「ナルホドさん。ミツルギさんの幼なじみ。なんだよね?」
近くに来たから。と、珍しく検事局に顔を出した成歩堂。御剣はまだ戻っていないと糸鋸が告げると、じゃあ裁判所に行ってみるよ、とはにかんだような笑みで美雲と糸鋸に手を振り、執務室をあとにした。
「それだけじゃないッス。あの御剣検事がただ一人勝てない男。それが成歩堂弁護士ッスよ」
「あの人が!?そんなにスゴい人だったの?」
御剣と違って人当たりのいい優しいお兄さん。悪く言えば何だかパッとしない人。それが以前ここで会った成歩堂の印象だ。
糸鋸が明かした話に美雲は興味をそそられ身を乗り出す。
「アイツはホンモノッス。御剣検事の中に深く食い込んでいた苦しみから検事を救ったッス。御剣検事が今、何にも煩わされずに真実を追い求められるようになったのはアイツのおかげッスよ」
糸鋸の顔に悔しさが滲んだのが分かった。美雲は何も言えず、糸鋸を見上げる。
「ミクモちゃんは知らないッスね。あの頃の御剣検事は被告人の罪の立証にとりつかれた、それは冷酷な人だったッス」
「レイコク?」
にわかには信じられない糸鋸の言葉。誰よりも御剣を理解しているはずの糸鋸の口から出るその言葉に、美雲は呆気にとられる。
「御剣検事はあの通りの天才ッス。完璧な証拠と証人を揃え、完璧な有罪へのシナリオを書いて、法廷の全てを操る勢いだったッス」
「うん。私が犯人にされそうになった時も、ミツルギさんは諦めないでくれたもんね」
「違うッス。昔の検事なら、ミクモちゃんが捕まったらそれを疑わずにミクモちゃんを絶対に有罪にしたって事ッス」
「え…?どうして…」
「それはいつか、検事が話してくれる時が来ると思うッス。そして自分は、自分達の捜査を全て信頼してホシを必ず有罪にする御剣検事の事を、手放しで喜んでたッス。その陰で検事がどれだけ苦しんでいたかも知らないで」
有罪が決まった後の御剣の静かな笑み。あの裏にはどんなに他人の有罪を重ねても癒せない、淀んだ罪の意識があった。無理にでもこじ開けて、そこから救い出せていたら。そうすればもう少し苦しむ時間を減らしてあげられた。そう糸鋸は思わずにはいられない。
「今でも忘れないッス。検事がある事件の被告人になった時、無罪で終わったその時に突然、その無罪に異議を唱えたッス。まるでそれまでの検事のルール…全ての被告人を有罪にする。それに例外は無いっていうみたいに。
勿論それは検事の思い込みで犯人も別にいたッスけど、検事本人の自白で皆、自分も諦めてしまったッス。それでも検事の無実を信じて救ったのが成歩堂弁護士ッス」
「すごい…あの人が全部一人で?」
「そうッス」
「…ヒーローみたい」
「本当にそうッスね。…それからッスよ。検事が変わったのは」
答えを見つける事が出来たのは糸鋸への想いがあってこそだった。検事でいる事を諦めなかった一番大きな理由は糸鋸と共にいるためだった。
御剣は糸鋸にそう当時の想いを語った。
だがそれまでの膠着した関係が揺るがされたのは結局、成歩堂の弁護が真相を明らかにしたからだったと糸鋸は思う。
「自分は検事の苦しみを和らげてあげたいと思って…そして少しは役に立っているんじゃないかと思ってたッスけど、本当は何も出来てなかったッス」
「ミツルギさんが変わった…」
ため息をついて寂し気にうなずく糸鋸に美雲が首を振る。
「でも、私、ミツルギさんが変わったなんて思わなかったよ?」
ふさいでいる糸鋸に美雲の檄が飛んだ。
「そうでしょ!?お父さんを殺した人を見つけてくれて、犯人にされそうになったノコちゃんを助けてくれた。あの時のミツルギさんのままだよ。何も変わってない」
御剣は犯罪者を憎む。全ての被告人を有罪にする、それが自身に課したルールだと公言し、逮捕された容疑者の有罪を疑う事なく立証した。
