Happy Holidays The Last day
「百合、百合」
身体をゆっくりと揺すられる。耳に届いているのは景吾の声。
「けいご…?」
「着いたぞ」
着いた。どこに?
自問した瞬間に目が覚めて、一気に頭がクリアになった。
「…ここは、どこ?」
流れ込むひんやりとした空気。それは景吾が後部座席のドアを開けたまま私を起こそうとしていたからで、車はとうに止まっていた。外の景色を見ようにも、暗くてあまりよく分からない。日本家屋風の門に明かりが灯っている。
「栃木にある旅館だ。…降りられないなら、降ろしてやろうか?」
景吾はにやりと笑って両の手を伸ばす。その手に甘えたい気もしたけれど、首をゆるく振った。
「大丈夫、動けるわ」
私はパーティやその準備で疲れた分、今まで寝ることが出来たけれど、同じだけ疲れたはずの景吾は今までずっと運転していたのだ。
景吾は私を伴って、すたすたと宿の中に入っていく。チェックインなどなにもせずに。門をくぐって玄関の戸を開け、居間らしき部屋に着いたら、私の荷物と景吾のバッグが置いてあった。私が景吾の家に置いてきたはずの荷物全て。
「ここは離れだから、人目を気にしなくていい。…箱根に行こうかとも思ったんだが、正月は混むしな」
「…そういえば、そうね。駅伝か」
壁にかけられている時計を見ると、駅伝のスタートまで五時間を切っていた。景吾は大きく伸びをして、窓に近寄っていく。隣に立った。冬の関東はよく晴れる。今夜も晴れ渡っていて、月明かりが煌々とあたりを照らしている。目を凝らさずとも、星の姿が確認できた。周りには自然が多いのか、うっそうとした気配が漂っている。
「たまには日本家屋も悪くねぇな」
「私はけっこう好きよ、こういうところ」
景吾は満足そうに頷いた。彼の腕に腕を絡ませる。景吾は驚きもせずに指を絡めて手を握った。
「正月が過ぎたらまた忙しいんだろう?」
「…ええ。景吾の春休みには少しぐらいまとまったお休みが欲しいもの。頑張って仕事しなくちゃ」
今の仕事は忙しいし大変だが、充実感がちゃんと伴っていて、満足している。仕事が全てという性質ではないし、人生を充足させる術ならばもう持っていた。今、隣に立っている。
「もう遅いし寝るか」
「そうね。……あ」
「なんだ」
縁側から居間に戻ったところで、はた、と思い当たって立ち尽くす。何も持ってくるなって言われてたから、あたしは下着以外の着替えを持ってない!明日一日ぐらいは同じ着物でいいとしても、三日も同じ着物着るのも変だし、この硬い帯も一人で結べるか自信ないし…。
百面相をしている私がツボに入ったのか、景吾は笑っている。
「百合」
「なによ」
「お前の服なら持ってきてる」
「あ、そうなんだ…って、え?」
まさか私の家から!?景吾なら、っていうか跡部家ならやりかねない。再び百面相を始めた私の頭の上に、ぽん、と景吾の手が置かれた。
「お前のサイズぐらい、知らねぇ男だと思ったのかよ。そんなもん全部知ってるぜ」
「……そうなの…」
景吾はよく使うバッグを開けて、いくつかの服をこちらに寄越した。景吾の好きそうな服だ。
「寝るぞ」
「あ、うん」
振袖を脱いで(景吾が手伝ってくれた)、旅館の浴衣を着た後で振袖をたたむ。さすがに畳紙はなかったので、旅館の桐ダンスにしまっておいた。
「景吾、お風呂」
「あ?ンなもん明日でいいだろ」
「…分かった」
時計が四時を回った頃、景吾と私は眠りについた。
「跡部さま、おはようございます。お茶を淹れに参りました」
「ああ」
布団が敷いてある間と続きになっている居間に、仲居さんの声がする。景吾はもう起きているのか、やはりそちらから声がした。
「お連れ様の分はどういたしましょう?」
「…お願いします」
「百合、起きたのか」
簡単に浴衣の崩れを直して、髪を梳かしてから居間に出る。仲居さんがあけましておめでとうございます、と晴れやかに告げた。
「おめでとうございます。少しの間ですが、よろしくお願いします」
用意されている座布団に座る前に、畳に正座して頭を下げる。心づけを渡したほうがいいのだろうが、昨夜用意をし忘れていて今は手渡せない。後から、折を見て渡せばいいだろう。
「そんな、頭を御上げくださいまし。精一杯、お世話させて戴きます。何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「はい」
