「コッテリ絞られたッス。『レイジはレイジ! カルマはカルマよッ!』ってスゴい剣幕で」
 刑事課に戻って地味なモノマネを披露する糸鋸を先輩刑事が呆れて笑う。
「まともに口を聞けるだけスゴいさ。それに狩魔検事、最近ますます色っぽくなったし。上手くやれば個人的に色々良くしてもらえるかもよ? ってノコにはハードル高いか……」
 小さなデスクについてグッタリともたれる糸鋸を見遣る。彼がここまで消耗しているのが不思議な気がする。
 御剣の専属ででもあるかの様に、というか面倒を押しつけられた形の糸鋸は、大方の予想通りしょっちゅう御剣の逆鱗に触れていたが、検事局から戻ってくると何故かいつも晴々とした顔で、ヤッパリ御剣検事はスゴいッス! 明日はやるッス! などと皆を驚かせたものだった。だから、まるで失踪した御剣の代わりの様に現れた狩魔冥検事に、刑事課は満場一致で糸鋸を差し出す事にした。あの冷血について行けた糸鋸なら彼女の相手もお手の物。誰もが信じて疑わなかった。が、目の前の糸鋸がこの有様だ。それも仕方無い事かも知れない。デスクに顔を埋めたままの糸鋸を眺め、ため息をつく。
 確かに狩魔冥は御剣を超える最年少の天才検事だが、その前に一人の少女だ。しかも、この地方裁判所で父親を失い、糸鋸自身その件に無関係ではない。そうした諸々が余計にこの人の好い後輩に気を遣わせているのかも知れない。
 うなずいて隣のイスを引っ張り出し、腰掛けた。
「スズキ、だったっけ。オマエが可愛がってる。あの子くらいが気が楽だろうな。狩魔検事と俺らじゃ身分違いもいいとこだ」
「……マコクンッスか」
 腕に顔を埋めたまま糸鋸は答える。
「そうそう。パッとしないからってうかうかしてると、トンビに油揚げになるぞ? オマエもあんなガチガチ完璧主義なんか、息が詰まるだろ。ちょっと抜けてるくらいが可愛いんじゃないのか」
「マコクンは……あー、そうッスね。頑張ってみるッス」
「気のない返事だな」
 ちょっと抜けてるくらい。その言葉に御剣の顔が浮かんで、ようやく糸鋸はのろのろと顔を上げた。誰も知らない、法廷と現場を離れた御剣。そんな時、彼はいつもどこか抜けていて、誰よりカワイイ人だった。
「……」
「そりゃ狩魔検事の方がいいに決まってるか」
「……あの方達はそんな俗っぽい事考えないッス。頭にあるのはいつも有罪取る事だけで」
 少し寂しそうに呟いた糸鋸に、同僚の目が光った。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
「いきなり何スか」
「ソーメンで毎日しのいで尽くして得られるものがなんなのか、そろそろ考えてもいい頃だろ?」
「そんなの自分がやらかした結果ッス。それに御剣検事は優しい方ッスから。ちゃんと自分の腹具合だって気にしてくれて奢ってくれたり、」
「オマエな」
 聞こえた舌打ちに、糸鋸は振り向く。
「何かにつけそう言うけどな、俺達にしたら大事な仲間の給料下げるだけ下げて、勝手に行方不明になった無責任な男ってだけだ。全く、何が法廷の王子サマだ。ただのワガママ王子だろうが」
「いや、ホントに、」
「どっちみち今はいないんだ。現場に出しゃばって怒鳴られる事も、証言に細かく指示出されて、それが出来なかったからってやつ当りされる事も無い。折角向こうからいなくなってくれたってのに、まだ義理を通すってのか」
「そんな事ナイッス! 御剣検事はきっと、」
「まあ給料の事は今度俺達が掛け合ってみようって話もあるから」
「うう、すまねッス……で、でもきっともうすぐ戻って来るッス」
「本当か? 聞いてないぞ。この様子じゃもう海外に活動移すんじゃないのか? あんな事の後じゃこっちには居辛いだろうし、」
「来る!」
 突然顔を真っ赤にして憤慨する糸鋸に先輩刑事が気圧された。糸鋸は立ち上がり、まるで御剣の様にデスクに平手を叩きつける。
「御剣検事は絶対に戻って来るッ!」
「おい、イトノコ、」
「御剣検事は今も、」
「オイッ!」
――他言無用
「ッ!」
 御剣の声がすぐそばに聞こえた様な気がして、糸鋸はビクッと肩を竦め、辺りを見回した。目の前にはいつも自分を気に掛けてくれる先輩が驚きに目をみはり、そして周りにはぱらぱらと戻って来ていた同僚達が、やはり驚いた顔でこちらを見ているだけ。
 デスクを叩いた手をゆっくりと戻してうつむき、糸鋸は彼らの視線が背中に突き刺さるのを感じながら、無言で刑事課を後にした。



