上級検事執務室。一つの事件が終わった後の穏やかな空気。御剣の趣味が色濃く出ているデスクを始めとする調度品は陽射しを浴びて美しく輝いている。そしてその趣味の最たるものが彼が午後の紅茶を楽しむ時間。
 この時間を御剣が楽しめるという事は、検察は滞りなく被告人の有罪を証明し、彼の輝かしい経歴にまた一つ新たなページが加わったという事だ。
 そして糸鋸がこの場でその相伴に預かれるという事は、彼もまたその力となって御剣の満足の行く捜査が出来たという証でもある。
 いつもなら御剣が帰ると言うまで付き合わせてもらい、可能なら夕食を、そして勝利の美酒までも付き合うのにやぶさかではない糸鋸だが、今日は無邪気に喜んでいるはずの彼の顔にやるせない翳りが滲む。
「ようやく終わったな。明日は久しぶりにお互いゆっくり休養を取れそうだ」
「……今日はこれで失礼するッス」
「? 飲んでいかないのか」
 満足そうに支度をしていた御剣の手が止まり、とまどいを隠さずに彼は顔を上げる。
「明日の大会、一人ケガしたヤツがいて、助っ人に駆り出されちまって、」
 軽く目を見開いたままの御剣が少し傷ついた様に見えて、糸鋸は上目遣いで彼を見ていた目を反らす。
「そうか。ならば皆の期待を裏切る訳にはいくまいな」
「ただの頭数ッス。どうせヒマしてたのは自分くらいッスから」
「キミらしくもない。……皆、まともに休む余裕も無いキミを気づかっているのだよ。ケガなどしないよう気をつけて、頑張ってきたまえ」
 それには答えず無言で頭を下げ、糸鋸は逃げるように退出した。


――キミらしくもない――
 御剣の言葉を糸鋸は反芻した。確かに部に籍は置いているが、刑事になって御剣の下についてからはすっかりご無沙汰である。少年少女の指導に当たるのも年に数度も無い。だからそんな自分に申し訳無さそうに出場を打診して来た時には二つ返事で引き受けた。部はもとよりそれなりに実力のある自分が出場する事を望んでいる。最悪棄権する事になると分かっていて断る事など糸鋸には出来なかった。
 御剣の言う通り、頭数などと卑屈な言い方をしたのも、アフタヌーンティーを断ったのも自分らしくない。いつもの自分ならば、もしかすると御剣自身よりも楽しみにしているひとときだ。休養がてらゆったりと流れる時間を楽しませてもらい、明日に備えればいい。酒にしてもたしなむ程度ならかえって緊張をほぐしてくれるだろう。なのにこんな態度をとってしまったのは、人の気も知らずにいつも澄ましている彼に、どんな形であれ動揺を引き起こしたいと思っていたからだ。その思惑通りに御剣の顔には心細さがありありと浮かんでいた。自分でそうしておきながら罪の意識を感じ、糸鋸は廊下の床を踏み鳴らして歩く。

――少しは疑ったらどうッスか。自分だってオトコッス。御剣検事はあんまり無防備ッスよ。
 検事は知らないッス。検事が欲しくてたまらなくて、毎晩の様に検事の事考えながら自分が何をしてるのか。
 端から見れば冷酷非道な検事とそのお怒りを買ってばかりの刑事に過ぎなくて。それなのに二人でいると、カワイイ顔で照れたように俯いたりするから。心配そうに声を掛けて優しくしてくれたりするから。その度に自分、オカシクなっちまうッス。こんな自分の事、疑いもしないで無邪気な表情を向けてくれるのが辛くて、愛しくて……

 彼はどんな休日を過ごすのだろう。きっと優雅に朝食を済ませて、どこか、自分には思いもつかない素敵を絵に描いた様な場所に出掛けるのだ。そして自分とは全然違う洗練された物腰の、頭の良い方達と洒落た会話と紅茶を楽しんだりする。そこには、自分みたいに頼まれれば断われない、優柔不断で汗臭くてみっともない奴なんかいない……

 道場へ行く。このみじめな気持ちを忘れるまで汗を流す。そう決めて、泣きそうな顔で一人、糸鋸はロビーを抜け検事局を後にした。


 静まり返った執務室。閉まったドアを無表情に眺めていた御剣は静かにため息をつくと美しい陶器のポットに勢い良く湯を注いだ。湯がポットの中で弾け、その中で茶葉が踊る様を想像する。その音に胸の痛みから意識が逸らされた。
 素っ気なかった糸鋸。だがそれが本来の姿だ。裁判を終えて被告人の有罪が決まればそこで彼らの協力関係は終わる。またそれぞれの仕事に戻るだけだ。

