諸戀 第十二幕 振り返る闇

賀茂の臨時祭が無事執り行われた日からしばらく、師走を迎えた。立て続けに儀式の多い睦月に向けて、内侍所はますます忙しくなっている。典侍や掌侍たちは儀式に伺候するにあたってふさわしい衣を調えるため、職務以外でも忙しい日々が続いていた。楓は大嘗祭で紅の薄様の衣を新調したので、睦月にもその衣を着ようと思っていたのだが、古めかしい母親が元日に衣を新調しないなんて、と強いて言うのでそちらにお任せすることに決め、仕事に身を入れて打ち込んでいた。
ある日の夕刻、主上が非常に難しいお顔をなさっておいでなので、楓はそっと様子を伺う。
「いかがなさいましたか」
「…もうそろそろいいだろうと言うのだよ、左大臣が」
さきほどまで孫庇に幸村左大臣がいたが、そのことでお悩みだったのか。もうそろそろ、というのはどういう意味なのだろう。もしや…。
「新たにお立ちになる宮のことでございますか」
主上は重々しく頷かれ、尚もお悩みの様子だった。
女御までは臣下だが、立后して中宮・皇后になると皇族になり、后の宮と呼ばれるようになる。主上には女御が三人更衣が二人いらっしゃって、御匣別当や尚侍も寝所に侍っているので、妃の数は多いほうなのだが、后の宮がおいでではなかった。
「藤壺を后にしてやりたいとは思うのだが、ほかの者たちがどう思うであろうか…」
主上が藤壺を寵愛なさっていることは誰の目にも明らかなのだが、心根がお優しい主上は他の妃たちの心情を慮ってなかなか踏み切れないでいるらしかった。性質が柔和な主上らしいお悩みである。先代の院や春日院はわりにはっきりとご自分の思いを仰り、先立っていろんなことをなさるお方だったと楓は聞いている。
「幸村の左大臣さまは何と仰っておいでなのですか」
「元日の朝拝に私と后の宮が共に揃って皆の前に出御するのが良いのでは、と言っていたよ。確かにそう思うこともあるけれど、ほかの者たちは心中穏やかであるまい。私の元に来たからには皆に心安く過ごして欲しいものだが、それは難しいことなのかもしれないな。楓はどう思う?」
一介の女官が口を挟める問題ではない。主上の思い如何の問題だけでなく、政治的な問題である。しかし、今の時勢を考えると藤壺以外に后に相応しい人物がなかなかいないのも事実だ。主上の寵愛、出自、その御性質など全てを兼ね備えておいでだと見受けられる。
「…私ごときが口を挟んでよい問題ではございませんけれど、もし主上がどなたかを后の宮とお決めになりましても、ほかの妃の方々は主上のご決断をお受け入れになり、それぞれお幸せにお暮らしになると思われます。女の身にとりまして、主上のお傍に居ることこそ至上の幸せにてございますれば」
「そういう楓が私のところに来てくれなかったのが一番残念だが、楓のお父上との約束があるからな」
まだ諦めてなかったのかこの人は…。楓はやや呆れ気味で主上を拝する。
「私は主上のお世話をさせていただくのが幸せでございますから」
主上はいくぶんがっかりしたご様子で楓を見ていたが、一つため息をつきなさって、声を上げなすった。
「頭の弁ここに」
衣ずれの音がし、また鳴る子板の軋む音が聞こえ、孫庇に仁王がまかり出てきた。
「参りましてございます」
「左大臣に立后の宣命を作らせるよう申し渡せ」
「承りまして」
仁王は深く頭を下げて殿上から去っていった。主上はまたも大きなため息をおつきになる。
「母宮にもご連絡いたそう。藤壺立后とあらばさぞ喜んでいただけるだろう」
主上の母宮は左大臣の妹御で、藤壺にとっては叔母にあたる。楓は御硯箱を引き寄せて差し出した。主上は手ずから筆をお取りになり、楓の差し出した料紙にすらすらとしたためていく。文机に文を置いて、筆を置かれた主上は不意に楓をまじまじとご覧になった。
「…いかがなさいました」
幾分きまりの悪い思いを覚えていると、主上は尚も楓をご覧になりながらお話になる。
「私のところに来なかった楓が誰を選ぶのか、とても関心があるよ。様々な公達に文をもらっているとか」
公達に文をもらっていて、全く噂にならないことなどないのは分かっていたのだが、こうやって主上からご関心を寄せられるのは予想外で、楓は一瞬狼狽した。
「何を仰っていらっしゃるのか、とんと分かりかねます」
「いろいろ聞いているよ。中務卿が繁々と文を送っては温明殿にも訪ねていっているとか。さきの頭の弁とも文を交わす仲だそうだが」
どうやらすっかりご存知らしい。こうあっては言い逃れ出来ないか、と楓は腹を決めた。
「仰る通りでございますが、皆様物珍しさ故御文を下さるのです。どなたかと…といった心はございません」
楓がそうきっぱりと答えると、主上はややあってふっと笑みを浮かべられた。
「さあ、どうなるかは誰にも分からないことだからね。宿世の縁が強いものが誰なのか、我々には探る術がない。しかし楓」
「はい」
「楓がどのような決断をしたとて、私はそれに賛同して支えてあげよう。お父上とて私の話なら聞いてくださるだろうから」
「恐れ多いことでございます」
