大通りの裏小路。小料理屋や立呑屋が軒を連ねる。
糸鋸のアパートから程近いその小路にある一軒の居酒屋は、いつものまったりした雰囲気が一転して、熱気に包まれていた。
時々行ってるとこッス。
そう言って糸鋸は夕食がてらと御剣を誘ってみた。
特に理由があった訳では無い。単に一段落した時には結構遅くなって腹が減っていて、隣に御剣がいたというだけだ。
(しまったッス…検事にあんな店、合うはず無いッス)
例によって言ってしまってから失敗したと糸鋸は思ったのだが、予想に反して御剣からはにこやかに同意を得てしまい、今更止しましょうなどと言えない雰囲気になってしまった。
ここはせめて、掃き溜めに舞い降りた鶴が汚れないように気をつけよう。そう思った糸鋸だったが、他の客に物珍しく思われないようにと、自分の後ろに隠してカウンターの隅に御剣を座らせた途端、普段はからからと気っ風のいい女将が、物凄く熱い視線と共に御剣を質問責めにし始めたのだ。
「イケメン…とは見目の良い男、という事だろうか?」
小さなカウンターに所狭しと並ぶ料理。
矢継ぎ早な質問を慌てて止めた糸鋸に我に返った女将は、ごめんねえ、といつもの軽さを取り戻し、お詫びとばかりにいつもはお銚子一つに小鉢が三つ程度の糸鋸の席を華やかにしてくれた。
「まあ、そういう事ッス」
「私がそうだと?」
「そうッス」
見た事の無い料理が並ぶカウンターに御剣が目を輝かせている。
この笑顔を見ていると、自然と糸鋸の頬が緩んでくる。女将の勢いに気圧された御剣は機嫌を損ねる間もなかった。
「人それぞれとはいえ、変わったご婦人だ」
「えーと、」
本気で言っている。
糸鋸はぽかんと口を開けて、見当外れの感想を発した御剣の怜俐な横顔を見つめる。
「男をイケメンとそうでないヤツに分けたら、検事はアキラカにイケメンッス」
「ムウ…」
目の前のざく切りのキャベツをどうしていいのか分からずにつついている御剣。
さらりと塩をかけてやり一枚渡すと、これでいいのか?と言いた気な、ちょっと心細い顔で受け取り、端を小さくかじった。
「キミも…そう思っているのか?」
振り向いた御剣の顔に浮かぶ純粋な疑問。
本気で分からないのだ。あの、天才の名を欲しいままにする御剣怜侍はこんなに魅力的な人間だという事を。
頭を掻きながら糸鋸は考える。
「あー、その、自分はちょっと違う…ような気がするッス」
「だろう?」
ホッとしたような御剣に、静かに糸鋸は首を振る。
「イケメンなんて軽く言えない雰囲気が検事にはあるッス」
出てきた言葉に糸鋸は自分で驚いた。
見る度いつも、自分の中に生まれるこの不思議な感覚の正体。御剣が男だという事実に端から脇にのけていたシンプルな答え。
頬杖を突いてこちらを見つめる彼は。
「あ、スゴいッス。自分…分かっちゃったッス」
「そうだろう。私は至って平均的、かつ、」
「検事は、検事はスゴく…キレイな人ッス!」
「なッ!?」
「いやー、やっとナゾが解けたッス」
頭を掻きながら、すっきりした顔で酒を流し込む糸鋸の横で、呆気にとられた御剣が固まっている。
「おっと、こうしてちゃいけないッス」
御剣が食べやすいように、串揚げの串を外して目の前に並べて糸鋸はニカッと笑う。
「さ、検事、食べて食べて」
そう言いながら串カツをかじった糸鋸を見た御剣が、それを見て顔を赤くし、眉間にシワを寄せた。
「…私もそのまま食べる」
「えっ」
言うが早いか糸鋸の皿から一本取り上げると、勢い良く口に差し込む。
「グッ!」
「あー、もう」
思った通り、串を口に突っ込んだまま目を白黒する御剣の肩を抱いて串を取ってやる。
「そっち食べて下さい」
目の端に涙を滲ませ、真っ赤になっている御剣の頭をぽんぽんと撫でて、糸鋸はそっと猪口を口にする。
羞恥心からか、うつむいたままの御剣。その頭にある自分の手。その手に伝わる柔らかな髪の感触はまるで子猫のようで。小さな震えも伝わって来て。
さっきまで厳しい視線で現場を指揮し、指示を飛ばしていた天才検事が。
なんかカワイクなってるッス。
何故か幸せで胸がいっぱいになってくる。
久しぶりに検事のこんな顔見れたッスね。どうなることかと思ったッスけど、思い切って連れて来て良かったッス。
自分が検事を誘ったのはたまたまなんかじゃなくて、この顔を見たかったからッスね。検事の年相応で人間らしくて、その辺の美人に負けないくらい…キレイ…な…
ちらりと視線をやると、御剣はまだうつむいたままだ。自分自身の事になるとからっきし分からない天才検事。
見ている内にドキドキして来たこの胸に、冗談混じりにこの手の中の小さな頭を抱えてみたい。
だがさすがにそれはおかしい、と糸鋸は思いとどまる。
尊敬する天才検事に対してする事ではない。
大体何故こんなにドキドキしているのか、と糸鋸は首を傾げる。
先輩と呑みに来た時とも、後輩を連れて来た時とも違っている。
直接ではないにしろ、上司には違いなく、しかも誰より尊敬出来る人間だ。なのに、二人で一緒に美味いモン食って酒を呑んで、カワイイとか思って…
空きっ腹に流し込んだ酒のせいで、少し変な酔い方をしたのかも、と糸鋸は首を振り、椅子の背で背中を伸ばした。
それまで御剣の頭に置きっぱなしだった手が空いた事で、御剣の猪口が空になっているのに気づいて、手を取って猪口を握らせると、ようやく御剣は顔を上げて横目で糸鋸を睨んだ。
注がれた酒を一息に呑み干し、目の縁を染めた御剣の震えが止まる。恥ずかしさが紛れたのか、フッと息をつくとそっぽを向いて糸鋸に猪口をまた差しだしてくる。
今はこちらからは見えない御剣の表情。真っ赤になったままの彼の耳は酒のせいではないと気付く。そしてこちらに向けられた厳めしいスーツの肩からは紛れもない安堵が伝わってくる。
そうッス。検事について行くと決めたからには、自分は検事がいつもこんな風にしてられるように、守らなきゃならねッス。
検事は人を疑う事が仕事なんて言って、自分自身の事になると何も疑わないから、油断してたらさっきみたいにもみくちゃにされちゃうッスね。
けど大丈夫。自分がいつもそばにいて、そんな奴らは追っ払ってやるッス。
そしたら検事、今みたいにずっとあんな顔でいられるはずッス。
取り敢えず見つかった真相。それは何故御剣のそんな顔が見たいと思うのかも、その顔を見ると収まらなくなる動悸も説明出来ない。
だがすっかり分かった気になった糸鋸は気を良くして、今度は御剣の肩に腕を回してこちらを向かせ、表情を確かめる。驚きに見開いた御剣の瞳には険しさは微塵も無く、ただ糸鋸だけを映してその奥の無垢な心まで全て委ねているように見えた。
満足気にうなずいて、糸鋸は天才検事の猪口にそっと自分の猪口を合わせ、いつもと同じはずの酒がずっと美味しい事に何の疑問も持たずに飲み干した。