――悪意もなく微笑みながらそこにいるだけで、他人の人生を壊す者がいる。だが、その真実を本人が知った時、そこに生まれる絶望は計り知れないだろう。

 砂時計を眺める御剣の脳裏にふと思い起こされた立証し得ない人の罪。

――いっそ悪意の発露ならば楽だ。しかし無邪気に振舞っただけのその者達にとって大抵それは残酷だ。罰を受ける事も叶わず、身近な人間に不幸をもたらしたのは他ならぬ自分自身なのだと、取り返しのつかない後悔を背負ったまま生きて行かねばならない。

――私は違う。この罪を自覚している。
 彼にとっての幸せが何か。たくさんの人に囲まれて明るく笑う彼の姿。いつか彼は生涯を共にする伴侶と出会い、恋をして結婚し、子どもに恵まれ、賑やかな家庭を作るのだ。そして一家の大黒柱としてあの笑顔を今度は家族に向け、愛情を注ぐ。
 同性愛を法で禁じる国も少なくない。それは不道徳であるからというだけだろうか。もしかするとそうした関係を結ぶ者は、決して幸せにはならないから、だからこそ法で禁じているのではないのか。自ら不幸な結末へと歩いて行こうとする者達を守ろうとして、そんな風に言うのではないのだろうか。
 私が検事としての私に課したルール。それに例外はない。彼へのこの想いにしても同じだ。彼がこれまで私を導き、救って来たのは、道から外れている私を無意識に良くないと感じての事だったのかも知れない。それなのに私は未だに彼にこのような想いを抱いている……

 当たり前に二客用意していたカップの一つを手に取って、御剣はそれをそっとしまった。
 磨き込まれたデスク。顔を上げれば目に入るのは整然とファイルが並べられた棚。顔を落とせば塵一つ無い板張りの床。全てが糸鋸の手になるものだ。それを一瞥して御剣は首を振った。これは検事、御剣に対する彼なりの忠誠で、それ以上の意味は無い。
 いつの間に、彼がそばにいるのが当たり前などと思っていたのだろう。いつから彼とのとりとめもない会話に安らぎを見い出していたというのだ。
 顔をしかめた御剣はすっかり出過ぎた紅茶を口に運び、この表情の言い訳にした。
 デスクの隅に置かれた菓子。糸鋸が喜んでくれそうだと思って用意していたから、開ける理由は無くなってしまった。以前彼を付き合わせた時大喜びしていたレストランにディナーの予約をしていたが、一人なら何を食べても同じ。いっその事夕食など摂らなくても構わない。キャンセルしてしまおう、と電話を眺める。しかしそれで空いた時間をどう潰す。手元にはもう、事件は無い……
 御剣は渋い紅茶を飲み続ける。だがこれを飲み干してしまった後、どうすればいいのかはもう分からなくなってしまった。



――分かってるッス。

 糸鋸は心持ち背を丸めて仲間の後をついて行く。

――検事は人の道を外れる様なヤツが大嫌いだって。検事にかかれば自分なんかとっくに有罪喰らって、二度と検事の前に出られなくなるッス。
 けど、そんなに悪い事ッスか? オトコの自分がオンナのコ好きになるのと同じに検事の事、好きになって。……確かにビックリはしたッス。検事はオトコで、それが分かっててこんなキモチになったのには。
 そういうアレはオス同士ではしないものッス。けど自分はドーブツとは違うッス。大体、ドーブツの世界でも、そんなの結構あるみたいッス。いや、そうじゃなくて……そう。ニンゲンには子孫を残す以上に大事な……アイを確かめ合うって目的があるッス。

 体育館に作られた試合場。歓声が彼らを出迎える。

――例えばもし検事が女だったら、自分の事好きになってくれたッスか? 自分が女だったら、付き合ってくれたとでも言うッス?
 そうじゃないッスよ。だからコレは良いとか悪いとかとベツのものッス。冷たいフリしてホントは天使みたいに無垢なヒト、一緒にいたら好きになるの当たり前ッスよ。どうしてもダメだって言うなら、最初から最後まで感じの悪い、有罪の為なら本当にどんな汚い手も使う最低のオトコでいて欲しかったッス。
 けれど検事はどこまでも真っ直ぐで純粋で、人の痛みを自分の事の様に抱えて。必ず真実を明らかにして大切な人を失った人々の思いを救って。その為なら自分を犠牲にする事も厭わなくて。
 誰にも気を許さないくせに自分には色んな話をしてくれて。自分の助けを拒まなくなって。弱味を見せる事も躊躇わなくなって。体に触れても構わなくなって。そんなトコ何度も見せられたら、自分がどんどん虜になるのが分からないッスか。