主上は楓が自由に振舞っていいと仰せだった。誰を好きになり、誰のものになるのも楓の自由だと。楓の父親をも説き伏せるというのだから、並大抵のことではあるまい。楓は恐縮して頭を深く下げる。困ったことを仰ることもある方だけれど、人の心がお分かりになるお優しいお方だ、と主上の仰ったことを深く胸にしまい込んだ。









立后の宣命を作らせるよう勅が下って後、藤壺立后の宣命が下り、藤壺は中宮となった。藤壺中宮の御元に公卿たちが代わる代わる参っては言祝ぎをし、左大臣に祝いの言葉を述べていく。楓も新たに中宮にお仕えする女官として掌侍や命婦、女嬬たちにしっかりと礼儀作法を教え様々なことを言い含めた上で中宮の御座所である藤壺に奉った。藤壺中宮がもし御子をお産みになることがあり、それが男児であったなら、藤壺中宮は後々国母となることが考えられる。より一層の配慮が必要になってくるのだ。
幸村の家は宣命を作らせる勅が下ってからというもの、終始華やかな雰囲気に包まれていた。左大臣の妹御が国母であり、その娘が次代の国母にもなろうかという地位にいる。幸村の一門の栄華は永久に続くかと思われ、また宴に訪れた公卿・公達もそのように言祝いでは酒を酌み交わしあった。
「おめでとう、と言うべきじゃな」
「…ありがとう。僕が何をしたわけじゃないけどね」
言祝いだ仁王に幸村は笑って答え、さされた杯を空にする。仁王は自分の分を手酌で酌んだ後、同じように空にした。
「主上がご決断なされたとき、仁王がお傍に居たと聞いているよ」
「俺は何も。ただ左大臣に主上のお言葉を伝え申し上げただけじゃ。そのときは楓典侍も主上のお傍におった」
楓典侍、という言葉に幸村だけでなく真田や柳生たちも反応した。
「取り立ててお勧めしておったわけじゃなか、主上のご心配事を解きほぐしてさしあげとった、という感じじゃな」
「…楓典侍は主上の寵が篤くてらっしゃるな。宿直に、ということは聞いたことがないが」
主上が誰を御寝所にお召しになったか、ということは公的な記録として記されている。御子がお生まれになったときに照らし合わせることがあるからだ。あまりみだりに見るものではないが。
「俺も聞いたことがなか。主上は日が高いときこそ楓典侍をご寵愛になっておるようじゃが、宿直なさっておいでなのは専ら藤壺中宮じゃ」
もし、仁王や幸村の知らぬところで楓が宿直をしているということであれば、大変なことになる。女人の宿直はすなわち御寝所に侍り夜を共寝することであるから、その女人は主上の妃もしくはそれに準ずる存在であると言える。主上の妃に懸想するのは苦しい片恋だが、密通したとなると罪になりかねない。主上の御物を盗むに等しい扱いだからだ。
「何を話し込んでおるのだ」
近くに居た真田が黙りこくった二人を不審に思って近寄ってきた。幸村はいつものようにほがらかに笑う。
「楓典侍どののことをちょっとね。真田はもう文を差し上げた?」
「…うむ」
重々しく真田が頷いて、仁王は小さく口笛を吹いた。あの堅物の真田が女人に文を送ろうとは。恋は人を変えるもんじゃねえ。
「お返事はあったのかい?」
「うむ。白楽の玉蘂花が書いてあった。たいそう美しい御手であった」
玉蘂花の詩は仕事に忙しい官人が花の盛りが過ぎて散っていくのにも気がつかないだろう、という内容の詩だ。幸村は玉蘂花の詩を思い浮かべて微かに笑みを浮かべた。楓典侍らしい、手厳しい返事だ。
「楓典侍どのは男手の覚えも深くていらっしゃるから、話していて楽しいと中務卿(跡部)も仰っていたよ」
「幸村は典侍どのとお話したことがあるのか」
幸村はゆっくり首を振る。
「いや。真田たちと一緒に大嘗祭の後お伺いしたきりだね。お伺いしたいとは思っているんだけど、公私ともども忙しい折で」
大嘗祭の後は臨時祭の調楽や試楽で忙しかったし、立后の働きかけをするにあたっても忙しかった。ひとまず妹の藤壺は立后したし、これで落ち着くだろう。幸いなことに公の行事もまだ少ない折だ。
「真田もいつかお伺いするといいよ。僕も折を見てお伺いしようと思っているし」
幸村たち公達が楓典侍のことを話している間にも、左大臣やそれに追従する人々はさまざまな詩や歌を謡っては宴を盛り上げていた。そしてその宴は宵更けて、曙まで続くのだった。






楓はすらすらと動かしていた筆を止め、硯箱の中に収める。文机には観音経が写経された薄鈍色の紙。霜月から行っていた写経がようやく終わり、楓は小さなため息をついた。これを長者さまにお納めして、本当にそれで忘れられるのだろうか。忘れなさいと言われたことはあった。喪が明けても尚悲しみに暮れる楓を見かねた幾人かの人がそう言ったことを楓は覚えている。前の世の縁が薄かったのだから、忘れてもっと縁強い方とお逢いして幸せになるのがいいと何度か言われた。それはそれで真理なのかもしれない、と思う心がないわけではない。けれど、そんなこと到底無理なことだと楓には分かっていた。嫌なことも容易に忘れることは出来ない。まして、良いことを忘れられるわけがない。殿との全てのことは良いことだった。
