Étolie sérénade Le cinquième mouvement
二月末、三学期の期末テスト終了後。光邦とハルヒの誕生日パーティ当日だ。中央棟の大広間は鳳家スタッフを中心としたメンバーで飾り付けられ、華やかな雰囲気に仕上がっていた。
「さて準備はいいかにゃ、皆の衆」
環の声に正装した部員たちが頷く。今日の主役はハルヒと光邦なので、二人はタキシードを、そのほかの部員はブラックスーツを身につけている。ハルヒの服はもちろん双子が貸し出したものだ。
「もう少しで開場だ。今日の主役はあくまでハニー先輩とハルヒ、そして二人のお得意様。我々はサポートに徹する」
「「ラジャー!」」
双子は鏡夜の言葉に敬礼で答える。百合も崇と一緒に頷いてみせた。
「楽しみだねぇ、ハルちゃん」
「……いつもながらスケールが無駄に大きいですね」
クリスマスパーティのときと同じ大広間には光邦とハルヒの名前が掲げられ、辺りはさまざまな花で飾られている。当初は花でなくお菓子で飾りつける案も出たのだが、大広間全てをお菓子で覆ってしまっては、後々大量にお菓子を廃棄しなければならないことが分かり、その案は(光邦が泣く泣く)却下した。お菓子の家が見たかった、と泣く光邦を崇とあやしながら、百合は一軒家のお菓子の家を作ろうかな…などと考えていた。一軒家ならみんなで食べたり持って帰って使用人にあげたりすれば、なんとかクリアできるかもしれない。あまったものは廃棄して当然、と百合含め環たちも思っていたのだが、ハルヒの『食べ物を粗末にするんじゃない』という指導の下、出来るだけ廃棄しない方向にチェンジしたのだ。
「埴之塚光邦、藤岡ハルヒ、両名の誕生日パーティにようこそ!」
環の声とともに大広間の扉が開かれる。扉の向こうには着飾った女生徒たち。あっという間に主役の光邦とハルヒたちは得意客たちに囲まれてしまった。
「お飲み物はいかがですか?」
様々なドリンクを用意したコーナーには百合がスタンバイして、お客たちに飲み物を勧めている。
「悟くん、ここにいたのね」
「ええ。私は飲み物の担当なので。何かお一ついかがですか?」
顔なじみの客に飲み物を勧めると、彼女はお勧めのアイスティー、と言ってにっこりと微笑んだ。
「かしこまりました。本日のアイスティーはヌワラエリアです」
濃く淹れたヌワラエリアをクラッシュアイスを入れたロンググラスに一気に注ぐ。飲み物のテーブルに無造作に活けられているバラの花から、一枚花びらを取って、水で洗った。水気を取った花びらを上に添えて、グラスを差し出す。
「どうぞ。バラはお好きですか?」
「好きよ。素敵な演出ね」
彼女の頬が微かに染まっているのは見間違いではないだろう。バラは百合の家(秋月家別邸)に生えているもので、一切農薬などを使用していないバラだ。枝ぶりは整っていないが、こうやって使っても安全で、百合もたまに紅茶に浮かべたりしている。
「ありがとうございます。どうぞパーティをお楽しみくださいね」
彼女はアイスティーのグラスを片手にパーティの中へ戻っていった。大広間にはドビュッシーの月の光が抑え目のボリュームで流れている。お客に飲み物をサーブしていると、環が様子を見にやってきた。
「悟、頑張ってるな」
「大したことはしてませんよ。先輩もいかがですか?」
「何かもらおうかにゃ。お勧めは?」
環の言葉に、ふっと悟は小さな笑みをこぼした。
「んん?」
「いえ、みなさんそう仰るので。環先輩、お食事は?」
「まだだよ。とりあえず飲み物をもらってから何か口にしようかと」
「分かりました。それなら、フレーバーティにしましょうか」
今が旬のヌワラエリアにフェンネル、リコリスを少し足してアイスティーを作った。出来立てのグラスを環は口に運ぼうとして、鼻をきかせる。
「…なにやら甘い匂いがするな」
「リコリスが甘いのでそういう匂いがするんでしょうね。空腹にはいいと思いますよ」
「そうか、ありがとう。悟もほどほどにして食事するんだぞー」
環はそう言い残してハルヒのところへ行ってしまった。ほどほどにって言ってもここを離れたら誰が…と思っているといつの間にやら背後に鳳家スタッフが控えていた。
「悟様、こちらでしたら私共におまかせを。鏡夜さまのお茶を淹れている専属のスタッフがおりますので」
「さすが鏡夜先輩……」
手際の良さに感心するばかりだ。ゆくゆくは事業を任されて人の上に立つのだろう、と思わされる。
