「ご苦労だったな」
コテージで襲われそうになっていた成歩堂と真宵を救った手柄話を嬉しそうに話す糸鋸を、御剣は労った。
「市民の安全を守るのが警察ッスから」
意気の揚がる糸鋸が頭をかいた。
「そうか…キミにとっては当たり前の行為か。何かにつけ私を気遣うほどだ」
物思いに耽った御剣のその言葉に、糸鋸はそれまでの照れ笑いが嘘のように真剣な顔で御剣を見つめた。
「それは自分の中ではトクベツッス」
「一般市民ではないという事か」
「そんな事じゃないッス。検事は強いッスから」
「強い?私が?」
御剣が首をひねる。
「自分に会う前から検事は、その、ずっと、」
「あのような醜態を晒してきた」
「違うッス!苦しんでるのにシュータイとかないッス!」
異議に動じない自虐的な御剣の顔に、糸鋸は肩を落とした。
「そんな顔をするな。事実だ」
「それでも検事はそんなのものともしないで、あの若さで検事になって以来負け知らずで、」
「それもこの間終わってしまったがな。全く、先生…狩魔検事に合わせる顔が無い」
「あ、あんなのマグレに決まってるッス!それに綾里真宵を逮捕したのは自分だったッス。ヤッパリくんをしょっぴいたのも。検事は何も悪く無いッス!」
「キミはキミの職務を果たしただけだ。キミのミスではない。成歩堂…どう出る」
見事なまでにまたも立証を崩された御剣。静かに思索している彼を糸鋸は眺める。
彼の輝かしい経歴を傷つけた自分の誤認逮捕。だが御剣は糸鋸を責めず、何の処分もしなかった。
ただ自らの立証が崩された事に憤り続けている。それが糸鋸には不安で、そして切なかった。
組んだ腕から覗いている白い手。激昂して火傷した跡が痛々しい。そんな風に感情を露にするのは、自分にだけだと思っていたのだ。
今日の法廷も、もう少しで決まるところをぎりぎりで他に容疑者となり得る人物がいた事を指摘され、持ち越しとなった。
新人弁護士、成歩堂龍一の必死な抵抗。依頼人を信じて真っ直ぐに弁護する彼が少しずつ真相に近づく様。それに腸を煮えくらせながらも御剣はどこか期待しているようにも見える。
その彼を初めて相手にした前回の法廷。
普段通りの周到な準備によって、あっけなくけりがつくはずの公判は、思いがけない展開を見せた。
何も考えていないような自信の無い矛盾の指摘。なのにそれは、御剣の予想を越えて隠された真相を暴き、彼を激しく狼狽させた。
法廷でそんな御剣を見たのは初めてだった。御剣にそんな顔をさせる成歩堂に、糸鋸の中で何かが鎌首をもたげる。
御剣はあまり人と交わらない。糸鋸の知る限り、仕事以外で他人がそばにいた事も無い。
その御剣が自分だけはそばにいる事を許し、ぎこちないながらも仕事以外の会話があるのは、天才が認めた刑事である、と糸鋸の自尊心を満たす。
そして秘めた想いが届く事がなくとも、それは自分だけではないと、この美しい人は誰のものにもなる人ではないのだと安心出来た。それなのに。
御剣がその存在を無視出来ない男…彼の前では、御剣の硝子の彫刻のような静謐な佇まいが、まるでひびが入ったように消え失せてしまう。
幼なじみだとは聞かされている。だが、何故それが突然御剣の前に現れたのか。
「キミのミスではない、とは言ったが、猫なで声の通報に鼻の下を伸ばして鵜呑みにするのはあれきりにしてもらおう」
「そっ、それは違うッス!断固、否定するッス!」
気を取られていた糸鋸が、いつもの皮肉に襲われて、慌てて首を振る。
「…」
一番誤解されたくない人に、一番されたくない誤解をされてるッス!
「検事!自分はこれまでずっと検事の、」
「分かった。信じるから離れたまえ」
「あっ!す、すまねッス」
苛立ちを隠さない御剣に勢い余って詰め寄った糸鋸が慌てて離れた。
「だから、検事には自分の助けなんて本当はいらないって、分かってるッスけど…」
好きッス。
「心配になるッス」
大好きだから、当たり前ッス。
「その…」
その人が苦しむ姿を見て、知らん顔出来るはずないッス。
「強い、か」
「検事の、」
初めて喫した完全な敗北を引きずっているのだろうか。顔を背けて窓の外を眺めている御剣の心細い様子に糸鋸の胸が痛む。
市民を守る。ついさっきも警察官としてその義務を果たした。だが、自分が誰よりも守りたい人は、それを誰よりも頑なに拒む。
糸鋸にとっては悔しい事だが、自分の中に踏み込まないと信じているからこそ、御剣は糸鋸がそばにいる事を許していると分かっている。
「…カンペキな立証を妨げるものがあってはならねッス」
糸鋸はそう呟いて、部下としてわきまえようと努めた。その悔しさを隠す努力もまた、これまで変わらずしてきた事だ。多少の事では揺るがない。
「御剣検事の才能は、我々の誰もが認めるところッス。けど、検事だって人間ッス。苦しかったり泣いたりしたって当たり前ッス。
みんな何も知らずに、いつも完璧な検事の事をキカイか何かみたいに思って…そして検事は強いから、誰にも気づかせないで」
何かを守ろうとするように、御剣が自分をかき抱く。
「だから自分の前でくらいはそんな風にしないでもらいたいと思うッス。それは自分にはトクベツな、一番大事な事ッス」
例え査定が下がる程の怒りに触れても、それは検事が血の通った人間で、自分を信頼してくれる証ッスから…
糸鋸は拳を握りしめ、御剣を見つめた。御剣の瞼が震える。だがそれも一瞬。すぐに御剣の顔はいつもの冷徹な色を帯びる…はずが。
「キミは間違っている」
そうぽつりとこぼして御剣は背を向ける。
「間違っている…」
自分を望むそのままの言葉ではない。が、御剣の肩は微かに震えていた。その肩を抱き締めたくなる衝動を抑え、糸鋸は
「…失礼します」
と、そこを後にした。
感情に振り回された自分を晒す事を御剣は嫌う。DL6号事件の資料の閲覧を禁じた理由もそこにあるのだろう。そう糸鋸は理解していた。
唯一、大きな揺れや悪夢に怯える時には御剣は自分の助けを拒まない。少なくとも、自分は御剣の信頼を得ていると思う。先程の言葉はその何よりの証だ。不器用な御剣が必死で絞り出した言葉。
だから、どんなに嫌でも、自分はずっとそばで検事を守るッスからね。
それくらいさせてもらわないと、自分はきっと検事の秘密を全て知ろうとするッスから。
肩を怒らせて歩きながら、孤高の天才検事、御剣怜侍が今度こそあの小生意気な弁護士を叩きのめす姿を思い浮かべ、糸鋸は溜飲を下げた。