諸戀 第十五幕 色をも香をも知る人ぞ知る
毎年吉日に行われる内侍所御神楽だが、今年は暮れ近い二十六日に行われることになった。臨時祭で楽を披露した中務卿宮たちの楽をすっかり主上はお気に召され、異例だが内侍所御神楽の役も中務卿宮たちが仰せつかることになった。楽人たちは披露の機会を奪われて青ざめつつ、あまりに素晴らしい演奏なので文句も言えない、という状態だ。
内侍所御神楽を二日後に控えた二条烏丸には、楽の音が絶えず響いている。時折、叱責の声が混じった。
「宍戸、だからここは違うって言ってるだろーが、分かれよ」
「分かってるけど、上手くいかねーんだよ」
跡部と宍戸はほぼ睨み合いの様相を呈している。忍足は呆れたようにため息をついていて、幸村は成り行きを見守っていた。鳳はおろおろしていて使い物にならないし、慈郎は寝ている。仁王は仕事で遅れると柳生を使いにして伝言がきた。
「…跡部」
「なんだ」
たまりかねた様子で幸村が口を挟んだ。跡部は間に入った幸村にさえ、鋭い一瞥を投げる。
「宍戸の琵琶、相当良い出来だと思うよ。跡部は耳が良いから、つい触ってしまうだけで」
弁護された宍戸は、得心ゆかぬ様子で唸っている。幸村の弁護も耳に入っていなかった。耳に入っていたとしたら、まず宍戸自身が否定する言葉を幸村に投げるところだ。得心ゆかぬのは己の技量にであって、跡部が咎めたことではない。咎められた理由はちゃんと分かっている。けれど、それをどう直していいかが分からないのだ。
「そのつい、が気に障るんだ。主上とて、風雅を好まれ楽を好まれる方。些細な違いでもきっとお気づきになられるだろうよ」
主上の異母弟でもある跡部にこう言われてしまうと、幸村には返す言葉がなかった。
「遅ぅなってすまんかったの。…なんじゃ?」
女房に案内されて跡部たちのいる母屋の昼御座にやってきた仁王は、ぴりぴりした空気を感じて首を傾げた。
「ちょうど良かった仁王」
「ん?どげんしたんじゃ」
仁王は幸村の横に腰を下ろした。炭櫃に手を伸ばして暖を取っている。
「宍戸の琵琶についてなんだけど、跡部が違う違うと言って頑なに譲らなくて」
「皇子は耳が良いからのう」
幸村の言葉を聞いた仁王は頷きながらそう言って、宍戸に同じところを弾いてくれ、と伝えた。宍戸が奏でる。幸村や忍足に柳生、鳳には素晴らしく聞こえるのだが跡部は相変わらず眉間に深い皺を刻んでいるし、仁王はじっと耳を澄まして喋らない。
「ちょっと貸しんしゃい」
宍戸の手から琵琶を受け取った仁王は、持ち歩いている撥を取り出して跡部が気になっている箇所を弾く。
「これんことじゃろ?跡部が言うとるんは。それやったら大した問題じゃなか。ちょっとした手捌きの問題じゃ」
「こいつに教えてやってくれ、仁王。どうも気になって集中出来ん」
「よかよ」
仁王は宍戸に向き直って、手捌きをいくつか教える。宍戸の琵琶は確かで力強いが故に、隣り合った絃に触れた微かな音さえはっきりと出てしまい、それが跡部の耳に障ったのだった。手元での撥の扱い方をいくつか教え、宍戸が素直にそれに倣う。何度か真似ているうちに、雑味の取れたすっきりした音色になった。手ぶれしなくなったので、弾く弦の音だけがすっきりと聞こえている。
「そういうことだ。やれば出来るじゃねぇか、宍戸」
跡部は満足そうだが、宍戸は手放しでは喜べない。技術が向上したのはいいが、自分で気づけなかった己の不甲斐なさに納得がいかない。
「…そんな顔しなさんな」
仁王に声をかけられて、宍戸は顔を上げた。仁王は人好きのする笑みを薄く浮かべている。
「宍戸の琵琶は大したもんじゃ。いつやったかは忘れたがの、主上がお褒めになっとった」
「……」
宍戸はじっと仁王を見つめている。確かに、この面子の中で一番主上に近いのは仁王だろう。その次が弟の跡部だ。
「あれじゃ、春鶯囀を立太子のときに披露した折のこと、主上が夜になってしみじみと思い出しなさってな。宿直におられた左大臣と一緒になってお話なさっておいでじゃった。忍足もそのときの話を聞いたじゃろ」