秋月家の人間は事業をしなくても生活に困ることはないし、百合は家族が働いているところを見たこともない。所謂人付き合いが秋月家の仕事のようなもので、両親は働いていなくても忙しそうにしていた。なので百合は仕事をする感覚、というのが未だによく分からない。お茶は趣味だし、ホスト部の接待は見よう見真似だ。でもサービスされるばかりだった百合にとって、サービスをして誰かに喜んでもらえる、というのは結構楽しいことだった。サービスをする側になって初めて、人から言われる「ありがとう」がとても大事だということに気づいた。お茶を出したり接待をするようになってから、今までは礼儀として言っていた「ありがとう」に出来るだけ心を込めるように努めている。気持ちの問題だが。一言でお互いが暖かな気持ちになれるのなら、その一言は出し惜しみするべきではない。
「じゃあもうしばらくしたらお任せしますね」
「はい、かしこまりました」
鳳家スタッフは他にも見回るところがあるのか、さっと下がっていく。変わりに鏡夜本人がやってきた。
「どうだ、悟」
「今のところ問題はないです。交代のスタッフまで用意して下さったんですね、ありがとうございます」
「……悟もお客様のところに挨拶したほうがいいと思ったからな。ハルヒやハニー先輩のお客様にも、お前を贔屓にしているお客様がけっこういる」
お茶をいろんなテーブルに届けるのが最初の役目だった悟は、いろんなお客様と顔馴染みだ。クラシック音楽が好きなお客様もかなり多いので、他の部員のお得意様でも悟を贔屓にしている客は多い。
「…そうですね」
百合は頷いて、鏡夜のためにお茶を淹れはじめた。鏡夜はじっとそれを見ながら、会場にも目を配っている。
「四時を過ぎたらリサイタルの時間だが、ピアノとバイオリンは三階のサロンにおいてある。音の調子を確かめたかったら、三階に行くといい。お客様には見つからないようにな」
「分かりました。いつ頃ピアノとバイオリンを動かすんですか?」
「三時半だな。三時半になったらスタッフに運ばせる」
オレンジを入れたフルーツアイスティーを作り、グラスに注ぐ。グラスの中には輪切りのオレンジが一枚入っていた。
「はい、鏡夜先輩。どうぞ」
「…悪いな」
鏡夜はグラスを受け取り、口をつけた。オレンジのさわやかな風味が口から鼻に抜けていく。鏡夜はふっと小さく息をこぼした。パーティで用意する飲み物関係の物の多さに内心驚いていたが、百合は器用に使いこなしている。百合にお茶の淹れ方を習ったハルヒも着実に上達したし、お客様からの評判もいい。音楽室でかけるBGMも百合がセレクトしてきたものは名盤が多く、耳の良いお客様は喜んでいるし、もちろん毎週のリサイタルは満員御礼だ。オークションの売れ行きもいい。『悟』が使っているピアノ楽譜のコピーはかなりの高額で売れた。本物を拝借して売ることも出来たが、それはあまりにリスキーだったのでコピーにして、その代わりに悟の直筆コメントを入れた。クラシック音楽を嗜むお嬢様、というのはかなり多い。『悟』の演奏をCDに録音して売ったらさぞかし売れそうだ。
「悟さん、お茶を下さる?」
ハルヒの常連客で三年の女生徒がやってきた。鏡夜はグラスを持ったまま客に会釈をして離れていく。
「どのようなお茶が宜しいですか?」
「そうね、さっきお食事を頂いたから、食後に合うものを」
「分かりました」
アールグレイにマリーゴールドやオレンジピールをブレンドしたフレーバーティを淹れる。少しだけある喫茶スペースにお茶一式を用意して、椅子を引いた。
「お姫様どうぞ。食後でしたら、少しごゆっくりなさって下さい」
「…ありがとう」
ウェッジウッドの十八世紀製、外側のパウダーブルーが美しいカップに紅茶を注ぐ。中はボーンチャイナそのままの白いカップなので、紅茶の紅が映える。
「ねぇ悟さん」
「何でしょう?」
女生徒はゆっくりと紅茶を飲みながら、百合に話しかけた。
「せっかくの誕生日パーティだというのに、ハルヒくんたらお顔が曇りがちで。プレゼント喜んでもらえなかったのかしら」
「…ハルヒは、こうやって大勢の人に祝ってもらった経験が少ないんだそうです。慣れていないだけで、みなさんのお気持ちはありがたく思っていると思いますよ」
「そう?それならいいのだけれど。今日はピアノを弾かないのね」
「後でのお楽しみです。ハルヒと…ハニー先輩にもリクエストをもらったので」
