「ものすごい人出だな」
「そうッス。今夜の警備は大変ッスよ」
見れば制服姿で駆けずり回る大勢の警官の姿がある。
この辺りで一番のこの由緒正しい神社は零時ちょうどに参拝をするために集まった人達で信じられない混雑ぶりだった。
糸鋸の部屋で、薄い壁を通して聞こえる除夜の鐘をバックに静かに新年を待つはずだった御剣の思惑は、年越し蕎麦を飲み干す様に平らげて、初詣に行くッス! カウントダウンに間に合うッス! と鼻息も荒い糸鋸にあっさりと吹き飛ばされてしまった。
「今夜は御剣検事の専属ッス」
そう言うと糸鋸はそっと御剣の手を握りしめた。御剣が慌ててその手を振り払おうとする。
「刑事!」
それでも周囲に響かないように声を抑え、怯えた顔で御剣は辺りを見回す。だが糸鋸は握った手を離そうとしない。
「このように人目のある場所で、」
「平気ッス。みんな本殿しか見てないッスから」
そう言うと糸鋸は目配せしウインクして見せる。確かに並んだ列はこれ以上無く詰まっていて、意識して他人を見ようとしても、腰より上しか分からないだろう。的確な糸鋸の言葉に、御剣は不承不承同意する。
「このような警護など聞いた事がない」
「警護じゃないッスよ」
空を仰いで糸鋸は白い息を吐き出す。
「迷子にならないように……」
瞬時に頬を染めた御剣は眉間の皺も深く、糸鋸を振り返ったが、からかうように聞こえたその言葉に反し、糸鋸の顔はほんのり憂いを帯び、視線は遠くに向けられている。
「一人で行っちゃダメッスよ」
また糸鋸は呟いた。
「だから、離しちゃダメッス」
喉元まで出かかっていた御剣の異議は、どこかに融けてしまったようだった。少し緊張しているのか、汗ばんでいる糸鋸の温かな手を御剣は、静かに、だがしっかりと握り返した。
「キミと出会ってから何度も年を越した。事件の最中、正月気分を味わえない事もあったな」
「いつだったか、遅ればせながらってご馳走になったおせちが傷んでて、二人して大変な目に遭ったッスね」
「ぐっ! こ、今回はそのような事はないッ!」
「豪華な重箱だったッスねー。帰って開けてみるの楽しみッス」
彼らの周りでは新年を待つ人々がこの神社の雰囲気などものともせずに浮かれている。
「厳かに新年を迎えるはずが……キミがいなかったらこのような時に来る事も無かっただろう」
取材のカメラに向かってピースを出しながら騒いでいる人々を冷ややかな目で御剣は眺め、苦苦しげにそう口にする。
「自分も、ッスよ。きっと今頃、安酒で酔っ払って独りでしけた正月を過ごすハメになってるッス。なのに今自分には、寒い中ついて来てくれる人がいて。一緒に帰ってくれる人がいて……ココはホントに御利益があるッス。お願いしたら絶対叶うッスよ」
「厶?」
「叶ったッス」
そう言うと糸鋸は照れたのかうつむいて、つないでいたその手にそっと力を込めた。
「まさか、」
「もちろんッス。ここ毎年、同じお願いしかしてなかったッス」
「そう、か」
そっと息を吐いて御剣は糸鋸に注いでいた視線を外し、自分もうつむいた。
「そのお願いは叶えて貰えたッスから、今年からは、怜侍クンの健康と成功と幸せと、」
「全くキミは……しかしそれならば私も願うべきだな」
「聞いてもいいッス?」
「……キミが願うのと同じものがキミ自身に訪れる様に。もっとも……イヤ、これ以上はヒミツだ」
「あッ! 隠し事は無しッス!」
糸鋸が慌てて顔を上げ、異議を唱える。
「隠し事ではない。キミはキミ自身を知らな過ぎる。そういう事だ」
「うー、分からねッス……」
憤慨しながらも首をひねる糸鋸を横目に御剣は薄く笑う。
――神や仏にすがるより、キミに願う方が頼りになる。そしてキミの中の私は、そうしても構わない存在になれた。そう自惚れて良いのだろう?
「……私の思い込みで無い事も祈ろう」
「それ、お願いッスか?」
「うム」
「じゃあきっと叶うッス」
「そうだな」
試しにゆっくりとつないだ手に力を込めると、糸鋸の手はやはりしっかりと御剣を握り返して来る。
「寒くないッスか」
「少し」
御剣の返事に穏やかな笑みを向けた糸鋸は、空いていた方の手を御剣のマフラーに伸ばし、あごまで覆うように整えてやった。
「……帰ったら熱燗つけるッスね」
「出店で引っ掛けていっても構わないが?」
「静かに呑みたいッスから」
「こんなにあっという間に過ぎた一年は初めてだった」
「あー、自分もッス」
「ただの日常ですら、ゆさぶりをかけられたようにめまぐるしく変わっていく。そこにはキミがいて……」
人が出て慌ただしくなって来た本殿を眺め、御剣は呟いた。その口の端に浮かぶ静かな笑みを認め、糸鋸が頷く。
「捜査しかなかった自分にも、今はそれ以外の自分をカワイイ顔で迎えてくれる人がいるッス。夢みたいッス」
「変わらない事もある。相変わらずキミのウッカリとポカからは解放される気配が無かった」
途端、糸鋸の顔に浮かんでいた余裕が吹き飛ぶ。
「あっ! その、来年こそは頑張るッス!」
「構わない。私が遠慮無く小言をお見舞い出来るという事も、キミがいつもそばにいるからこそ叶う事だ」
「それでも、頑張るッス! 検事の事件から外されたら元も子もないッスから」
「厶」
あれはまだ、私がキミの下を去る前。
御剣は必死な糸鋸に首を振る。
「もしもそんな事が起きるならば、それはウッカリのせいではない。むしろキミがそれだけ私を支えて来てくれた証だ。皆、私にとってキミがどれほど大きな存在か知っている。これ程誇らしい事は無い」
御剣の耳が赤い。だがそれはこの寒さのせいではないと、糸鋸にはもう分かっている。御剣の最大限の賞賛が、糸鋸の顔に自信の笑みを取り戻した。
「そしていつか私は、そのように不当な扱いをキミが受けないよう取り計らう力を手に入れたい、と思う」
「自分も……なるッス。命令できるのは御剣検事だけ。そんな刑事を目指すッス」
篝火が音を立てて燃え上がり、人々を照らした。気づいた二人が見つめ合うと同時に、周囲のざわつきは大きくなり、カウントダウンコールが発生し始める。その熱気に誘われる様に二人は前を向くと、コートの裾から互いの腰に腕を回して寄り添った。
「……あけましておめでとうございます」
もう一度見つめ合うと、二人はそっと頭を下げた。
「今年も」
「よろしく、」
「お願いする」
「ッス!」