「御仏名が近くなりますと長者さまも御忙しゅうございましょうから、すぐにでもお納めしてまいりましょう」
「…私、直にお会いしてお納めしたいのだけれど、構わない?」
「もちろんでございます。長者さまに御文をお書きなさいませ。私が持って参りましょう」
この写経した観音経は楓にとってただの追善供養の域を超えている。もっと重要な意味を持っていることをもちろん汀は知っていたので、一も二もなく頷いた。楓はさっき置いた筆を取って料紙に書き付けている。時候のお伺いの態をとった文を陸奥紙で包んで立文にしたて、汀に手渡した。
「道中気をつけてね」
「はい、では行って参ります」
東寺があるのは九条の辺り、左京とは言えどあまり栄えているとは言い難い地域だ。上流の貴族なら四条より上に邸宅があるものだし、六条辺りまでが貴族の邸宅と呼べるだろう。それより下の地域に住んでいるのは下々の者で、治安が良いとは言えない。


汀が東寺に出かけてから、楓は臨時祭の後に戴いた文を眺めていた。いくつかには返事を出したが、なぜこんなに文が来るのか楓には全く分からないでいるのだった。みなさまあんなに素敵な方ばかりなのに、なぜ私などに文を下さるのかしら。通りすがりではなく、幾度も。
楓がそう思うのにはいくつか理由がある。前の夫と死別していることが大きな要因で、高貴な女性であったら一人の夫に操を立てるのが普通で、いくら死別したからといって別の男に乗り換えたりはしない。実際には死別の後にまた別の男と結婚する女人は多くいるのだが、経済的な問題があるためか自身を守るためで、あまり高貴とは言えない女人がすることだった。前の夫と死別していることは分からなくとも、楓は紅の袴を穿いているのだから既婚の身であることは分かりそうなものだ。楓自身は死別であり今結婚していないのだが、濃き袴を穿くともしや危うい事態になるやもしれぬ、と危ぶんだ楓の父親が紅袴を楓に贈り、楓はそれを身につけている。
楓は知らないことだが、楓に思い寄せる公達たちは楓が夫と死別した上で紅の袴を身につけていることを知っている。身を守るためか、何らかの意味があるのだろうと皆思ってはいるのだが、今楓のところに通う公達がいないことをはっきりと知っているので自分がその一人になろうと文を送っているのだ。
特に分からないのが、と楓は幸村の参議から来た文に目をやる。権勢並びない幸村家の嫡子がなぜ私などに文を下さるのだろう。きっと幸村の参議さまと縁付きたいと思っている月卿雲客はあまたいるだろうに。それとも、噂こそ聞かないが幸村の参議さまはあちらこちらの女人とお逢いなさっておいでなのか。そしてその一人に加えようとなさっていらっしゃる…。しかしこれは幸村の参議に限ったことではない、と楓は思いなおしてほかの文にも目をやった。主上の御義弟君中務卿宮、右大臣の嫡子である忍足の左大弁、内大臣の嫡子である右近中将(鳳)、先に妹御が女御さまにおなりになった左近中将(慈郎)、主上の御覚えめでたい頭の弁、どの方も今を時めいて主上のご信頼篤く、年頃の娘を持つ親ならばなんとかして縁付かせたいと願う公達ばかりではないか。なぜ揃いも揃って私なぞに文を下さるのか。まさか私の出自をご存知なのでは…。楓は考えても詮無いことを考えあぐね、首を傾ける。
前の殿がしたように、誰か一人に文を重ね続けてやがて逢うことが叶い結婚し、その後には北の方となってかしずかれたことしかない楓には、物語で見たり歌で聞くような経験は皆無だった。たまさかの夫の訪れを待ちわびて身を朽ちさせた女人は山のようにいる。かげろうのように一人子を頼みにして夫にもなびかない暮らしを続けた女人もいるだろう。私もいつかそういう人になるのかしら。主上は好きなように振舞えと仰せだったけれど、振舞ったところで側室として納まることなど哀しい限りで、それならば最初から一人のほうがましに思えた。一人と言っても楓には家族がたくさんいる。母や乳母には先立たれても、汀や黒羽天根たちは共にいてくれるだろう。朝顔は一人で生きていくことは難しいものだと言ったけれど。
「…楓典侍はおいでかな」
孫庇から優しげな声がして、楓はふっと意識を戻した。幸村の参議の声だ。
「参りまして」
御簾の近くに几帳を立てかけさせて、そちらに移る。幸村は近くにあった円座を引き寄せて腰を下ろしたようだ。
「参議さま、立后の儀、まことにおめでとうございます」
「ありがとうございます。これからが大変なのは妹のほうですけれど、我が家としても精一杯のことをさせてもらおうと思っています。中宮にお聞きしましたが、中宮職の掌侍たちがまたとても良いかたのようで。あなたのおかげと聞いていますよ」
例によって言祝いだ楓に幸村は鷹揚に返し、逆に楓を褒めた。
「きっと中宮さまが素晴らしい方でいらっしゃるので、いっそう心をこめて御仕えしているのでございましょう」
楓も藤壺には度々お目にかかっているし、話ならば幾度も聞いたことがある。万事おっとりとしていて、声が鈴を鳴らしたかのように細く可憐な姫君で、いかにも深窓の姫君といった感じを受ける。