彼が今も犯罪者を憎んでいる事に変わりはない。だが彼は今、真実その罪を犯した者を暴こうとする。それを明らかにするためになりふり構わない。必要なら弁護士すら使いこなして事件の核心に迫る。
御剣が見せる本当の強さ。法廷での彼の冷徹で華麗な立証に凄味が加わり、糸鋸は見惚れたものだった。
そう、変わった訳ではなかった。彼は自身を取り戻したのだ。定められた結末への筋書きをなぞるのをやめ、証拠と論理の積み重ねが辿り着く真相を求める…
だが、糸鋸の成歩堂に対する負い目は消えない。
御剣が取り戻したその力。有罪を求めるべき者を自ら見出だす事が出来るという自信。それを彼に与えたのもまた成歩堂であり、自分ではない。
膝に置かれた拳が震え、糸鋸はそれを隠すように力を込める。そこに御剣が戻って来た。
「刑事、ミクモくん、お待たせした」
そっとソファーを立った美雲がうつむいた。
「私、今日は帰ります」
「どうかしたのか。アフタヌーンティーはこれからだというのに…まさか刑事とケンカなど、」
二人の間にある微妙な空気に、御剣は眉をひそめる。
「ううん。逆です。…ミツルギさん」
顔を上げた美雲の真剣な眼差しを受け、その奥の真意を量るように見つめ返す御剣。
「ノコちゃんは、ミツルギさんの事、いっぱい助けてくれてましたよね?」
「その通りだ」
「それなのにノコちゃん、ちっとも分かってないんです」
「ちょ、ちょっと待つッス!自分は、」
「刑事、ミクモくんを困らせていたようだな」
ようやく上がった糸鋸の焦る顔を、御剣が横目でたしなめる。
「イヤ、違うッス!誤解ッス!」
「ナルホドさんが来てました。ナルホドさんがミツルギさんを苦しみから救ったってノコちゃんが言ったけど、」
「帰る前に紅茶を一杯。付き合ってくれるだろうか」
御剣はいつものように紅茶を用意すると、美雲をソファーに座らせて、二人にカップを手渡し、自分はデスクに寄りかかってそっとその香りを確かめた。
「私が糸鋸刑事にも言えずにいた罪の記憶。その真実を成歩堂が暴いてくれたおかげで今の私があるのは事実だ」
御剣の言う罪の記憶について尋ねたくなる気持ちを美雲は抑えてうなずいた。
「そのおかげで私は刑事に隠し事をせずに済むようになった。そう。私は糸鋸刑事を誰より信頼していながら、隠している事も多かった。
…では、そもそも成歩堂は何故私の弁護をする事になったのか。それは糸鋸刑事が彼に依頼してくれたからなのだよ」
御剣が糸鋸を心配しているのがティーカップに見え隠れしている。
「ホラ、ノコちゃん!」
それを見た美雲の笑顔は明るい。だが糸鋸はうつむいたままだ。
「私との約束守ってくれた時と一緒。ノコちゃんは人が大切にしてるものを自分の事みたいに大切に思ってくれるもの」
「その通りだ、ミクモくん。秘密を知られる怖さに一度は成歩堂の弁護を断った私を責めず、代わりに頭を下げてくれたのだ」
「その、検事…」
いたたまれない様子で顔を上げた糸鋸に、御剣は静かに首を振る。
「私をずっと信じていてくれた事にどれだけ救われたか分からない。本当に感謝している」
そう言って御剣は深々と頭を下げた。
ね?ノコちゃん。ミツルギさんはノコちゃんいないとダメダメだったって。
そう思って美雲は、感極まっているだろう糸鋸を見ないようにして紅茶を飲み干す。だが美雲の予想に反して糸鋸の顔には悔しさが張りついたままだった。
いつもの元気な笑顔で帰った美雲を見送った二人は、執務室に戻ってソファーに腰を下ろした。
「それで成歩堂弁護士は…」
「自分でなんとかする、と。オマエみたいに消えたりしないから、と皮肉られたよ」
「そんな、いくらなんでも」
「弁護士、成歩堂龍一を生かすも殺すも彼自身という事なのだろう。彼が私に言った言葉だ。誰もそれをないがしろにする権利を持たない…歯痒いが。私が検事局を去った時も同じ思いをさせたのかも知れん」