仁王から目線を送られた忍足はふっと笑んで頷いた。本当に、仁王は口が上手い。
「そうやったわ。俺は笛しか出来ひん言うてるのに、琵琶はええとかお前も教えてもらえとか言われて閉口したわぁ。俺には弾き物の才はてんであらへんのやから」
忍足は仁王の意を酌んで、いささか誇張した表現でもって宍戸を褒めた。主上がお褒めなさったのは本当で、立太子礼のときの春鶯囀は宍戸自身でさえ納得のいく出来だといつか話していた。忍足の父大臣が宿直の折に主上と一緒になって褒めていたのかは知らないが、そんな話もしたかもしれない。忍足は、分かっていたことだったが、仁王の口の上手さと頭の回転の良さに舌を巻いた。自身に納得のいかない宍戸を、教えた立場の仁王が褒めては宍戸の立場がない。主上がお褒めになっていた過去を持ち出して、上手く宍戸に自信を持たせようとした。
「そんなことあったのかよ」
宍戸は些か不審そうだが、まんざらでもなさそうだ。唇は不満そうに尖っているが、目がなんとなく綻んでいる。忍足はその様を見てこっそり笑いを零した。さすが仁王、とでも言うべきだろう。
「これで全員揃ったんだから、さっそく合わせないか」
「そうだな」
幸村の提案に皆が頷き、各々楽器を手にした。二条烏丸の跡部邸からは、暫くの間妙なる楽が聞こえて続けていた。
内侍所では、明日に迫った内侍所御神楽の準備をすっかり終えていた。主殿寮が斑幕を引き、本方末方の座を設えている。内侍司の女官たちは御神楽を楽しみに待ちながら、差し迫ってきた睦月の準備に追われていた。
「あと五日で今年が終わるなんて、信じられないわね。元日の行事が全て上手くいくといいのだけれど」
「大丈夫でございましょう。御神楽が終わりましたら、すぐに晦日でございますね」
楓は筆を止めて冷え切った手を炭櫃で温める。傍に居た汀は頷いて、こちらも手を止めた。
「ええ。儺やらいが楽しみだわ。里や殿の家にいた頃は遠くで聞こえる声を楽しむだけだったもの」
方相氏が出す儺声に応じるように群臣も和して呼び、鬼を郊外まで追い払う。家の寝所や北対にいた楓は、その声だけを聞いていた。今年は、声もより近く、ひょっとしたら姿も見られるかもしれない。方相氏や小儺というのはどんな格好をしているのだろう。いつだったか殿が、方相氏というのは緋と黒の袷袍を着て、黄金の仮面をつけているのだと楓に教えてくれたことがある。緋と黒の袍でおまけに黄金の仮面とは、たいそう強い色使いだ。疫鬼を追い払うには、それほどの力がいるということなのかもしれない。
「楓、こちらはこれでおしまいだけれど、これでいいかしら」
朝顔がわざわざ手ずから書状を持ってやってきた。楓はそれを受け取って目を通す。朝顔は長く宮中にいる者らしく、達者な筆使いだ。
「ええ。主殿司を遣って、私の分も中務省にお届けしましょう。今日の仕事はこれで終わりね」
刻は午を過ぎて、未に差し掛かっていた。朝膳の後もずっと仕事をしていたことになる。
「やっと終わったわね。毎年のことだけれど、睦月は行事のたいそう多い年だから、師走はいつも追われてばかりだわ」
「そうなの。毎年こんなに忙しいだなんて、大変ね」
楓にとっては宮中で過ごす初めての年越しだ。里や殿の家にいた頃のように穏やかな年越しではなさそうだが、初めての経験は否応なく楓の胸を高鳴らせる。あまり寝る暇もないような様子なのが不安の種ではあった。しかし、晴れの日に主上に御仕えできるのは身に余る幸せだし、后の宮になられた藤壺と共に出御なされる様はさぞかし素晴らしい光景であろう。
「楓もすぐに慣れるわよ。そうせざるを得ないもの」
朝顔はふふ、と含み笑いをして楓を見やった。楓は肩をすくめる。
「もう慣れたわ。大嘗祭の準備のほうが忙しかったもの」
「それは何よりね」
二人揃って笑いあった。遠くから内教坊の楽の音が聞こえている。
