「ミツルギさん、ノコちゃんのフルネームって何でしたっけ」
「イトノコギリ ケイスケ、だ」
「あー、そうです!ややこしい名前ですよね」
淀みなく答えた御剣に、美雲はうんうんとうなずく。
例によって執務室でお茶をご馳走になった後、御剣との雑談に花が咲く。
後で課題の事相談してみよう。
「そうだろうか。むしろ特徴的で覚えやすいと思うのだが」
ミツルギさん以外にノコちゃんの事、ちゃんと呼んでる人に会った事無いです…狩魔さんなんか、ヒゲって言ってました…
「私、ミツルギさんの名前も忘れちゃってて」
「それは仕方あるまい。私達が顔を合わせたのはわずかな時間だったし、あの時キミの身に起きた出来事は相当のものだ」
幼い自分に重ねて、御剣は美雲を眺める。
元気の塊だった少女は、そのまま元気一杯に育ったように見えるが、自分や糸鋸の前では無理に明るく振る舞う事もない。それが御剣には嬉しかった。
静かに御剣がうなずくと、美雲は再び難しい顔になって首を傾げた。
「あー、下の名前も忘れちゃってます…」
恥ずかしそうにうつむく美雲。そこにノックが響いてパッと上がった美雲の顔が輝いた。
「ミツルギ レイジ検事殿ッスよ」
「あっ!ありがとう、ノコちゃん!お帰りなさーい」
美雲にも負けない笑顔の糸鋸は、執務室に入ってくると、御剣に敬礼して見せた。
「お疲れ様です!」
「ご苦労だった、糸鋸刑事。それで」
「まだ動きが無いッス。新しい証拠も…」
「そうか。だがもう少しの辛抱だ。あちらも限界が来る頃だ」
「ハイッス!」
二人をニコニコと眺めていた美雲が、ソファの端に寄ったのを見て、糸鋸が隣に腰を下ろす。
御剣は立ち上がると紅茶の用意を始めた。
「御剣検事の名前、気になったッスか?」
「うん。ノコちゃんの名前も。お父さんとバドウのおじちゃんは馬堂、一条って呼んでたの覚えてる。
けどミツルギさんはノコちゃんの事、刑事って呼ぶし、ノコちゃんは検事って呼ぶから、あれ?何だったっけって」
くるりと回した砂時計をデスクに置いた音に美雲が振り向くと、窓際に腰掛けた御剣が微笑んだ。
「私にとって刑事とは、糸鋸刑事の事なのだよ」
「待った!自分にだって検事は御剣検事以外いないッス!」
鼻息荒く立ち上がった糸鋸に美雲が笑う。
本当に仲良しだなぁ。
御剣は、と見ると、いつものように肩をすくめて無表情で砂時計を見つめている。だが、逆光でも分かるほど耳が赤くなっていた。
美雲も立ち上がると、デスクの横に行ってまた代わる代わる二人を眺める。
「仕事じゃない時もそうだよね」
「そうッス」
「うム」
「けど、ミツルギさん前にノコちゃんの事、友人って言ってたじゃないですか」
「確かに」
砂が落ちきり、御剣はポットの中身を注ぎ分ける。
「友達なんて恐れ多いッスよ〜」
頭を掻いた糸鋸がカップを受け取ると砂糖をすくってかき回す。
「なら名前で呼び合ってみたらどうでしょう?」
美雲にカップを差し出した御剣が硬直して目を丸くした。
なかなか見られない御剣の表情に、美雲は得意げに鼻を擦った。
「名前、で」
呟いた御剣が助けを求めるように糸鋸を眺めると、糸鋸は慌てて他所を向いて紅茶をすすり出した。
逃げたな、圭介…!
がっくりとうなだれた御剣が顔を上げると、期待でいっぱいの美雲の視線とぶつかった。
「そう、その…糸鋸君」
「ハッ、御剣さん」
「あ、あれ?」
仏頂面の御剣と緊張に強張る糸鋸。
「どうだろう、ミクモくん」
「えーと…」
「友達っぽくないッスか?」
「なんだか余計上下がはっきりして友達から離れたみたいなんですけど…あ、分かった!苗字だからですよ。名前で呼んだら大丈夫!」
「ウオオオォォォッッス!」
「ぬ、ぬぅ…」
御剣は髪をかき上げ、カップを口に運んで何とか平静を保つ。
糸鋸はと言えば、吹き出すところだった紅茶をようやく飲み下し、軽く咳き込んでいる。
「よ、よし。見ていたまえミクモくん」
深呼吸すると御剣は、法廷さながらに糸鋸に指を突きつけた。
「ケイスケ君!」
「ハッ、す、すまねッス、レイジさん!」
肩を大きく上下させて荒い息をつく二人が美雲を振り返る。
「どうッス、ミクモちゃん!?」
「えーと…その、」
何か違う…思っていたのと。
「今まで通りが一番しっくりくるみたい」
「不合格だったようだ。刑事…」
同時に肩を落とした二人。こんなに息がぴったりなのに、友達感覚だとギクシャクするって面白い、ね。
デスクを挟んで残念そうに紅茶を飲む二人を眺め、美雲ははたと気がついた。
「そうだ、ミツルギさん、この前出た課題なんですけど、ちょっと教えて下さい」
「ム」
ホッとしてうなずいた御剣は優雅にソファを示し、糸鋸は美雲に手招きする。
自分の頭の上で額を突き合わせる二人に挟まれて、美雲は面倒な課題の説明を始めた。
「…ここは執務室ッスけど、」
糸鋸の声にティーセットを片付けていた御剣が振り返る。
「…名前、呼んで欲しいッス」
首を傾げて近づいた御剣のスーツの袖を掴んだ糸鋸がうつむいてぽつりとこぼす。
「だって自分達…友達じゃないッス」
その手をそっと包んだ御剣は、
「先程のピンチを丸投げしておいてよくも言えるものだな、圭介」
と呟く。
その手を握り返し、おずおずと顔を上げた糸鋸の視線がいたずらっぽく輝く御剣の瞳とぶつかる。
「友達ではないなら何だ」
「怜侍クンは自分のコイビトッス」
真っ赤になってうつむき、小さな声でそう答えた糸鋸。
フッとため息をついた御剣は、目の前で小さくなっている男の都合のいい口を、お仕置き、とばかりにふさいでやった。