「そうッスよ。自分だって辛かったッス。頼って欲しかったッスよ」
「キミへの想いを隠したいのに、当のキミに頼れるものか」
ふと、考え込んだように口元に手をやってうつむいた御剣が横目で糸鋸を眺める。
「まだキミは彼が私を救ったと思っているのか?」
「だって、そうじゃないッスか」
「一柳万才を追い詰め、私が今もこの執務室にいられるのは誰のおかげだ」
「あれは救ったとかじゃ…自分の意地ッス。検事が検事でなくなったら、離れ離れになってたッスよ?それだけはどうしても我慢出来なかったってだけで。
…やっぱり成歩堂弁護士の力ッス。やっとで無罪になったと思った時にいきなり告白した時も、捏造された証拠で事件を立証させられたと知った時も。自分、目の前が真っ暗になったッス。どうする事も出来なくて」
前を見てうつむいていた糸鋸は、涙の滲むその目を御剣の方に動かして訴える。
「確かに成歩堂だ」
がっくりと落とされている糸鋸の肩に御剣の手が掛かる。
「罪の意識から解放されて初めて持てた、キミへの想いに向き合う勇気。それをくれたのは」
おずおずと顔を向けた糸鋸に、御剣はうなずく。
「私を救ったのはキミだ」
御剣の言葉が、糸鋸の心に穏やかな温かさとなって流れ込む。不安のままに揺らぐ瞳の焦点が少しずつ定まっていく。
「私がどんなに頑なであっても、キミは肯定してくれた。周囲の不信の目が襲う時も、キミがそれを寄せ付けなかった。
キミがいたから私は検事でいられた。
キミがこんな私について来てくれていたから、成歩堂が来るまでの時間を生きていられた。
信頼していると言いながら、まだキミに秘密を持ち続けている自分が卑しく思えてキミの前から姿を消した時も、キミは帰って欲しいと何度も言ってくれた。
私がここにいてもいい。生きていてもいい。そう信じさせてくれた。そして最後にキミは」
御剣は糸鋸の顎にそっと人差し指を押し当てて呟いた。
「全てを明かす覚悟をくれた」
力が抜けたように御剣の指が滑り落ちる。糸鋸がその手を拾い上げた。
「あの時の自白は父の事を白状した時より余程辛かった」
前髪の下にある御剣の穏やかな瞳。またうつむいた糸鋸は、それでも安堵のため息を漏らした。
「…あの供述は、ココに大事にしまってあるッス」
うつむいたまま呟いた糸鋸は、親指を立てて自分の胸を指差した。
「キミの証言もここに記録されている」
そう言って御剣も自分の胸に手を当てる。
「そう…だったッス。自分がキズを守ってたって、その隙間を埋めてたって、ずっと一緒にいたかったって、そう言ってくれたッス。…全部打ち明けてくれて、そこに成歩堂なんて一言もなかったのに、自分、大バカッス」
「私達が見つけたものは」
顔を上げて糸鋸の目の端を拭ってやる御剣の目は、糸鋸が焦がれて止まない優しい光を湛えている。
「自分達はホントはずっと、同じ気持ちでいた事…ッス」
「あの自白により、私は逮捕された。どこへなりと連行するがいい」
「…ここに、来るッス」
顔を上げた糸鋸はしっかりとした口調でそう言って腕を広げ、懐に御剣を迎え入れると、背中にしっかりとその腕を回して御剣を確保した。
「私には分かっている」
いつも肯定してくれるのは御剣の方だ。ずっとそばで守ろうとしてくれるのは御剣の方だ。
どんなに頼りない捜査もものにし、懲戒免職に手を回し、身を隠した時でさえ自分にだけは連絡を寄越し、無事を気遣った。
人に、世間に憚られる自分のこの想いすら受け止めてくれた。
「あの時成歩堂がいなくても、絶対にキミが助けてくれて、こうして私を抱きしめてくれただろう。キミはそういう男だ」
そしてどこに迷っても、こうして必ず見つけてくれる…
糸鋸の頬に流れた涙が御剣の顔に落ちる。気付いて見上げた御剣がその頬に口づけて、唇で涙を拭う。
自分の腕の中の絶大な愛情を決して失うまいと、糸鋸は回した腕に力を込めた。