Étolie sérénade ouverture
ホームルーム直後の桜蘭高校、1−A教室。放課後の予定を話し合っていた女生徒は、声を掛けられて振り向いた。声を掛けたのは今日来たばかりの転校生だ。一月の終わり頃、という微妙な時期にやってきた転校生。
「つかぬことをお伺いしますが、三年生の埴之塚さんと銛之塚さんをご存知ありません?」
「埴之塚先輩も銛之塚先輩も、3−Aのクラスでいらっしゃいますわよ。今でしたら、きっと第三音楽室ですわね」
「音楽室?」
「そう、桜蘭高校が誇る、ホスト部の部員でいらっしゃいますもの!」
「……。ホスト部?」
「行って見られたらお分かりになりますわ。あいにく、私たちはお約束があるのでご一緒に行って差し上げられませんけども、この東校舎ではなく、あちらの南校舎最上階、北廊下の一番奥が第三音楽室ですの」
「分かりました。詳しく教えて下さってありがとうございます。では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
それから数分後。第三音楽室の前には、転校生が立っていた。背中まである長い黒髪は、手入れが行き届いており、癖一つない。前髪は切り揃えられており、丸い目を引き立たせる。転校初日にして、完璧に桜蘭高校女生徒の制服を着こなしていた。
ひどく豪奢な扉に手をのばし、数回ノックする。中からは、『お客様だ!』『にしては早くないか?』『まだ営業時間ではないのだが、お客様ならご案内しないとな』とさまざまな声がする。お客様、という単語に転校生は首をかしげた。ホスト、というのと関係あるのだろうか。
「あの…」
「いらっしゃいませ!お姫様」
「埴之塚さんと銛之塚さんを探しているんですが」
客じゃない、とばかりに双子はポジションを崩してしまった。環が近寄る。
「ハニー先輩とモリ先輩を探してらっしゃるのですか、姫?」
「ハニー先輩、モリ先輩、お客さん?ですよ」
ハルヒは裏の控え室に二人を呼びに行ったのだが、今やってきた女生徒をなんと形容していいか分からない。二人の客だが、ホストとしての客ではないし、知人なのかも分からない。そういえば、今日クラスにやってきた転校生だ。
「はいはーい、今行くねー」
崇に担がれる格好で光邦が控え室を出て入り口付近に向かった。転校生の姿が見えたところで崇が動きを止める。転校生はにこにこ笑っていた。
「久しぶり、みっちゃん、崇くん」
「みっちゃん?崇くん?」
ホスト部最年長にして、おそらく(武術において)学内最強のハニー先輩をみっちゃん呼ばわり!?あまり良く知らないハルヒ以外の全員が同じ思いで驚いている。
「!もしかして、もしかして…百合さま!?」
光邦は崇の上からひょっと身軽に飛び降りて、百合と呼ばれた転校生に近寄った。
「百合?」
「さま??」
百合、というのは女生徒の名前なのだろう。それは分かる。しかし、なぜにさま付け!?
