諸戀 第八幕 夢の通い路

 

大嘗祭を執り行う卯の日になった。十一月に入ってから散斎を行って来た宮中はいよいよ致斎に入り、祭りが始まった。祭りの卯の日は早朝から準備が始まり、夕刻には準備を終える。祭りにあたって禊となる大忌の御浴を済ました天皇が輿に乗って祭りの座に着く。その後ろに剣璽を持った楓と朝顔が付き従って進んでいた。常日頃なら顔を隠す扇をも持つ所だが、大事な剣を持っているので扇など持てず、列席している殿上人には顔まではっきり見えてしまっていた。親王である跡部は他の公達より些か近い位置で見ることが出来た。
「……やっぱな」
横に居並ぶ親王方に聞こえぬようにぽつりと呟く。
やはり、美しい。声の感じも御簾越しの加減も美しかったが、実際に見てしまうと目が離せない思いだ。主上を拝しなければならないところ、跡部の目は楓に釘付けだった。
いつもの垂髪とは違い、今日は額の上に髷を一つ結いそこに宝冠をつけている。主上から許されている青色の唐衣に蘇芳色の表着、紅の薄様の襲色目を纏い、裾濃の裳をつけまだら染めの領巾裙帯を身に着けた、一級の正装姿だ。家から黒羽たちが担いで持ってきた衣である。結い上げた髪が長く裾を引き、横顔にかかる具合も美しく艶やかに見える。やはり殿上人に顔を見られるのが恥ずかしいのだろう、少しばかり染まっている頬も初々しくそれでいてきちんと見据えられた目には意思の強さが見える。引き締められた口元にもそれは伺え、跡部はますます自分好みだと思い嬉しくなった。紅の薄様は白い衣を何枚か重ねた上に色の濃さの違う紅の衣を重ねたものだが、その白い衣を纏っている様が物々しい行事に相応しく、また絵物語で見られる天女もかくや、という姿だ。
大嘗祭の儀式は夜に執り行われる。明かりはついているが、ほの明るい加減に白い衣がますます映え、その色合いを選んだ楓の品の良さが知れる。実際選んだのは楓と楓の母で、相談の末紅の薄様に決まったのだった。祝い事に多く見られる襲色目である。
親王・公卿たちが居並ぶ端に公達たちがいた。王にあたる亜久津は親王の列の末席におり、公卿の列の末席に幸村たち公達が居並んでいる。幸村たちの位置では楓の姿は遠くからしか見えない。蔵人頭である仁王だけは公卿たちの先頭に居た。役得だ。
「……」
──まっこと美しかね。薄暗いのもまた引き立ててええ感じじゃ。真田がかいま見てそのまま一目惚れしてしもうたのも分かる話じゃな。
儀式は粛々と滞りなく進み、深夜になって終了した。次の辰の日は悠紀方の節会が行われる。楓は悠紀国の女工所の内侍なのでその日には御前で主上のお世話をする。次の巳の日にはもう一国である主其方の節会が行われる。そして巳の夜に清暑堂の御神楽、牛の日に豊明節会をして大嘗祭は終了である。





