Happy Holidays  The first day

 

仕事納めの二十九日は定時に仕事が終わったけれど、それから忘年会で飲んでいたら結局家に帰ったのは三十日の一時を回っていた。化粧だけ落として、ほとんど倒れこむようにベッドの中で眠りについた。



ピピピ……
アラームの音に目を覚まし、手を伸ばして時計を見ると、いつもの時間だった。慌てて起き上がったところで、休みであることに気がつく。
「あ…」
時計は七時過ぎを指していた。大きく伸びをして首を回す。しばらくそのまま考えた後で、結局起きることにした。まだ何の用意もしていなかったことを思い出したから。
コントレックスを飲みながら、その足でお風呂にお湯を張る。昨晩の分もゆっくりお風呂に入った後で、簡単な朝食を摂った。休日の日課である掃除を簡単に済ませて、押入れから着物を取り出した。
桜柄の振袖は、上が白く裾が桃色になっている。上からはらはらと落ちた花が下で積もっているような、構図だ。裾濃の染め方がどうも好きみたいで、ついこういうのを選んでしまう。一緒に畳紙に包んであるのは金地の袋帯で、扇の模様になっている。仕付け糸を取りながら小物の色を考えた。半襟、帯締め、帯揚げ、バッグ、草履。考えなきゃいけないものがけっこう多い。
半襟を濃い朱にしてみたり、桃色にしてみたり、ためつすがめつして、濃い臙脂にすることにした。あとはそれに合わせて帯締めを決め帯揚げを決め、あまり数を持っていないバッグと草履はすぐに決まった。全ての用意をし終えた後、着物用の鞄に納めてしまう。
「…あ、そうだ」
髪の毛と化粧どうしよう。鏡台を漁っていくつか髪飾りを出して、鞄にしまう。化粧はいつも通り。
全部準備を済ませても、昼過ぎにはまだ時間があった。ネイルを落として、着物に合うように桜色のフレンチネイルにする。
ゆっくり昼ごはんを摂った後、化粧をして着替えをした。いつ来るとは知らされていないので、早めに。着替えた後に本を読んでいると、インターフォンが鳴った。
「はい」
「跡部家のものでございます。お迎えに上がりました」
「すぐ参ります」
インターフォンを切って、ハンドバッグと着物の鞄を持つ。玄関を開けると、そこにはよく見かける人が立っていた。
「秋月百合さま、景吾さまよりお迎えでございます」
「ありがとうございます」
景吾が迎えに来るときにいつも運転をしている男性で、彼はすっと着物の鞄を持つ。後ろをついていった。
やっぱり止められていたのはジャガーのSクラスで、彼はトランクに鞄を恭しくしまうと、後部座席を開けた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
中に乗り込んで、裾を整える。軽く扉の閉まる音がして、車が走り出した。
「…景吾さまは大変お忙しく、秋月さまのお迎えもご自身でなさりたかった御様子でしたが、スケジュールの問題で出来かねまして」
「やっぱり自分の家でパーティを主催するとなると忙しいものなんでしょうね」
「パーティの采配は奥様が主になさいますが、景吾さまが今年特に大変なのは、秋月さまのことがあるからなのです」
「私?」
彼の言うことが分からず、眉根を寄せる。何か余計な気遣いをさせているのだろうか。
「景吾さまが今回秋月さまをお招きしたように、パートナーを招かれたのは実は初めてのことなのです。景吾さまはお小さい頃こそよく年越しのパーティにも出席なさっておいででしたが、大人になられるに随い、お友達と過ごすことを優先なさいまして。景吾さまご自身が今回のようにパーティに出席なさるのも五年前以来のことです」
「…そうだったんですか」
話をしているうちに、豪奢な門をくぐって跡部家の敷地内に入っていた。大きな玄関口に車が止まる。玄関口には景吾の姿。運転手はすぐさま後部座席の扉を開けて、トランクから鞄を出した。運転手から使用人らしき男性に鞄は手渡される。景吾は玄関口の柱にもたれかかっていたが、身体を起こしてこちらへ近づいてきた。ゆっくりと車から降りる。
「五日ぶりだな」
「ええ。景吾、忙しいんでしょう?平気なの?」
景吾はふっと鼻で笑って、先に立った。後について跡部邸の玄関をくぐる。忙しそうに働いている人たちが、手を止め足を止めて、景吾に頭を下げていた。
「仕事ぐらいでお前を放っておくわけにはいかねぇだろ。呼んだのは俺だしな」
「ありがとう、景吾」
跡部邸に来たのは二度目で、一度は去年に夕食に招かれたのだった。滞在するのは初めてだ。大きな階段を上り、豪奢な部屋に通される。玄関口で手渡されていた鞄が先に置いてあった。
「お前の部屋はここだ。何か要るものがあれば、この電話で呼べばいい。すぐに使用人の部屋に繋がる」
そう言いながら、景吾は部屋にあるもう一つの扉を拳で軽く叩く。立派な装飾が施された扉。
「この扉の向こうが俺の部屋だ。繋がっている」
にやりと笑って、景吾は待ってるぜ?と呟いた。
「ねえ、ちょっと見せて」
「…俺の部屋かよ」
「ええ。興味があるの」
景吾はややあって頷くと、繋がっているという扉を開けた。通された部屋よりいくらか大きい部屋は、たいそうシンプルだった。
「ずいぶんシンプルね。自分で選んだの?」
「ああ。大学に入ってから時間が出来たからな。前は親の趣味でかなりごてごてした部屋だったぜ」
大きなベッドが部屋の中央にあって、ソファにローテーブル、スタンドライト。本棚にいくつかの洋書。
「仕事や勉強なんかは一階の部屋でしてるな。ここはリラックスするためだけの部屋だ」
ふかふかだろうソファには一匹の猫がいて、伸びをしていた。突然入ってきた人間に驚きもせずに、毛づくろいを始めた。毛並みのきれいなロシアンブルー。
「猫飼ってたのね」
「ああ。ボルゾイも一匹いるぜ。…モルガン」
景吾の声に反応してロシアンブルーはぴくりと身体を震わせ、しなやかな身体を躍らせて景吾の足元に擦り寄ってきた。にぁー、と鳴いているロシアンブルーを景吾は抱き上げる。
「名前がモルガンなの?」
「ケルト神話で戦いの女神の名前をつけた。小さい頃、こいつはけっこう好戦的だったんでな」
「触ってもいい?」
「ああ、いいぜ。ほら」
モルガンを両手で抱き上げる。ペットを飼っていたことはないので、こうやって動物に触れるのはひどく久しぶりだ。顔を撫でたり喉元を撫でたりしていると、モルガンは目をつぶってごろごろと喉を鳴らした。モルガンの様を眺めていると、いきなり部屋にノックの音が響いた。それはとても控えめなノックだったけれど、BGMのないこの部屋では、きれいに響き渡ってしまった。
「景吾さま、こちらにいらっしゃいますでしょうか」
「ああ。どうした」
「おくつろぎのところ、申し訳ありませんが…」
「分かった、すぐ行く」
ドアの向こうにいる誰かに向かって景吾はそう言った後、モルガンと私の頭を交互に撫でる。
「じゃあな。屋敷の中は自由に歩き回っていい。夕飯の前には戻れると思う」
「分かったわ」
景吾が出て行った後、扉がぱたんと無機質な音を立ててしまる。
「さて。どうしようかな」
モルガンがさっき坐っていたソファに腰掛けると、それは確かにふかふかしていて、思わず横に寄りかかった。モルガンは私の手から離れて、自由に動き回っている。
本棚を眺めたり、レコードのラインナップ(景吾の部屋にはCDもたくさんあったけれど、レコードが物珍しかった)を眺めたりして、過ごしていた。
「…秋月さま?」
さっき私が通された部屋に、誰かの声がしたので慌ててドアを開けて元に戻る。
「ごめんなさい、あちらの部屋にいたの。何かご用かしら」
メイドさんは慌てて頭を下げて、申し訳ありませんと言うのでこちらも慌ててしまった。
「別に暇だったからいいの、顔を上げて?どうかしたの?」
「…あの…奥様からの仰せで、秋月さまをお茶にお招きするようにとのお話がございまして、お招きに上がりました」
奥様、という単語に思わず背筋が伸びる。景吾のお母さんだ。
「ちょっと待ってて、すぐに支度するから」
備え付けの鏡台に姿を写して化粧を確かめ、髪をいくらか整えて、一つ息をする。いまさら取り繕ってもどうにもならないだろう。
「はい。もう大丈夫。案内して下さいね」
メイドさんは頷いて、先導して歩き始めた。