 煤けたクルマを停めて、糸鋸は御剣との約束を反故にするところだった自分を戒めていた。
「御剣検事はずっと……自分がお父さんを殺したのかも知れないと思っていた。ずっと……自分と知り合う前からずっと……」
 それほどの罪の意識に苛まれて。自分なら気が触れていそうなほどの重圧だ。
「だから検事は、完璧に仕事をこなして、そのために厳しく自分を律して。その完璧な勝利の為に、ありとあらゆる手を使って。そしてそれを利用されて、」
 陽は沈み、ビルの隙間から夕映えが微かに覗き、空の青と夜の闇とが重なって美しいグラデーションを生んでいる。
「無実の人を有罪にしたかも知れないなんて苦しめられる事になって……結局そんな事、無かったッスのに」
 その一瞬のグラデーションを、何度御剣と一緒に眺めただろう。いつも白い御剣の頬がこの時はほんのり赤く染まり、髪の色と頬の色とがその空を映したように輝く。いつの間にかその静かな姿に目を奪われてしまっては、御剣に決まり悪そうに睨まれたものだった。
「……それなのにあんな風に笑ったりして見せて」
 両手をポケットに突っ込んで、糸鋸は歩き出した。だが真っ直ぐに帰る気にはなれなかった。このまま帰るには、溜まったものが多すぎる。このままでは御剣に弱音を吐いてしまう。苦しみに耐えているのは御剣だ。そんな事はとても出来ない。
 絶対に、してはならない。



「ずっとパンだけで生きて来て、それすら取りあげられたッスよ? 検事は。カミサマは……あんまり残酷ッス」
 黙々とコルクを抜いたマスターが、小さなグラスにワインをほんの少し注いで愚痴る糸鋸にすっと差し出した。驚く糸鋸の鼻に馴染む薫り。このワインを優雅に口に運ぶ御剣の姿がまざまざと浮かぶ。
 舌を噛みそうなそのワインの名の意味を御剣は、『例えるならば〈糸鋸・御剣酒造〉と言ったところだ』と説明してくれた。『対して日本酒は蔵元や杜氏の名よりも、その酒そのものに美しい名が付けられている。面白い』と静かに微笑んでいた。
 マスターはそのワインを静かにデキャンタに移しながら、
「……古いワインは空気に触れて目を覚ます」
と独りごちた。
 きっとあの時、御剣は空気に触れたに違いない。そしてこのワインの様にいつか目を覚ます時が来る。ボトルの底に残る澱。この澱と同じ、澱んだ苦しみをどうか御剣が捨てる事が叶うように、と糸鋸は願い、ゆっくりと味わい、飲み干した。
 御剣の好きだった曲が流れる。以前教えてもらったはずの曲名は、やはり思い出せない。いつも当たり前に隣にいて、何度同じ事を尋ねても、やれやれと首を振りながら答えをくれる。そんな日がいつまでも続くのだと、疑いもしなかった。
 カウンターには客が自由につまめるように、ドライフルーツやナッツが置かれている。殻付きのくるみを手に取って、そっと握りしめた。このまま力を込めて割ってやると、御剣は子供の様に目を輝かせ、喜んでくれた。糸鋸の手の中で、乾いた音がした。ゆっくりと開くと手のひらの上には割れたくるみが転がっている。だが、それを自分の手から遠慮がちにつまんで食べてくれるはずのあの人はいない。
 そっとくるみを小皿に落とすと、糸鋸は少し震える手でタバコを取り出した。背中を丸めてライターをこするが、火が着かない。そこにマッチの炎とスコッチが一杯差し出される。

――検事は元気ッス。懸命に、答えを探してるッス。そしてそれが見つかったその時は、ちゃんとここに戻って来るッス。……

「ねー、御剣検事……」
 静かに煙を吐いて、糸鋸はスコッチを呷り、袖で目を擦った。

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