「ありがたいことです。楓典侍」
「はい、なんでございましょう?」
いやに折り目正しい呼び方に楓は小首を傾げた。
「楓典侍は思うお方がおいでなのかな」
いきなりの質問に楓は面食らって口を少し開けてしまった。慌てて扇で覆い隠す。対する幸村はしかと几帳越しの楓を見つめていた。
「…どうなさいました、そのようなこと」
「不躾な質問をしましたね、申し訳ない。でも僕のほかにも楓典侍を思っている者がいることはご存知でしょう。そして主上の御寵愛も特に篤くていらっしゃるあなただから、知らぬ内に大罪を犯しているのではと危惧している者がいるのは確かなことなのです」
仁王と話す前から幸村が考えていたことだった。主上が妃として藤壺を愛しておいでなのは周知の事実だが、召し使う内裏女房としては楓典侍を特に寵愛なさっている。楓典侍は今年の秋に来たばかりなのだから、新参者にしては珍しいほどのご寵愛なのだ。主上の御宿直もしているのでは、と考えても不思議ではなかったし、そういう噂も幸村は耳にしたことがある。
「……皆様が何を思って私に文を下さるのかは分かりかねますが、危惧なさるようなことは一切ございませんし、これからもございませんでしょう。主上は私のご主君でいらっしゃって、御用を務めることだけでもありがたいことですのに、御宿直などめっそうもございません」
楓のきっぱりとした口調に幸村は安堵を覚えたが、立ち入った話を強いて訊ねた自分を少しだけ恥じた。このような立ち入った話であるのに、自分の女房や女嬬に取り次がせず、自分ではっきりと答えた楓の意思の強さを幸村はとても好ましく思う。
「気の早い者たちの取りこし苦労ということですね、安心しました。話は変わりますが、臨時祭はいかがでしたか。琴の上手な弾き手であるあなたにお聞かせしたかと思うと、気もそぞろなのですが」
「どの方もご立派でいらして、楽など初めて聞く素晴らしさでございました。参議さまの和琴もとても素晴らしく、私などとても及びませぬ」
少しだけ几帳越しの楓の態度が軟化したように思えて幸村は内心ほっとする。
「主上に特にと仰せつかったものですから、みな一様に気を入れて奏でていたようですね。思う方が主上のお傍に伺候なさっていたとも聞きますし…」
幸村はそう探りを入れて楓の反応を見た。楓は思い当たる節があるのか、押し黙っている。ややあって口を開いた。
「さて、主上の御前にはいつもいろんな方がいらっしゃるものですから」
するりと交わされた。幸村は閉じた扇でぽん、と膝を打った。
「そのようですね。気の早い者たちは御神楽(師走にある内侍所御神楽)に向けて修練を重ねているとか」
内侍所御神楽も、また跡部たちが仰せつかってやることになった。臨時祭の出来が良かったとの仰せだったが、跡部たちにとっては願ってもないことだった。内侍所御神楽とあれば楓のいないはずがない。前より劣った楽を聞かせるわけにはいかぬとそれぞれ気張って練習を続けているのだ。気弱な鳳も宍戸に発破をかけられて練習に励んでいるという。二条烏丸(跡部邸)や春日堀川(幸村邸)には楽の絶えぬ日々が続いていた。春日堀川の幸村邸には楽に参加しない、柳生や真田、丸井や切原もやって来ていて、聞いているだけではなくて一緒に奏でていたりする。真田が特に楽の練習に熱心になっていて、丸井や切原は首を傾げていたが理由の分かる幸村や仁王は微笑ましい思いだった。
「また素晴らしい楽が拝聴できますのね。楽しみでございます」
几帳の内で笑んだであろう楓を想像して幸村も笑みを浮かべる。あのとき垣間見た美しい顔が笑みで綻んでいるとしたら、類無き艶やかな花であろう。
「もしよろしければ、こちらで楽などいかがだろうか。ぜひ」
「ええ、幸村さまは何をお弾きになられますか?それとも吹き物をなさいますか?」
どうしようか、幸村ははたと思案した。楓の和琴が聞きたいようにも思うけれど、楓の和琴に合わせられるほど幸村は吹き物が得意ではないし、楓に筝を弾いてもらって自分が和琴か琵琶で合わせるのが妥当だろうか。
「和琴か琵琶を。ぜひ楓典侍には筝をお願いしたい」
女嬬に筝を持ってこさせている間、楓は琵琶と和琴のどちらを頼むべきか悩んでいた。温明殿に置いてある琵琶にはなぜか撥がない。撥がないので今まで誰も弾いてこなかったのだが、あのとき撥を持っていた仁王が琵琶の調律をして弾いていった。そしてその撥は今楓の手元にある。
「典侍さま、和琴と琵琶のどちらを持って参りましょう」
筝を近くに据えた女嬬が訊ねてくる。楓はちらりとあの唐箱に目をやった。
「和琴を持ってきて」
「はい」
女嬬が琴のしまってある棚に小走りで移動していく。その背を見ながら、楓はゆっくりと皮の爪をはめた。あの撥を人の目に晒すことをきっと頭の弁は好まないだろう。詠まれていた歌の思いを汲むかどうかは別にしても、思いを尊ぶことは出来るしそうしなければならないと楓には思えた。
「和琴にてございます」
