見つかるで」
膝を屈伸させて跳ぼうとした岳人を寸前で止める。岳人はつまらなそうに顔をしかめた。
「一応立ち入り禁止だもんな、ここ」
立ち入り禁止ではあるけれど、黙認されているような気もする。屋上に繋がる階段を歩いていた生徒が咎められたことはない。
跳ぶのを止めたようだが、それでも跳びたそうに岳人は空を見上げた。確かに良い天気で身体を動かすのにはちょうどいいだろう。
「あれー侑ちゃんに岳人」
屋上のさらに上の給水塔から声が降ってきた。岳人と一緒に見上げると、日の光に反射して眩しい色の髪が揺れた。
「ジロ、またここおったんか」
「ここで寝るとすっごい気持ちE−」
そう言いながらまた眠りそうになっている慈郎のところへ行こうと岳人が階段に手をかける。給水塔の階段なんて今はとても熱くなっているだろうに。
最後のひとかけらを口に入れて、咀嚼しながらコーヒーを飲む。樺地なんかが見たら消化に悪いとか言われそうだ。
「岳人もここで寝るー?」
「眠くはねぇけどそれもいいかもな」
並んで横になっているだろう、チビすけたちを想像すると少し微笑ましい。
「侑ちゃんはー?」
「俺はここでええわ」
百合の残像が残るここがいい。慈郎はそっかー、とだけ言って寝たようだった。
百合。今どこにおんねん。
中学を卒業する少し前でいなくなった彼女は未だ行方が分からない。跡部に頼み込んで探してもらったが駄目だった。外国に行ったのだろうか。
百合。俺はずっとここにおるのに。俺の世界は変わらない。
逢いたくて、逢いたさだけでここにいる。ここに居ればまた逢えるような気がして。
ぎぎ、と重い扉が音を立てて開いた。ずいぶん人が集まるな、と思いながら注視すると跡部が立っていた。樺地もいる。
「よう」
「どないしたんや」
俺に用事があるらしいのは一目で分かった。跡部はくくっと喉にこもる笑い方をする。
「なんやの」
「祝いに来てやったんだよ。……明日、転校生が来る」
「それって」
途端に喉が渇いてうまく喋れなかった。転校生が来る。跡部が俺に知らせに来た。それは。
「秋月百合だ。さっき校長室に挨拶に来てたぜ。今は…生徒会室だ」
「って、お前に挨拶やったんと違うんか」
呆れながら言うと跡部はそんなこと、と鼻で笑った。
「一言で済んだぜ。それよりお前に知らせに来てやったんだよ。ありがたく思え」
「おおきに」
知らせに、のところで立ち上がった俺に跡部の笑い声が掛かって、ドアを閉めたと同時にそれは消えた。生徒会室はここからそう遠くない。一階降りて端の部屋が生徒会室だ。
逢ったら言おうと思ってたことはたくさんあった。でも、言葉は一つしか出てこない。
「百合!」
挨拶を終えたところだったのか、生徒会室から出てきた百合を呼び止める。思い切り走ったので情けないことに少し息切れがした。
「侑士」
二年前と同じイントネーション。二年前と同じ笑顔。
「おかえり」
「ただいま」
伸ばされる腕。服が重なって擦れるさらさらとした音。
世界が、変わった。
あんまりヒロインちゃんが喋ってない…。始まりのお話っつうことで。この二人は付き合っているのかいないのか、という微妙なラインにいます。
恋人未満。の設定がけっこう好きだったり。
お付き合いありがとう御座いました。多謝。
2005 7 31 忍野 さくら拝