最後に行われる節会である豊明の節会では朝から白酒・黒酒が振るわまれ、神楽も行われる。公卿たちは禄を被けられ、様々な舞が行われた。もちろん五節の舞姫も舞う。節会の際は采女が食事の世話をするぐらいで内侍司は主上の世話しかしない。しかし、酒の入った公達が後宮や五節の舞姫の御座所にやってくることはよくあることだった。そして楓のいる温明殿にもやってきた一団があった。幸村たちである。
温明殿の庇のあたりには何人もの女房たちがいて、裾や袖を少し御簾の向こうに出して見せていた。祝い事によくあった習慣で出衣という。見た目がとても華やかなので、後の時代では几帳に衣を着せてたくさん並べたこともあったらしい。
「楓典侍はいらっしゃるかな」
幸村の声に楓は几帳を御簾の前に立てさせてから、いざり寄った。几帳を二重にもしたいところだが、めでたい日にそんな仕打ちも失礼かもしれぬ、と裾濃に染められた几帳の内に寄る。
「こちらにおります」
「卯の日に見た天女にお会いしたくてね」
「まあ…」
楓は開けた口を扇で覆う。天女とはいささか褒めすぎではないか。領布などをつける正装は滅多にしないことだし、領布をつけた天女の絵姿が描かれている絵物語も多いが、いざ人から言われるとなんだか恥ずかしい感じである。
「ほんに美しかったの。みなで天女が降りて参ったようじゃと話しとった」
「身に添わぬお言葉でございます」
楓の返しに仁王は少し笑った。
「謙遜しなさんな。かと言って自信が過ぎるのも悪いがの」
「萩典侍」
硬い声で楓を呼んだのは真田だ。真田は幸村たちが楓のところに行くと聞いてついて来ていた。
「なんでございましょう?」
御簾の向こうから聞こえてきた声が可憐で、真田は思った以上の美しさに息を呑んで二の句が告げずにいた。
「弾正大弼の真田ちゅうんじゃが、典侍の美しさに心を置き忘れてしもうたようでの。感無量、てとこじゃな」
仁王にそう言われた真田は訂正することも仁王を怒ることもせず、ただ御簾の向こうをじっと見つめている。幸村が取り成すように笑った。
「楓典侍ほどの美しい方にお会いしたらみんなそうなるんじゃないか。豊楽院や紫宸殿での舞や楽はごらんになられたのかな」
「主上の御前におりましたときに少し」
楓がいたのは悠紀国の女工所なので、悠紀方の節会のときに楽と舞を見ている。また豊明節会でも伺候したため、五節の舞姫の舞も見た。どの舞姫も素晴らしかったが、主上の御目に留まったのは芥川大納言の娘だった。慈郎の妹君である。五節の舞姫は通例としてそのまま宮中に勤めることが多いが、慈郎の妹はそのまま更衣として麗景殿を賜ったのだった。この上ない誉れだ。
「大嘗祭とあって華やかな舞でございましたね」
「ええ」
楓が柳生の言葉に小さく頷く。柳生はそれだけで胸が高鳴る思いがした。
「ただ、摂津の守が出された舞姫がお加減が悪くなってしまったとかで退出されたのが残念だったな」
衆人環視に晒される舞姫の具合が悪くなることは度々あったことで、今年もそうなってしまった。楓はその舞姫を思って少し悲しくなる。自分も卯の日には闇夜とは言え衆人環視に晒された身であるし、主上の御前にあってお世話をするときには顔など隠せない。他人事には思えず、ついつい自分にまで辛い気持ちが伝染した。さぞかし辛かったことだろう。
「殿方たちの視線は女の身には耐えられぬものでございますから」
「…楓典侍は堂々たるお姿とお見受け致しました」
柳生は楓を褒める意味でそう言ったのだが、楓自身はあまり褒められた気分にはならなかった。普通、高貴な女性ほど視線を厭うもので、働く女性などはそうも言ってられないので慣れていくものである。自分も慣れたのだとしたら、慎みがなくなってしまったのかしら。楓はそう自問すらした。
「楓典侍、こちらには琴があると聞いたんだけど、どうだろう、紫宸殿の楽とまではいかないだろうけど楽を合わせてみるのは」
「筝と琴、和琴がございますが」
「和琴と琴の琴をお願いできるかな。ぜひ楓典侍には和琴を」
琴の琴を朝顔の方にやると朝顔は笑って琴の琴を膝に持ち上げた。
「では」
仁王の笛が平調の音取を奏で、ついで感恩多の始まりとなった。祝い事に相応しい、晴れやかな音色である。その音が合わさる中で、一際素晴らしく聞こえるのが楓の弾く和琴だった。楓は琴が得意で、筝と和琴とを弾く。琴の琴は昔の楽器なので今の人はあまり弾かない。和琴は主旋律を弾くことの多い華やかな楽器で筝の音は合奏の合間に伝い聞こえる密やかな音になる。