「みっちゃんと崇くんが小学生の時以来ですから、五年ぶりになりますわね。崇くんがとても大きくなっていて驚きましたわ」
「百合さまいつこっちに!?」
さま付けは聞き間違いではなかったらしく、光邦はまた百合さま、と目の前の女生徒を呼んでいる。呼ばれた百合という女生徒は心持屈んで、視線を光邦に合わせていた。
「引っ越してきたのは一週間前ですわよ。みっちゃんは可愛いままですのね」
「桜蘭へはいつお越しに?」
「今日が初日ですわ。桜蘭高校に行ったら、一番最初に二人に会いたくて、クラスメイトの方にお聞きしましたの」
「じゃあ、毎日会えるんですか?」
光邦が敬語を使って喋っていることに気づいたホスト部メンバーは驚きすぎて言葉も出ない。敬語使えたのか。それよりなんで一年生に敬語。いろいろ疑問符ばかりだ。
「ええ、ずっと一緒ですわ」
「百合さまー!」
光邦が感極まって勢い良く抱きついた、そのときに事件が起きた。百合の長い髪がずるりと取れてしまったのだ。
「え?」
「「ヅラ!?」」
ホスト部の部長副部長コンビの対応はすばやく、環が百合を引き寄せて室内に引き入れ、鏡夜は誰もいないことを確かめた上でドアの外に本日臨時休業の札を立ててドアを閉め、鍵までかけた。
「え、あの、百合さま…?」
一番驚いているのは抱きついた拍子に髪が取れたことを間近で見ている光邦だ。ほとんど泣きそうになっている。
「バレちゃいましたね。みっちゃん、泣かないで、これもともとカツラなんです。つけてるだけなの」
「「よく出来たかつら…ってこれ人毛じゃん!」」
落ちたかつらを手に取っていた双子は毛を指で確認して、声を上げた。
「ええ、それ私の毛を使ったものなの。ちょっとした約束で、つけることが条件なの」
「「何の、条件なのさ?」」
「ヒカちゃん、カオちゃん、百合さまにそんな言葉遣いしちゃ、メ!」
「いいのよ、みっちゃん。だって二人はクラスメイトだもの。条件っていうのはね、学校に行く条件。私、学校っていうもの、初めてなの」
「「はぁー!?」」
「…とりあえず、お茶でもいかがですか?」
一人冷静なハルヒが、人数分お茶を入れてテーブルに用意している。全員がテーブルについた。百合の両側には光邦と崇がしっかりとついていて、離れない。テーブルに百合が使っているカツラがおいてあるのがちょっと異様だ。
「私、生まれてから学校というところに行ったことがなくて。ずっと行きたかったんだけど、家で家庭教師と勉強するばっかりで」
「高校は通えることになったんですか?」
ハルヒの言葉に百合は頷いて、ロイヤルコペンハーゲンのカップを手に取った。中にはハルヒが入れたダージリンが入っている。
「ええ。やはり一度は学校に行ってみたかったし、みっちゃんと崇くんにも会いたかったし」
「百合さまー!」
光邦はひしと百合を抱いて離れない。
「で、学校に行くこととそのカツラとが結びつかないんですが」
「ああ、これはね。見ての通りのショートでしょう?秋月家のイメージ的な問題なの。秋月家の一人娘が男の子みたいなショートカットじゃいけないってお父様もお母様もお嘆きだったから。家の中では短いままで過ごしているけど、誰かの目に触れるときには長い髪のカツラを被っているの。もちろん、学校に通うときにも被るのが条件」
カツラが取れた百合のヘアスタイルは、さわやかなショートカットだった。ボーイッシュといってもいい。
「秋月家?そんな家聞いたことないよ」
「百合さまは僕ら埴之塚の主家、秋月家の一人娘なの。僕がずっとお守りする人」
光の言葉に、今度は光邦が答えた。まだ百合にしがみついたままだ。
「主家?なにやら素敵な響きだな」
「お守りするってことは婚約者とか?」
聞きなれぬ古風な言葉に反応したのは環で、目を輝かせている。ハルヒの質問に光邦は首を振る。
「そんな、恐れ多いよー。百合さまのお家を守るために、僕ら埴之塚の一族は武術やってるの。大昔から」
「さま付けは要らないと言っているんだけど、みっちゃんも崇くんもお侍さんみたいな所があるみたいで」
モリ先輩はともかく…ハニー先輩がお侍?
