管弦楽が静かに流れる執務室。御剣は書類にペンを走らせ、キーボードを叩き、またペンを握る。
そこに聞こえてくる重い足音。
御剣の口には笑みが浮かび、彼はペンを置く。
「どうぞ」
ノックに答えた御剣が立ち上がる。ドアを開けて糸鋸が姿を現した。
「検事。調子はどうッスか」
「ああ、今日は一日ここで終わりそうだ。そろそろ休憩にしようと思っていたんだが、キミも付き合わないか?」
「イヤ、それが」
残念な顔を隠さずに糸鋸は御剣の横にやってくる。
「今からちょっと出ないといけなくなったッス」
「そうか」
御剣が肩を落とす。
「む?では何故ここに」
「その…」
頭を掻きながら糸鋸は御剣を見つめる。
「今日は何時に終わるッス?」
「そうだな。このペースなら六時前には片が付くだろう」
「終わったら今日は自分の…部屋に来ないッスか?」
「キミの部屋?」
「ウチで…」
来て欲しい一心で準備したはいいが、自分のアパートに来てもらったところで何がある訳でもない事に誘ってから気づく。口ごもった糸鋸に御剣が微笑んだ。
「喜んで」
「良かったッス!」
ほっとした糸鋸の顔に明るい笑みが浮かぶ。
「戻ったら連絡するッス。迎えに行くッスから。自分の行き付けの居酒屋で申し訳ねッスけど、ご馳走させていただくッス!」
「ああ」
「じゃ、じゃあ、行ってくるッス!」
顔を赤くしてそそくさと出て行こうとする糸鋸に御剣が声を掛ける。
「刑事!」
「ハイッス!」
「…気を付けて」
照れながら大きく頷いた糸鋸が踵を返し、出て行った。
微かに残るタバコの匂い。
御剣はまた座るとティーセットを眺める。隣には、最近話題の店の看板メニューのシュークリームの箱。
今朝から楽しみにしていたお茶の時間はつぶれてしまったが。
「おみやげだな」
電話で済む用事だ。だが糸鋸にとってそれは直に言わなくてはならない大切な事だったのだろう。
それに気づいた御剣の胸に温かいものが満ちる。
御剣はデスクに向き直り、再びペンを走らせ始めた。

「糸鋸刑事は」
「あ、御剣検事!えー…まだ戻られてないようです」
糸鋸の誘いが余程力になったのか、随分早く仕事を片付けてしまった御剣は、気がつくと署に来てしまっていた。
「では戻ったら御剣に連絡を入れて欲しいと伝えてもらえるだろうか」
「はっ!」
元気な彼の返事に気づいた顔見知りの刑事がやってくる。
「御剣検事。お疲れ様です。どうした?お前何かしでかしたか」
「いえ。糸鋸刑事に伝言を言付かりました」
「イトノコか。…呼び出しますか?」
「急ぎではないので。戻ったらで結構」
努めてにこやかに御剣は返事をする。軽い会釈をして出て行こうとした御剣に、刑事が声を掛ける。
「そうそう、最近イトノコの奴、変わったと思いませんか?」
「イヤ…特には」
「今、御剣検事の担当には奴のは入ってませんか?物凄い仕事ぶりですよ。この何日かで何度も点を稼いでる」
「それは頼もしい」
「本人は御剣検事のお陰と言ってましたがあの突然の変わり様」
刑事が鼻を鳴らす。
「アイツ、恋人でも出来たんじゃないですかね」
「それは良かった」
そろそろ居心地が悪くなってくる。
「もっぱらの噂ですよ。なにしろ朝帰りしてからですからね。検事も今度ヤツがヘマをしたら、からかってやって下さい」
そう言うと刑事は自分のデスクへ戻って行った。
思わず洩れた安堵のため息を聞かれないように、御剣は刑事課をあとにした。