女嬬が恐縮しきった態で幸村に和琴を差し出す。幸村は笑って受け取った。円座を少しずらして和琴を前に据える。すっと手を琴緒に置いて壱越調の音取を爪弾いた。楓も少し遅れて爪弾く。調子を五句掻き合わせたところで玉華楽に移った。女舞も行われる華やかな曲だ。冬であれば盤渉調が良いとされるし、最近はずっと盤渉調の調べを耳にしてきた楓や温明殿の者にとっては壱越調の曲はとても華やかで明るく聞こえる。盤渉調の曲は物悲しく寂しい調べが多いのだが、壱越調はからりと明るく生き物の息吹を感じるような、心がわくわくするような調べだ。幸村の和琴は華やかではあるのだが、どちらかというと優しく繊細な響きで深窓の姫君を思わせるような穏やかな手だ。楓はそれに合わせて筝を掻き合わせながら、遠いと思っていた春が近づいてきた感じを覚える。幸村の和琴と合わせていると、筝の音も華やかに活き活きと聞こえる。幸村が手を動かす度にかさりと衣ずれの音がして、幸村がたきしめているのであろう、黒方の香が楓の元に届いてくる。黒方は冬の香だが、白檀が強いのか少し甘やかな感じがする。やはり和琴の手同様に優しい香だ。
ほどなくして玉華楽が終わり、最後の一音を楓が掻き合わせると余韻が微かに引いた。幸村は一呼吸入れるとまた調子を掻き合わせて冬明楽を始めた。楓は閉掻で追うように幸村が奏でる和琴の音を包む。冬明楽は名こそ冬を冠しているが、華奢でうららかな曲だ。春が近づいてきた今の時期に相応しい曲に聞こえる。円熟味さえ感じさせる柔らかで穏やかな幸村の手に、澄んで輝かしい楓の掻き合わせる手が絡んで一つの音にまとめあげていた。朝顔がその素晴らしさを聞き取って局でひっそりと笑んでいる。
冬明楽が終わると幸村は名残惜しいのか微かに壱越調の調子を爪弾いて、手を止めた。
「管弦は気の向くままに奏するのがかえって良いものに聞こえると白楽が言っていたようですが、やはり一人で弾くのは味気ないものです。至妙な手に合わせていただけた今こそ私の音もいくらか良いものに聞こえてきますね」
「私などとても参議さまのお手に及びませんが、やはり一人で弾くよりは幾人かで合わせるほうが私も好きでございます」
幸村は病で邸にこもることが多いせいか、自然と弾き物を一人で爪弾くことが多かった。重い物忌みになると管弦なども慎まなければならないのだが、軽いものであれば幸村は明け暮れ弾き物に手を触れている。元々の資質が弾き物にあるせいもあるのだが、やや病弱な身体では長く息を吹き込んだり呼吸を整えて吹く吹き物が身体に合わないことも、理由の一つだった。幸村の性質が柔和なせいか、幸村の手は和琴であっても筝であってもとても穏やかで優しい。明け暮れ手慣れているせいか、近頃では円熟味さえ感じさせるようになってきた。藤壺中宮の局で戯れに爪弾くことなどもあり、時折主上にお聞かせ申しあげることもある。
楓は元より合わせて弾くことに慣れている。家にいるときは母親の琴に合わせたり、黒羽や天根の吹き物に合わせたりする。また父親がいるときには父親の隣で琴の手を教わっており、名手と言われた手をそっくり学んできた。御位につかれる前の主上(そのときは東宮)にお聞かせ申したこともあるし、主上と跡部の父親である院にお聞かせ申したこともある。院も主上も楓の父親から琴を習ったのだという。院は吹き物がお上手だが主上は弾き物に才がおありで、御自分でも爪弾かれることがある。
幸村が温明殿を訪ねてきたのは申の刻(午後四時)過ぎだったのだが、もう酉の刻(午後六時)を守辰丁が告げる鐘の音が聞こえてきた。宿直の者たちが殿上に上がる頃だ。
「…そろそろお暇申し上げようかな。本音を言うともうしばらくここに居たい心持なのだけど、随人の者をだいぶ待たせてしまっているしね。楓典侍」
「はい、なんでございましょう」
「今日は失礼な話を申し上げてすまなかった。けれど、けっしていたずらな気持ちから出た言葉ではないことだけ信じて頂きたい。琴の音を合わせたように、いつか御身にお逢いしたいものだと真実思っております。では失礼」
幸村が腰を上げると衣擦れがし、また優しい黒方の香が楓の元に届く。幸村は優しく甘い香を残して立ち去っていった。楓は最後に言われた言葉を心の中で反芻して頬を微かに染める。
いくら文をもらっていても、訪ねて来られることがあっても、このように直截に「逢いたい」と言われたのは初めてだった。跡部が北の対に来いと言ったのも逢いたい、という意に取れるかもしれないが。
「典侍さま?」
傍で控えている女嬬が楓を慮って窺っている。楓は自分の局に下がりながら染まった頬に袂を添える。微かに熱いのが手に伝わってくるようだ。女嬬を安心させるように楓はゆっくりと笑んでみせたが、幸村の言葉が与えた衝撃からは未だ抜けきれない。
妻戸が押し開かれる音がしたかと思うと、局に汀が戻ってきた。控えている女嬬の不安げな様子を見てとった汀はすぐさま楓姫のもとに急いだ。
「姫さま、どうなさいました」
「…汀、戻っていたの」
「はい、ただいま戻りました。お加減がお悪いのですか?」