みっちゃん、と言おうとして止めた。いつだったか、鏡夜が年上には先輩という敬称をつけるのが普通だと言っていたのを思い出したからだ。バレンタインズティに三人のお客様と双子からもらったリクエストは、その週の金曜日に応えて拍手をもらった。ショパンのバラード四番もリストのラ・カンパネラもかなり難曲だったが、とりあえずは弾くことが出来た。
「本当に楽しみだわ。あなたのピアノは澄み切っていて綺麗だもの。バイオリンは高潔な響きで。選曲のせいかしらね」
「ありがとうございます」
この女生徒は、毎週金曜日には必ず来ている。もちろん、リサイタルにも。人付き合いが仕事になっている秋月家の血なのか慣れなのか、百合は人の名前と顔をすぐに覚えることが出来るし、忘れたり間違えたりしたことはない。大勢の人間と付き合いのある家に生まれ、子どもの頃から付き合いの場に出ているせいもあるだろう。
「あら、モリくん」
女生徒の声に顔を上げると、崇が黙って立っていた。女生徒から離れ、崇の傍に行く。
「崇くん?何かあった?」
「いや…光邦が甘いものばかり食べ続けているので…」
「お茶を取りにきたの。ちょっと待ってて」
甘いものばかり食べているという光邦のために、ストレートのダージリンを淹れる。ホットだ。崇にはヌワラエリアのアイスティ。
「悟」
「ん?」
「少しは、休め」
ポットから紅茶を注ぐ、その音にさえ紛れてしまいそうな、微かな崇の声に百合は微笑んだ。
「ありがとう。これを淹れたら交代の人に任せて、私もみっちゃんのとこに行こうかな」
ヌワラエリアのアイスティを自分の分も淹れて、光邦と崇の分をトレイに用意する。崇は片手でトレイを持って百合を促すように後ろを向いた。
「うん、一緒に行こう。それじゃあ、後はよろしくお願いします」
またもやいつの間にかきていた鳳家スタッフに声を掛けると、彼らはすぐに応じてくれた。場を任せて崇と一緒に移動する。
「あれぇ〜崇に悟ちゃん!崇、悟ちゃん呼びに行ってたの?」
「お茶を…。甘いものばかり食べ続けるのは良くない」
「うん、崇ありがとうねぇ。悟ちゃん、チョコレートケーキ美味しいよー」
崇の言葉に、光邦はふにゃりと顔を綻ばせた。光邦の手にはケーキがいくつも乗った皿があった。
「もらおうかな」
傍にあった皿を手にしようとして、大きな手にさらわれる。見上げれば崇で、シルバーのケーキバスケットにいくつも乗せられたガトー・ショコラを一つ皿に取って、百合に手渡した。
「ありがとう」
崇はこくりと頷いて、百合が淹れたアイスティを飲む。百合はアイスティを傍のテーブルに置き、崇が取ってきたガトー・ショコラを一切れ口に入れた。チョコレートをそのまま焼いたような、ねっとりとした舌触りのケーキは、ほどよく洋酒が利いていてとてもおいしい。
「…美味しい」
「ね、美味しいでしょー?このお茶、悟ちゃんが淹れてくれたの?」
食べながら頷くと、光邦はまた相好を崩してケーキばかり乗っている皿をテーブルに置いて、お茶を飲み始めた。
「やっぱり悟ちゃんが淹れたお茶、美味しいねぇ」
「光邦…」
崇が心配そうに言うと、光邦はお茶のカップをソーサーに乗せて頷いた。
「うん、このお皿でラストにするね。せっかくきょーちゃんがすごいの頼んでくれたのに、食べられなくなったら困るもんねぇ」
今は立食パーティ中で、メインのバースディケーキはまだ出てきていない。もうそろそろ三時で、三時になったらセレモニーをすることになっていた。
「やっぱりハニーくんとモリくんは一心同体なのね」
「一言でモリくんの言葉が分かってしまうなんて」
取り巻いているお客たちは二人の様子に感心しきりだ。百合は無言でガトー・ショコラを食べながら、そういうものかな、と思っていた。崇は確かに口数が少ないが、よく見ていたら言いたいことはほとんど分かる。小さい頃からよく遊んでいたからかもしれないが、注意さえすれば分かるようになると思う。高校からの付き合いだと言っていた環や鏡夜にも分かるのだから。
「悟ちゃん悟ちゃん」
「なに?」
つい、光邦の前ではいつもの調子に戻りそうになるのだが、今は『悟』なのだし、お客も周りにいる。
「このパイ美味しいよ、はい」
フォークに刺さったアップルパイが目の前に差し出される。どうしたらいいのか分からなかったが、光邦はこれを食べて欲しい、という意味で勧めたのだろうと考えて口に入れた。パイ生地は薄いが層が厚く、中のりんごは歯ごたえが残った煮方だった。シナモンも利いている。
