陽の落ちた道をゆっくりと走る糸鋸の車。
助手席の御剣が、ふと気づいたようにカバンから一通の封筒を取り出した。
「それ、何スか?」
徐々に消えていく白暮を惜しむように眺めながら運転する糸鋸が尋ねる。
「ヘッドスパを始めたらしい。ちょうどいいから行って来ようと思う。
明日の午後は終わるまで待っていて欲しい。どこかで待ち合わせてもいいな」
「ズルいッス」
明らかな不満が滲む口調。
糸鋸がこれほど不満を露にする事が珍しく、思わず御剣は運転するその横顔を眺める。
「せっかくの休みなのに、自分は置いてけぼりッスか」
「別にキミは行きたくないだろう」
「どーしてそんな事言うッス。自分はいつだって一緒にいたいッスのに…」
あからさまに落ち込んだ糸鋸の様子に御剣は慌てて首を振る。
「い、イヤ。まさかキミが興味を示すとは思わなかったのだ」
「あるッス!キョーミ大ありッスよ!」
「そうか。私もキミが一緒なら嬉しい。早速キミの分も予約を入れよう」
涙目で訴える糸鋸に少々ヒキながら、御剣は携帯を取り出すとそのサロンに糸鋸の名を伝え、同じ時間に予約を取り付けた。
携帯を畳んだ御剣を見て、糸鋸に笑顔が戻る。
「やったッス!楽しみッス!どんな味ッスかねー、ヘッドスパ!」
「…待ちたまえ」
「なんスか?」
シートからずり落ちそうになっている御剣が手を震わせてダイレクトメールを突きつける。
「これをよく見たまえ」
車を脇に寄せて停め、御剣から渡されたダイレクトメールを読んだ糸鋸は首を傾げる。
「これ、怜侍クンの行ってる美容院ッスよね?それが何でスパゲッティ出すッス?よく分からねッス」
「分からないのはキミだ!ヘッドスパというのは…」
「なんと…!」
「分かっただろうか」
説明を終えてゼエゼエと息をつき、じろりと眺める御剣の視線に糸鋸は真っ赤になってぶんぶんとうなずく。
「始まったって言うから、“冷やし中華始めました”みたいなものかと思ったッス」
「…それでどうするのだ。スパゲッティではない訳だが」
「連れて行って欲しいッス。ああいう所、なんかオシャレで怖えッスけど、怜侍クンがいれば大丈夫ッスよね」
もじもじしている糸鋸にため息をついて御剣は微笑む。
「ならいい。スパゲッティはその後だ」
「そう言えばこないだすごくウマいナポリタン出す店見つけたッス!ちょうど連れて行きたいと思ってたッスよ」
「楽しみだな」
「さあ、まずは夕飯の買い出しッス」
「ああ」
糸鋸の車は相変わらず派手な音を立ててスーパーの駐車場へと吸い込まれて行った。
「終わったッスよ〜」
陽気な糸鋸の声に御剣が顔を上げた。が。
「どうッス?検事みたいにはならなかったッスけど、少しはダンディになってないッスか?」
「うム」
曖昧な御剣の返事を好意的に受け止めたらしい糸鋸は満足げだ。
糸鋸の隣では担当したスタイリストが疲労困憊した無残な姿を晒している。
「たまには…こういうのもいい、だろう…」
「スゴいッス。なんか頭が軽くなった感じッス!今ならどんな難事件もスッキリ解決ッス!」
スゴいのはキミの強情な髪だ。圭介…
浮かれている糸鋸を眺め、御剣は静かに紅茶を飲み干した。
御剣が安堵した事に、糸鋸の髪は見事にそのままだった。
スタイリストをてこずらせただろう彼の頭はいつものように前髪がツンツンと立っていて、コートを羽織ればいつも通りの糸鋸に違いなかった。
「…ずいぶんあか抜けたではないか」
しかしながら艶の出た髪と、こざっぱりとした肌を見た御剣は、当惑しながらもそう言ってみる。
上客を失うかも知れないと怯えていたスタイリストが、その言葉に大きく息をつき頭を下げてくる。
「イヤー、そんな事ないッスよ」
「さあ、行こうか」
傍らの鏡に向かってポーズを取り、なんとなく揃えてもらったらしいヒゲをいじる糸鋸の肩を叩く。
「今日はどこにだって自信をもってお連れ出来るッス!」
そう言って開けられたドアの向こうに駈けてゆき、胸を張って御剣を待つ上機嫌の糸鋸。
むしろ変わってもらっては、折角のイイ男が台無しなのだよ、圭介。
そう御剣はうなずいて、ウインナーたっぷりのナポリタンを前に子供のようにその笑顔を輝かせるだろう糸鋸を思って笑った。