景吾のお母さんはとても綺麗な人で、なんていうか、王妃さまとか女王さまみたいな貫禄のある人だった。威厳、と言えばいいのかもしれない。跡部の家に嫁いで、景吾を産んで育てた人。
明日のパーティの話に臨むにあたって必要なことをいくつか教えて下さったのだけれど、その話を聞いて私は内心竦んでしまった。
『あなたをみなさまにお披露目したい、と景吾が言うの』
『…その、みなさま、というのはどなたのことなんでしょうか』
『跡部と付き合いのある家の方や、取引のある家の方々よ。中には景吾と同じぐらいのお嬢様をお持ちの方ももちろんいらっしゃるわ』
景吾のお母さんは決して確かな言葉を言わなかったけれど、言いたいことはさすがに分かった。景吾には、お見合いのような話が来たことがある、もしくは来るだろう、ということだ。私みたいな市民では全然分からないけれど、政略結婚とか今でもあるのだろうか。
お茶が終わって部屋に戻っても、ずっとそのことを考えていた。パートナーとしてお披露目されるという、私。
「…恥じない振る舞いをしないとね」
景吾のために。私のことはどう言われても構わないし、別に何を言われても平気だけれど、私が何か未熟な所為で景吾まで悪し様に言われるのは我慢ならない。景吾は私を選んだのだから。もちろん、私も景吾を選んだわけだけど。
「あー、英語大丈夫かなぁ…」
所作は景吾といるようになってからだいぶ鍛えられたけれど、英語ばかりは普段使わないので、どうにも心配だ。