翌日。内侍所御神楽当日。朝から、内侍所の女官たちは心浮き立つ思いで仕事をしていた。今まで根を詰めていた成果があり、さほど仕事は残っていない。楓と朝顔は揃って朝に仕事を終え、午の刻には炭櫃の周りに集って語らっていた。汀も後ろに控えている。
「御神楽が楽しみね、楓」
「そうね。まだ日が高いけれど、暮れる頃には御神楽なのね、楽しみだわ」
「楓は特に覚えのある方々ばかりがお出になるのだし?」
「もう…」
相変わらず手厳しい朝顔の言葉に楓は微かに笑ってみせながら、御簾の外に目をやった。大寒も前に過ぎ去り、寒さは続いているが今日は天気も良く、雪は降っていない。今まで積もっていた雪は主殿寮が座を設えるときに綺麗に掃いていったので、おかげで隅には雪山が出来た。内侍所の女官たちで、雪山がいつまで持つか、という話をしたのは一昨日だ。午の刻にもなれば日差しは暖かで、曙には厳しく冷え切っていた空気も温んできた。炭櫃の火も灰で白くなってきている。御神楽が行われるのは、いつものように宵更けてからだ。まだかなり時間がある。
「楓典侍さま、主上が御前にお召しでございます」
「すぐ参ります」
外から掛けられた声に返事をして、楓は一旦局に下がった。鏡を汀に持たせて化粧を確かめ、芳しい檜扇を顔にかざしてすっと立ち上がる。
「いってらっしゃい、楓」
「ええ」
朝顔や掌侍たちに見送られて温明殿を後にした。北土庇を通って和通門をくぐって承香殿の庇を通り過ぎ、清涼殿に到る。台盤所から昼の御座へ膝行で上がった。
「楓典侍、参りましてございます」
昼の御座には主上がお一人でおいでになり、孫庇には公卿が控えていた。
「楓、こちらへ」
膝行して、主上の傍に控えた。主上の傍には、彩りも鮮やかな火桶が置いてあった。桐の木をくり抜いて作られたもので、漆が塗られ華やかな絵が描かれている。
「雪も止んだようで本当に良かった。雪降りしきる中での御神楽は美しいだろうが、舞人たちには気の毒なものだから」
「さようでございましょう」
「御神楽の支度が万事整ったと主殿寮から聞いているよ。楓たちの支度も済んだようだね」
楓の身につけている装束が、春冬の襲ではなく、儀式用の襲とされている紅匂の衣であることに主上は目を止められ、にっこりと微笑まれる。楓は朝方の仕事を終えて後、汀の勧めによってそれまで着ていた樺桜の襲を脱いで紅匂の衣に改めたのだった。もちろん、裳唐衣も着けた正装で、楓は小袿姿でもっとゆったり過ごしていたかったのだが、強いて勧められたので着替えたのだ。
「滞りなく、済みましてございます」
俯かせていた頭をさらに楓が下げると、顔を上げるように主上から仰せがあった。ゆっくりとした動作で顔を上げる。
「御神楽が終わればすぐに年が改まり春になるけれど、楓にとってはどのような年だったかな」
「…私にとりましては、主上のお傍近くでのお勤めを許されたことが、何よりのことでございましょう。新参者である私を主上はお引き立てくださり、朋輩にも恵まれまして、何の不自由もございません」
「あなたはもともと賢い人だから、すぐに仕事にも慣れると思っていたよ。ご母堂が寂しがっていらっしゃるかもしれないが、年が改まった後、落ち着いたときにでも里に下がると良い」
「ありがとう存じます」
深く頭を下げた楓を主上がお優しい眼差しで見つめていらっしゃる。
「楓典侍どの」
御簾の外である孫庇から声がかかった。張りのある美しい声で、楓は幾度も耳にしたことのある声。幸村左大臣だ。
「左大臣か。楓に何事かあるのかな」
「御前にて申し上げることではありませぬが、私事で御礼申し上げることがございまして」
幸村左大臣は、位が下の楓にわざわざ敬意を示した。主上はちらりと孫庇に目を移される。
「楓はここで聞いている、言うてみよ」
「中宮に伺候している掌侍たちのことで御礼申し上げる。また、折りに触れての数々のご配慮にも御礼申し上げたい」
主上は幸村左大臣の言葉に重々しく頷かれ、満足そうな眼差しを楓に向けられた。
