その歴史の重厚さを感じる図書館を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

家路を急ぐ人々がすり抜けて行く中、御剣は立ち尽くしている。

自分が異邦人である事を噛みしめ、彼は階段を静かに降りる。

人々に紛れ、通りを渡ると目の前には大きな川が広がる。御剣は柵に頬杖を突き、真っ暗な水面が立てるさざ波を眺めていた。

後ろを通りすぎる人々の会話。

ある者は電話で遅くなる事を妻に謝り、またある者は寄り添いながら久しぶりに会う友人の大きなほくろの話をしている。

「刑事」

声に出してそう呟いていた。

「さっき面白い資料を見つけた」

今日は法廷に助手として立ち、それが終わってからはずっと図書館にこもり切りだった。

“―ちゃんと食べてるッスか?”

「…済まない。今日もまだ何も食べてないんだ」

そんな会話をして、もう二日。あれから電話が無い。

きっとキミも忙しいのだな。

「またケガなどしていないだろうな」

“自分なら大丈夫ッス!検事の方がよっぽど無茶ッスよ。何もしない日も作らなきゃダメッス!”

「そうだな…明日は何も無し、だ。それなら文句は無いだろう?」

柵に頬杖を付いて川の向こうに広がる灯りを眺める。

「刑事、こちらのパブは社交場のような意味もあるのだよ」

「―けーんーじー!―」

「明日は休み、となれば今夜は呑みたいものだな」

「いいッスね!」

「キミがいたら、いいのだが」

「…何言ってるッス?」

「向こうに見えるあのパブに行ってみたいんだ。キミがいてくれれば場違いな思いはしなくて済む」

「そうッスねー」

御剣の肩に回された腕。びくっとした御剣の視線が、同じように隣で頬杖をついている糸鋸の笑みにぶつかった。

「刑事!?」

「やっぱりヤセちゃってるッス」

肩を腕を、確かめるように撫でた糸鋸が膨れる。

「酒よりメシッスね。検事に必要なのは」

「何をしてるんだ、キミは!」

「ご無沙汰しております、御剣検事殿!」

いつもの糸鋸の敬礼。嬉しさを隠さない糸鋸の顔に御剣が食ってかかる。

「挨拶はいい!説明したまえ!」

「出張ッス!って言ってもお使いッスけど。待ちきれなくて、カタコトであちこち聞き回ってやっと見つけたッス!」

そりゃもう、会いたくて会いたくて飛んできたッスよ…と言いたい気持ちを糸鋸は必死にごまかす。

「で、これ、狩魔検事から預かってきたッス!」

糸鋸が封筒を差し出す。頭が真っ白なまま御剣はそれを受け取り、封を開けた。

“レイジ、ヒゲの事だけど、あなたに心酔しすぎ。主人の言う事しか聞かない犬を相手にしているみたいだったわ。それに気を良くして随分甘やかしてきたようね。言ったでしょう?まるで使えない。これはあなたの責任よ?彼が刑事であるべきオトコだと言うならまともに仕事をするようにきちんと監督なさい。大体あなたは…”