ホスト部メンバーの脳裏には、光邦が時代劇の衣装を着て勇ましくしている姿が映っている。今のサイズのまま。
「秋月家…聞いてはいたが、実物が見られるとはな」
「鏡夜先輩、それじゃ天然記念物か絶滅危惧種みたいですよ」
「実際天然記念物に近いしな」
「え?」
鏡夜はどこから出してきたのか、ファイルを片手にぺらりと書類をめくった。
「秋月家。千二百年の歴史を持ち、本家は京都。表立って企業を持ってはいないが、資産は世界有数。世が世なら、御簾の中でかしずかれて生活しているような一族だよ。俺たちなんて秋月家の前では成金だな。百合姫は現当主の一人娘、跡取り娘だ」
「へー…規模が大きすぎてよく分かりませんね」
ハルヒは大して興味もなさそうに首を傾げた。
「ところで、一つ聞いてもいいかしら?」
「どうぞ、姫」
「あなたはどうして女の子なのに、男子の制服を着てるの?藤岡さん。せっかく可愛いのに、もったいない」
「「「「!」」」」
百合はにっこりと笑っている。ハルヒはどう答えたものか戸惑って、言葉にならない声しか出ない。
「えっと…その…」
「百合さまに隠し事は出来ないよー。百合さまは何でも分かっちゃうんだ−。病気の場所とか怪我の場所も分かっちゃうの、すごいでしょー?」
光邦はいつもの笑顔でいるが、他のメンバーはそれどころではなかった。
「集合!」
ピ、とホイッスルを鳴らした環のもとに、鏡夜、常陸院双子が揃う。
「ちょっとどうすんの殿」
「言い逃れ出来ない雰囲気じゃん」
「ハルヒのように借金を負わせようにも、秋月家じゃまず無理だな」
「鏡夜、冷静に分析してないで、何かいい案出してくれよ!」
ひそひそ声なので、百合のところにいるハルヒや光邦たちには聞こえていなかった。
「髪もさらさらで本当にきれいね」
「どうも…」
ハルヒは黙って百合のいいようにされているが、お客様たちはこんな気分なのかな…と思っていた。
「ホスト部、とクラスメイトは言ってたけど、あなたもホストをしているの?」
「一応接客はしてます。別に嫌々ってほどじゃないし、約束(借金)もあるので」
「そうなの、頑張ってね」
「百合さま、ぼくらにはー?」
「もちろんみっちゃんも崇くんも応援してる」
百合がそう言って光邦の頭を撫でたので、光邦はうさぎを片手に嬉しそうに笑っている。
なんだかほのぼのした空気の流れるテーブル付近をよそに、部屋の隅では未だにひそひそ声の会議が続いていた。
「普通に黙っててくれって頼むんじゃダメなのかよ?」
「そうだよ、こっちが押せば言うこと聞きそうじゃん」
「相手は生粋のお嬢様、しかも学校に来るのが初めてという稀有な存在だぞ!どこまで隠し通せるかどうか」
「あの手のタイプなら、同情を引くか泣き落としでもすればいい線いくかもしれないな…。出番だ環」
「え?俺?」
「そうだキングの力見せてこい」
鏡夜にぽん、と背中を押された環はしばらく戸惑っていたが、やがて椅子に腰掛けている百合の前に立つとすっと跪いた。
「百合姫」
「はい」
右手を取られ、環の手に乗せられたものの百合は動じない。
「姫にお願いがあるのですが」
「何ですか?」
「藤岡ハルヒの件、内密に願えませんか?誰か他の人に露見してしまうと、とても困るのです」
きらきら、と無駄に環の周りが輝いている。ハルヒは自分のことと分かっていながら、芝居がかっている環のしぐさにうんざりしていた。
「それはもちろん。何かわけがあるんでしょう、こんなに可愛いのに男の子の格好をしているなんて」
「え、ええ、それはそれは深いわけがあるのです。わけをお話出来ないのが残念ですが、わかっていただけて嬉しいです、百合姫」
大人しく同意されて、いささか拍子抜けした環は、恭しく押し頂いていた右手の甲に軽くキスをした。隣で光邦が目を見開いて驚いている。飛びかかりそうになったが崇が抑えた。
「タマちゃん!百合さまになんてことするのー!」
