糸鋸が治療を受ける診察室の前で、御剣は待っている。事情聴取は明日にしてもらい、平気だと渋る糸鋸を連れて来た。
長椅子に掛け、組んだ手を口元に考え込む御剣。先刻の出来事が脳裏に浮かぶ。
突然の事だった。検事局に戻るその時に響いた奇声。強い光を当てられ目が眩んだ。次の瞬間、目の前に糸鋸が現れ、御剣を殴る筈のその凶器を背中で受け止めていた。二度、三度、鈍い音が彼の背中の向こうで響いた。
“検事!”
目を覆った御剣の後ろで響いた糸鋸の叫び。御剣の後で車を降りた糸鋸は、信じられない素早さで御剣の前に回り込み、盾になった。
あの腕が肩を抱いていた。御剣が自分の肩に手をやる。糸鋸のもう一方の腕は御剣の頭を抱え、その手と胸でしっかりと包んで彼を守った。
彼の体の熱さ。その熱が移ったのだろうか。御剣は熱っぽい額に冷えた手を当て、大きく息をついた。
診察室のドアが開いた。弾かれたように御剣が立ち上がる。糸鋸はコートとジャケットを手にして、中に頭を下げると振り返って、御剣の姿を目に止め、嬉しそうに笑った。
「具合は」
「打撲と擦り傷だけッス」
「そうか…」
糸鋸の笑顔に、御剣が胸を撫で下ろした。
「あの、」
遠慮がちに糸鋸が呟く。
「薬、もらうまで待っててもらえるッスか?もう一度検事局までお送りしたいッス」
「何を言っているのだ」
ほっとしたのも束の間、慌てて御剣は首を振った。深刻な顔で拳を握りしめている糸鋸の言葉が信じられない。
「だって、あんな事の後ッスよ!?心配で一人になんか出来ないッス!」
その真剣な顔に、御剣は言葉を失う。さっきも今も、普段はどこか抜けている彼の本気はいつも、御剣が作り上げた壁を揺るがし、壊そうとする。
「…これ以上キミに迷惑はかけられない」
「検事を守るのが自分の仕事ッスよ」
御剣の抵抗を糸鋸は一言で打ち砕く。肩を落とした御剣が横目で眺める。そんなのはキミの仕事ではない。その言葉を飲み込んだ。真っ直ぐな糸鋸の瞳は強過ぎる。
「お疲れのところ申し訳ねッス」
埒が飽かない。何故そこまで…
崩れた壁から弱さが透けているのが自分でも分かった。糸鋸の不思議そうな視線から逃れるように、御剣は糸鋸を従えて待合室へ向かった。