「…美味しい。ありがとう」
百合がにっこり笑うと、光邦は照れたように頬を真っ赤にした。ん?と思っていると、周りのお客たちのテンションがやたら高くなっている。
「ちょっとごらんになりまして?」
「ばっちり見ましたわ!ハニーくんが悟くんに『はい、あーん』って!!」
「ハニーくんがそういうことをするとしたらモリくんだと思ってましたのに、良い意味で裏切られましたわ」
「……?」
百合は首を傾げた。お客のテンションが上がった理由も分からず、光邦が照れた理由も百合にはさっぱり分からない。そもそも、さっきの行為もこれで正しかったのか、見たこともなければやったこともないので分からない。
「悟、気にするな」
「…うん」
崇がそう言うのなら、もう何も気にしなくていいのだろう。百合は頷いてアイスティを飲んだ。ヌワラエリアは一月から二月がクォリティシーズン(旬)で、この時期に取れたものが一番美味しい。水色は明るいサンイエローで、デリケートな香が特徴だ。
「もうそろそろ時間だね」
大広間の柱時計は、そろそろ三時を指そうとしていた。バースディセレモニーが三時から始まることになっている。鏡夜が頼んだ「すごい」ケーキとはどんなものなのだろう。ケーキよりも、それを喜ぶ光邦を見ることが楽しみだ。
百合にとって、初めての同年代の友人は光邦と崇で、学校や幼稚園といったものに行っていなかった百合にとって、二人は全てだった。付き合いのある家の子どもたちと友人になろうとしても、彼らは彼らの親と同じように百合を『百合さま』と呼び、決して馴れ合おうとしない。光邦や崇も百合を『百合さま』と呼んではいたし、崇は付き従う風さえその当時からあったのだが、どことなく彼らには気安さがあった。利害関係の付き合いがある家の子どもたちが親に百合の意に沿うようにと教えられていたのに比べて、はるか昔から共にある埴之塚、銛之塚の両家は百合のためになるように、百合のことを考えて行動するようにと教えた。その違いがあったのかもしれない。小さな百合にとって必要だったのは、追従をくれる子どもではなく、友だちだったのだ。そして今も。
大広間を均等に照らしていたシャンデリアの明かりがふっと消えた。お客たちがざわめきだす。いつの間にか、窓際のカーテンが引かれており、大広間は暗闇に包まれた。暗闇の中を崇は光邦と百合を連れて移動しはじめた。大広間の北側にある、一段高い舞台に向かって。
「「モリ先輩こっち」」
双子たちが迎えに来た。光は光邦の腕を取って、舞台に上がっていく。百合の横に立っているのは馨だ。
「馨、大丈夫?」
「え?」
馨は暗闇の中で自分だと分かった百合に驚いて目をぱちぱちと瞬かせた。
「頭痛いんでしょう?薬飲んだ?」
「……。つーかさ」
「うん?」
鏡夜先輩の家の人たちなら何か持ってるかも、と続ける百合の言葉を馨は遮った。
「百合のそのマジックの種は何なの。何で僕が今頭痛いの分かったのさ」
「んー…。ちょっとだけ目がいいんだよ、多分ね」
「ふーん。あ、始まる」
馨はそれ以上追及せずに、舞台へ目を移した。百合も暗い中、舞台を見つめる。
「お姫様方、本日は埴之塚光邦と藤岡ハルヒのためにご来場ありがとうございます。ささやかではございますが、二人のバースディセレモニーを行わせていただきます。スポットライトにご注目下さいませ」
鏡夜の進行に合わせて、スポットライトが舞台中央にいる光邦と戸惑っているハルヒを照らす。二人を呼ぶお客たちの声も聞こえた。
「ハニー先輩、ハルヒ、誕生日おめでとう!」
環の声に、舞台に引かれていた緞帳が巻き上げられる。そこには、飾り付けられたケーキが二つ、用意してあった。光邦用の苺タルトとハルヒ用の苺デコレーションケーキ。蝋燭も立てられている。光邦のタルトケーキには崇が、ハルヒのデコレーションケーキには環がそれぞれ火を点していった。
全ての蝋燭に火が点ったところで、環が手を掲げ、ぱちんと指を鳴らした。その音を合図に、スポットライトも消えた。ケーキに立てられている蝋燭の明かりだけが、やわらかくあたりを照らしている。
「ハッピーバースディ、トゥユー…」
環の声に合わせて、部員とお客が揃って歌を歌う。光邦もハルヒも少し照れくさそうだ。短い歌を終えると、口々にお祝いの言葉が掛けられる。
「おめでとう!」
声に押されるように、光邦とハルヒは蝋燭の火を消した。それと同時に、消えていたシャンデリアの明かりがついた。
「ハニー先輩、おめでとうございます!」