「にしてもさぁ」
「あれだよね」
双子は同じポーズをとりながら百合と環の図を眺めている。
「「百合さんってホストっぽくね?」」
涼やかな細面の顔立ち、髪が長かった頃はひたすら小顔に見えていたものだが、髪が短くなった今では、さわやかな印象を与える。物腰は優雅で丁寧、ハルヒに対する数々の発言を聞いていた双子はそう結論づけたのだった。百合は今日やってきた転校生だと気づいていたが、先輩である光邦が敬語を使っていることを気にしてか、敬称がついている。
「殿に迫られても顔色一つ変えないし」
「姫って呼ばれるだけで舞い上がっちゃう子もいるのにね」
「…それは秋月家の一人娘だからだろうな」
横から鏡夜が割って入った。
「日本のみならず、世界的に名の知れた家柄だからな。生まれたときからエスコートされて育っておいでなんだろう。環がキスをしてもまるで自然な振る舞いだ」
「「ふーん。そんなに有名なのに、僕ら全く聞いたことなかったんだけど」」
双子の自尊心をくすぐったのか、二人とも不服そうだ。
「秋月家は京都が本家で、東京の社交界にはほとんど出てこない。ヨーロッパの社交界に出るのが忙しいようだからな。ひょっとしたらお前たちの母君は知ってるかもしれんぞ。俺にしても話に聞いていただけで、本物に会ったのは今日が初めてだ。親同士なら分からんが」
「へー。そんなもんなの」
光は感心しているのだが、どうでもいいのだか、あいまいな相槌をうった。
「ところで、あなたのお名前は?」
百合は環と手を重ねたまま、環にそう尋ねた。
「ホスト部部長須王環と申します、姫」
「あなたがたは?」
環としてはかなりキメて答えたつもりだったのだが、全く反応が無かったばかりかすぐに興味を反らされて、無言で落ち込む。
「…えっと、秋月さん悪気はないようですし…」
「だからよけーにこたえたんだよ、ハルちゃん」
「あ、それもそうですね」
ぽん、と手をついたハルヒのしぐさがさらに環をどん底に落としたのだが、ハルヒには知るよしがなかった。
「俺は鳳鏡夜で、こっちの双子が」
「僕が常陸院光」
「僕が馨だよ、姫」
鏡夜も双子もすっかり営業モードだ。このままホスト部を気に入ってくれれば上客になるかもしれない。双子と環にはその計算があったのだが、鏡夜やハルヒ、光邦たちには全くその考えがなかった。
「須王さんと鳳さんは二年生?三年生?みっちゃんたちは三年生なのよね?」
「俺らは二年A組ですよ、姫。もちろんハニー先輩たちは三年A組です」
膝を抱えてめげていた環はいつ復活したのか、晴れやかな笑みを浮かべて百合の前に跪いている。
「そう言えば秋月さん、口調がずいぶん変わってますね。最初と今と」
ハルヒの言葉に百合は頷いて笑った。
「なんていうか、あのカツラをつけてるときは秋月家の一人娘として、恥ずかしくないように振舞わないといけないから。お嬢様ぽくなるように気をつけてる、って言ったらいいのかな。どちらかというと地の私はこうなんだけど。でも、どっちも私だから」
「お嬢様っていうのも大変なんですね」
「んー…みんなきっと同じだけ大変なんだと思う。誰でも」
私なんかより、メイドのまるちゃんのほうがずっと大変そうだもん、と言って百合は既に冷えたダージリンを飲み干した。
「なんていうか…」
「なんだねハルヒ。おとーさんに言ってみなさい」
「ちゃんとしたお金持ちの人っているんですね」
「「ちゃんとした?失礼だな、僕たちのどこがちゃんとしてないっていうのさ」」
「全部だと思う」
滅多にハルヒの攻撃を受けたことのない双子は二人してへこんでいる。
「ハ、ハルヒ、お父さんはまともだぞ!」
「どこがですか」
「うわーん!おかーさーん」
「……。あーよしよし」
環を片手だけで慰めてやりながら、鏡夜は確かに、と百合を見やっていた。おそらく今まで家にばかりいたというのなら、ある意味で無知でもあるのだろうが、性質がまっすぐなのは確かなようだ。物事をきちんと見ることが出来る目を持っている。