その日の晩御飯は、わりとなごやかな雰囲気で終わった。景吾のご両親と会うのは二度目だし、緊張はするけれど、そこまで困ることは何もなかった。それでも疲れていたのか、その日はぐっすりと眠ってしまった。
「おはようございます」
声と同時に視界が明るくなる。窓際に立っていたメイドさんがカーテンを開けていた。
「おはようございます…」
「朝食まではしばらく時間がございますので、ごゆっくりお支度なさいませ」
「ええ…」
ベッドサイドに温かな紅茶が置かれていて、ゆっくりとそれをすする。すすったときに、自分が好きなダージリンだと気がついて一気に目が覚めた。偶然かもしれないが、もし景吾が憶えていてそれを頼んでくれたのだとしたら、とても嬉しい。
今日は、三十一日。今年最後の日で、パーティの当日だ。窓を開けて、冬の冷たい空気を思い切り肺に入れる。冷たくて瑞々しい空気で、きん、と頭が冴えた。
「よう」
繋がっているドアから景吾が姿を見せた。私は用意されていたネグリジェ姿、景吾はガウン。
「おはよう、景吾」
「おはよう。今日だぜ」
「…それを朝から言わないで…。とっても緊張してるんだから」
「なんでだ?お前は、普通にしてりゃいいんだよ。俺の自慢の女なんだからよ」
「ありがと」
景吾の笑顔で、一日が始まった。




朝食を共にとったのは景吾と私で、ご両親はなにか用事があるということだった。景吾はいつものことだ、と言って平然と食事をしている。実家にいるときは家族全員で食事をとるのが常だったので、少し驚いた。
朝食をとった後、景吾はやっぱりなにか仕事があるらしくて、書斎にこもった。私はメイドさんに案内されて、広い跡部邸の庭を散策する。本当に広くて、いつもながら驚かされる。一角に綺麗な薔薇園があった。景吾のお母さんの趣味なのだという。薔薇は冬の品種がいくつか咲いていた。一番の盛りはやはり初夏で、その頃はとても素晴らしい眺めなのだと彼女は言っていた。温室もあるというので、入れてもらう。ガーデニングが趣味として流行ってもうだいぶ立つけど、本当のガーデンってこういうことなんだろうな、と思った。芝生にトピアリーがあって、一角には薔薇園があったり温室があったり。小さな森みたいなものまであった。さすがに、日本庭園はないかと思いきや、一階の客間に面したところは日本庭園として設えてあるのだという。外国のお客様が喜ばれるのだそうだ。
この寒いのにも負けずに咲いている花をいくつか切って、景吾の部屋に活けようと運んだ。メイドさんが花瓶を持ってきてくれた。
「秋月さま」
「なに?」
昨日、私を景吾のお母さんのお茶に案内してくれたメイドさんが、ずっと私に付き合ってくれている。彼女が出窓に置いた花瓶に花を活ける。
「景吾さまとはどういった出会いでいらっしゃったのでしょう?」
「…出会い、ねぇ」
「プライベートなことを不躾にお尋ねして申し訳ありません!」
彼女ががばっと頭を下げたので、慌てて彼女の肩に手を添える。
「いいの、いいの。だって私と景吾は学校が同じわけでもないし、不思議に思うのも仕方ないわよね」
「今まで、景吾さまがご自宅にお連れなさるのはご学友の方ばかりでしたので、つい…」
「話しても多分景吾は怒らないと思うけど、これ、他の人には内緒よ?景吾のご両親とか、執事さんとか」
彼女が神妙に頷くので、花を活けた花瓶を残して私にあてがわれた部屋へ移動した。ソファに座る。
「景吾と最初に出逢ったのは、今から五年ぐらい前よ。景吾は高校生で、私は大学生だった」