「ハルヒくんおめでとう!」
光と馨がそれぞれ手に花束を持って、二人に手渡している。渡すタイミングまで全く一緒だ。写真を撮っているお客が大勢いる。光邦はハルヒにまして背が低いので、大きな花束に埋もれそうになっている。花束はそれぞれ違うもので、ハルヒの花束にはさくら草にかすみ草、さまざまな椿の花が入っていた。ベースのグリーンは同じだが、光邦の花束はフリージアやマーガレットの花束だ。
「花に囲まれてるハルヒくん、とっても素敵」
「ハニーくんもすっごくキュートだわ!」
お客たちが光邦とハルヒに釘付けになっている間に、百合はそっとその場を抜けて三階にあるサロンに向かった。もうそろそろ、ピアノとバイオリンを動かす時間になる。階段を上がると、すでに鳳家スタッフが運び出す準備を始めていた。
「あの、少し待ってください。ちょっと音合わせだけ」
「分かりました、悟様。おい、手を止めろ」
ピアノの足には緩衝材がくるまれていたが、蓋はまだ開いていた。アルペジオ奏法で音を確かめていく。流れるような音は一分も狂いがなく、またよどみもなかった。最後のオクターブまで確認した後で蓋を閉め、鍵をかけた。
「バイオリンはどこですか?」
「こちらです」
百合が朝持ってきたアマティを黒スーツのスタッフが恭しく手渡した。受け取って、あごに挟み、弓を鳴らす。一弦ごとに音を確かめていき、手元で弦の調節をする。納得がいく音に仕上がって後、ケースに戻して手渡した。
「お時間頂戴して、すみませんでした。どうぞ、よろしくお願いします」
「丁重にお運びしますので、お任せ下さい」
作業を再開させた彼らを残してサロンを後にすると、階段に崇が立っていた。
「崇くん」
「…環に聞いた」
「ありがとう、迎えに来てくれたの」
頷く崇と一緒に階段を下りる。大広間ではケーキカットが行われていた。苺がこぼれんばかりに乗せられたタルトを前に光邦が目を輝かせている。ハルヒの前には苺がたくさん飾られているデコレーションケーキの一切れが。
「悟ちゃん!崇!」
一切れにしてはずいぶん大きなタルトを皿いっぱいに乗せて、光邦は満面の笑みだ。大広間の中央にはデコラティブなテーブルと椅子が用意されている。テーブルセッティングにいたるまで、イギリスアンティークで揃えられていた。お茶の用意まで整っている。
「さあ、ハニー先輩はあちらのテーブルへ。ハルヒはあっちだ」
環の指示に従い、二人はそれぞれ別方向のテーブルについた。周りにはいくつも小さなテーブルと椅子が用意されている。
「モリ先輩と悟はハニー先輩のところへ、光と馨はハルヒのところだ。環もハルヒのところにつけ」
「分かった」
「「ラジャー!」」
部員が二手に分かれてお茶の時間となった。カットしたばかりのケーキをそれぞれお得意様と一緒に食べる。舞台の前には緞帳が引かれている。きっと中ではピアノを配置しているのだろう。
隣に座った鏡夜がそっと耳打ちした。
「悟は早く食べろ。四時になったらリサイタルだからな」
「…分かりました」
「もっとも、残していても構わんが」
鳳家スタッフが淹れたであろうお茶と一緒に苺タルトを頂く。苺が山のようにのせられていて、甘酸っぱい苺の味とバニラビーンズが利いたカスタードが一緒に口の中で溶け合う。そして後に残るさくさくとした歯ざわりはタルト生地のものだ。
「きょーちゃん、これすっごく美味しいよ!ありがとうねえ」
「喜んでいただけて何よりですよ」
鏡夜はにこりと笑い、紅茶を口にした。甘いものは苦手なのだ。場の雰囲気ということもあるので、気づかれないように苺だけを口に運んでいる。
「本当に美味しいね」
百合が反対隣に座っている崇に声をかけると、崇は頷いてタルトを口に入れた。甘いものがそう好きなわけではないが、何より自分の大事な人が二人とも両横でおいしそうに食べているのだ、なんとなく美味しく食べられる。
百合は本当においしそうにケーキを頬張っている光邦を眺めながら、手早いペースでケーキを口にした。昼の食事をほとんど食べていない(ガトー・ショコラ一つだ)ので、この一切れを食べてもそうお腹いっぱいにはならない。お茶を飲んでロイヤル・ウースターのカップをソーサーに戻した。お茶はストレートのダージリンだった。オータムナルフラッシュだ。
「悟くん?」
傍のお客が不思議そうに立ち上がった百合を見ている。百合はそっと微笑んだ。
「私には、もう一つ大事な仕事がありますので、これで失礼」