景吾の隣に座りなおして、仲居さんの淹れたお茶を戴く。景吾は隣で経済新聞を読んでいた。
「もうしばらくで、朝食の準備に参ります。それでは失礼します」
お茶と、おめざのお菓子を戴く。のし柿だ。ゆっくり齧りながらお茶を飲む。景吾は新聞を読み終えたのか、たたんで座卓に置いた。
「景吾、今日の予定は?」
「…特にねぇな。あのまま家にいても年賀の客で煩ぇし、面倒くさい。ここなら静かでゆっくり出来る」
そう言って、景吾もお茶を飲んだ。
「そう。お正月ぐらい、静かでゆっくり過ごすのもいいわね。もう英語に迫られることもないし」
私が言うと、隣の景吾はぷっと吹き出す。
「あのね景吾」
「百合な、お前もうちょっと自信持てよ。日本人としちゃ、十二分の出来だぜ」
「そう言われても、身近にすごーく出来るお手本があるんだもの、悔しいわよ」
全く出来ないことなら悔しくもない。テニスのルールは分かるし、ラケットでボールを打つことも出来るけれど、私では景吾を満足させられるようなゲームは出来ない。こればっかりは、全く出来ない。でも英会話なら頑張れば上達するのだし、日々馴染んでいればいい話なのだ。つまり、私の勉強不足。
「…そうだな、お前が英語で夢を見るぐらいになったら、エディンバラに行くか」
「エディンバラ?景吾の御祖母さんがいるところ?」
景吾はクォーターで、スコットランド人の血をひいている。なので、髪の色素は暗いオリーブ色をしているし瞳はブルーがかった色をしている。本当に小さい頃はスコットランドで育っていて、ご両親のお仕事の都合でアメリカにいたこともある。小学校(氷帝の場合は幼稚舎)から日本のあの御家で暮らしているのだと言っていた。
「ああ。御祖母さまに紹介する」
景吾はこともなげにそう言って、のし柿を一口齧った。食べたことのない食感だったのか、眉間に皺が寄っている。
ご両親に紹介されていて、家に泊まることすら許されている。そして、御祖母さんに紹介される。その先のことを考えないでもないけれど(だって私はもう四捨五入したら30になる)、考えていても仕方ない。打算的になるのは一番嫌いだ。景吾はまだ若いし学生なのだから、選択肢を常に与えていたい。年上の私が彼にしてあげられる、数少ないこと。
おせちの朝食をいただいた後で、景吾と二人外に出てみることにした。お正月の朝は空気が澄んできれいなのだと私が言ったから。
「…寒くないか」
「平気」
浴衣に丹前を羽織った姿で離れの周りを散策する。生垣の近くに椿が植わっていた。今が盛りとばかりに咲き誇っている。つやつやとした光沢のある硬い葉、厚い花びらを数枚重ねただけの花。
「カメリアか」
「…La Traviata(道を踏み外した女)」
オペラ椿姫のイタリア語題は、椿姫、ヴィオレッタの独り言をそのまま題にしている。高級娼婦の過去を持っているが故に、幸せを阻まれ病に倒れたヴィオレッタ。真実の愛を手に入れた瞬間に事切れた彼女。
ふいに、後ろから抱きすくめられて、一瞬息がとまる。あまりにも、腕の力が強くて確かでそして真摯だったから。
「お前は何も考えなくていい」
「……ええ」
「俺の傍にいろ」
ヴィオレッタのように、身分の差に悩み愛に臆病になり人に幸せを取り上げられることはないのだと。ただ愛していればそれでいいのだと。景吾がそう言いたいのは痛いほど分かった。目を閉じていても、景吾の表情が分かる。それぐらい、私たちは一緒にいた。
「離れるな」
それは命令で、願望で、祈りだった。
神を信じず畏れない景吾が、祈る全て。私が自分の元を去っていかないように。
「離れないわ。…離さないで」
あなたが、私を離さないというのなら、私は必ずあなたの傍にいる。いつか時が来て、あなたが私を離すことがあれば、そのときはそっと離れていく。あなたの負担にならないように。
「離すわけがねぇ」
そう言いきれる景吾の力強さと若さに、目が眩んだ。
永遠なんてないと二人とも知っている。けれど、それでも、あなたは離さないと言った。ならば私は離れない。ずっと。
……ずっと。
end.
いかがでしたでしょうか。跡部さまとの年末年始。この二人がどこまで行くのか…は未定ですが、このままだと婚約でもしそうな勢いですね(笑)。跡部と一緒にいるというのは、いろいろ大変だと思います。
イベント夢は楽しいですね。次はバレンタインか…。
お付き合い、有難う御座いました。多謝。
2006 1 15 忍野桜拝