ふと、目を覚まして御剣は隣で寝息を立てているはずの糸鋸がいない事に気がついた。
サイドチェストの時計は1時を回っている。
ベッドから降りてガウンを羽織り、そっとリビングに向かう。
開いたままのドアを覗くと、ソファに座って組んだ手に顎を乗せた糸鋸が、何かを考え込んでいる。
常夜灯の仄かな明かりの中、いつものたくましい肩が小さく、頼りなく見えた。
目を上げた糸鋸の目に、ドアに寄りかかって自分を見ている御剣の姿が入る。
「すまねッス。起こしたッスか?」
そのまままた目を落とした糸鋸の様子に不安をかきたてられ、御剣はそばに行くと隣に腰を下ろした。
「眠れないのか」
呟いた御剣を横目で眺めた糸鋸が肩を落とす。
その肩に前を見たまま御剣が腕を回す。
「…怖いッス」
いつも甘えさせてくれる御剣の胸に、今夜はどこか遠慮しながら糸鋸は顔を埋める。
「もし離れてしまったらもうおしまいッス」
「バカな」
「自分は邪魔してるッス」
御剣の腰を抱いていた糸鋸が顔を上げた。
「狩魔検事も狼捜査官も世界を相手に仕事してるッス。けど、御剣検事は地方検事局の検事。そんなの本当はおかしいッス」
「ありがとう…と言うべきではない、な」
「自分はただの刑事ッス。それも、何かやらかしては検事に面倒かけて」
「…」
御剣の眉間に皺が刻まれる。
「いつか“御剣検事”を、自分の手の届かない事件が必要とする。そんな時が来る。そう思ったら、恐くて…」
震える唇。震える目。震える肩。
自分にも覚えのある糸鋸のその様子。御剣は、彼に教わったそのままに糸鋸を抱きしめた。
「自分は邪魔にしかならないッス…」
「買いかぶり過ぎだ」
「そんな事ねッス」
「キミがいなければ何も出来ない。知っているはずだ」
「知らねッスよ!そんな事ある訳ないッス…」
「聞くんだ」
糸鋸の頭を撫でながら御剣は呟いた。
「私が真実を追究し、法の矛盾と闘う。そのために必要なのは国際的な権限ではない。必要なのは」
御剣は立ち上がると糸鋸の前に跪き、口づけた。伝わる震え。糸鋸がしてくれるように、ゆっくりと背中を撫でてやる。
糸鋸の震えが小さくなる。御剣は唇を離すと涙が浮かぶ糸鋸の目を見つめた。
「キミだけだ」
「ただの刑事の自分の代わりなんていくらでもいるッス。もっと出来る男が」
「私がこれまで歩いてこられたのはキミがいたからだ。嘘にまみれて何もかもが消えていく。それが当たり前だった私にとって、一つだけ、いつも確かだったものがキミだ」
「それだけじゃ、足りないッス…御剣検事を追いかけるには」
そう言うと糸鋸はうなだれた。
「それは違う」
御剣は頭を振り、糸鋸を諌めようとする。
「私は無能な者をそばになど置かない」
「自分が無理矢理いさせてもらっただけッス…」
「…ではキミの未来に私はいないのか?」
「考えれば考えるほどそうなって…怖くなって…」
「…そうか」
気づいた御剣が俯いたままの糸鋸を見つめ、手を添えるとそっと顔を上げさせた。
「済まない」
「どうして謝るッス」
「そんなに苦しんでいるのに気づかなかった。最低だ」
「自分がいつまでも不甲斐ないだけッス」
耐えられず、糸鋸は目を反らした。臆病者の自分を見透かされてしまう。そんな気がした。
「私の事を何でも知っている。そう思っていた。ひどい思い上がりだ」
目を反らしたままの糸鋸の肩に御剣は手を置いた。
「キミがどれほどの力を持っているか、証明してみせよう」
静かに、まるで懺悔のように御剣は頭を垂れる。
「私のためなら何でも出来る。そうだろう?」
「…ハイ」
「では私に命令しろ。キミの望む事を」
「そ、そんな…」
「するんだ!」
御剣が顔を上げた。語気の強さに糸鋸は震える。だが その言葉とは裏腹に御剣の瞳は深い思いやりに満ちている。
「ずっと」
息を呑んだ糸鋸は必死に言葉を続ける。
「一緒にいて下さい…」
「それではお願いではないか」
糸鋸の肩に置いた手に力を込める。
「私は命令しろと言ったはずだ」
「ム、ムリッス…」
「私のためなら何でも出来るのではないのか」
御剣の声が暗闇に溶ける。荒くなる呼吸を糸鋸は必死に抑える。また唇が震え出す。逃げたくなる。だが御剣の瞳は糸鋸をしっかりと捕らえて離さない。
(…すまねッス!)
目をつぶると、ありったけの勇気を振り絞って糸鋸は叫んだ。
「…どこにも!どこにも行っちゃダメッス!」
「どこにも行かない」
「自分と一緒にいないといけないッス!ずっと!」
「ずっと一緒にいよう」
叫んでしまった糸鋸は魂の抜けたような顔で御剣を見つめている。もう少しだ。頑張るんだ。うなずいて、御剣は続ける。
「私はキミと共にある。私を必要とする事件があるならその事件に必要な刑事はキミだ。ずっとそうだっただろう?」
そしてもう一度糸鋸の頭を胸に抱え込んだ。
「私は信じる道を行く。だが行く先を決めるのはキミだ」
「そんな…」
慌てた糸鋸が見上げようとするが、御剣は押さえて離さない。
「キミのいない道を私は選ばない。絶対にキミに背かない」
「ダメッス…ダメッスよ、そんなの」
「これがキミの力だ」
「う…」
「キミだけが私を意のままに出来る。していいんだ」
御剣の胸に顔を押し付けられたまま、糸鋸が泣いている。落ち着くのを待って涙を拭いてやると、御剣は尋ねた。
「そろそろ気づいているだろう。今キミの前にいる私の名は?」
「怜侍、クン…」
「そうだ。御剣検事ではない」
やっと答えに辿り着いた糸鋸の頭を御剣は静かに撫でた。
「どうかそれを忘れないで欲しい」