「百合さまは素敵な人だもん、ね、ハルちゃん」
「そうですね」
光邦の言葉にハルヒは頷いて微笑んだ。崇も頷いている。
「須王さんがお父さんで鳳さんがお母さんなんですか?」
「え、ええ…」
マイペースらしい、百合の唐突な質問に鏡夜は一瞬たじろいだが落ち着いて頷いた。お母さん役を好きでやっているわけではないのだが、環がやっているのだし、付き合うぐらいは構わない。
「じゃあ、他のみなさんがお子さん?兄弟がたくさんで素敵」
「僕らは違うよ、百合さま。タマちゃんの子どもはヒカちゃんとカオちゃんとハルちゃん」
「「え?僕らも?」」
確か環が子どもと勝手に呼んでいるのはハルヒだけだったのだが、同学年の双子も巻き込まれたらしい。光邦の言葉に百合はちょっとだけ笑って首を傾げた。
「そうなんだ。……いいな」
独り言に近い百合の呟きを聞いた環たちは小さく息を飲んだ。意味合いはそれぞれ違ったが。
百合には兄弟がいない。一人娘、跡取り娘と呼ばれて丁重に扱われているのはそのせいだ。次期当主、という意味合いももちろん含まれている。
「ならば!」
鏡夜に慰められていたはずの環はまたもや復活した。
「あなたは光と馨の妹、ハルヒの姉ということでいかがだろう?ここにいる間だけだが」
「俺はいつの間にハルヒの姉や兄を生んだ設定なんだ…。17で四人の子持ちか」
世間には13歳で子どもを生む女性もいることだし、無理ではないな、と鏡夜が一人納得していると、いつの間にか百合の周りにはみんなが集まっていた。
「素敵!妹もお兄さんも欲しかったんです」
素直なのか思い込みが激しいのか、全員同学年である前提を忘れたかのように百合はすんなりと環の設定を受け入れている。
「そっか、僕らには可愛い妹が二人も出来たってわけだね、光」
「そうだね馨。まあ、ハルヒは普段は弟になるんだけどね」
「あの、いいんですか?部外者なんじゃ…」
百合に聞こえないようにこっそりと環に言うと、環は肩をすくめてみせた。
「ハニー先輩たちの大事な人だ。部外者ってわけにはいかないし、お客様として迎えようにもお客として来たらハニー先輩たちは仕事にならないだろう」
「でしょうね。多分。今でもべったりですから」
「ならば、発想を変えていっそ受け入れよう、と。幸い百合姫は普段ロングの髪でとても女性らしい姿、ここでそのカツラを外して男子の制服でも着れば、誰も同一人物だとは思わないさ」
「それは…そうでしょうね。きっと」
「だろう?ハルヒ、このおとーさんの素晴らしい発想にご褒美のキスを…」
環が目をつぶってキスを待っている間、ハルヒは環の隣から離れて百合の傍に近寄った。環はキス待ちの姿勢で固まっていたが、鏡夜が解除した。
「そうと決まれば百合姫」
「「「「「「「桜蘭ホスト部へようこそ」」」」」」」
声を揃えた部員たちに、百合は満面の笑みで返した。
「ありがとう。とても嬉しいわ。こちらに来て、最初のお友だちね」
学校に来たことのない百合には先輩後輩という概念は希薄だ。全員が友だち扱いになる。
「百合さま、僕らは前から仲良しですよね?」
「もちろん」
「わーい!そうだ、百合さまケーキ食べますか?チョコケーキあるんですよ」
「本当?いいの、もらっても」
光邦用にとってあるケーキ箱を崇がとってきた。中には小さなケーキが八つ入っている。中からチョコケーキを取り出して百合に勧める。光邦の前には苺のケーキを置いた。
「じゃあ紅茶淹れてきますね」
ハルヒは紅茶のポットを持って裏にある控え室に姿を消した。
「ねえみっちゃん、崇くん」
「なぁに、百合さま」
「お願いがあるの」
「何でも言って下さい!何でも」
「本当?なら、敬語はやめて、お友だちと話すみたいに話してほしいなって。…違うの、敬語を使われるのがそこまで嫌ってわけじゃないんだけど」