大広間の時計は、四時十分前だった。
舞台袖から緞帳の中に入り、ピアノの位置とバイオリンの場所を確認する。バイオリンは、いつも音楽室でやるリサイタルと同じようにピアノの上だ。バイオリンを弾き終われば、スタッフが受け取りにやってくる手筈になっている。
緞帳の中では、既にピアノのちょっと手前にピンスポットが当たっていた。緞帳が厚い生地なので外に光がもれていることはないだろう。
「悟様、ご準備よろしいですか」
「はい。後は鏡夜先輩の合図があれば」
このために練習してきた曲の流れを思い出しながら、弓を動かす。幾度となく練習したのだ、大丈夫だろう。いつものリサイタルではほとんど緊張しないのだが、さすがに緊張する。これは自分の舞台なのではなく、人を祝う舞台。晴れの場で失敗は出来ない。何より、光邦とハルヒを祝いたい。
「お客様方、そのままお茶をお楽しみ頂きながらで構いませんので、舞台にご注目下さい」
静かな音で緞帳が巻き上げられていく。百合は自分の緊張をほぐす意味で、にこりと笑いかけた。
「部員、佐藤悟によります、バースディリサイタルです。どうぞお楽しみ下さい」
鏡夜がマイクを置いて頷いた。それを合図にアマティを顎に挟んで、弓を構えた。パガニーニのカプリース、24番。歌うようなメロディから、技巧の限りを求められる主題に移っていく。最後の高音を奏で終えたとき、大広間の空気がいつもと同じように変化してきたことを百合は感じ取った。次に、全く調子の異なるトロイメライをゆっくりと奏でた。いつも音楽室でやっているリサイタルと違い、今回は時間が長い。バッハの無伴奏バイオリン、ソナタとパルティータの中からソナタ第三番とパルティータ第三番を弾いた。
パーティのリサイタルのために、特に練習してきた曲がある。ベートーベンのバイオリンソナタだ。ロマン派を中心に弾いているピアノと違って、百合が弾くバイオリンの中心はバロック音楽だ。それは音楽史的な問題でもあるのだが、教えを受けている先生の得意分野という意味もあった。もちろん、バイオリンでロマン派の曲を、ピアノでバロック音楽を弾くこともたくさんある。
百合自身が今回のバイオリンの中心としている曲はベートーベンのバイオリンソナタ第九番、クロイツェル。本来はピアノと対等に渡り合うバイオリン曲なのだが、今回はピアノ伴奏無しでバイオリンだけだ。同じく第五番「スプリング」も練習しているのだが、それは本当の春が訪れたときにでも弾こうと思っている。
光邦と崇はほとんど身じろぎもせずに、百合の演奏を見つめていた。他の部員たちも熱心に見入っている。環の目にうっすら涙が浮かんでいることにハルヒが気づいてびっくりしていた。
最後にバッハの無伴奏バイオリンソナタ・パルティータの中からパルティータ第二番を弾いた。終曲にシャコンヌを持つこの曲は、バッハのバイオリン曲の中で最も有名な一曲になる。
「…ふぅ」
弓を離した百合は一つ息をついて、バイオリンを構えからおろした。鳳家スタッフがやってきて、アマティと弓を受け取っていった。いつものように音楽室でやるのなら、一声かけるところだが、遠いので声は聞こえないだろう。百合は光邦とハルヒにそれぞれ笑いかけた。二人がリクエストしたのは、偶然にもピアノ曲だったからだ。
そっと右手親指で鍵盤を叩く。ミソレ、で始まる軽やかな音楽はエリック・サティの「Je te veux」。シャンソン歌手に書かれた歌曲が元になっていて、華やかで明るい。低い一音を左手が奏で、曲を終える。次に流れ出したのは、ひそやかなドビュッシーの月の光。似たタイトルのベートーベンピアノソナタとは、また趣がかなり違う。湖のほとりにたって辺りを照らし出す月光を見ているような、静けさやほんの微かな風のざわめきを感じさせる。
そして、光邦がリクエストした曲が始まった。ショパンのピアノソナタ第三番。この前弾いたバラード第四番と同じで、本当を言うなら百合が弾くにはまだ早い。テクニックが伴っていても、だ。ピアノ弾きはテクニックと共に、曲を自分で解釈して表現することを要求される。テクニックは練習量で補うことが出来るが、表現力は練習ばかりしていても補えない場合がある。自分と向き合うこと、様々な経験を積むこと、そしてそれを音に返すこと。まだ15年しか生きていない上に、閉鎖的な世界に居た百合にはまだまだ足りない部分だ。ピアノの先生にそう諭されもしたのだが、百合はどうしてもリクエストに応えたかった。光邦が百合に何かを頼んだことはあまりない。いつだって、百合のためにといろんなことをしてくれるのは光邦であり、崇だった。百合が強いて頼んだリクエストに、光邦は照れながらこの曲を口にしたのだ。どうしても応えたい。
