「レイジ」
後ろからかかったその声に御剣が振り向く。
狩魔冥。彼女の背中で重い扉が音を立てて閉まった。
クリスマスイブのバーは夜も更けて来た事もあって、普段の落ち着きを取り戻しつつあるが、それでも恋人達の熱気はまだ残っている。
そこに立つ冥の涼しい微笑が外気と一緒に、恋人を待つ柔らかな熱に浮かされた御剣の瞳を冷やした。
「邪魔するわ」
御剣の答えを聞く前に、冥は手袋とコートを脱いで御剣の横に陣取った。
「なぜここに」
「帰ろうと思っていたわ」
冥は注文して脚を組み、カウンターに肘をついて御剣に笑いかける。
「あなたともう少し話がしたいと思って、途中で降ろしてもらってタクシーを拾った」
カウンターの向こうでは馴染みのバーテンダーが、糸鋸以外の人間、それも女性が御剣の隣を占めている事に興味があるのか、スピリッツを量りながら視線を送っている。
「一杯ごちそうしなさい」
「なぜ私が了承する前に決めてしまうのだろうか」
「すぐにこんなものでは足りないと思うほど感謝する事になるからよ」
得意気な冥の表情。確かに一人で迎えを待つ気まずさは消えたが。
「ヒゲから聞いたわ。この後…行くところがあるそうね」
その瞳を一瞬曇らせて冥は言った。
「ああ」
「ヒゲは私と一条美雲さんを送ってから、またここにあなたを拾いに来る」
「そうだ」
「せっかくだからここで一杯、といきたいところだけど、今日はクリスマスイブ。そんな夜に、あなたに男二人で飲むなんてみっともない真似はさせられないとヒゲは思っている。
ヒゲと一条さんの会話から推理したわ」
御剣が軽く眉を寄せたのを見た冥が、置かれたグラスの細い脚を持って優雅に掲げた。
「どう?」
「みっともないなどとは思っていない」
目をやると、カウンターにも、テーブルにも、肩を寄せ合うカップル。
自分と糸鋸が今夜の雰囲気にそぐわないのは確かだが。
そう御剣は肩をすくめる。
「そう。けど、ヒゲにとっては重罪らしいわよ。
今あなたを一人で待たせている事すら心配で仕方ない。あなたが嫌な思いをしてはいないかと」
一口グラスの中身を味わった冥が、絶妙なバランスに目を見開いた。
「そんな誤解をさせたままではヒゲがかわいそう。そうは思わない?」
「誤解?」
「そう。負けが込んで逃げ出して、天才が聞いて呆れたものよ。ヒゲが必死になってついて行くほどの価値があなたにあったのかしら。御剣怜侍」
全てが明らかになった今、御剣には自分の失踪が糸鋸をどれ程傷つけたかよく分かっている。
しかしそれを自分をよく知る人間から言われると、その言葉は改めて深く突き刺さった。
「彼は良い刑事よ」
思いがけない冥の言葉に、眉間に皺を寄せていた御剣の視線が上がる。
御剣の瞳に潜む動揺。他の人間には分からないだろう微かな変化。
しかし冥には分かっている。彼女も御剣も、自身が推理される事には慣れていないのだ。
「だから私にはヒゲがそこまであなたを慕うのは理解出来ない。それでもヒゲは、今夜、こういうクリスマスらしい時間をあなたと過ごしたかったようね。だから来たのよ。私から彼へのクリスマスプレゼント。
最高の女性をエスコートした二人のオトコが、彼女が急な用事で帰った後、慰めあってお酒を飲む、というシナリオよ」
ムチをしごくような仕草。グラスを飲み干して冥は勝ち誇る。
「彼はあなたを送るのだからお酒は無理でしょうけど、彼が納得するまで付き合いなさい」
「面白い推理だ」
表情の変化を悟られないように顔を背けながら、御剣はそう言ってみる。
「これは明白な事実。完璧なロジックが導き出した、ね」
「そうだろうか」
「なんですって?」
今更そんな事をしても無駄な事。
ムチをしならせる手つきのまま、冥は空になったグラスを突き付ける。
「そうやってまだぞんざいに扱うのなら…私がもらってもいいのよ?あなたにはもったいないわ。レイジ」
「メイ!?」
物凄い勢いで振り返り、カウンターに手をついて叫んだ御剣に、さすがに周りのカップルからの視線が集まるが、御剣は彼らを睨み付けて黙らせた。
予想通りの御剣の反応に冥は軽く顎を上げ、グラスを置いた。
「…ご覧なさい。彼がいなくなれば困るのでしょう?」
「それは…知っているだろう。私は糸鋸刑事を評価している」
「評価しているなら、そのささやかな願いくらい聞いてあげなさいと言っているのよ。
ヒゲは尽くしている。検事が必要とする以上の働きをしている。それが当然の事だと?私がここに行くと言った時のほっとした顔を見せてあげたいわ。
あのオトコはいつもあなたの事を考え、あなたのために動く。体裁など気にもしない」
糸鋸の笑顔。その笑顔を糧にして御剣は生きている。
二人が恋人同士として振る舞えば、その笑顔を曇らせるような事が起こる。御剣はいつもそれを恐れ、人前での糸鋸の素直な愛情表現に釘をさして来た。
「大切なのは何?勝負にこだわっていた私にお説教してきたあなたが分からないというの?」
だが、それがために寂しい思いをさせていたのなら、それは最低のやり方である。その事実をはからずも冥によって気づかされる。
もっと良い方法が必ずある。それを見つける事に務めねばならない。
それを身をもって示してくれた狩魔冥。ロジックは事件の真相を暴くためだけにあるのではない。
御剣が礼を言おうと向き直ったその時、携帯電話が震え出した。
『お待たせしたッス!今からお迎えにあがるッス』
「ああ。…その、せっかくだ、一服していかないか」
『えっ、狩魔検事来てないッスか?結構遅いッス。送っていかないと…』
「代わろう」
御剣は携帯を冥に渡す。
「メリークリスマス、ヒゲ。素敵な夜を」
『あの、狩魔検事、』
「この後約束があるの。またタクシーを拾うわ。レイジをよろしく。もう少しここで過ごしたいそうよ。あなたが付き合ってあげなさい。代わりに何か一皿奢るわ」
『えっ?』
「代わるわ…そういう事で、おやすみなさいレイジ」
席を立った冥はコートを羽織りながらバーテンダーを呼ぶ。
「…ちょっとお願い、彼の連れが来たらごちそうしてあげたいの」
「…ありがとう、メイ」
御剣が頭を下げた。その素直な姿に気を良くして、冥は注文と会計を済ませるといつもの静かな微笑を浮かべて出て行った。
『あのー、もしもーし』
「…私だ。済まない」
『あ!えーと、狩魔検事は』
「今帰った」
『そうッスか…その、』
「気をつけて来たまえ。温かい料理が待っている」
『もうすぐ着くッス』
御剣は瞳を閉じ、囁く。
「もう一度パーティーだ。二人で」
『…メリークリスマス!』