楓はゆるく首を振る。驚いたし心持ち身体が熱くなったような気もしたのだが、病ではない。
「さきほどまで幸村の参議さまがお見えだったのだけれど、参議さまが去り際に『御身にお逢いしたい』なんて仰るものだから、驚いてしまって…」
「さようでございましたか。ご心配なさいませんよう。姫さまの御一存で全て決まるのでございますから」
局に来た公達が強硬手段にでも出れば話は別なのだが、汀はそのようなことが無いように楓付きの女嬬たちに言い含めている。文の取り持ちはしても人気のないところで御簾の内に誰も入れてはならないと始終口にしている。承知してもいないのに御簾の内に入ってくる狼藉者あらば姫をお守りするようにも言ってあるし、そのことはほかの掌侍たちも承知していることだった。楓姫が承知したのならばそれは婚儀になるのだから話は別だが。
「前の殿は何事にもおっとりとしたお優しいお方でしたもの、姫さまが世の中(男女の仲)に慣れておられないのも当然のことでございましょう。お嫌でしたらもう文などは取り継ぎいたしませんが」
「…分からないの」
「姫さま?」
「驚いたのは確かなのに、厭わしい気持ちが起こらなかったのが不思議なの。前だったらきっと厭わしく思って、参議さまをも嫌いになってしまうかもしれなかったのに…」
楓姫は戸惑うように目線を動かして、脇息にしなだれかかる。
「何事にも初めてのときは戸惑いなさるものでございます。姫さまは御自分のお気持ちと向き合いなさって、お答えを出されるのが宜しゅうございますよ」
「そうね…。そういえば長者さまは何と仰っておいでだった?」
汀は長者から預かってきた文を取り出して楓姫に手渡す。立文を解くと白梅が一枝入っていた。微かに匂う。中に入っている文を解いて見ると、時候の挨拶の後に楓姫を心配する言葉が続き、ややあって都合が書いてあった。荷前の使いが出る頃になると御仏名が近いので、その前でしたらいつでも姫さまにお会いいたします、と書いてある。久しぶりの対面を喜ぶ言葉に続いて、しめやかに文は終わっていた。
「荷前の使いの前が宜しいだろうとのことでございました。主上にも御文をお出しになられまして、姫さまのお暇を長者が願いなさったそうでございます」
仕事を抜けて外出するのを姫が心配するだろうと思った長者は前もって主上に文を出し、楓姫を一時お貸し願いたいと主上に申し上げていた。楓姫に限らず内侍司の者はすなわち主上のものなのだから、主上にお暇申し上げるのが一番の正攻法であった。
「心配りがいつにもまして細やかでいらっしゃること。安心して長者さまとお話が出来るわ」
「長者さまも大変お待ちかねのご様子でございました。久しくお会いせずにおられましたから」
楓は頷いてまた長者からの文に視線を落とす。学識のある者らしい、格調高い文章に流麗な手。文は人柄がしのばれるとは良く言ったものだ。
「荷前の使いが出るのはあと十日後になるわね。主上がお許し下さったらすぐにでもお会いしたいのだけれど…」
「姫さまのことで主上が渋られることはございませんでしょう。すぐにでもお許しいただけますよ」
汀がそう受けあったときに、孫庇のほうから声がした。
「楓典侍さま、主上が御前にお召しでございます」
ほら、というように汀が笑う。楓も笑ってすっと立ち上がった。
「きっとこのことでございましょう。行ってらっしゃいませ」
「ええ」
芳しい檜扇を翳して妻戸を押し開き、すっと渡殿に出る。麗景殿の角を曲がって弘徽殿の角を曲がると清涼殿に着く。北庇を通り台盤所に控える。
「楓典侍参りましてございます」
「近う」
主上の御声がして、楓は膝行で昼御座へ近づいた。主上は御帳台の向こう、孫庇傍の昼御座にいらっしゃった。伺候していることの多い藤壺や尚侍の姿が見えない。
「周りに人はいないから安心なさい」
「さようでございますか」
主上の傍近くに控えた楓は頭を下げていたが、上げるように御声がかかる。ゆっくりと頭を上げて主上と対面した。
「東寺の長者どのから御文が来たよ。楓を一時お貸し願いたいと。これはどういった仔細のことなのかな」
「私事なのでございますが、先に夫を亡くしましたこと、未だに心の内を占めてございます。夢見が良くありませんでした折に長者さまにお訪ね申したところ、観音菩薩に縋り申し上げて観音経を写経すると良いとのお言葉でしたので、写経いたしておりました。百巻写経いたしまして、長者さまにお納め申したいと思った次第でございます。従者に任せるよりは自らお納めしたいと思い立ちまして、ぜひ東寺に行くことお許し願いたいと思いましてございます」
主上は仔細をお聞きになると、ふっと御簾の向こうに視線をお移しになった。
「やはりあのことは未だ楓の心を占めているのだね。それで周りの者がいくら文を出してもまるで靡かない…」
「己の業の深さ故でございましょう」
楓の言葉に主上はゆるりと首を振られる。