「私も中宮から度々聞いているよ。勤め始めて三月しか経たぬとはとても思えぬと申しておった」
「もったいないお言葉でございます」
中宮が楓をお褒めになっていることは、幸村参議からも伝え聞いていた。楓はいっそう身を硬くして頭を下げる。
「楓典侍どのは謙遜ばかりなさると息子が申しておりましたが、本当のようですな」
「そこも楓の良いところだよ、左大臣」
「左様でございますね」
それから一刻ばかり主上の御前に伺候して、楓は温明殿に下がった。
楓が主上の御前から下がって四刻の後。温明殿の庭には主殿寮が焚いた篝火が煌々と辺りを照らしている。もうしばらくしたら、主上が出御なさるため、公卿たちや舞人、楽人たちは皆庭に揃って待っていた。
温明殿の掌侍が二人清涼殿に渡っていて、常に主上の御傍にある剣璽を奉って主上の後に続いて渡ることになっている。主上の御座は既に整えられ、楓と朝顔が控えていた。主上の剣璽は常に主上の御傍にある。出御なさるとき、行幸なされるとき、いつ何時であっても掌侍や典侍が奉ってお傍に据えるのだ。神鏡だけは常にここ温明殿に奉られている。
刻限が近づき、遠くから警蹕のおし、という声が聞こえてきた。主上が出御なされたのだ。
警蹕の声は次第に近づき、皆揃って頭を垂れる。先駆に続いて主上が温明殿にお越しになった。後ろには剣璽を奉った掌侍が二人続いている。
主上は御座にお付きになる前に、温明殿の身舎の半分を占めている神鏡を奉ってある神座身舎に向かって頭を下げられた。女官が三度鈴を鳴らす。その後に御座にお付きになられた。
そして、御神楽が始まる。
宵更けた頃に、内侍所御神楽は滞りなく終わった。中務卿を始めとした楽人たちは主上よりお褒めの言葉を頂き、禄だけでなく、中務卿にいたっては御衣をも被けられた。楽人や舞人は退出し、控えていた公卿たちも退った温明殿は、いつもの静けさを取り戻している。もちろん、主上はもっと前に清涼殿にお戻りになられた。
「…楓、どうしたの」
寒さがきつくなってきたので、炭櫃の火を女嬬に熾させて、身を寄せ合う。さっきから空心地の楓に朝顔が声をかけた。
「どうかしたわけじゃないのだけれど…本当に夢のようだったわ」
「楓は遊び(管弦)が好きだものね。……覚えのある方々の素晴らしい楽を目に耳にした後では空心地になるのも無理はないわ」
中務卿を始めとした楽人たちは、以前の演奏にさらに磨きをかけた得も言われぬ楽を披露した。楓が中務卿たちの楽を聴いたのは、御仏名の後の宴以来になる。
神楽の次第は賀茂の臨時祭とさして変わらないのだが、この短期間に腕を上げた中務卿たちの楽は素晴らしく、主上がお褒めになられ御衣を被けられるのも最もと思われる出来栄えだった。
「楓典侍どの」
北土庇から声が掛けられる。何度か聞いたことのある声だ。汀が御簾際に近づく。
「なんでございましょう」
「左大弁さまから言付かっております。なにとぞお渡し願います」
汀は楓を仰ぎみて指図を待った。楓は微かに頷く。忍足さまだわ。
「これで六人目、楽を奏された方々ほぼ全員ね」
朝顔が混ぜ返して笑う。御簾の下から唐箱が差し入れられ、従者は帰っていった。汀が唐箱を持って戻ってくる。
「左大弁の君より頂きましてございますよ。いかがなさいますか。局にはもう五つも文がございますのに」
五つ、は中務卿、幸村の参議、頭の弁、右近中将、左近中将から贈られた文や唐箱だ。楽人たちが退出した後からぞくぞくと届けられている。
「…明日も早いのだし、局に下がるから一緒に持ってきてちょうだい。お返事はともかく、目を通すわ」
「かしこまりまして」
「私も休むことにするわ」
楓と朝顔が局に下がり、汀や朝顔付きの女房たちも下がっていく。汀は五つある文の側に今贈られた唐箱を並べ、高杯灯台の灯りを近づけた。
中務卿、幸村の参議、右近中将は三人とも唐箱に文を入れて届けてきている。文だけを遣したのは頭の弁と左近中将だ。四つ並べられた唐箱ではなく、楓は結び文に手をやった。盛りの白梅の枝に結びつけてある文を枝から抜き、中を広げる。