高校生がいてはいけない場所に、景吾は忍足くんたちと姿を見せていた。互いに常連であることは分かったけれど、景吾にはそのとき連れている女の子がいたし、私は一人だった。話す機会もないまま、時間だけが経っていった。季節が巡り景吾の隣は幾人か人が変わり、あるとき、私の前にロンググラスが差し出された。ロンググラスは注文していなかったので、バーテンのほうを見ると、バーテンはカウンターの端にいる景吾を指さして、あちらさまからです、と言う。同じものを彼にも、と言ってグラスに口をつけた。ロング・アイランド・アイスティ。スピリッツをいくつか足して、レモンジュースで割ったかなり強いカクテルだ。景吾は自分の前に差し出されたグラスを持って、私の隣に腰掛けた。私はただ、そのさまを見ていた。
「お前、強いんだろう?付き合えよ」
景吾は、私が強いカクテルばかり飲んでいることに気がついていたらしい。いいわ、と言ってグラスを重ねる。それだけなら、ただのありふれた話だけれど、その次に彼が頼んだのがタンカレーのストレートだったことが、今まで続いている関係を始めたといっていい。
「タンカレーをストレート?あなた、ジンが好きなの?」
「ああ、ロンドンジンが特にな。お前も好きなんだろう?」
前は、この店ゴードンしか置いてなかったもんな、と言って景吾は笑った。タンカレーを置くようになったのは、私がいつか頼んだからで、それを景吾は見ていたらしい。
「ジンをストレートで飲む女の顔を見てやりてぇと思ってた」
「で、どうなの?見たじゃない?」
景吾はにやりと口の端を上げ、ショットのタンカレーを一気に飲み干した。
「…悪くない」
「ありがとう」
タンカレーのショットをいくつか二人で明け、気がつけばベッドで朝を迎えていた。
「じゃあね、高校生。あまり悪さしないのよ」
大人ぶってそう言った私の腕を景吾が掴んだ。振り向いて景吾の目を見た途端、私はそこから逃げられないことを知った。深い、ロイヤルブルーの瞳。
「百合」
一晩過ごした女として、ではなく、隣に立つ女として私の名前を呼んだ。するりと腕を外して、よくあることのようにここから去ればいい。なのに。私はそこから動けなくなってしまっていた。景吾は腕を掴んだまま立ち上がり、ぐい、と私の身体を引き寄せて抱きしめた。逃げられない。
「俺の女になれよ」
彼の名前も、その後ろにあるものも、そのときには全て私は知っていた。仲間に跡部と呼ばれていた彼は、跡部の跡取りらしい尊大な態度を見せていたし、ニュースなんかで景吾の姿を見たこともあった。
「どうしようかな」
精一杯気取った声で答えていたけれど、そのときにはもう自分で分かっていた。この男から逃れることなど、出来ないのだと。景吾と初めて出会ってから、二年経っていた。



そして、今も私は景吾の傍にいる。もちろん、一晩云々の話はメイドさんに出来なくて、お酒の趣味が一緒だったこと、そこから仲良くなったことを話した。
「だからなんですね」
彼女が急に得心したように頷くので、私は首を傾げた。
「いつだったか、詳しくは憶えていませんが、景吾さまがタンカレーをお求めになったことがありまして」
この屋敷には、旦那様のご趣味でワインとブランデーしかないんです、と彼女は続けた。
「お客様をおもてなしするために、いろんな種類のお酒を置いてはいますが、ご家族の方が飲まれる分はワインとブランデーしか置いてありませんでした。でも、いつだったか、景吾さまがタンカレーでもゴードンでもいいから、欲しいと仰られて」
「そうだったの」
「厨房のスタッフが慌てていましたよ。バーカウンターにジンはありますが、それは景吾さまのお求めになったものではなかったらしくて。次の日にはタンカレーとゴードンがダースで置いてありましたけど」
彼女はそのときのことを思い出したのか、くすくすと笑う。
「それから、景吾さまは折々タンカレーを飲んでいらっしゃいました。ストレートで飲んでしまわれるので、執事など冷や汗をかいておりましたが」
「それはそうよね。スピリッツだもの」
彼女と話していると、部屋のドアがノックされる。
「はい」
「秋月さま、昼食でございます」
「分かりました、すぐ参ります」





いかがでしょうか。長くなるので、とりあえずここで。跡部邸での暮らしです。三十一日の夜にカウントダウンのパーティがあって、その後は跡部と一緒にお正月です。
いまさら正月話…と思わないでもないですが、とりあえずお付き合いくださると嬉しいです。あと3話ぐらいです。


お付き合い有難う御座います。多謝。
2006 1 13 忍野桜拝



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