「ならどうしてダメなんですか?」
自分が良かれと思ってしていたことを否定されて、光邦は大きな目にうるうると涙をためている。
「もっともっと仲良くなりたいなって思って。前みたいにたまにしか会わないんじゃなくて、毎日会えるんだもの。もっと仲良くなりたいから、お友だちみたいに話してみない?」
「百合さまがそう言うなら。お父さんや当主さまの前では、ちゃんと敬語使いますね」
「本当はね、みっちゃん」
「私はいろんな人に百合さまって呼ばれてるでしょう?一族の人にも、仕えてくれている人たちにも。でも、『さま』なんてつかない、本当の百合って人間と仲良くなって欲しいの。だから、これは私のわがままなんです、ごめんね」
ずっと家にいた百合にとって、百合をさま付けしないのは両親ぐらいのものだ。
「じゃ、じゃあ、百合ちゃんって呼んでも…?」
「もちろんよ、嬉しいわ」
「……百合ちゃん!」
ハルヒがお茶を注いでいる横で光邦はひしっと百合に抱きついた。勢いのある攻撃だったにも関わらず、百合は平然と受け止めている。
「姫、俺らもそう呼んでも?」
「もちろん」
百合は光邦を受け止めて抱きしめたまま、晴れやかに笑った。
「それはそうと、百合がこの部にいる間の別名を考えないとな」
「別名?」
馨の言葉に百合は首を傾げた。光が意を受けて面倒くさそうに環にふった。
「あー、殿説明して」
「それはですね、姫。ここはホスト部という部活動なのです。ホスト部は暇なお嬢様方をもてなす男子の部。ハルヒが男子ではなく女子であるということは、ホスト部以外誰も知りません」
「そうだったんですか」
「ですから、姫がこちらにいらっしゃる間は、そのカツラを取って今の姿で、男子の制服を着ていただき、男風の名前で呼び合うことになりますが、大丈夫ですか?」
環は客相手のような、丁重で芝居がかった喋りをしている。客としてではなく部に受け入れようと言い出したのは環なのだが。
「…面白そうですね。私もその接待というのをしたほうがいいのですか?」
環や鏡夜が年上と分かって、百合は幾分丁寧な物言いになっている。
「百合が何か好きなことや得意なことは?」
鏡夜の問いに、百合はちょっとだけ考えこんだ。
「お茶を飲むのが好きなので、お茶を淹れるのは好きなんです。あと、音楽も」
「楽器は何か?」
「バイオリンとピアノを少し」
「それでは、お嬢様方に出すお茶の手配と、BGMを頼もうか」
「……自分のときと全然違う…」
借金の有無はそこまで違うのか、とハルヒは分かっていたことながら、ため息をついた。
「気にすんなってハルヒ」
「そうそう、ハルヒにはハルヒの良さがあるんだから」
双子にフォローされているハルヒはもう一度ため息をついて、空になったティーカップにお茶を注ぐ。ダージリンの芳醇な香があたりに広がった。
「ねえねえ、百合ちゃん」
「なぁに?みっちゃん」
光邦は百合をちゃん付け出来ることに照れているのか、少し頬が赤い。頬には苺のショートケーキの生クリームがついている。
「悟ちゃんってのはどうかなあ?秋月一族にはいない名前だし、百合ちゃんに似合うし」
さっきから光邦が大人しかったのは、百合の別名を必死で考えていたかららしい。
「秋月悟か。いいんじゃないか、百合」
「ええ、じゃあ、私はここにいる間は『悟』なんですね。みなさんのことはなんとお呼びしたら?」
「「僕たちは同級だから、呼び捨てでいいよ。僕らもそうするし」」
双子に百合は頷いて、藤岡さんは?とハルヒに尋ねた。
「自分も同級だし…ハルヒでどうぞ。クラスでは百合、でこっちでは悟、だね」
「分かったわ。須王さんと鳳さんは?」
「ぜひお父さんと…痛っ」
意気込んで答えた環の頭を思いきり手で押しのけた鏡夜は、にっこり笑って答えた。