「頭の弁の君さまからの文でございます」
秘色の薄様と鳥の子紙が重ねられていて、薄様には頭の弁の流れるような手で歌が書き付けてあった。
立ち帰り淡海寄せる波の様に離れ離れて年をふるかな(幾度思いを寄せてもあなたは寄せては返す波のように気持ちが離れたままで年が暮れていくことだ)
御神楽で御簾越しながら会えたことを嬉しく思う、と文は結ばれている。楓はそっと薄様を手にとって近づける。微かに百歩香の匂いが漂ってくる。合間に香るのは白梅の香だろう。
「仁王さま…」
あれから楓は琵琶に手をやったことはない。弾けないわけではないのだが、何となく、弾くのが憚られた。仁王が置いて言った黄楊の撥はきちんと唐箱に収められたままだ。温明殿で琵琶を奏でたとして、頭の弁が普段いるだろう蔵人所に届くとは思えないが、仁王なら本当に音を当ててやってきそうだった。
仁王は今日の御神楽でいつものように篳篥を吹いていたが、いつもよりさらに澄み切った音を響かせ、後で主上もお褒めになっておられた。楓の耳にももちろん素晴らしく聞こえてきたのだが、御神楽だけで御遊びのない今回は、琵琶が聞けなかったのが残念だと思える。
「いつもながら、お美しい手でいらっしゃいますね、頭の弁さまは」
「そうね。手本として見ても素晴らしいようなお手だわ」
「他の方も素晴らしいお手の方が多うございますね、中務卿の宮さまも左大弁の君さまも、参議の君さまもお手本にしとうございます」
「本当に汀の言う通り。どの方もそれぞれ違うけれど、お美しいお手で。そう言えば天根は手がきれいになったかしら。黒羽は几帳面な手だというのに、天根ったら子どものような手なのだもの」
さほど位の高くない身とは言え、貴族である楓の家の家人であり、大内裏にではないが公に勤めている身なので、もちろん二人とも学の心得がある。小さい頃は揃って手習いをしたこともあったが、その頃からあまり天根の手は成長していない。真面目な性格でやらなければならないことはきちんとこなす黒羽と違って、天根は能力がないわけではないのに、気分が乗らないとやらないようなところがある。集中した時にはかなりの成果をあげることが出来るのだが、いかんせん気分屋なところがあった。
「少しは黒羽を見習うといいんですけどねえ、天根は。天根が出来ないことを黒羽があっさり肩代わりしてしまうものだから…」
生来のものなのか、黒羽はかなり面倒見がいい。年下に限って発揮されているわけではなく、年の近い楓や汀にもそれは発揮されるし家にいる他の家人たちや主人筋に当たる楓の母や父に対してもそうだ。
「黒羽には弟たちがいるのだと聞いたことがあるわ。きっと慣れているのね」
黒羽と天根は京の生まれではない。楓が地名しか知らぬ、上総の生まれだ。海のそばだと聞いている。そこでは黒羽は弟たちと天根と天根の姉、他にもたくさんの子どもたちと一緒に暮らしていた。彼らを育てていたのは一人の翁で、その昔は大内裏に勤めていたこともあったそうだが、年を経て後に宮中から退き、上総に居を構えた。楓がまだ尼削ぎ(女の子の髪形。尼と同じぐらい短い)だった頃、黒羽と天根は二人だけでここにやってきた。楓の乳母と翁は遠縁にあたり、乳母が楓のことを話すと遊び相手としてどうか、と二人を寄越したのだった。二人は京に着いた初日こそ気疲れしていたようだったが、すぐに楓と一緒に遊ぶようになり、今では立派な家人として大殿に仕えており、楓姫を生涯守ると誓っている。
「そういえば、二人の兄弟や兄弟同然に育った者たちも、今は京にいるようでございますよ」
「…初めて聞いたわ」
「申し上げれば姫様がご心配なさるから、と止められていたのでございますが、その者たちも今はお勤めの身。ご心配なさることもありますまい」
「ちゃんとした屋敷に住んでいるのね?」
汀は頷いてそっと消えかかっている高杯灯台に手をかざした。
