The third day  Last day

 

頼んだルームサービスが届いたのは午後一時、たっぷり八時間以上寝たことになる。スリップドレス姿のまま景吾とダイニングで朝食を取った。朝食にシャンパンっていうのがちょっとアメリカン。景吾は欧州で育っているけれど、アメリカに行くことも多いしご両親とアメリカで過ごしたことも多いらしく、こうやっていろんなことの端々にそれを滲ませる。
「明日にはもう帰るのね。なんだか信じられない」
「俺はお前とここにいても構わねぇが、お前は仕事だろ?」
「ええ。29日の仕事納めまで、ばっちり入ってるわ」
本当を言うと、22日に半休を取ったので29日には休めなくなってしまった。なんてことないことだけれど、景吾に気を使わせたくなかったのでそれは黙っていた。
「…正月はどうするんだ?」
フルーツを食べながら、シャンパンを飲む。シャンパンと甘いものを合わせるのが私は好きで、昨夜もらったチョコレートも合わせようと持ってきていた。シャンパンは、ヴーヴグリコイエローラベル。さすがに、ハーフサイズ。
「どうしよう。このお休みのことばっかり考えてて、お正月のことは考えてなかったわ」
「実家に戻ったりするんじゃねぇのか」
「うーん…。戻ったほうがいいのかな。何も言われてないけど」
本当に何も考えていなかったので、首を傾げてしまう。親孝行したほうがいいのかもしれないけれど、うちは放任主義だし、まして社会人にもなった娘を短い休みに呼び寄せるような親ではない。正月は四日から仕事だ。
「一人でお正月ってのもいっそ清々しいかもしれない」
きっと景吾にはいろいろ用事があるだろうから。景吾のご両親と私は一度食事をしただけだが、景吾のご両親、特に父親がひどく忙しい上に社交的な人であることは分かった。跡部、と言えば名の通った旧財閥だ。景吾の父親はグループ企業をいくつか束ねており、景吾ももう少しでその一つを任されるのだろう。卒業後にMBAを取ると言っていたから、アメリカかヨーロッパに留学することになる。日本でも取れるけれど、元々イギリスの大学に行く予定だったのに日本の大学に来ているのだから、向こうに行くことは規定路線なのだろう。本人は一年で取る、といっていたけれど。旧財閥のお正月だなんて、想像するだに凄そうだ。
「……そうか」
食後のコーヒーを飲みながら、景吾はそう答えただけだった。





食後にゆっくり休み、私は持ってきていたサマセット・モームの『月と6ペンス』を波の上で読んだ。これを持ってこようと思ったのは、おそらく行き先が南国だろうと推測したからだけど、本当に舞台となった場所で読めるとは思わなかった。初日にもらったティアレの甘く強い匂いがよみがえる。景吾は私の隣で寝そべっていたけれど、急に思い出したように出かけていった。声を掛けて出なかったので、すぐに戻るだろうとページをめくる。
たっぷり本に浸かって、読み終えて現実に戻ってもここはタヒチで、なんだか本の中に舞い戻った感覚だ。
「…不思議」
「何が不思議なんだ?」
後ろから急に声がして、本当にびっくりして背筋が伸びた。景吾はそんな私を笑う。
「夕方まで暇だろ、どっか行きたいとこあるか」
『月と6ペンス』はゴーギャンの半生を描いた作品だ。そしてここはタヒチ。選択肢は、一つに決まっている。私はにっこりと笑った。
「ゴーギャンミュージアム」
「…了解」
景吾の一瞬の沈黙は、そのミュージアムに一枚もゴーギャンの本物の絵がない、と言いたかったのだろうと思う。知っているけれど、ゴーギャンに逢いたかった。あの、激情に触れたかった。



