螺旋の関係

螺旋の関係<1>



 それはほんの偶然から始まった。
 5月9日、一時限目。かなり難しい問題を黒板に書きながら、教授は教室を見回した。
「じゃぁこの問題を・・・そうだなぁ、今日が誕生日の奴はいるか?」
 思いつきで発せられたその言葉を素直に受けるのも馬鹿かと思うのだが、実際誕生日なのだから仕方が無い。
 指名されるのは覚悟の上で、土田憲実は手を挙げた。
「お。土田。お前は今日が誕生日か。いやー。めでたい。 ご祝儀に、好きな奴を指名していいぞ。」
 教授は明るく笑った。
 だが、そう言われて憲実は困惑した。
 憲実は一応教室を見渡してみたが、誰も彼も顔を伏せてしまっている。
 まぁ、この問題では仕方が無い。自分だって判らないし、判らないといえば課題が待っている。
「どうした土田? 好きな奴でも嫌いな奴でもいいぞ。」
 教授はどこか面白がっている。
「ああ。それでは・・・」
 仕方が無い。誰かに犠牲になってもらうか。
 もう一度見回した先に、顔を上げる金子の姿があった。
 解けたのか。
「金子。」
 憲実の一言を待っていたかのように金子は立ちあがった。
「この場合、触媒1に対する触媒2の屈折率はsini/sinrの式から1.5が導きだされる。
 そして、入射波の波面ABに接続する屈折波の波面は・・・」
 立て板に水。
 その理路整然とした明確な模範回答に教授は深く頷く。
「よし。」
 教室からも安堵の声が漏れる。
 もしも不正解ならば、この教授は全員に課題を出すくらいのことはする。

 一時限目が終わって休み時間。
 憲実の周りには人だかりが出来ていた。
「土田、今日が誕生日なら、祝わねばならんだろう。」
「然り。今夜は土田の生誕を祝して飲み明かそうではないか。」
「当然、場所はお前の部屋だな。」
「祝いの酒など実家から届いているのだろう?」
 バンバンと肩を叩かれて、憲実は内心げんなりする。
 結局、こいつらは飲めればなんでもいいのだ。
 ダシにされるのは構わないが、自分の部屋で飲むということは、当然同室の金子も巻き込まれるということで、それはいささか悪いような気がした。
 金子は最近、何やら考え込んでいる風でもあるし。
「あー。悪いが。」
 そこに入ってきたのは当の金子である。
「こいつは今日、俺と先約があってな。飲むのはまた今度にしてもらえないだろうか?」
 助け舟を出すというよりは、これは自分のためなのであろう。
「貴殿、そう言って薩摩の焼酎を独り占めにしようとしているのではなかろうな。」
 すっかり、憲実の部屋に酒があることになっている。
 まぁ、実際、昨日届いた小包に、手紙と共に入っていたから、その予測は間違いでは無いのだが。
「とんでもない。純粋に、外に飲みに行く約束をしていたからな。 少々土田を借りるぞ。」
 金子が笑いながら憲実の首に腕など回すものだから、周囲はどよめいた。
「貴殿ら、いつの間にそんな関係に・・・」
「同室になる前から、親しげにしていたとは思ったがまさか・・・」
 金子は曖昧な微笑みを浮かべる。
「さぁ。どう思う?」
 そう言いながら、今度は憲実の顔に自分の顔を寄せる。
「をを。」
 さらに周囲のどよめきが強くなる。
「やめんか。うっとおしい。」
 憲実は強引に金子の腕をほどく。
 自分と金子の関係は、そんな甘い物ではない。もっと複雑で・・・もっと暗い。
「ちなみにこれは、照れてるだけだから。土田、約束は忘れるなよ。」
「・・・ああ。」
 憲実は憮然として頷いた。せっかくの家族からの差入れを勝手に飲み切られてしまうのも御免なので、この場は金子の助け舟に乗っておくことにする。

 さらに級友が追求の言を発しようとした時、二時限目の鐘がなった。
 次は厳しいので有名な数学の石川教授。
 全員が殊勝な顔をして一斉に席についた。

 そしてこの休み時間の顛末を、2年になってからも金子に勉強を教わりにくる火浦あずさは全て見届けていた。
 更に、二時限目の休み時間、火浦から、今は月村と苗字を変えた要に話しが伝わり、そして昼休みには要本人が3年理乙の教室にやってきた。

 髪をこざっぱりと切り、学生服を着こなし、運動はからきしだが、勉学に関しては教授が舌を巻くほどの優秀さを見せる要は、今年の新入生の中で一番話題に上る人物だ。
 廊下に呼び出された土田と金子を、級友達は遠巻きで見物している。

「憲実さん、お誕生日おめでとうございます。」
 にっこりと要が微笑んだ。
「ああ。済まん。」
「? 謝ることじゃ無いでしょうに。」
 要は首をかしげる。
「・・・ああ。済まん。」
「まったく、お前はいつまでたっても口下手だなぁ。
 こういう時は素直に礼の一つでも言って、逆に食事に誘うくらいの気概を見せなくては。」
 金子が呆れる。
「はは。無理ですよ。光伸さんじゃあるまいし。」
「それは、どういう意味かなメートヒェン。」
 金子が薄笑いを浮かべる。
 要はそれを余裕で受ける。人間、変れば変るものだ。
「そのままの意味なんですけどね。ま、それは置いておいて。
 どうですか憲実さん、光伸さん。今日、皆で飲みに行きませんか?」
「ほぉ・・・」
 金子が面白そうに目を細める。
「ちょうど、あずささんが報告しに来てくれたのが教授室で、何かお祝いしたいという話になったんです。
 そしたら先生が、たまには皆で飲みに行くのもいいかもしれないとおっしゃって。」
 要の話に『先生』という単語が出てきたら、それは月村幹彦以外ありえない。
「珍しいな。それで、月村教授も飲みに行くのか?」
 どちらかといえば月村教授は外に出ないタイプだ。
 憲実らが、要を中心に奇妙な関係を築いた後も、特に何かを強制するでも無く、ただ要のしたいようにさせている感がある。
 傍から見ていても彼の中心は要で、要が関わらなければ何もする気が無いのでは、と思うことさえある。
「ええ。珍しいでしょ。あ、それともちろん、水川先生もご一緒されますよ。
 三時限目の休み時間に真弓さんが都合を聞いてきてくれました。」
 作家の水川抱月も、2年の木下真弓も、要の手の内だ。
 そして自分達も。
 断れるわけもない。
「それは本当に珍しい。7人で、か。面白いことになりそうだな。」
「やだな光伸さん。憲実さんの誕生日祝いで変なことしないで下さいよ?」
「はいはい。なんだな土田。これもお前の人徳ってやつかね?」
 金子が肩をすくめる。
「・・・。」
 大げさに祝われるのは好きでは無い。
 しかし、要の心遣いが嬉しいのも事実だ。
「・・・・・・・済まん。」
 憲実は何かを言おうとして言葉を捜したが、結局はいつもの台詞しか出てこなかった。
「だから、謝ることじゃ無いんですけど?」
 要がくすりと笑う。
「代わりに俺が礼を言おう。Ich bin Ihnen zu dank verpflichtet.」
「そこまで丁寧だと嫌味に聞こえますよ?」
「全員、驕りなんだろ?」
「まぁ、そうでしょうけど・・・光伸さん、お金持ちのくせに吝嗇ですね?」
「要はこいつのザルっぷりを知らないから。」
 金子が憲実の肩を叩く。
「・・・・・・・済まん。」
 もう一度、憲実は謝った。



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