「下京でございますれば、姫様がおいでになるようなところではございませんが、低いながらも官職を頂きお勤めしている身でございます。黒羽の弟たちも兄弟同然に育った者たちも、つつがなく暮らしておりますよ」
「…天根のお姉さんは?もう殿方と暮らしておいでだろうけれど…」
「ええ、淡路掾(国守の三等官)とともに任国に下ったと聞いておりますよ。ご心配でございますか?」
楓は手に取っていた料紙をそっと床に置いて、ゆるくうなずいてみせる。
「他でもない、黒羽と天根の姉弟なのだもの。我が家に呼べば二人とも喜ぶかしらと思ったけれど」
「黒羽はああいった性質でございますから、固辞いたしますでしょう。天根も黒羽が固辞するならば了解いたしますまい。姫様はお優しゅうございますから、実の兄弟が離れ離れに暮らしていることを悲しくお思いなのでございましょう?」
「……ええ。私が、たとえば汀と離れて暮らすことを思ったり、実の兄弟ではないけれど兄弟同然の黒羽や天根と離れて寂しい気持ちを二人がずっと味わってきたのかと思ったら、悲しくて…胸が塞がってしまいそうだわ」
白く細い手でそっと胸元を押さえた。うっすらと目の端には雫がたまっている。
「姫様、お泣きなさいますな。二人とも姫様にお仕え出来て幸せに思っておりますし、何度もそう申しあげておりますでしょう?世の中、男は女と違い、家をも出て一人で暮らしていくものでございますよ。女の身では親の家に暮らすのが常、殿方と結ばれても殿方の家へ引き取られずに暮らすほうが多いのでございますから」
大内裏に勤めるような貴族の男子は、母親と暮らした家を出て一人で(といっても身の回りを世話する女房たちや随人はもちろんいる)居を構えるのが普通だ。中には親孝行や手ごろな屋敷がないことからそのまま家に居つく者もいる。どこかの姫君と縁付いても姫君の家には通うだけで、自分の家は別に持っている。黒羽や天根は楓の家の家人であるから、楓の家から出ることはない。女性は生まれた家に留まり殿方を待つのが普通で、殿方の屋敷の北の対へ引き取られることもある。正妻として迎えられた姫君は北の対へ引き取られ、一家の女主として振る舞うことになるが、室として結ばれた女性は訪れを待つより他ない。
「分かったわ。今は官職もあり家もあると言うのなら、私は黒羽たちの望み通りにしましょう。けれど、もし何か不遇なことでも起きたのならば、すぐに六条の屋敷に引き取ってちょうだい。頼むわね」
「承知いたしまして」
汀が畏まると、楓は安堵したように頷いて、そっと口元に手を当てる。思わずあくびが出そうになったのだ。
「他のお文をまだ見てないけれど、もう休むことにするわ」
「ではすぐにご準備いたしましょう」
楓が座っている高麗小紋の畳の上に沈木の枕を据え、裳唐衣を脱いだ紅匂の衣襲の小袿から五つ衣までをそっと脱がせる。楓は紅梅の単と緋色の打袴だけの姿で横になった。汀が脱がせた衣を楓にかける。六条萩殿の屋敷では御帳台で寝ていたが、宮中に勤めてからは普通の女房と同じように畳の上に衣をかけた姿で寝ていた。汀も黄縁畳の上に横になり、自分で脱いだ衣をかける。そっと高杯灯台の火を遠ざける。
「お休みなさいまし、姫様」
「ええ。お休みなさい」
守辰丁が刻を告げる鐘の音が響いた。丑の刻にさしかかった知らせだ。二刻後の卯の刻には、掌侍たちや汀が起き出すだろう。
第十六幕『あらたまの春迎えんとす』
姫様、お久しぶりでございます。
やっと出来ました…!!前半(御神楽前日)まではずいぶん前に出来ていたのですが、それから先がなかなか進まず。この調子で二月に一度ぐらいは更新したいですね。次は大晦日の話です。ひょっとしたら正月も入るかも。
もし待ってくださった方がいらっしゃれば、本当にお一人お一人に頭を下げたい気分です。ありがとうございます。いろいろ連載やってますが、どれもやめる気ないですから!頑張ります!
2006 8 6 忍野さくら拝