オープンカー


何度か聞いたタイヤの音を耳にして、宍戸は少しだけ意識を外に向けた。もう迎えにきたのか。
「おら、集中しろよ」
素早く見咎めた跡部から厳しいリターンが返ってきて、かなり必死で追いつく。もう一瞬スタートが遅れていれば追いつけずに嘲笑を買うところだった。なんとか返したことで跡部はそれ以上なにも言わず、ラリーを続ける。跡部だって気がついているはずだった。
ブレーキ音の後しばらくして、コート脇に見知った人物の姿が見える。今日はベージュのスーツ。大人しい格好だ、百合にしては。
「これからミニゲームやって終了だ。…宍戸覚悟してろよ」
その一言で対戦相手も意味合いも一遍に分かってしまい、軽く天を仰ぐ。百合の前でみっともないところは見せられないが、跡部はそれを見せたがっている。跡部も百合のことをたいそう気に入っているから。
百合はじっとただ立っている。手を振るでなし、声を上げるでなし。コートが広すぎるここでは顔の表情までは見えなかった。跡部と自分以外は来ていることにも気づいていないはずだ。
「第一コートで俺と宍戸、第二コートで慈郎と忍足、第三コートで…」
跡部の声は尻切れにすぼんでいって、意識が一所に向かう。金網を挟んだ向こうへ。

またなんかあったんだろうか。こんな子どもに心配されたら終わりよ、と百合は言う。そのくせトラブったときには必ず俺たちのところへやってくる。心配してる、その一言も言えない。

がす、っと背中に何かが当たって、何かと振り向けば跡部の足だった。さっそくみっともないところを見せてしまった。跡部はにやっと笑ってラケットをくるくる回した。
「そんなんじゃ、また俺の勝ちだな」
跡部とやって勝てることはほとんどない。跡部が連戦の果てで、とか本調子じゃなくて、とかいろいろ条件がいる。今日は見たところ調子がいいし、勝てる見込みは薄い。でもだからと言って負けるつもりはない。