 試合が始まる。喧騒の中で繰り広げられる勝負。だが、糸鋸には何も聞こえず何も目に入らない。一戦終えて戻る度に掛けられる激励に、上の空で応える。

――でも、なんとなく感じてるッス。
 不道徳だ。倫理にもとる。検事はそう言うッス。あそこまで潔癖なのはもしかするとそういうコト、するどころか考えた事も無いんじゃないかと思うくらいッス。検事だって自分と同じオトコのはずッスけど、オンナのコに興味があるようには見えないッス。だからってオトコに興味あるようにも見えないのがツラい所ッスが。検事が関心を持つのって、被告人と証人くらいじゃないッスかね。こうなるともう、どうにもならなくなっちまうッスけど……

 それでも自分は本気ッス。あの人がどう思おうと、自分のこのアイはホンモノッス。

――だったら大事なのは。

 一礼して構える。

――あの人に幸せになってもらう事。ずっと幸せでいてもらう事。いつも自分は二の次のあの人に。きっとそれは自分の役目ではないッスが、そんなヤツが現れるそれまでは、自分が検事を守る。それならそばにいたっておかしくなんか、
 
 先に仕掛けられた。これまでの試合で自分の実力はもう見極められているだろう。敵は的確に自分の苦手な場所を攻めようとしている。さすがにもうこれ以上は助っ人の自分の手に余る。と、組み合った相手の肩の向こうに、信じられない人がいるのを糸鋸は見た。
 激しく攻めてくる相手を力で無理矢理に元の体勢に戻す。広いこの体育館の向こう。観客席の奥にすらりとした人影。間違いない。御剣が腕と脚を組んで壁にもたれ、こちらを見ている。

――検事。自分は。

 強引で雑な糸鋸の動きに勝利を確信した相手が延ばした手を掴む。
 この手で検事を守りたい。ここで負けては信じてもらえない……!
 そして糸鋸の怒号が轟いた。




“ねえ、イトノコのオジチャン、一緒にお弁当食べるんでしょ?”
“そうよ。たっクンずっと会いたかったもんね。ちゃんとお父さんが誘ってるよ”
“うん、オジチャン大好き!”
“さあ、お父さんもイトノコさんもお腹空かせているわ。早く行ってあげましょ”


――私は何をしているのだろう。

 虚ろな瞳で御剣はよろよろと出口へと歩む。彼が自分とは対象的な好人物である事など最初から分かっていた事だ。
 糸鋸が漏らした大会の一言。まんじりともせずに過ごした昨夜、御剣は一人、自室でその事を考えていた。

――会場は広い。私一人居たところで誰も気には留めまい。しかし一方で、集まるのは地方全域の警察官とその関係者。私の顔を知らない者の方が少ない。では例えば、各所轄署の威信を賭けたその大会を見学に来たというのは? それならおかしくはないのではないだろうか。

 そう自分に言い聞かせて、御剣はここまでやって来た。なのにここに来る前に、馴染みの料亭に弁当を頼む、という思いつきを御剣は却下していた。この状況が生まれる可能性を無意識にロジックに組み込んでいた。それにも関わらずのこのことこんな場所にまで来てしまった自分。体が鉛の様に重い。

――そうだ。私は彼に会いたかった。誰より彼に近い人間でありたいと願っている。そして図らずも、彼が正しく生きる人々と共に平和な休日を過す姿を見る事になった。
 何故、その可能性を無意識下にのみ置いてしまったのか。それは自分の希望と反しているからだ。自分とは何もかもが違うというのに。

 唇を噛みしめ、拳を握りしめ、御剣は震える体を抑える。現実を直視する機会を得て、すべき事は。
 冷たい壁に寄り掛かり、御剣はゆっくりと顔を上げる。

――いつか今日よりももっと辛い現実を、これ以上無い程幸せな顔をした彼につきつけられる日が来るだろう。その時私がするべき顔。やるのだ。御剣怜侍……!