「先にベッドに」
立ち上がった御剣が振り返って言った。
「お茶…淹れてくれるッスか」
「ミルクを温めてくる」
「もう一つだけ、聞いてもらってもいいッスか」
糸鋸は笑みを浮かべてみせるが、その瞳は心細いままだ。
心をくたくたにしてしまったのだろう。それが痛々しかった。
「甘くして欲しいッス…ブランデーも垂らして」
頷いてその頬にそっと触れると、御剣はキッチンへ向かった。
温めたミルクをかき回していると背後に気配を感じる。
「一人はイヤッス…」
御剣の腰に腕が回される。
「言っていなかったな」
振り返ると御剣は糸鋸の肩に頭をもたれて呟いた。
「そもそも私はどこにも行けないのだよ」
目をしばたいている糸鋸に微笑んで、御剣はその頬に口づけた。
「だからキミは追いかける必要などないのだ」
小さなボトルの中身を数滴落とし、カップを糸鋸に渡す。
「いつかきっと分かるだろう」
「…飲ませて欲しいッス」
目を見開いた御剣は、糸鋸のカップを受けとるとミルクを含み、そっと糸鋸の口に流し込んだ。
糸鋸は確かめるように御剣の柔らかな頬に触れ、甘い唇を貪る。体に温もりが満ちてゆく。
「効いたッス」
涙の流れた糸鋸の頬に御剣はもう一度軽く口づけキッチンの灯りを落とした。糸鋸が、冷徹なロジックで自分の迷いを断った恋人を眺める。
仄かな灯りに照らされて、当たり前のように目の前で微笑んでいる御剣。あの時の瞳。初めて出会ったあの時と同じ、初めて救われたあの時と同じ御剣の瞳。
本当はその時からずっと彼はそこにいて、自分を見つめていた。その時は言えなかった言葉が今は。
「…大好きッス」
「私もだ」
二人は寝室へと向かった。
やりきれない夜はミルクの香りに満たされて消える。やがてミルクの香りに二人の寝息が加わった。





※イトノコさんの中では検事のミッちゃんは雲の上の人なんだろうかとか

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