それからの行動力はさすがというほかない。こういうところは跡部の血なのかもしれない。フロントに電話をしてタヒチ島までの船とタヒチ島でのレンタカーを手配して、その後にも別のところに電話をかけていた。
あっという間に、ゴーギャンミュージアムの前に立っていた。タヒチ島の南にあるここは、あまり交通の便はよくないけれど、観光客の絶えない場所でもある。ほかにも観光客が何組もいた。
ひどく風の通りの良いミュージアムで、この地方の気候というか性質的な大らかさのようなものを感じる。様々な品を興味深く見る私を景吾は見ながら、ミュージアムの人と話をしていた。ゴーギャンと浮世絵のところを熱心に見ていた私を、向こうから景吾が呼び止める。
「百合!」
「なに?」
一瞬だけ目を戻してから、景吾のほうに近寄る。景吾はにやりと自信ありげな笑みを浮かべた。
「今から、良いモン見せてやるから、ちょっと着いて来い」
「ええ」
管理室、のようなところに連れてこられた。案内してくれたスタッフは、周りに他に誰もいないかを気にしているようだった。
「本当に、特別なんですからね」
「ああ。無理を言って済まなかった。この地でゴーギャンを目にしたくてな」
「お気持ちは分かります。跡部さまの頼みでございますから、特別に」
「……?」
このミュージアムに、ゴーギャンの本物はない。たまに複製を他の美術館から招いて展覧会をすることはあるらしいけれど。
「百合」
さらに着いていって、小さな部屋に通される。そこには、一枚の絵があった。
「!」
近づいていって、さらに目を凝らす。まるで見たことのない絵だったけれど、確かにゴーギャンの絵だった。本物かよく出来た複製かまでは分からない。でも、本物がここにあるはずがないのに。まして何の覆いも警備もなく、生の絵がむき出しであるなんて。
「本物だ。ゴーギャン、『夕陽』。この島に、というかタヒチ全土にある、たった一枚の本物がこれだ」
「すごい…」
景吾の説明もそのまま、絵に見入ってしまう。この激情、この力強さ。確かにこの人はこの地に呼ばれて絵を描いたのだと思わせる。魅入られたというべきかもしれないけれど。息が掛からないように、そっと手で口を覆う。古い絵の具はとてもデリケートだ。
「この方にお見せするために?」
「ああ。俺の大切な女なんでな。喜ばせたくもなるさ」
「そうでございますか。絵がお好きな方なんで?」
「…さぁな。感受性があるのは確かだが」
ほとんど、絵に魅入られていた。昨日の夕方、船で見ていたような夕陽がそのまま絵になって、目の前にある。しかも、ゴーギャンの激しい力強いタッチで。三原色だけで、描かれているのがよく分かる。赤く暮れなずむ太陽が海の青と溶け合う水平線など、ほとんど泣きそうな思いで見つめた。
「時間はそんなにないんだろう?無理を言ったからな」
「ですが、この方から引き離すのは、絵も寂しがることでしょうよ。個人所有の絵は、なかなか愛でていただけないものですから」
「だが、この絵はここにあるべきだろう。タヒチで死したゴーギャンの絵が、タヒチにないというのは寂しいものだ」
「全くです」
二人が何か話し込んでいるのは知っていた。耳に通るけれど、そのまま抜けていってしまう。もはや、五感はこの絵のためにだけ開かれていた。見つめすぎたせいで、目がしぱしぱする。顔を上げて瞬きを繰り返すと、景吾が隣に立っていた。
「もうそろそろ時間だそうだ。これは個人所有のもので、ちょっとだけ借りている。もう返すそうだが、いいか?」
「ええ……。本当に、ありがとう。素晴らしいわ」
「融通を利かしてくれたのはこの人と、所有者だ。俺は何もしてねぇよ」
景吾の言葉に振り向いて、後ろに立っているスタッフの手を取った。彼はにこにことタヒチ人らしい朗らかな笑みを浮かべている。
「トゥタフェットメルシ、ムッシュ(本当にありがとう)」
「アイタエペアペア(気にすることないよ)」
今まで何度も聞いたタヒチ語で返した彼は、やっぱり笑っていた。視界が、うっすらと滲む。ほとんど涙ぐみそうになりながら、景吾に顔を向けると、景吾もやっぱり笑っていた。手を伸ばして、ゆっくりと指で涙を掬い取ってくれた。
ゴーギャンの絵を見せてもらったことは、何よりの秘密らしい。それはそうだ。日本からの観光客に見せたとなっては、後々彼らが困ることになるだろう。だから、管理室からもそっと出て、そのままミュージアムを後にした。