「メイ…!」

「なんだったッスか?」

「ム、その…」

手紙をくしゃくしゃと丸めると、御剣はそばのごみ箱へそれを放った。

「要は今回のもろもろの不満を私にぶつけてきたのだ」

「う」

もろもろの多くの部分が自分なのは想像に難くなかったので、糸鋸は肩を落とす。

冥の使いで御剣に会える事が嬉し過ぎて忘れていたが、その冥が御剣に自分の事を良く言うとは思えなかった。

「気にするな。冥の相手が大変だっただろう事は分かっている。それに」

御剣は笑みを浮かべ、糸鋸の肩に触れる。

「キミをここに寄越したからには、冥自身それが分かっているし、感謝もしているのだ」

「そう…ッス?」

「冥はキミに休暇をやりたいと思ったのだ。出張を命じたのは彼女なのだろう?」

頷く糸鋸に御剣はやれやれ、と肩をすくめて見せる。

「そして私宛ての手紙を預け、私の居場所を教えた。…今回の功労者だったキミをろくに労いもしないで去った私への当てつけもあるようだな」

知らないわ!という冥の声が聞こえてきそうで、御剣は皮肉な笑みを浮かべる。

これほど驚かされたのは初めてだ。この礼はさせてもらう。

「そうだったッスか。狩魔検事にお礼言わないと…まあ自分は休暇でも仕事でも、こうやって検事に会えればそれがイチバンッス!」

糸鋸の言葉が胸に刺さり、御剣は肩をポン、と叩いて手を離すと顔を背ける。

「さて。そうなると…キミはいつまでこっちにいられる?」

「帰りの便は明後日ッス」

「では先程の話だが、」

「お、メシッスね?」

「行く。行くからその後パブに付き合うと約束したまえ」

「するッス!だから早く何か食べに行くッスよ!」

まさか着いてから何も食べてないのでは…と、糸鋸の笑顔に切羽つまったものを御剣が感じ取る。

「では行こうか」

「え?」

なんとなくレストランっぽい店構えもちらほら見えるのに脇目も振らず歩いて行く御剣の後を、糸鋸は慌ててついて行く。

「しばらく行けばタクシー乗り場がある。運転手にオススメの店を紹介してもらおう。何が食べたい?」

「せっかくだから、何か名物っぽいものがいいッス!」

旅行気分いっぱいの糸鋸の台詞に御剣が微笑む。

ふと、御剣は足を止めた。糸鋸がすんでのところで御剣への頭突きを回避する。

「寄って行きたい場所があるのだが」

「酒は後ッス」

「いや。ここを降りたところ…私のお気に入りの場所だ。キミに見せたい」

うなずいた糸鋸の笑顔に安心して、御剣は河川敷へと降りて行く。恋人達が幸せそうに寄り添う姿を羨ましく眺めた糸鋸が、開けたその場所の奥にある街灯の脇に佇む御剣のそばに立つと、御剣が金網の破れ目を指差した。

「そこの茂みを見ていたまえ」

「…あっ!」

「シッ!」

茂みから顔を出して辺りを伺う小さな生き物の姿に、思わず声を上げる糸鋸。それを御剣が制する。

耳元に御剣の息づかいを感じ、糸鋸は思わず固まった。その彼らの前に小さな生き物はもぞもぞと這い出して来た。

「…あれ、はりねずみッスか?」

「ああ」

「スゴいッス、ホントにとげとげッス!」

糸鋸が目を遣ると、御剣は自分のすぐ横で笑みを浮かべている。時々見せてくれた、何のてらいもない笑顔。ずっと守れたら、そう思ったあの笑顔で。

このままさらって連れて帰りたい、ついそう願った糸鋸だが、想いは儚く消えて行く。

検事はここにいる方が幸せッスか?あんな小さな法廷じゃなくて。小さな事件じゃなくて。そして自分なんかが部下じゃなくて…でも、お願いッス。

どんな答えを見つけても、絶対帰ってきて下さい…

「ほら、見たまえ」

街灯にもたれている御剣にあごで示されて、慌てて視線を戻すと、後についてもっと小さな生き物が三匹揃って現れた。

「幸せそうだ」

「…子供ッスね。カワイイッス。みんな小さくてコロコロしてて本当に、」

相好を崩した糸鋸の腹が音を立てた。ぎょっとして糸鋸が横を見ると、さっきまでの笑顔が嘘のように、真顔になった御剣が冷たい視線を浴びせて来る。

「刑事…」

「ち、違うッス!美味しそうとかそんな事思ってないッス!信じて欲しいッス!」

糸鋸の声に驚いて、はりねずみの一家は茂みに逃げ込んでしまった。

「クッ…!」

声を立て、体を折って御剣が懸命に笑いをこらえている。初めて見る御剣のそんな笑い方に糸鋸はますますどうしていいか分からなくなって、キョロキョロと辺りを見回す。

「…我慢させて悪かった刑事。すぐ行こう…」

口に拳を当ててまだ笑いをこらえている御剣の後を決まり悪そうに糸鋸はついて行く。

「あまりお腹をいっぱいにしない方がいい。名物ならパブの方が得意だろう」

「そうなんスか」

しばらくぶりに二人で歩く。それも異国の地を。御剣が眺めると、同じように眺めている糸鋸と視線がぶつかる。

彼の思いやりに溢れる穏やかな笑顔。少し離れていただけで、その笑顔にこれほどに飢えていた事に気づかされる。

こんなに笑って、話をして。

私が人らしくなるのはキミの前だけなのだな。



「…こっちの法廷、傍聴するのが楽しみッス」

「…紙吹雪はやめてくれたまえ」

「忘れてたッス!明日はバッチリ用意するッス!」


キミのそばで生きていたい。

…お願いだ。キミが欲しいなどと絶対に言わないと誓う。

だからその時はどうか。その笑顔そのままに。



「…刑事?」

自分を眺める御剣が出てきた霧に溶けて消えてしまいそうで、糸鋸はついその腕を取ってしまった。

「…もう少し、ゆっくり歩いて欲しいッス」

「…うム。そうだ刑事、あれを見たまえ…」

コートの袖を掴まれながら、今はガイドに没頭することにして御剣は歩いて行った。

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