仁王が笛を鳴らし幸村が拍子を取る。楽にはあまり明るくない柳生・真田の二人はただただ座して聴いていた。
──美しく麗しいだけでなく楽の才能もおありなのか。幸村たちがみんなして騒ぐ気持ちが少し分かったようだ…。
真田はここにきてやっと幸村や跡部たちが騒ぐ気持ちが分かったらしい。柳生は静かに音から人柄を察していた。
──和琴は元より華やかな楽器ですが、楓典侍どのが弾かれると華やかさにきりっとした澄んだ感じが加わるようですね。琴の琴は元から清清しい楽器で、この方(朝顔だが柳生は知らない)が弾かれると重みもあるようです。仁王くんの笛はさすがとしか言い様がないですね。主上にもお聞かせする笛だそうですし。幸村くんの拍子もきちっと確かで安定している。素晴らしい感恩多ですね。
演奏が終了したとき、ゆっくりとした拍手が起きた。真田である。真田は楓の演奏はもとよりこの合奏に深く感じ入るところがあったのだが、文章表現に長けていない自分を知っていたため、何も言わなかった。せめてもの賛辞に、と拍手をしたのだ。
「楓典侍はなにか願い事をなさったのかな」
感恩多は祝所や祈所に奏すれば所願が成就すると言われる曲である。楓のいる温明殿の内侍所は主上の三種の神器の一つ、八咫鏡を奉っているところで、別名賢所とも呼ばれる。神鏡に何かを願うのは恐れ多い話だが(八咫鏡は天皇の位を示すものでもあり、天皇が奉っている鏡でもある)、祝所や祈所としては適していると言えるかもしれない。
「主上の御世が千歳であるようにと。及ばずながら」
楓たち内侍司は主上のための女官であり、主上に仕える巫女のような一面も併せ持つ。第一にすべきは主上の御事である。
「楓典侍の願いなら天照大神(天皇の祖先神)もお聞き入れ下さると思うよ」
幸村がそう言ったとき、隣の仁王が小声で朗じた。和漢朗詠集の一節だ。
「…簾中をして仔細を聴かしむることなかれ」(琴の音は人の心を溶かしてしまうもの、だから、御簾の中のご婦人に琴曲の精細を聴かせてはなりません。あなたの琴の音で私の心は溶かされてしまいました)
「御簾の中で弾いたならば音は留まりましょう」(御簾の中から弾いた音なので音が篭って聞こえないことでしょう。あなたの耳には届かないはずです。あなたの思いには応えられません)
周りに人の目のあるところで大胆に戯れてくるところが仁王らしいと言えばらしいのかもしれない。楓は一瞬動揺したが、難無く返すことが出来た。仁王の才気あるところを楓は気に入っているが、応じるほどではなかった。
「さすが仁王だね。朗じる声も素晴らしい」
幸村は仁王を褒めていたが、視線の鋭さは隠せなかった。自分の目の前で堂々と楓に戯れた仁王に対して微かな嫉妬を覚えたのである。もちろん幸村もその一節は知っている。空で暗唱できるほどなのに、この一瞬で出てこなかった自分に対しても腹ただしい思いを抱えていた。真田、柳生ももちろん嗜みとして和漢朗詠集は知っている。暗唱も出来る。なのにこういうときの使い方を知らなかった。二人とも漢文は男の学問だと教わってきたので、女性に掛ける言葉として漢文を引用することが思いつかなかったのだ。仁王の機転に唖然とするばかりである。意を汲んで返答した楓に対しても同じで、真田など尊敬の念すら浮かべていた。
──学も修めてらっしゃるのか。このような女人の傍に居ることが叶えばどんなに幸せか想像も出来ん。
真田が感嘆の息をゆるく吐いたとき、外から声が上がった。
「楓典侍さまいらっしゃいますか。主上が御前にお召しでございます」
「すぐ参ります」
楓は一言そう返事をして和琴を奥へ押しやった。もう節会の宴は終わったはずだが、まだ夕べなので主上は起きてらっしゃるのだろう。
「じゃあ僕たちは先に失礼するよ」
幸村がそう言って立ち上がり、柳生や仁王も続いた。真田が一人座している。
「真田」
急かすような幸村の声に真田はじっと御簾の中を見据えてから立ち上がる。名残惜しそうな表情は御簾の内からでもはっきり分かった。四人が去っていってから、楓は鏡を見て化粧を直し扇を翳して立ち上がった。
「行ってらっしゃいませ、姫さま」
鏡を持っていた汀にそう声を掛けられ、楓は小さく頷いて御簾の内から出て行った。