喫煙所に入ると、御剣は先程買ったタバコを取り出した。
ぎこちない手つきで火をつけてみる。
早速少しむせた。
時折糸鋸から漂うその匂いに包まれて、御剣はそっと目を閉じそれを味わう。
部屋に灰皿を置いたらどうだろう。喜んでくれるのではないだろうか。だが、私がこうしてタバコを吹かしているのを見たら…
思いを馳せていた御剣の耳に届く靴音。物凄い勢いで開かれた喫煙所のドア。そして。
「検事!それ…何してるッスか!」
ああ。本当に叱られた。携帯電話を握りしめ、血相を変えて飛び込んで来た糸鋸の慌て様に御剣は肩をすくめる。
「笑ってないで!消して下さい!」
灰皿を指す糸鋸に首を振り、御剣はタバコを差し出した。
「一口だけだ。残りはキミに」
「えーと…」
受け取ってきょとんとしている糸鋸の肩をとん、と叩く。
「お疲れ様」
「検事?」
「仕事は終わったのだろう?なら一服して行きたまえ」
「はい…」
よく分からない顔で糸鋸はそのタバコをくわえる。そして気がついた。
「そう言えばどうしてここに?迎えに行くって言ったじゃないッスか」
「早くキミの顔が見たかった。待ちきれなかったんだ」
御剣は長椅子に腰掛けて糸鋸の吐く煙の行方を眺める。
みるみる糸鋸の顔が赤くなる。
灰をこぼしそうになって、慌ててタバコを持った手を灰皿に伸ばした。
「キミがいないのが寂しくなって、気づいたら買っていた」
ポケットから取り出したタバコの箱を御剣は弄ぶ。
「だからって、ダメッスよ」
「美味いか?」
「そりゃ、まあ…」
「私には美味さは分からないが、キミの楽しみなら私だって」
首を傾げて呟く御剣。
「だから…いいだろう?」
糸鋸が肩を落とす。深く煙を吸い込むと、御剣に返した。
「ワルい遊びしてる気分ッスね」
「フ」
軽いキスのようにタバコをくわえる御剣に、糸鋸は降参して頭をかいた。



「キミに恋人が出来たと聞いた」
「あー、やっぱりみんなおしゃべりッス」
「キミが言ったのか?」
「自分は何も言ってないッス。ただ…」
「ただ?」
「長引くと会える時間が無くなるじゃないッスか。だから頑張ってるッスよ。それを周りが」
「初めてキミの家に招待された私が、あっという間に仕事を終わらせて署にまで行ってしまったように?」
驚いて振り返る糸鋸。御剣は澄ました顔で前を見ている。
「…」
ずっと憧れていた御剣検事。彼は今自分の車の助手席で、何かカワイイ事を言っている。
いや、自分が知っていたのはあくまでも御剣検事。頭が良くて、冷徹で、凛とした立ち居振る舞いで罪を追及していく。
そして今自分がエスコートしているのは御剣怜侍。彼は…
「マズい」
突然慌てた声を出した御剣を、糸鋸がまた振り返る。
「着替えも何も持って来てない…!」
「何もって、じゃあその袋はなんスか?」
「…シュークリームだ…」
顔面蒼白の御剣に糸鋸が吹き出した。
「大丈夫、ちゃんと用意したッスよ…っても下着くらいッスけど」
焦る御剣に糸鋸は畳み掛ける。
「でも家に来たら服着る暇なんかあげないッスよ?」
「なっ…!」
「ジョークッス」
今度は真っ赤になってわなわな震えている御剣をよそに、糸鋸はゆっくりと車を走らせる。
「今日は気を遣わないでのんびりしてて欲しいッス」
恥ずかしがりやでカワイくて。そして澄ました顔の下に隠した甘ったるい程の優しさを、惜しみなく自分に注いでくれる。彼は自分の…
「大事な宝物ッスから」





※そして本棚に紅茶やチェスの入門書の類を見つけて驚くミッちゃん

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