「名前を呼んでもらいたいところだが、学校という社会の中では、年上の人を『先輩』という敬称をつけて呼ぶのが普通だな」
「…鳳先輩、と?」
「いや、下の名前のほうで」
鏡夜はさらににっこりと笑う。あまりの笑顔に双子が驚いている。
「鏡夜先輩?」
ライト、と言いたげに笑った鏡夜の下から環が勢いつけて復活した。
「ならば俺は環先輩だな!良い響きだ!」
「僕らは今のまんまでいいよー。ね、崇?」
「ああ」
崇が頷いたとき、校舎にチャイムの音楽が響いた。クラシックの一小節が流れる。
「そろそろ下校時間のようだな。百合、これを」
鏡夜に手渡されたのは、小さな鍵だった。
「これは?」
「隣の控え室、第三音楽準備室の扉の鍵だよ。表立って男装していない百合が部活前のここに出入りするのは目立っていけない。隣の部屋を俺たちが使用していることを知っている人間は少ないし、ここが目立つ分そちらに目は行きにくい」
「さすが鏡夜、フォローは万全だな!」
「フォローするのは俺じゃなくて、全員で、だ。光馨」
「「なに?」」
「明日には百合用の男子制服を用意しておくから、男装用の準備頼むぞ」
「「ラジャー!」」
双子は揃って敬礼で答え、鏡夜は光邦と崇に向き直った。
「ハニー先輩とモリ先輩は、部活中に百合のことを本当の名前で呼ばないように気をつけて下さい。何かあっても過剰な反応はしないように。不審に思われますから」
「はーい」
「次にハルヒ」
「何ですか?」
「裏の控え室をいろいろ案内しておいてくれ。明日で構わない」
「分かりました」
なかなか名前を呼ばれない環は大人しく待っていたのだが、鏡夜はハルヒに指令を出すとそのまま立ち上がって解散、と告げてしまった。
「鏡夜ー!俺はー?」
「……環は…ハルヒ同様『悟』が女だとバレないように気をつけてくれ。以上」
「はーい」
そしてそのまま解散になった。真っ先に双子たちが部室を後にし、ハルヒもタイムセールに間に合うように急いで帰っていく。
「百合ちゃん!一緒に帰ろう?」
「ええ。じゃあお先に失礼しますね、鏡夜先輩環先輩」
崇によじ登った光邦と、光邦の鞄も一緒に持っている崇、カツラを器用につけなおして整えた百合が三人揃って部室を後にした。
「ああ」
「また明日なー」
鏡夜と環の声が扉を閉めて遮られる。崇によじのぼったまま、光邦は何度も百合の顔を見ては笑みをこぼしている。
「どうしたの、みっちゃん」
「だって、これからずっと一緒なんだって思ったら、すごーく嬉しいんだ。勝手に笑っちゃうよー」
「ふふ、私も嬉しいわ。学校は楽しそうなところですし、みっちゃんにも崇くんにも毎日会えるのが嬉しいわ」
「…ああ」
まだ校舎に残っていた女生徒は、幸運にも滅多に見られない崇の微笑みを目撃することになり、それがうわさになったのは後日の話。三人が校舎を後にする姿を、第三音楽室の窓から環が眺めていた。
「そういえば鏡夜」
「なんだ」
「主家って何だ?何かとても日本らしい言葉だとは思ったのだが」
「そうだな…ハニー先輩と百合の場合、秋月家が主人側で、埴之塚はそれに仕えている従者ということになるな。仕えている家が、主家だ。銛之塚家にとっては埴之塚家が主家に当たる。秋月家は平安貴族の流れを汲んでいるようだから、埴之塚はその時代に貴族に仕えていた下級武士の出なのかもしれないな」
貴族、武士、という単語に環は胸をわくわくさせて目を輝かせている。
「じゃあ、百合は本当にお姫様なんだな!」
「……そういうことになるのかもな」
京都からやってきた、本物のお姫様。
彼女がホスト部メンバーにいかなる影響を及ぼすのか、まだ誰も知らなかった───
いかがだったでしょうか。こんな展開でこんな設定ですが、環中心です。ハニー先輩が武道の達人だと分かったときに、この設定を思いつきました。やっぱ武士はお姫様に仕えてなきゃ!(笑)
お付き合い有難う御座いました。多謝。
2006 5 13 忍野桜拝