夜の公園のベンチに二人は並んで座っている。
公園に寄りたいと言って糸鋸は車を停めた。すぐ戻るッス、と言い残してそそくさと車を降りて行ってしまう。
心細くなった御剣が後を追うと、糸鋸はベンチでタバコをくゆらせていた。
気がついた糸鋸が照れたような笑みで頭を下げる。御剣は少し離れて腰を下ろしたのだった。
「すまねッス。どうしても欲しくなっちまって。車の中じゃ検事が煙たいと思って」
「私なら構わないが」
「そうだったッス?」
「ああ」
糸鋸がタバコを吸うのは知っていた。以前に介抱された時も、さっきも、糸鋸の胸からはタバコの匂いがしていた。
タバコだけではない。
御剣はほっとした顔でタバコを吹かしている糸鋸を眺める。
彼の。彼自身の匂い。強い雄である事を主張する匂い。御剣にとってそれは決して裏切る事なく自分を守る匂いとして染みついた。久しぶりに感じた彼の匂いに別の意味で不安になる。抑えが効かなくなりそうな自分を何とかしようと、御剣は辺りを見回した。
自動販売機が目に入り、御剣は缶コーヒーを買ってくると糸鋸に差し出した。
「良ければ」
「頂くッス!」
嬉しそうに缶を開けて口を付けた糸鋸の様子に少し落ち着いた御剣は、また隣に腰を下ろして自分もコーヒーを飲んだ。味がよく分からない。
「ありがとう」
仕方なく、目を反らしたままそう言った。
「検事にケガがなくて本当に良かったッス」
「前にも言ったはずだ。私の事など放っておいて構わない」
「またそういうこと言って。ダメッスよ?」
笑いながらたしなめる糸鋸に少し驚いて思わず御剣は振り向いた。糸鋸は横を向くと煙を静かに吐いて、飲み干した缶の中に吸殻を入れると、向こうにある屑籠に放る。小気味良い音を立てて缶は屑籠に吸い込まれた。
公園の小さな灯に照らされている糸鋸。今はネクタイもせず、ワイシャツの首をはだけ、腕を捲ってどっかりと座っている。
そこにいるのは、うっかりがつきもののどこか頼りない刑事ではなく、自分とは違うものを見てきた大人の男だった。
「検事に何かあったら自分は…何をするか分からないッス」
抑えている怒り。前を見ている彼の姿がいつもより大きく見える。
“…許さん!!”
糸鋸のあんな怒鳴り声を初めて聞いた。何度か背を打たれた後、振り向き様に凶器を腕ごと掴んだ糸鋸は、そのまま犯人を投げ飛ばして取り押さえ、現行犯逮捕した。犯人を地面にめり込む音がしそうなほどに押さえ付け、手錠を掛ける糸鋸の怒りに満ちた顔。そんな顔が彼の中にあった事も初めて知った。
今はもういつもと同じ、少しとぼけたような人の好い笑顔をこちらに向けて、だが心配そうな色を隠さない瞳は変わらず。
「キミこそそんな事は言わないで欲しいものだ」
「…迷惑ッス?」
途端に曇る糸鋸の表情に御剣の胸がちりちりと痛む。
「違う。私のせいでケガなどして欲しくないのだ」
「困ったッスね」
ほっとしてため息をつく糸鋸。
「けどそれは出来ない相談ッス」
突然太い眉が寄せられ、うつむいて糸鋸は黙ってしまった。御剣がコーヒーを空にしたのに気づいて、手を出してくる。
御剣は包帯の巻かれた彼の手に缶を渡して彼の次の言葉を待った。
「検事の事は誰が守るッス?」
突然投げ掛けられた問い。
「ガイシャの思いを検事は守って…その検事の事は誰が守るッスか?」
その言葉にあの事件が蘇り、呼吸が乱れそうになる。御剣はその乱れを気取られないように、とベンチの縁を握りしめる。
守られなかったまだ幼い御剣怜侍の思い。それを取り戻そうとするかのように検事となった。全ての被告人を必ず有罪に、そして被害者の無念が宙に浮かないようにするために。
「検事は現場を大切にするッス。法廷で有罪食らわすのが仕事なのに、出来るだけ来ようとしてるの知ってるッス」
「私が、キミ達に煙たがられているのは…気づいている」
「確かにそんな事言うヤツもいるッスけど…検事は自分達の捜査を見てる訳じゃないッス。分かってるッス」
糸鋸がまた缶を放る。さっきと同じように音を立てて屑籠に落ちる。
「検事が、法廷で明らかにするべき罪を見に来ている事」
「!」
苦しかった呼吸がすっと楽になる。
私は一言も言わなかった。なのにキミには見えていたというのか。
「だから自分も、犯人捕まえてくる他に出来る事がある。そう思ってるッス」
そう言うと、糸鋸は手のひらにもう一方の拳を打ち付けた。
糸鋸の強さを確かに感じ、御剣はいまだに彼の本当の強さを知らずにいた自分に唇を噛んだ。
私はその力に今確かに守られた。隙あらば私に取りつくあの幻が、キミの一言でもう見えない。
キミは本物のヒーローなのだな。
だがキミもまた気づいてはいまい。いつかその力に気がついた時、キミはどうするのだろう…
「…キミにはハラハラさせられる」
「いつもポカばかりですまねッス」
そう言うと、糸鋸はいつものように頭を掻く。そして真顔になって向き直った。
「けど、検事の事ならポカはしないッス。自分が絶対に守ってみせるッス」
うつむいた御剣にもう抵抗する力は残っていなかった。
「だから放っておけとか言われても、自分は聞かないッス」
うつむいた御剣の肩に大きな糸鋸の手がぽん、と置かれる。顔を上げた御剣は、その手の力に全て委ねたくなる自分を抑えながら静かに頷いた。
「…局まで送ってくれるだろうか」
「了解ッス!」
立ち上がって敬礼した糸鋸の腹が音を立てる。
「…まだ元気があるなら、どこか食事に寄ろう」
苦笑した御剣に照れたようにまた頭を掻いた糸鋸は、
「元気は有り余ってるッス」
と顔を赤らめ、車に走って行くと助手席のドアを開けて御剣を呼ぶ。
御剣は立ち上がると笑みを浮かべ、お腹を空かせた彼のヒーローの下へと歩き出した。


※綺麗なイトノコ

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