「それは違うよ楓。あなたたちは似合いの夫婦だった。鴛鴦のように一対で、連理の枝とも比翼の鳥とも思われたあなたたちを見ているのはとても微笑ましい思いだった。楓のお父上とてそうだろう。あの者がなくなったのは楓の業でもなく、ただ天がお決めになられたこと、逆らうことは出来まい。私とて出来ることならあの者に長生きしてもらい楓を幸せにしてもらいたかったのだが、天はその願いをお聞き届け下さらなかった…。しかしね楓」
「はい」
「それはやはりあなたに別のご縁があることを天がお示し下さったのではないのかと思うのだよ。長恨歌に記されている玄宗のように彷徨ってはならない。あなたは幸せにならなければ。お父上だけでない、お母上も家の者も私も院もそう思っているのだから」
主上は優しい口調ながら、しっかりと楓を説き伏せてようとなさっていた。
「忘れなさいと言ってもそれは無理なことなのだろう。愛する者を亡くした悲しみは察して余りあるものだ。けれど、そこで立ち止まってはいけないよ。どんな道でも構わない、前に進みなさい。私のもとに来ないと決めたあなたなら、自分でそれを見極めることが出来るはずだ。あなたは強いのだから」
主上が仰るほど自分は強くないと楓は思っていた。中務卿の言葉に慄いたり、幸村の参議の言葉に驚いてしまったり。か弱いとも思えないが、決してそこまで強い人間ではない。
「あなたの心の霧が晴れるように祈っているよ。長者どのにはすぐにでも会いに行くといい。役目のことなら心配は要らない。私は楓のことが大事なのだから」
一の者であらせられる主上にそこまで仰っていただける自分の幸福を思って楓は目頭を熱くしたが、やはり拭いきれない靄が楓の心の中を占めているのだった。
「私が車を出すと大袈裟になっていけないから、東寺から車を迎えに寄越させよう。必要であれば、参籠して心の霧を晴らしてくるのだよ」
「ありがとうございます」
類無きありがたさに楓は深く頭を下げた。主上はおっとりと微笑まれる。
「そう言えばおかしな話を耳にしたよ。私があなたに宿直をさせているとかいないとか勘ぐっている者たちがいるようだ。一度とてそのように申しつけたことはないのにね」
「仰る通りでございます」
さきに幸村から訊ねられたばかりだ。やはり公達ばらの間で噂にでもなっているのだろうか。
「あなたのお父上との約束を私が破ることは決してない。宿直などせずとも楓は私の傍にいてくれるのだから、何もそのようなことを望まずとて構わないのに。まあ、あなたがここへ来たばかりなのに私が殊に召しているから、そのような間違った勘ぐりも生まれるのであろうな」
「かといって皆の前で言うことでもないし、心のある者にはやがて分かることだろう。つまらぬ噂というものはいつの世でもあるものだ。気にしてはならないよ」
「はい」
楓は大人しく頷いたので主上は満足そうに楓を見やった。
「あなたを見ているとあなたのお母上を思い出すな。たいそうお美しい方だった。私が幼いころにお目にかかったきりだが、あなたを見ているとそのときのお母上のようだ。最も、あなたにはお父上の血も入っているのだから、勝って美しい姿をしているが」
「とんでもございません」
楓が頭を垂れたので、主上は楓に近づいて顔を上げさせる。
「花のかんばせを隠してはならないよ。京広しといえど、あなたの美しい顔を見られる男は私ぐらいの者だ。ああ、確か楓には家人がいたな。あの者たちは楓の兄弟なのだったね」
黒羽と天根のことだ。楓は頷く。
「はい。幼い折に我が家に来まして、兄弟のように分け隔てなく育った間柄でございます」
「身分低い故親しく育った彼らが羨ましいよ。今では楓のお父上のところに務めているのだったか」
「そのようでございます」
黒羽と天根には低いながら官位も職もある。今は楓の父親のところに務めているので、内裏に来ることはあまりない。
「楓の兄弟とあらばもう少し身分を上げてやらねばならないところだが、如何せん出自が卑しいと聞いているから、あまりそう上げてもやれないな。最も、折があれば上げてやろうとは思っている。楓のお父上が了承なされたら、の話だが」
「ありがたいことでございます。もしそのようにして頂けたら、私も嬉しゅうございます」
「喜んでもらえるならば出来る限り上げてやろう。折を見て少しずつになるだろうけどね。あなたのお父上にも久しくお会いしていないな。私が行くとなると大袈裟なことになってしまうから、ぜひ訪ねてきて欲しいものだが」
「老体を主上の御目に晒すのは、と父は申しておりましたが、主上がお望みとあらば喜んで参りましょう。主上のお言葉お伝えいたします」
主上は重々しく頷かれて、楓の髪を撫でた。するすると滑らかに表面を滑っていく。
「ああ、こんなことをしているから宿直がどうとか言われるのだな。慎まなければ。中宮が気を悪くしてしまったら困ることだし」
「主上は本当に藤壺中宮さまを愛しておいででございますね」
「ほかの者ももちろんあなたも愛しているよ」
「恐れ多いことでございます」
主上の愛している、には他意がないと楓には分かっているから、幸村の参議のときのように驚いたり慄いたりする必要はなかった。楓に言葉寄せる人たちがみなこのような他意のない愛だったらどれほど楽しく嬉しいことか。