主上は昼の御座にいらっしゃって、御簾の向こうの孫庇に何人かが控えているのが見えた。孫庇には琴がいくつか出ており、笛や琵琶の撥を手に持っている公達もいるようだ。楓は主上の斜め後ろ辺りに控える。
「楓にもぜひ聴かせたいと思ってね。楽にはうるさい中務卿(跡部)たちだ、さすがに素晴らしいよ」
御簾の向こうにいるのは中務卿宮なのか。一番手前で笛を構えていた公達が笛を膝元に置いてこちらを見ているのが分かった。
「主上、次はいかがいたしましょうか」
「そうだな、蘇合香などどうだろうか」
「では」
盤式調の調子の音取が始まり、ややあって蘇合香が始まった。盤式調は陰陽五行でいう冬の調子にあたる。琵琶がずいぶんしっかりとした音で力強く聞こえる。笛が何か伝わっている品なのか、とても格調高く思われて楓は耳を澄ませた。
御簾の向こうでは忍足が笛を宍戸が琵琶を鳳が筝の琴を弾いていた。跡部は拍子を高く打ち鳴らしていて、慈郎は笙を吹いている。楓がいる御簾の内でさえ手を擦り合わせたくなるような寒さなのに、外はいかばかりか。その外で琴の絃を押さえる指は冷たく凍えてしまっているだろうと思われて、楓は心配そうに御簾の向こうを見る。御簾の外から内は暗くてほとんど見えないが、内からはわりと楽に外が見通せる。じっと見ていると公達たちの顔まではっきりと見えてきそうで、そのような不躾なこと、と楓は扇を翳そうとしたのだが、主上の御前とあって憚られた。少しだけ身体を捩って後ろに下がる。
「どのように思われる、楓」
「……含元殿の角の管絃の声」(含元殿の隅で禁中(=内裏)の管絃の音を聞くことの出来る私の幸せ)
さっき仁王に戯れられたおかげで和漢朗詠集の一節がすらりと口をついて出、言った後で出過ぎた真似だったかと楓は顔を俯かせていると、主上はややあって笑んでこう仰った。
「三千世界の西王母も聴かれたことだろう」
跡部はそれを耳にして、蘇合香が終わって一息ついたところで声高らかに朗じた。
「三千の仙人は誰か聴くこと得たる。含元殿の角の管絃の声」(含元殿の隅で禁中の管絃の音を聞くことの出来るわが幸せ。かの神女西王母の三千世界の仙人たちもこの妙なる楽を聴き得たでしょうか)
和漢朗詠集、禁中の一句だ。跡部の声は冬の研ぎ澄まされた空気に乗って高らかと、西王母にまで届くかに思われた。鳳がそれを受けて筝の琴を掻き鳴らす。
そのまま催馬楽に移り、跡部の声が宵の内裏に響き渡った。