ボラボラ島に戻る間についでにタヒチの島々を周って、雑貨屋なんかを見て回っていたら、あっという間に夕暮れが近づいてきた。ボラボラ島に戻ってすぐ、景吾はレストランに連れて行った。
「お腹空いたの?」
「夜出かけるから、ちょっと早いうちに食べたほうがいい。軽めにな」
景吾の言葉に従って、軽めの食事をする。珍しく、一滴も飲まなかった。現地の果物を搾ったジュースがとても美味しくて、私はそればかり飲んでいると、景吾は一言、太るぞ、と言って笑う。
「いいわよ。それでも景吾は私のことが好きでしょう?」
「…お見通しかよ」
「当たり前じゃない」
笑いあって、食事を終えた。食事を終えて部屋でゆっくりしていたら、景吾がいきなりジーンズを持っているか、と訊ねてきた。
「一本持ってきてるわよ。帰りにでも履こうと思ってて。なんで?」
「それ履いて、着替えてくれ。靴は…借りればいいか」
「?」
分からないまま、言われたようにジーンズをはいて、上にはキャミソールを着る。夜なのでパーカーを羽織った。昼間の日差しは強い場所だが、夜になるとクーラーが要らないぐらいに涼しくなる。
「どこに行くの?」
「馬に乗る」
「ええ!?」
景吾の後ろをついて歩きながら、思わず声を上げてしまった。
「乗馬は初めてか?」
「昔、何回か乗ったことがあるけど、それは子どものときのことだし…」
乗馬倶楽部に通っていた、というわけではない。母方の田舎が九州で、阿蘇にいったときに高原で乗ったことがあるだけだ。
「それならいい。ちょっと馬で遠出する」
「……それで、お昼のときに出かけてたのね?」
「ああ」
ホテルのスタッフに案内されて、牧場まで移動する。牧場に着くと、景吾はなにやらスタッフと話を始める。女性のスタッフが、ブーツを貸してくれた。ブーツを履いて準備を整えると、馬が何頭も表に出されていた。手助けを借りながら、馬に乗る。ものすごく久しぶりなので、ついこの高さと不安定さに臆しそうになるのだが、それだけは必死に堪えた。
馬は人の感情を読む。どうやって読んでいるのかは分からないけれど、怖いと思っているとそれが伝染して馬が緊張状態になるのだ。だから、馬に内心で笑いかけるぐらいの気持ち──要は安心感を持って──馬に乗ればいい。そうしたら、馬はつかの間のパートナーを認めて手綱の言うことを聞く。
手綱の合図だけを確認してから、馬の腹を思い切り、蹴った。スタッフの馬、景吾の馬に続いて私の馬が進んでいく。景吾の馬は白い馬で、私の馬は栗毛。慣れたコースなのか、馬は大人しくぽかぽか歩いている。
なだらかなコースを歩いているが、もうとっくに日が落ちていて、外は闇だ。本当の、闇。それでも明るいのは、月が空高く上がっているからだった。星も輝いていて、思わず空を見つめてしまいそうになる。
「しばらくしたら、休憩する」
「分かったわ」
それまでは、大人しく前を見ていろ、ということらしい。





もうだいぶ進んで、馬の鞍が上下する動きに腰の動きが合わせられるようになってしばらく、急に開けたところにでた。見下ろせるところを見ると、小高い丘のようなところなのだろう。そこには、何人かスタッフがいた。テーブルクロスの掛かったテーブルに、丸太の椅子がある。
「え?」
「さっき軽く、といったのはここで食うからだ。馬にも休息がいるしな」
そこに並んでいたのは、前菜のようなものばかりだったけれど、素晴らしい食事だった。スタッフが見せてくれたシャンパンのラベルを見て、思い切りびっくりした。それは、私が生まれた年のヴィンテージ・クリュッグだったのだ。
「すごい…」
「たまたまあったからな」
景吾はそう言って、なんでもないことのように笑った。軽い音で栓が抜け、泡とさーっという音と共にシャンパンが注がれる。
「メリークリスマス、百合」
「メリークリスマス」
たった二人のためだけに設えられた食事。味わううちにサービスのスタッフとも話が弾む。景吾が別のスタッフと話している隙に、スタッフの一人がこう耳打ちした。
「ミスターアトベは素晴らしい方ですが、それを射止めたあなたはもっと素晴らしい女性だ」
「ありがとう」
二人して笑いあうと、話を終えたらしい景吾が憮然としていた。スタッフは思わず景吾に笑いかける。
「本当に素敵な女性でらっしゃいますね」
「当たり前だ。俺の女だからな」
景吾は得意げになって、笑った。食事を終えて、景吾は私を連れて人気のない丘のさらに上に登る。景吾は横に立って、指で空を示した。
「あれ、見えるか。十字になってるのがあるだろう」
「見えるよ。ちっちゃな十字でしょう」
低い位置だったけれど、確かに小さな星が十字になって並んでいた。
「南十字星だ。the Cruxだな」
「本当に南半球なんだね…」
「あのな」
「なに?」
景吾はそこで一つ息を吐いた。
「大晦日に、俺の家でカウントダウンのパーティがある」
「…知ってるわ」
去年は友だちと約束をしてしまっていたし、一昨年はそれに出ないと景吾が言ったので二人で旅行をした。
「それに、ゲストとして来て欲しい。俺の、パートナーとして」
目を瞬かせる私の顔を覗き込むようにして、景吾の綺麗な顔が近づいてくる。
「俺に、エスコートさせてくれないか」
「私でよければ」
差し出された手に軽く手を重ねる。景吾はそのまま私を引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまった。
「百合」
「なに」
少し、痛かったけれどそれほどの力を込めている景吾の気持ちが嬉しくて、そのまま大人しく腕の中におさまる。
「お前、本当に最高な」
「だって、景吾も最高の男でしょ?」
「…違いねぇ」
そして顔を見合わせる。このとき交わしたキスを、私は一生忘れないと思う。