百合が曲を弾いている間に考えていたことは、次の音を示す指の位置でもなければ、次の曲でもなかった。幼い頃に一緒に遊んだ思い出であり、度々掛けてきてくれた電話での光邦の声だった。秋月の家がほとんど全てだった自分の、唯一の外の世界。光邦も崇も、秋月家に仕える家、本当を言うと秋月家の内ではあるのだが、百合にとって重要なのはそういうことではなかった。同世代の友だちと過ごす時間だった。今日学校で何があって、ここのお店のケーキが美味しくて、家の爺やにこんなことで怒られた。そんな、他愛ないことだったのだ。秋月家の一人娘として、幼い頃から大人と渡り合うよう求められた百合にとって、子どもに返れる数少ない時間。
自分が今出来る限りのテクニックを尽くして、必死に曲と向き合っている百合の姿を大広間の中央で見ていた光邦はぼろぼろと涙をこぼした。曲調も美しいのだが、光邦が涙したのは、小さいといわれる自分と同じぐらいの背丈しかない百合が、大きなグランドピアノに向き合って、自分のために必死になってこの曲を弾いてくれている、ただその一点だった。会わないうちに、髪を切ったり両親と離れてこっちに出てきてみたり、成長して変わってしまった百合。けれど、幼い頃、秋月家の音楽室で自分たちのために弾いてくれたピアノは、そのときの横顔は、全く同じだった。コンクールがどうすごいのか、テクニックがどうなのか、それは全く分からない。自分にとって、世界で一番のピアニストは過去も未来も百合だけだ。もちろん、バイオリニストとしても。
光邦が泣いているのを見て驚いているお客のざわめきで、崇ははっと我に返った。光邦と同じように引きこまれていたのだが、光邦があまりに泣いているので、胸ポケットのハンカチーフを取り出して、光邦の涙をぬぐった。それでも涙は溢れてくる。もともと光邦の涙腺は弱いのだ。なんだか自分まで泣いてしまいそうで、崇はぐっと奥歯をかみ締めた。泣くことが恥ずかしいことだとは全く思わないが、自分が泣いてしまえば光邦も百合も驚いてしまうだろう。泣きたいぐらいの思いは、崇も同じだった。この曲は光邦がリクエストしたと知っているのは、当の光邦と百合、傍に居た崇だけだ。小さな頃、百合はいろんな曲を光邦と崇に披露してくれた。恥ずかしそうに。崇や光邦が武道に真剣に取り組んでいるように、百合は音楽に真剣に取り組んでいる。その真剣さと必死さ、全てを捧げてしまいそうな危うささえ、ある。どうにかして、支えてやりたいと思いながら、その方法が未だに分からないままだった。無理をするな、などという一言ですまないことは分かっているのに。
長いピアノソナタが終わった後に残ったのは、環の感じ入った拍手と、それにつられるように巻き起こったお客と部員の拍手、そして光邦の滂沱たる涙、崇の一筋の涙。弾き終えた百合本人は、やや安堵した気持ちで鍵盤に向き合っていた。次はハルヒのリクエストだ。ハルヒのリクエストはやっぱりジムノペディだった。最初のリサイタルでハルヒのリクエストに応えたジムノペディは第一番だけだったのだが、今回は本来の形である、第三番までを連続して弾く。サティが好きなのか、と思って最初にサティの小曲をチョイスしてもみた。喜んでもらえていたら、いいのだが。ジムノペディはゆったりとした、やや単調とも思えるテンポで曲が進む。なんとなく弾くのなら、そう難しくはない曲だが、それに色をつけ感情を込めるとなるとまた技術がいる。
ハルヒはとても柔らかな女の子だ。目がきれい、と百合は思っている。何でも見透かしてしまいそうな、きれいな目。頭が良くて努力家なのだとも聞いた。最初会ったときから、ずっと百合に優しくしてくれている。百合にとって、初めて外で作った女の子の友だちだ。クラスメイトも友だちだけれど、ちょっと種類と深さが違う。大事にしたいし、ずっと仲良しでいたい。ジムノペディを弾きながら、その思いを込めた。
聞いているハルヒは、さっきちょっとだけ見た光邦の号泣と、偶然見た崇の涙の驚きから抜け出せずにいたのだが、それもすぐに忘れてしまった。やっぱり、百合の弾くピアノはきれい。そう思って微笑む。なぜこの曲が好きになったのかは分からない。単に名前を覚えていただけだったのかもしれないのだが、最初のリサイタルで百合が弾いたジムノペディはとても優しく柔らかで、美しく聞こえた。それ以来、本当に好きになったと言っていい。