「御剣検事ッ!」
 派手なクルマに今にも乗り込もうとした御剣の背中に息を荒らげて糸鋸は待ったをかける。いつもの厳しいスーツではなく、柔らかなシャツに包まれた肩がびくりと跳ねて、そして彼はゆっくりと振り向いた。
「やっぱり、検事、だったッス。間に合った……ッス」
 様子がおかしい。本当なら、道着のまま飛び出して来た自分に眉をひそめ、嫌味の一つも言うところだ。なのに気味の悪い笑みが代わりに張り付いている。勿論、世間ではこの笑顔を気味悪いと表現しない。それでも糸鋸は御剣の中に何か良くない事が起きている事を感じ取った。
「あの、今から、ど、どちらへ」
 頭が働かない。口をついて出た言葉は間抜けだ。だが、何か言葉を掛けなければ全てが崩れそうな危機感に糸鋸は支配される。
「……戻る」
「その、どちらに……事件、じゃないッスよね」
「事件など起きてはいない。私がここに来たのは、そう、ちょっとした好奇心、だ。だが、これまで私に見えなかったキミの努力を知る事が出来たという意味で、大変有意義なものとなった。キミの今日の活躍は素晴らしかった。これからの査定の際に考慮させてもらう」
「あ、あの、今から何か用はあるッスか」
「イヤ。戻るだけだ」
「なら、昼メシ付き合ってもらえないッスか、自分まだ、」
「昼ならば仲間とその家族と摂りたまえ。知っているのだ。キミとの昼食を楽しみにしている子がいるのだろう?」
「そんなのもう断ったッス」
「なんだと? そのような……あの子はきっとガッカリするだろう。キミらしくもない」
 大きく肩を揺すって糸鋸は拳を握りしめ、御剣を見据える。

――検事。今日は自分を少しでも分かってもらうッス。だって、検事は今ここに、……

「試合中に検事が目に入ってから、気が気じゃなくて。コレはもう非常事態ッスから、たっクンにはガマンしてもらったッス。すぐにここを目指して正解だったッス」
「見落としが得意なキミらしからぬ鋭さだな」
 御剣の気味の悪い笑みは微かに歪み、その奇妙さを増す。
「自分が検事を見間違えるはず無いッス」
「さて。非常事態などではないと分かっただろう。彼らと合流するといい」
 やれやれ、と首を振る御剣に糸鋸は口を尖らせる。
「非常事態ってのは、検事がココに来てて、早く見つけないと帰ってしまうって意味ッス」
「よく分からないな。昼は彼らと摂る事にしていたのだろう? わざわざそれを断って私を捕まえようとするなど、徒労に終わる可能性の方が大きいと思うのだが。キミはそう考えなかったのか」
「そっちは検事の領分ッス。自分はまず足を使うッスよ」
 ドン、と胸を叩いて糸鋸は笑って見せる。怯えたように伏せられた御剣の瞳。瞼の震えが見て取れる。
「それに、もし間に合わなかったら、自分はすぐ電話したッス。なんとかして足止めしようとしたッス」
 無理矢理に閉じられた瞳から覗く睫毛の揺れが、御剣の内にせめぎ合う何かを伝える。
「検事、もう戻るだけって言ったッスよね。その時間、もう少しだけ延ばしてもらえないッスか」
 その瞬間。御剣の笑みがひび割れた様に崩れ、仕事を終えた普段の御剣の表情に戻った。
「……考えるよりも先に行動に移す。そうだな。キミはずっとそうだった」
 糸鋸はいっぱいになりながら、淡々と呟く御剣に頭を下げる。
「お願いッス!」
「これからもそうなのだろう」
 御剣の乾いた口調。恐る恐る糸鋸が顔を上げると、彼は腕を組み、指を動かしながら目を閉じている。
「そこまで拘るからには何か食べたいモノでもある、のだろうな」
 マズい。糸鋸は震える。食事は口実に過ぎなくて、いつだって一緒にいたいと思っているだけ、と知れてはそれこそ気味悪がられてしまう。何か、何かないか。こんな時に限って食べたいモノが浮かんで来ない。
「確かに、休日を返上して頑張るキミに何か差し入れる気がなかった訳ではない」
 御剣の呟きに糸鋸の安堵と喜びが最高潮に達する。思い違いなどではなかった。そしてその時、糸鋸の脳裏に彼を何より満たすあの味が蘇った。
「あ! あの」
「何だ」
「検事の紅茶、飲みたいッス!」
「紅茶では腹はふくれないが」
「その、昨日ごちそうになれなかったッスから」
「……いいだろう。挨拶を済ませて着替えて来たまえ。今から私が責任を持ってキミを労わせてもらう」
 糸鋸は思わず御剣の手を取り、両手でしっかり包み込む。
「すぐ、すぐ戻るッス! 待ってて下さい! 絶対!」
 汗だくのまま息を切らせて懇願する糸鋸に、御剣は頷く。何を考えているのか分からない。呆けたような、困ったような、だがいつもの御剣の表情。間違いない。彼は。

――応援に来てくれたッス。御剣検事は休みをつぶして、自分の事、応援しに来てくれたッス……!

 こみ上げて来る涙。糸鋸は慌てて背を向けて駆け出す。
 走って行く糸鋸の大きな背中。それを虚ろな顔で見送る御剣の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

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