帰りの飛行機、本当はもっと時間に余裕があったのだけれど、ついつい遅くなってしまい、最終便に慌てて乗り込む。遅くなってしまったのは、遅くまでベッドにいたからなのだけれど。
「会社が終わるのは、29なんだったよな」
「ええ。29日に仕事納めをして、そのまま忘年会だから、その日は遅くなると思うわ」
「そうか。なら、30日の昼にでも迎えを寄越す。お前は、何も持ってこなくて──、いや、待てよ」
帰りの飛行機の中、疲れ果てているのに、話してばかりだった。
「前に一度着てきた着物、まだ持ってるか」
「どれのこと?」
「一昨年の正月に着たやつだ。桜柄の」
「ええ、持ってるわ。あのときは間に合わなかったけれど、あれにあわせて帯を仕立ててあったから、それと一緒にしまってあるわよ」
景吾はなにやら頷いている。
「なぁに?それを持ってくればいいの?」
「そうだ。その着物と帯、あとお前が着るのに要りそうなものは持ってきてくれ。ただ、他のものは要らない。細かいものもな」
「分かったわ。でも、パーティに着物って変じゃないの?」
パーティ、と言っても私は仲間内のものにしか出たことがないし、着物は趣味だ。おそらく欧州流だろう跡部家のパーティに着物が合うかどうかなんてさっぱり分からない。
「パーティはほとんど外国からの客で、日本人は俺たちぐらいだ。その中でお前が着物を着ていればさぞかし映えるだろうと思ってよ」
「…映えるっていうか、目立つの間違いじゃないの、それ」
「そうとも言うな」
さらりと景吾は言ってのける。どうせ景吾はきちんとフォーマルを着るのだ。私、目立つことは好きじゃないのに。
「分かったわ。短期間だけど、もうちょっと喋れるように頑張ってみる。ほとんど、付け焼刃だろうけど」
だって、あと一週間しかない。日常会話ギリギリレベルなのに、パーティで流暢な会話なんて、とてもとても。
「ほとんど英米からの客だから、英語だけでいい。ドイツ系とフランス系も少しいるが、英語で十分通じるしな。お前、フランス語喋れるだろう」
「…景吾のドイツ語と比べないで。私なんて、本当に日常会話レベルなんだから。今年は大掃除より英会話になりそう…」
盛大にため息をついた私の横で、景吾はくつくつと喉を鳴らして笑っていた。





いかがだったでしょうか。跡部さまとのクリスマスは、ここでおしまいです。本当は、クライマックスに花火を上げようかと思ったんですが、やりすぎだと思って止めました。そもそも、タヒチに花火あるのかっていう…(空からは持ち込めない。火薬は持ち込み禁止)。ほとんどのアクティビティは実際にタヒチで出来ることですが、ゴーギャンの絵(本当に実在します。キャノンのタヒチ代理店の人が持っているそうです)は見せてもらえないと思います(笑)。
そして、年末年始に繋がっていきます。それにしても、跡部家のパーティって、どうやって書けばいいの…?
年末年始に跡部さまとやりたいことなど、ありましたら拍手・BBSなどでリクエストしてみて下さい。五日間ありますので、今回よりはゆっくり過ごせるかと。

お付き合い、有難う御座いました。多謝。
2005 12 24 merry christmas!! 忍野桜拝

 

 

 

 

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