ジムノペディはショパンのピアノソナタと比べて、そう長くはない。弾き終えると、また拍手があった。今度は百合にも余裕があって、お客や部員たちの顔を見ることが出来た。遠くなので、表情まではよく分からないが、空気はとても柔らかで暖かい。喜んでもらえているようだ。
最後は、もはや『悟』のリサイタルの定番となっている、リストの「愛の夢第三番」。光邦にもハルヒにも、部員、お客、そして控えているスタッフにも、聴衆全てに、愛を込めて。
リストが作曲した同じ名前の歌曲をピアノ用にしたもので、原詩がある。ドイツの詩人、フライリヒートの「愛の時は短いから、愛し得る限り愛せよ」という詩で、こうも書かれている。「すべてに愛を与えなさい/人を愛するチャンスは今なのです」と。この曲を先生から習ったときに、由来や原詩も教わった。それ以降、百合はこの曲を弾く度に、愛している人たちの顔を思い浮かべながら弾くことにしている。家族の、光邦や崇の、顔を。こちらに来てからは、部員も加わり、『悟』のピアノを聞きにきてくれるお客も加わった。音楽は、曲を愛しているだけでは表現として不十分だ。人を愛して、音楽を愛して、それが自分の音になる。
全ての曲が終わり、百合はピアノから立ち上がった。舞台の前に進み出て、深くお辞儀をする。こんな広い舞台と大勢の聴衆を抱えたのは、コンクール以来かもしれない。百合が顔を上げたと同時に巻き起こった拍手はなかなか鳴り止まない。このまま帰るのは素っ気無い気がするし、かと言って似た経験があるわけではないので、どうしたらいいのかも分からない。百合は戸惑って眉根を寄せた。不安で視界が滲んでくる。
「悟」
やっぱりというか、救ってくれたのは鏡夜の冷静な指示だった。
「どうやらお客様方はアンコールをご所望のようだ。二、三曲頼めるかな」
「分かりました」
百合は大きく頷いて見せて、ピアノのもとに帰りながら手のひらで滲んだ視界をクリアにした。百合はショパン弾きだ。自由に弾くのなら、ショパンと決めている。百合はにっこりと笑みさえ浮かべながら、鍵盤にそっと指を乗せた。
ショパンの幻想即興曲とノクターンの第二番と第八番を弾いて、百合はまた立ち上がった。長く拍手は続いたが、百合は思い切って舞台袖に戻っていった。鏡夜が何か言って収めたのが分かった。
「悟様、素晴らしい演奏でした」
「…ありがとうございます」
鳳家スタッフの人が、そう労ってくれた。百合は自分を落ち着かせるために、舞台袖にあった小さな椅子に座って息を整えた。ピアノもバイオリンも、弾いている間は曲とそのイメージだけに神経を全て使う。弾き終えた後はいつも、何かを持っていかれたような状態になっている。魂が抜けた、とでも言えばいいのだろうか。ぼうっと外の雑音を拾っていた耳が、明確な声を拾った。
「悟!素晴らしかったよ!」
環の声だ。
「環先輩」
百合がそう答えるより前に、環は百合に駆け寄って身体を抱きしめた。ふわふわと自分のものでないような感覚さえあった身体が、ようやく自分に返ってきた気がする。
「本当に素晴らしかった。悟はすごいんだな」
環が、『すごい才能』と言わなかったことに百合はちょっとだけ笑みをもらした。百合に対して、すごい才能だと評する大人はたくさんいる。何度も聞いた。しかし、百合はそう思わない。百合にあるのはピアノの才能でも、音楽の才能でもない。ただ、音楽が好きでそのためにはどれだけの練習も構わないという、覚悟だった。その覚悟一つでここまできたのだ。
「ありがとうございます」
「もう大丈夫か?みんなのところに戻れそうか?」
そうやって顔を覗き込んできた環の顔があまりにきれいで、百合は一瞬言葉を失った。意思の強そうな、顔。
「悟?もうちょっとここにいたほうがいいな」
小さな椅子に百合を座らせると、環は近い椅子に自分も腰を下ろした。そして百合が正気に返るまで、ずっと百合の演奏を褒め続けていた。
→第六話
お嬢様、いかがだったでしょうか。力尽きました…。ちょっと抜け殻です。
あ、ブラックスーツというのは黒いスーツのことじゃないです。ドレスコードで、ちょっとした礼服を示します。鳳家スタッフの着ているのが、本当に黒いスーツ。
お付き合い、有難う御座いました。多謝。
2006 5 23 忍野桜拝