「ヒゲッ! あなたがついていながらどういう事なの!?」
「す、すまねッス! 連絡受けて裁判所に到着した時にはもう……」
 玄関に入るや否や冥はその手の鞭を糸鋸に突きつけた。
 事件を追って帰国していた冥がそろそろ様子を伺おうと御剣に電話を掛けると糸鋸が出た上、御剣が倒れたと泣き叫ばれた。それ以上何を聞いてもさっぱり要領を得ない糸鋸に業を煮やしてここまで駆けつけたのだ。
「いきなりこんな事になるはずがないッ! 昨夜の時点でオカシイ事に気づいて当然! それでも刑事のつもり!?」
 御剣が倒れた理由が風邪だった事に安堵した後は、万一の事を思わせるほどの糸鋸の取り乱し様に少し腹を立てて冥は追及を重ねる。
「それが自分、今朝が当直明けで」
「なんて事ッ! そもそも公判の最中に風邪をひくなど、たるんでいるわ!」
「風邪もッスけど、過労もひどかったッス。ムリが続いて気力で動いてた状態だったって。自分もここ二、三日は自由がきかなくて、様子がおかしい事にも気づけなくて……センセイに、こんなになるまで働かせて! って怒られてしまったッス。本当は言われた通り入院してもらいたかったッスが、どうしても帰りたいって聞かなくて」
「帰りたいと言った? レイジが?」
 冥が目を丸くした。入院を薦められるほど体調を崩している時に帰りたいと言うなど、非合理的だ。
「とにかく、引継ぎをお願いします」
「勿論よ。レイジの代わりが務まる者はこの私をおいて他にはない」
 とは言ったものの、ざっと内容を聞いたこの裁判も、特に何か執着がありそうな事件ではない。入院を避けたからには、絶対に彼自身の手で立証したいというこだわりがこの事件にあるのでは。そう踏んでいたのだが。
 それを見い出せぬまま、冥は携帯電話を取り出した。


 寝室に案内してもらうと、呼吸の苦しそうな御剣が掠れた声を絞り出した。
「メイ……」
 うっすらと御剣は目を開けるが、すぐにその瞼は閉じられた。
「レイジ。ここにいるわ。私がちょうどこちらに来ていたのも縁。あなたは安心して養生なさい。引継ぎは完了している。三分。三分で有罪判決を勝ち取ってみせるわ」
 頼もしい冥の言葉に御剣は目を閉じたまま力無く微笑んだ。
「ケイ、刑事……」
「ここにいるッス」
 糸鋸が御剣の足元にしゃがんで、心配そうに覗き込む。
「少し、眠りたい」
「ハイッス。じゃあ狩魔検事、」
 立ち上がって冥にうなずき、出て行こうとする糸鋸の袖を御剣が掴む。
「ここに、いて欲しい……眠るまでで、いいから」
「仕方ないわね」
 弱りきった御剣が必死に糸鋸を引き留める姿に鼻を鳴らした冥。素直に他人の助力を必要とする御剣を初めて見た。
「ヒゲ、ここにいなさい。私は向こうでもう一度調書に目を通しておく。その前に何か必要かしら」
「あ、済まねッス。水を。冷蔵庫に入ってるガラスのビンの方ッス、キッチンは」
「分かっているわ」
 受け取った水差しを撫でながら、寝室を出る。御剣の部屋。以前にも訪れているのに何か雰囲気が変わった気がする。本人と同じ無機質な部屋だったはずなのに今はどこか温もりすら感じられる。
「フン」
――何もかも独りでやって来たあのレイジが、ね。
 事件にこだわりなど無かった。御剣が無理をおして帰ったのは、この温もりの中に戻りたかった。それだけなのだと冥は気づく。
 肩を竦め、冥は検事の習性で辺りを見回し、温もりを生み出すモノの正体を探した。



