いつもの彼らしくもなく、よろよろと糸鋸は検事室に向かう。
悪寒に熱。見事な風邪だった。
「昨夜のデート妄想のバチッスかね…」
掛け布団相手のシミュレーションの後、寝入ってしまった事に糸鋸は軽く罪悪感を覚えた。
「いや、これは仕方ないッス。オトコの本能ッス」
男の本能は御剣には向かないはずだが、糸鋸は都合よくそれを考えずにいる。
「思うだけなら自由ッス」
そして糸鋸は姿勢を正すと愛しい人のいるドアを叩いた。
「入りたまえ」
「失礼します」
糸鋸が検事室に入るといつものように机に向かっている御剣は顔を上げ、一瞬笑みを浮かべた。
(今日もキレイッス)
糸鋸は御剣のこの一瞬の笑みが大好きだった。
自分に気付く一瞬、確実にその笑みは浮かぶ。
それを見たくて用も無いのに声を掛け、怒られたりもする。
「どうした刑事」
「どうも…しないッス。これ、置いておくッスね」
「…変だな」
受け取った証拠品をのけると、御剣は立ち上がって糸鋸を見据えた。
目が虚ろ。顔が赤い。荒い息遣い。
鋭い御剣の追及と視線に糸鋸は震え上がる。
「い、イヤ、なんでもねッス!」
「馬鹿にするな。私には貴様の事などお見通しなのだ」
「お見通し…ッスか」
まさかキレイって思ってしまってる事とか昨日検事の名前を呼びながら布団の上をゴロゴロしてた事まで…!
(ついにこの想いが晒される時が…ここは勇気を出すッス!オトコ糸鋸圭介…)
「その検事、自分はずっとォ!」
身を乗り出した糸鋸の顔に御剣は人差し指を突き付けた。
「風邪だな」
「ォおおおおおっ!」
「横になりたまえ」
突き付ける指をそのままに、御剣はソファを指した。
「自分は大丈夫ッス」
「命令だ」
「うう…分かったッス」
コートを脱がし、ソファーを指さした御剣に従い、おとなしく糸鋸はソファーに寝そべった。
御剣が脱がしたコートを掛けてやる。
「まだ寒いかもしれんな」
そういうと御剣は更に自分のコートを糸鋸に掛ける。
「ダメッスぅ〜。汚れるッスよ」
「おとなしくしていたまえ。さて」
腕組みして御剣は頷く。
「薬を持って来よう」
「検事、本当に自分大丈夫ッスから。こんな事させられないッス」
「すぐ戻る。お腹は空いていないか」
「いや、本当に」
体を起こした糸鋸を手のひらで制止して御剣は執務室を出て行った。
信じられないッス。自分、看病してもらってるッスか。
ほっとしたせいか、少し意識が朦朧としてくる。
「済まない。起こしたか」
気がつくと、御剣は自分の足元に座っていた。少し眠っていたらしい。
目を開けた糸鋸の額を冷していたタオルを取り、頭を抱えて汗ばんだ首筋を拭いてやる。
「検事!」
「起き上がれそうか?」
止めようとしたが、熱に浮かされているせいか、御剣に甘えていたくなる。
「…いい匂いッス」
御剣の胸元から香る優しい香りが届く。こんなに具合の悪い時でも、御剣が自分に触れる事で興奮してくる自分の体が、少し浅ましい。
「やはり気がついたか。食欲はあるようだな」
「え」
デスクに行った御剣がトレイを持って戻ってくる。熱々のスープが乗っていた。
「冷める前で良かった。食べられるか?」
御剣の勘違いに恐縮しながらも糸鋸は体を起こし、明らかに自分のために用意されたそのスープを口に運び出した。
自分はこの先一生分のラッキーを使ってしまったのでは…
「その…スミマセン」
「余計な心配はしなくていい」
ふいっと横を向いた御剣は、デスクに戻り紅茶を用意するとサンドイッチをつまみ出した。
「それを飲んでまだ入るようなら食べたまえ。キミの分もある」
食べながら御剣は皿を指す。
砂時計を脇に退けて、御剣は紅茶を注ぐと、それを持って糸鋸の隣に座る。
「あの…」
「どうだ。まだ入りそうか?」
空になったボウルを見てほっとした顔の御剣は、ボウルを取り上げると代わりにティーカップを押し付けた。
「あのッスね、検事、」
「どうする」
「あ、これでもう充分ッス」
そう言って糸鋸は紅茶に口をつけた。検事の事、本当に好きッスよ…言わせてもらえないその言葉を生姜の香りのする紅茶と一緒に飲み込む。
「そうか。なら明日の朝食にするとしよう」
ボウルを置いた御剣が今度は薬を手に戻る。
「明日には良くなる」
薬を飲まされて、もう一度横になれ、と命じられる。
これまでで一番甘い命令に糸鋸は素直に従う。
「もう少し眠りたまえ」
「けど、これ以上迷惑はかけられねッス。自分、部屋に帰るッスから」
「そうさせてやりたいが」
氷水で冷したタオルを糸鋸の額に乗せてやりながら、御剣はため息をつく。
「まだキミの熱は高い」
検事が自分をドキドキさせるから下がらないッス!と理不尽な心の叫びを上げる糸鋸。
「じゃあせめて検事はお帰りになって下さい。検事に染したら大事ッス」
「そうだな。キミが眠ったら帰るとしよう」
「…わかったッス」
糸鋸からカップを受け取り、御剣は照明を落とす。
「おやすみ」
「おやすみなさいッス」
飲んだ薬のせいなのか、不思議な程優しい御剣のせいなのか、糸鋸はすぐに幸せを噛みしめたまま眠りに落ちた。
「怜侍…クン」
「?」
驚いて振り返るが、糸鋸は変わらず寝息を立てている。寝言だったようだ。
だが確かに名前を呼ばれた。初めてかも知れない。いや、間違いなく初めてだ。
犯罪者を憎む事で自分を保つしか出来なかった御剣。
そんな御剣の事を、いつも自分の事は二の次にして糸鋸は気にかける。
自分に人の良心をもう一度信じさせるために、何かがこの男と引き合わせたのかも知れない。
キミは良いヤツだ。私は本当にキミが大好きだ。
願わくは、彼にふりかかる苦しみが、せいぜいこの風邪程度のものであるように。
そう御剣は祈る。
「局長になった夢でも見ているのだろうか」
冷めた口調で呟いた御剣だったが、浮かぶ笑みと赤くなった頬は隠せなかった。
いつかまたキミは名前を呼んでくれるだろうか。今度は寝言などではなく。
デスクに戻り、チェアに掛けてほっとため息をつく。自分の腕を枕に、御剣は眠りについた。
※スープとサンドイッチの提供はホテルバンドーでお送りいたしました。