「そろそろ宵だな。今日はもう遅いし外はとても冷えるから、東寺に出かけるなら明日の朝にしたほうがいい。東寺にはすぐに文を伝えるので、楓はきちんとお経を持って長者どのにお会いしてきなさい」
「はい。ありがとうございます。それでは失礼致します」
行きと同じ道を通って温明殿に戻る。格子がところどころ下りていて、外はもう漆黒の暗闇だった。温明殿の格子も下りていて、中の灯りが透けて人影を映し出している。
「ただいま戻りまして」
妻戸を開いて中に入る。中央にある大きな炭櫃に幾人かが集っていた。朝顔と汀もいる。
「おかえり楓。主上のお許しは出たの?」
「ええ。東寺に車を寄越させるよう仰ってくださったわ。明日朝にでも出ることになると思うから、その後のことは朝顔に任せるわね」
「分かったわ。大丈夫、このところ行事も少ないし、荷前の使いのことはもう大体準備できてるしね」
楓が炭櫃の前で暖を取っていると、ふいに汀が声を上げた。
「姫さま、さきほど幸村の参議さまから御文戴きましたが、宜しかったでしょうか」
「…ええ。明日も早いことだし、そろそろ休もうかしら」
「私もそうするわ」
朝顔が去り楓も自分の局に下がる。汀が後ろからついてきた。自分の局に戻った楓は火桶で暖を取っていたが、汀が楓の前に唐箱を据える。
「幸村の参議さまよりでございます」
「…きれい」
灯台の明かりではぼんやりとしか見えないが、幸村より贈られた唐箱はたいそう優美な品だ。楓は意匠を細かく見ようと手元に引き寄せる。高杯灯台をも近づけて唐箱を見ると、枝垂れかかる梅の枝に花が満開で咲き誇っている絵だった。小さく鶯の姿も見える。一足早い春を引き寄せたかのような華麗な絵だった。絵柄は蒔絵で出来ており、唐箱の蓋の部分だけではなく、全体に蒔絵が施されている。細かなところに螺鈿が使われており、不思議な煌きを見せる。蓋を眺めて指を沿わせたりしていたが、ややあって蓋を開ける。中は漆塗りになっているのが普通だが、この箱は中にも蒔絵で絵が描いてあった。表の絵を近寄って見た図柄になっており、咲き誇る梅の間に鶯が首をもたげている。梅が咲く頃とあらば、ゆかしく鳴いているのだろう。中からは微かに梅の香がする。梅花がしのばせてあったのか、梅の枝が入れられていたのかは分からない。そして結ばれた文。真っ白な料紙をいくつか重ねてある。
空染めて降る白雪の下消えに消えかえりてぞ恋しかりける(空を真白に染めて降る白雪が下から消えていくように、私は心も消えかえっていくように恋しく思っていることだ)
さきほどの直截な言葉とはうらはらの大人しい詠みぶり。どちらが真意なのだろうと楓は思案に暮れた。身から出た言葉なのだろうから、どちらも真意には違いないだろうが。この詠みぶりのほうが琴の手や文の筆跡をしのばせる優しい幸村の姿に近い気がする。脇息にしなだれかかって文を読んでいた楓は不意に身体を起こして硯箱を引き寄せた。同じように白い薄様に書き付ける。
消えかえる心であらば白雪の消え行く様になりぬらんかな(消えかえっていく心ならば、白雪がすっかり消えてしまうように恋しい心もすっかり消えてしまうことでしょうね)
こうやって公達ばらと文を交わすことにも慣れてしまった気がする。微かに後暗い気持ちがあることも事実だが、それもやがては消えていくのだろうか。内裏にきて瞬く間に時が経ったように、この一月もすぐさま経っていくことだろう。そして新しい年を迎える。楓は一つ歳を重ね、亡くなった殿とまた一つ時を隔てる。気がつけば、殿より年上になるのだ。あの頃は年上だった殿を頼もしく見上げたものだった。まぶたに描ける面影も薄くなり、声もたまさかにしか聞こえない。それは悪いことではないと長者さまは仰り、主上も前に進みなさいと仰った。そうすることが善いことだとは分かっている。そして、知らぬうちにそのように心が動いていることも知っている。けれどどうしても心が晴れないのだ。後暗い気持ちが付きまとっては楓の心を曇らせる。殿の追善供養に心を砕いて写経を繰り返し、観音菩薩を拝み申し上げても晴れない心の闇はどこにあるのか。
「…明日申し上げれば分かるのかしら」
楓は微かに呟いて休むために灯台の明かりを消した。灯りの乏しい夜は境目のない真っ暗闇に包まれる。これほどとは言わないが、心に闇が燈っていることは、確かだった。



第十三幕『物思う月』


いかがだったでしょうか。幸村編。幸村編なのに出張っているの主上じゃん…ごめん幸村…。本文でどきっとするようなことを幸村は言っていますが、楓姫さまを揺さぶる手かもしれません。幸村はたいそう頭の良い人ですから。まあ、思ってないことは言わないだろうけど、あんなことを言ったのにも幸村なりに意味があるんだと思います。

お付き合い有難う御座いました。多謝。
2005 11 20 忍野さくら拝







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