 御剣が目を覚ますと、糸鋸は床に座り込んでベッドの端に半身をもたれ、御剣の手を握って眠っていた。
 時計を見ると眠っていたのは二時間程だったようだが、朦朧としただるさはすっかり抜けていて、御剣は大きく息をついた。
「ありがとう」
 小声で呟いて、もう片方の手で、糸鋸の頬に触れる。はっと気づいたように糸鋸が頭を上げた。恐る恐る御剣の額に手を当てる。
「……下がったッスね」
 大きく息をついた糸鋸の顔にようやく安堵が浮かぶ。ベッドに乗り出して大きな掛布団ごと御剣をぎゅっと抱きしめた。
「ダメッス……」
 額に、頬に、首筋に、そして唇に頬ずりしながら糸鋸は唇を押しあてる。
「無茶しちゃ……ダメッス」
 必死な顔でむしゃぶりつく糸鋸に御剣は後悔する。もう一時間でも休んでいれば。もう一枚でも多く羽織っていたら。こんな糸鋸の顔を見なくて済んだのだ。
 普段なら、おざなりにしがちな事を先回りして糸鋸が世話を焼いてくれる事に慣れてしまった自分を御剣は省みる。
「怜侍クン……」
「……本当に、悪かった」
 大きな体を震わせる糸鋸を、御剣がそっと抱き返した。ようやく糸鋸は身体を離すと、汗ばむ首筋を拭いてやる。胸元を開けて大きな枕に背中をもたれ、御剣はほっと息をついた。
「もし死んだらどうするつもりッスか! これからは絶対ムリしちゃダメッス!」
「死ぬ事はないだろう」
 タオルを握りしめて糸鋸が詰め寄る。
「まだそんな事言うッス?」
「……ごめん」
 打って変わってか細い声で謝ってうつむいた御剣に気を良くした糸鋸は、その頭をいつものようにポンポン撫でて、にらんでいた目を緩ませた。
「さ、着替えるッス。パジャマパジャマっと」
「大分楽になった。キミのおかげだ。それと注射が」
「まだまだ油断は禁物ッス……注射?」
 新しいパジャマを出した糸鋸の手が止まる。ゆっくりと御剣に詰め寄り、そして素速く袖をまくり上げた。
「腕には点滴の痕しか……ま、マサカ注射って! おおおおおオシリッスか!?」
「し、仕方あるまい! 気づいたらもううつ伏せにされていて、」
「ダレに! ダレに見せたッスかッ!」
「看護師に決まっているだろう!」
「そんな、何かのマチガイッス! 知らない人にオシリを」
「オシリ?」
 鋭く響いたその声にハッとして、二人はゆっくりと振り返る。わなわなと唇を震わせて、ドアの向こうに冥が立ちすくんでいる。
「もしかして、あなた達……」
 持っているトレイの上でティーカップとポットがカタカタと音を立てている。何か汚いものでも見るかのような視線を送る冥。彼女の様子に二人の動きが止まった。
「……バカなの?」
 核心に迫るかと思われた冥の言葉が外れて同時に肩を撫で下ろす二人。だが冥はヒートアップしてゆく。
「レイジの!」
 紅茶を載せたトレイを下ろし、
「オシリが!」
 構えられたムチが、
「なんだと言うのッ!」
 糸鋸にヒットする!
「ヒィィィィィッス!」



「もう大丈夫だ。キミも休んでくれ。もしキミにうつしてしまったら目も当てられない」
「でも……」
 紅茶を飲み終えて押し問答を始めた二人を眺めて、冥は肩を竦める。
「もうこんな時間だ。当直明けなのにずっと付いていてくれてありがとう」
 さらりと礼を言う御剣を見た冥が目を丸くする。
「そうね。ヒゲ、レイジの言う通りよ」
「でも……」
「客間のベッドを使ってくれ」
「! 自分、お客さんじゃないッス」
「そうではなく、きちんと休んでもらいたいのだ。でないとキミはすぐソファに横になって済まそうとするから」
「うう……何かあったら、すぐ呼ぶッスよ?」
「ああ」
「ヤクソクッスよ!?」
「私が付いているわ、ヒゲ。たとえレイジがイヤだと言っても何かあればすぐにあなたを呼ぶ。だから安心して休みなさい」
 必死な糸鋸に呆れながらも冥はその気持ちを汲んだ。
「じゃあ、お願いするッス」
 そう言うと糸鋸は時計を確認する。
「三時間だけ休ませてもらうッス」
「うム」
「狩魔検事。もし自分、寝過ごしたら起こしてもらえるッスか」
「またキミはそういう……」
「これだけは! 譲れないッス!」
――驚く事ばかりね。あのヒゲがレイジに楯突いているわ。
 カップを片づける糸鋸の大きな背中はいつものように御剣を隠している。御剣の顔は見えないが、恐らくは糸鋸に歯向かわれてこれ以上無いほど驚いた顔をしているに違いない。自分が御剣にそんな顔をさせられないのは悔しいが、自分は弱った相手に歯向かってみせるようなヒキョウな人間ではない。そう冥は頷く。
「休養の次は栄養が必要ッス」
「分かっているが、しかし」
「それが自分の使命ッス!」
「……うム」
――ホラ。ヒゲ如きにあんなにアッサリ言い負かされるのですもの。まだ相当具合が悪いのだわ。
「じゃお願いするッス」
 頭を下げて出て行く糸鋸の不安げな瞳に冥が頷く。
「もっとも休息の邪魔になりそうな気はするわ。眠れるようなら眠った方がいい」
「そうか」
「私はリビングにいるわ。何かあったら呼びなさい。何か欲しいものはある?」
「イヤ。刑事にこれ以上叱られぬよう、休むとしよう」
「そうね。ヒゲに感謝しな……さい」
 振り返ると、まだ少し熱っぽい顔に紛れもない感謝と幸福を浮かべている御剣がいる。てっきり驚き、憤っているとばかり思っていた冥は言葉を失い、曖昧な笑みを浮かべて静かに寝室を後にドアを閉めた。