亮たちを見てると一生懸命っていいなあ、と思いなおせるのよ。

いつだったか百合はそう言った。前向きに思いなおせるのだと、そう言っていた。ならば。
「俺が頑張らないわけにはいかねーだろうよ」
大人の百合と子どもの俺じゃあ頑張る範囲も意味合いも違う。でも俺が百合に見せてやれるのはどこまでもボールに食らいついていく俺の姿だけ。ラケットで軽く腿を叩く。いける。
「フイッチ?」
「スムース」
俺はいつもスムースを選んでいる。運試しみたいなもんだ。今日は運がいいらしい。スムースだ。なんたって女神がいるしな。
「ザ・ベストオブ1セットマッチ、宍戸トゥサーブ」
審判の二年の声が響いて、試合が始まった。
百合が見ているということは、試合が始まってすぐに頭の隅へ行ってしまった。ボールと跡部、コートのラインだけが俺を支配して、そればかりに感覚を澄ませる。試合が終わってまた百合のことを思い出すぐらいに忘れてしまっていた。試合は6−2で跡部の勝ち。2ゲーム取れたのは俺も調子が良かったってことだろう。…悔しいけど仕方ない。実力だ。
「お前にしちゃ良かったんじゃねえの。公式戦にも呼んどくか?」
「…あいつの生活を乱すなよ」
俺には俺の生活があるように、あいつにはあいつの生活がある。生活サイクルの違いは仕方のないことで、俺はそれを遵守しようと思っていた。跡部みたいにお構いなしな振る舞いは出来ない。
ミニゲームの後クールダウンをして部活は解散になった。すぐにでもコート脇に行きたかったが、なにしろ部活後なので汗をかいている。それを流してからでも遅くない。百合はちゃんと待ってくれる。
シャワーの後、ほとんど必死で着替えてから(あまりの慌てぶりに日吉の嘲笑を買った)百合の元へ急ぐ。百合はコート脇で笑っていた。
「そんなに急がなくてもちゃんと待ってるのに」
「いいだろ。俺が急ぎたかったんだよ」
これは本音だ。俺が早く百合に会いたかった。百合はふっと笑って目を細める。
「お疲れ様」
「おう。百合も仕事お疲れ様」
「…ほんとに疲れたわ。ちょっと走らせたいんだけど、時間ある?」
「もちろん、いくらでも」
明日には学校があるし朝練もある。だからといって百合の誘いを断ったことは一度もなかった。百合だって明日も仕事なはずで、条件がフェアなら付き合わない道理がない。
校門の傍に黒いプジョーのカプリオレ。4シーターのそれに乗り込もうとドアに手をかけた途端、後ろから勢い良く飛びつかれた。
「亮ちゃんまたー!?」
「ジロちゃんこんばんは」
「ねえねえおれも乗っていい?」
慈郎は百合の挨拶を勝手にスルーし、俺に乗っかったまま百合に意気込んで尋ねる。
「ごめんね、今日は亮を乗せにきたから。また今度ね」
「絶対こんど乗るから!」
…その意気込みはなんなんだ。
「よう秋月」
「こんばんは、跡部くん」
「こいつにこれはもったいねえだろ。国産車のセダンで十分だ」
百合は跡部の言葉にただ笑って、私が乗せたいのよ、とだけ言った。百合が俺を選んでいるという、その事実に眩暈がしそうになる。
「じゃあまたね」
俺がそわそわしているのが分かったのか、百合はそう言ってドアを閉めた。といってもルーフが開いたままなので声も聞こえるし姿も見えるが。
「じゃあな。スピード出しすぎんなよ」
「ふふ、ほどほどにしておくわ」
「宍戸」
「なんだよ」
「明日遅れやがったらグランド50周だからな」
「了解」
俺が百合と会った翌日の朝練に遅れられないのは、こういったわけもあるのだった。跡部のやつ、毎回同じこと言いやがる。
「じゃあね亮ちゃん百合ちゃん」
「おう」
「またね、ジロちゃん」
百合がそう言って笑んだのと、ギアが入ったのは同時で途端に空間が区切られて百合と二人きりになる。身体は疲れているはずなのに、全身の感覚が冴えて、百合とのすべてに備えている。発される言葉、表情、空気、そんなものすべてを読み取ろうと。
「ねえ亮」
「ん」
「今日はどこにいく?」
「じゃあ、西」
東京なので南という選択肢はない。東京湾に出て終わりだ。西、で神奈川か東で千葉か(百合は飛行機を眺めるのも好きだ)北で埼玉、栃木か。方角は俺が決めていいことになっている。ただ、どこにつくかは百合次第で、行き当たりばったりに近い。ナビもつけないし。
「西ね。…今日は奥多摩に行こうかな」
「奥多摩?」
「亮は東京育ちだけど東京をあまり知らないのね」
「まあ、学校と家の往復しかしてねえし」
せいぜい買い物に出ても新宿渋谷原宿で事は済む。東京の西側になんて行ったことなかった。
「いまならきっと緑がきれいよ。さ、飛ばすわよ」
跡部が忠告しても百合はそれを守らない。オービスに見つかったらどうすんだ、と言ったらそんなヘマしないわよ、と返されて終了だった。現に百合が速度違反で捕まったり免停になったりしたことはない。なんて強運。確かに女神だ。
コンポからはレゲエのリミックスが流れている。


お題三つ目、オープンカー。ヒロインの車を何にするかで相当悩みました。ロードスターとかゴルフのカプリオレとかも良かったけど、イメージとデザイン性でプジョー。フェアレディZとかだとあからさまぽいかな、と思って…(でも個人的にはフェアレディZを一度でいいから運転したい)。
背伸びする子ども宍戸と大人ヒロインのお話でした。

お付き合いありがとう御座いました。多謝。
2005 9/7 忍野さくら 拝

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