主上が大殿籠もり(お休み)になってから楓は温明殿へ戻る。跡部たちはすでに退出していた。跡部はあの後祝いの催馬楽である安名尊、席田、鈴鹿川などを謡った。その謡い様は堂に入っていて、なかなかの聴きごたえがあるものだった。主上の御前であるのに臆せず謡っている跡部を見ながら楓は自信家なのだな、と思った。わりに強引なところがあり、歌の詠みぶりは格が高く、いくら主上の異母弟といっても普通なら臆するところなのに、まるで左大臣や右大臣さながらの落ち着きがある。
暗い夜に渡殿を歩いていた楓はふと空を見上げる。大嘗祭の間天候がしっかと晴れたのはさすがに主上の徳の高さとお見受けしたし、今宵も素晴らしい月の具合だった。秋で雲がたなびいている月も素晴らしいが、冬に冴え冴えと光輝く月もまた美しい。
「おほぞらの月のひかりしきよければ…」
まさに詠われているような月の具合であった。長く吐いた息がうっすらと白く見えて、もうこんなに季節が巡ってしまったのかと改めて驚く。初めて出仕したのは九月の中ごろであった。まだ二月も経っていないのに、なにやらずっと長く過ごしているような気がしてしまう。それは自分がここに慣れたということなのか、いろんなことがありすぎたせいなのか。
「きっと二つともだわ」
ひっそりと呟いた楓はまた歩みを進め、ゆっくりと温明殿に帰っていった。温明殿では炭櫃の周りで何人かが起きていた。汀もいる。
「姫さまお帰りなさいまし」
「管絃のお遊びをなさっていたわ」
「どなたがいらしたので?」
その質問にはあまり答えたくない。中務卿のことがものすごく嫌いなわけではないのだが、なんとなくあの自信家な顔を見るとじりっと後ずさりたくなるような気分なのだ。
「…中務卿の宮さまと、いつもご一緒のみなさま」
「あら、跡部さまがいらっしゃったの」
炭櫃にあたっていた朝顔が顔をこちらに向ける。楓は頷いて自分も炭櫃の近くに寄った。
「あの方は朗詠がお得意みたいね」
「素晴らしい御声だったでしょう。清暑堂の御神楽の後にもいくつか朗じられたのだけど、それは素晴らしかったわ。お若いのに堂々となさっていて、声も艶があって」
「…まあ、そうだったわね」
渋々、といった態で楓がそう認めると朝顔はくすりと笑みを零した。
「ごめんなさいね。だって楓って跡部さまのことになるとなんだか素直じゃないんですもの。少しお強いところのある方だけど、女房たちの人気はとても高いのよ」
そればっかりは楓も認めざるを得ない。跡部とその周りにいる面子やさっきここに来ていた幸村たちを中心とした面子は内裏女房だけでなく、後宮にいる他の女房たちにもとても人気がある。
「あの方の強い感じが苦手なのかもしれないわ」
「そこがいい、という女房もいるからこればかりは好き好きね」
中務卿の話がそこでしまいになったとき、汀が炭櫃の側を離れて局から文を持ってきた。立文が一つ、結び文が二つ。
「どうしたの、汀」
「さきほど頂いた御文にございますよ。この立文が弾正大弼の君(真田)、こちらの結び文が幸村の左大弁さま、これが蔵人頭(仁王)の君さまでございます」
「楓はほんとうにいろんな方から御文を頂くわよねえ」
朝顔はおっとりした口調でそう言って緩やかに笑う。そう言う朝顔だってたくさん文をもらっているし、何人か局に来ているのも知っている。お互いさま、というやつだ。
「皆様、もの珍しくてらっしゃるのよ」
楓はそう言いながら立文を解いた。弾正大弼と言えば、楓に一声掛けて黙ってしまった人だ。一声掛けたその声もとても強張った感じのものだった。風俗の粛正や役人の不正の摘発などに携わっていたら、自然と声も強張ってしまうのだろうか。
立文には漢詩が書き付けてあり、その横に小さな文字で「御許(あなた)を思う故に」と書かれてあった。
『庭前盡日立てて夜に到る 燈下時有りて坐して明に徹る 此の情語らず何人か會せん 時に復た長吁すること一両聲』(庭先に終日立ちつくして夜になり、夜は灯火の下で時に夜が明けるまで静坐する。此の私の思いは誰にも話さず、話したとしても誰も理解しまい。時々、一声二声、長い嘆息の声をもらす)
白楽天の作った詩である。立文も厚い陸奥紙で、性質の生真面目さが伺えた。前の夫からもらった文にも漢詩が書いてあったことがあるが、そのときは下し文だったし、朗詠集の一節だった。今回は白文である。もし楓が漢詩に明るくなかったら意味不明の手紙だ。
「あら漢詩ですか。珍しいことなさいますね」
女性への手紙に漢詩を書きつける殿方はそうそういない。漢詩を知っているか、という戯れならともかく、これは恋情の文である。楓はどう返そうか悩んで、返事を先延ばしにすることにした。同じ白楽の詩を書いて返事とするなら玉蘂花の詩が良いだろう。そう決めた楓は真田の文を御箱にしまって幸村の文に手を伸ばした。
『南に翔り北に嚮ふ 寒温を秋の鴻に付けがたし 東に出て西に流る ただ瞻望を暁の月に寄す』(雁は年ごとに秋には南に飛んでいき、春には北に向かいます。かの蘇武がしたように、その雁に寒くなったとか温かいことだなどという音信をつけてあなたと通じたいけれども、あなたと私との距離はあまりに隔たりすぎてそれはできません。月は東より出て西に行きます。私は東方の国、あなたは西の海のかなた。有明の月をふりさけ見て、私はむなしく西の空(=あなた)を恋い慕うばかりです)
朗詠集の一節だったので楓にもすぐ意味が分かった。その歌は雁を思わせる檜皮色の薄様と生成りの薄様を重ねた紙に書いてあった。添え物はない。
もう一つの蔵人頭(仁王)からの文は白い料紙と紺青色の薄様を重ねてあった。楓の琴の音を褒める言葉があり、また合奏したいと書いてある。
『松浦の岸に寄る波よるさへや ゆめの通い路人目よくらむ』(松浦の岸に寄る波のように昼間のみならず夜までも、あなたは夢の中で往来するときも人目を避けておられるのであろうか、逢ってもくれないことだ)
「姫さま、お返事どうなさいますか」
「……今日はなんだか疲れたからまたにするわ。少し早いけど休むわね」
そう言うと楓は局に移る。汀もついてきた。ここから見る月もさっきと同じように冴え冴えとして、静かな光を孫庇に投げかけている。
「夢でお会いしたい方なんて一人なのに…」
亡くなった前の夫に関して、喪に服している間に気持ちの整理をつけたつもりだった。でも、こんな趣のあるときや殿上人から文をもらったときなど、どうしても昔を思い出してしまう。昔、こんなときにはあの人がいてくれたものだったのに。月と言えば秋だけれど、あの人は冬の月も素晴らしく見所があるものだと言っていた。凛々しい感じが百合に似ているね、とも言ってくれたものだった。
思い出せばきりがなくて、楓は夜具の中でそっと涙を絞った。




第九幕『龍の声』


 

いかがだったでしょうか。諸恋第八幕。やっと大嘗祭も終わり、これから宮中は暮れに向っていきます。少し現実と時間がずれすぎるので、これからは一人ずつで話を書いていきたいと思っています。

お付き合いありがとうございました。多謝。
2005 10 22 忍野さくら拝

 

 

 

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