「レイジ」
 軽いノックに御剣はベッドから立ち上がり、シャツを羽織ってドアを開ける。腰に手を当てた冥が微笑を浮かべて立っていた。
「少し遅くなってしまったけど、ヒゲが夕食の準備をしたわ。食欲はあって?」
「ああ、ありがとう。今そちらに行こうと思っていた。キミも食べて行くだろう?」
「ヒゲと同じ事を言うのね」
「刑事は最初からそのつもりだろう」
「彼の料理、随分手際がいいのね。聞けばしょっちゅう食事を作らせているそうではないの」
「ああ、彼の料理は本当に美味しい」
「非番の日まで拘束するなんて公私混同もいいところね。彼は刑事。ハウスキーパーじゃないのよ? また審査会に目をつけられて、御剣“元”検事にでもなってしまったらどうする気?」
「イヤ、それは。あくまでその、友人として、」
 シャツのボタンを留めながら御剣は口ごもる。
「まあ、そのおかげで今回は完璧に看病してもらえたのだから、たった一人の友人に感謝する事ね。
……ところでちょっと気になっていたのだけど、随分大きなベッドね。以前からこんなベッドを使っていたかしら」
「そうだろうか」
「そうよ。コレを見なさい」
 冥が指差した先は糸鋸の場所だった。さすがに冥もこのベッドの不自然な部分に気づいたか。そう御剣はため息をつく。さて、もう一つある枕の言い訳は……
「あなたがもう二人眠れるくらい空いているではないの。ムダではなくて?」
「それは……必要になる事もあるのだよ。私だって時には誰かとベッドを共にする事もあるのだ」
「子供ではあるまいし。天才が聞いて呆れるわね」
 優雅にベッドに腰を下ろすと、御剣は不敵に笑ってそのスペースを指し示す。
「私は子供ではない。そしてこの場合、ベッドを共に、というのは、」
「……」
 一瞬の間。みるみる冥の頬が赤くなる。
「……フケツよッ! 御剣怜侍!」
 走り出て行く冥と入れ違いに糸鋸が入って来る。ぶつかりそうになった糸鋸に指を突きつけ、
「レイジが誰かと寝るですって!? 子供みたいにあなたについていてもらうくらいで上等よッ、ヒゲッ!」
と叫んで頬を押さえて駆け出して行った。
「良く眠れたか?」
「怜侍クンこそ、ちゃんと休んでたッス?」
 ベッドの端にどっかりと腰掛けて糸鋸が頭を撫でる。
「狩魔検事、どうしたッス? なんかスゴい剣幕だったッスけど」
「私とて誰かとベッドを共にする事もあると言ったら」
「! それは刺激が強いッスよ」
 顔を赤らめて頭をかく糸鋸に、御剣が口を尖らせる。
「メイが私をバカにするからだ」
「にしても、今の啖呵が実はホントの事なんて、」
「真実はかくも巧妙にその姿を隠す。まだまだだな」
「さ、早く。このままじゃ狩魔検事、帰っちまうッスよ?」
「ああ、ありがとう」



「随分、面倒をかけた。折角のキミの休みをこんな事に……この埋め合わせはきっとする」
 ガウンを何枚も羽織らされた御剣が、もぞもぞと体を起こしてカップを置いた。
「何言ってるッス? 自分、嬉しくて仕方ないッスよ」
「キミこそ何を、」
「倒れてなかったら、明日は自分、一日お留守番だったッス。おかげでずっと一緒にいられるんだからチョッピリ風邪に感謝ッス。でもいいッスか? もっと自分を大事にするッス」
「う……」
 しおらしく頷いた御剣が愛おしい。チョッピリではなくこれは盛大にカゼに感謝したい! と糸鋸は胸を張る。
「そうッスね。埋め合わせなら、」
 ガウンの裾を握りしめた御剣が顔を上げる。
「一人は寂しかったッスから、やっぱり一緒に寝るッス」
「だから、キミにうつったらいけないと何度も」
「昔から、バカはカゼをひかないと言うッス! 自分もバッチリ当てはまっているッス!」
「カゼをひいたキミを私はそこそこ見て来たはずだが、アレはどうした事だ……」
「ああっ! そうだったッス。自分、看病までしてもらってたッス。カゼひいてても天才御剣検事のロジックは健在ッス……」
 そう言いながらも、少しかさついてしまった御剣の唇に糸鋸は唇を重ねる。
「よし! これでもううつったッス! だから一緒にベッドでヌクヌクするッスよ」
「ちっともヨシではない!」
 ガウンに腕を差し入れてしなやかな背中に腕を回し、抱きしめる。
「元気になって良かったッス」
 モコモコになった腕で懸命に抱き返してくる可愛いコイビトの頭に顎を乗せ、糸鋸は自分が一番暖かなガウンとばかりに御剣を包み込んだ。

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