先の見えない捜査だった。
どんな小さな手がかりでもいい。糸鋸はその目が見逃したものが無いかともう一度地面に這いつくばった。その時。
遠く聞こえて来る救急車のサイレン。
思わず立ち上がった糸鋸の目の前を、猛スピードで救急車が走り過ぎた。
その眉がゆっくりと寄せられる。彼は腰に手を伸ばし、携帯電話を取り出すと険しい顔のまま、一度ボタンを押して耳に当てた。
『御剣だ』
「今どちらッスか!?」
『何事だ』
「どこにいるッス!」
『大ホールだ。昨日伝えたと思ったが。公会堂の、』
「ご無事ッスか!?」
『問題無い』
「良かったッス…そこにウチの誰か、いないッスか!?代わって欲しいッス」
『私だけだが』
「なんスと…ッ!すぐ、今すぐ検事局へ戻って下さい!」
『何故だ』
「どうしてもッス!」
『まだ途中だ』
「それは自分達の仕事ッス!」
『キミ達の邪魔をするつもりは無い。現に捜査はとっくに終了しているが』
「そんな事言ってるんじゃないッス!何で分からないッスか!」
『何がだね』
「何って、」
糸鋸の唇が怒りに震え出す。自分は何を言っているのだろう。そして御剣の疑問はもっともで…
「ぅ、うおおおおッ!」
「!おいイトノコ、どこに…」
突然叫んでパトカーに乗り込み、エンジンを掛けた糸鋸に気づいた刑事が慌てて走って来る。
ミラーに写ったその姿を糸鋸は無視して、そのまま発進させる。
大切な人を心配する。それだけの、当たり前の事。
この目で無事を確認したい。早くこの不安を消してしまいたい。糸鋸の頭にはそれだけしか無かった。
捜査は難航していた。
未だに容疑者の絞り込みも出来ない。
糸鋸は焦っていた。
これまでに殺害された五人の被害者。彼らには共通点があった。
長身、中肉。整った容姿の、二十代前半の男性。
当ての無い捜査に行き詰まり、ホワイトボードに貼られた被害者達の写真を見る度糸鋸は唸る。
(御剣検事…)
御剣がそれら被害者の特徴を備えているのは明らかだった。
勿論周りは誰一人被害者から御剣を連想したりはしなかった。糸鋸も、誰にも言わずにいた。
検事局と自宅を往復する御剣が巻き込まれる可能性は低い。だがゼロではない。
糸鋸の頭からはその懸念が離れなかった。
何より、糸鋸は御剣が折りに触れて担当した事件現場に足を運ぶのを知っている。そこを狙われたら…
御剣がこの捜査を指揮してくれていたら。そうすればどんなにうるさがられようが、そばを離れなかっただろう。
「御剣検事…ッ!」
市公会堂大ホール。扉が音を立てて開かれ、糸鋸は舞台の上の御剣の下へ駆け寄った。無事だった。彼の体中に安堵が広がり、糸鋸はゆっくりと息を吐いた。
もう一度、確かめるように舞台の上に目をやる。目を閉じ腕組みをして思案している御剣が間違いなくそこにいる。
舞台と客席を照らす仄かな照明が、御剣の髪に跳ね返る。
薄暗い中でも浮かび上がるような存在感が糸鋸のため息を誘う。
振り返った御剣が口を開いた。
「そちらの目処は立ったのか」
肩を揺すって息を荒くしている糸鋸に、御剣が眉をひそめた。
「イヤ、まだッス」
「なら何故ここに。言った通りこちらの捜査は終了している。キミの事件はおろか、他の事件との関連も一切無い」
迷ったが、今は他に誰もいない。糸鋸は正直になる事にした。
何とか呼吸を整え、両手を舞台に身を乗り出す。
「検事が…心配で」
「ム?」
「まだ逮捕出来ないッス…どこにホシが現れるか見当も付かなくて。だから、もしここにヤツが来たら、」
「私が被害者になり得る。キミはそう思ったと言うのか」
無言で糸鋸はうなずいた。俯いて身を縮め、御剣の嫌味を待つ。
「…馬鹿者」
ホールに静かに反響する御剣の呟き。驚いて糸鋸は顔を上げる。背を向けて御剣は言い捨てた。
「キミの見立て通りならば、犯人が現れるまで私を一人にしておかなければ意味が無いではないか」
え、意味…?
首を傾げた糸鋸。だが次の瞬間、その答えが閃く。
…!それは、そんな!
「何言うッス!」
我を忘れて糸鋸は舞台に飛び上がり、そして御剣の両肩に掴みかかり、振り向かせた。
「そんな事をさせる訳が無い!」
ホールに轟く自分の怒声にハッとした糸鋸は、スーツを破かんばかりに掴んでいたその手を離した。
俯いて顔を背け、その前髪の下に隠れそうな御剣の冷たい笑みは、その激しい怒りにも揺るがない。
「キミこそどうかしている。私を囮にしたところで犯人が誘き出せるものか」
「させないと言ってるッス!」
その顔に怒りを滲ませたまま、糸鋸は口を開く。震える体を、声を必死に抑える。
「…自分はいつもズレてるッスが、これは間違いないッス。ホシが検事を見つけたら、ヤツは絶対狙うッス。
ヤツのエモノは、スマートで綺麗な顔をした若い男ッス」
御剣の口に浮かんでいた皮肉な笑みが消えた。
「私がそうだと?」
また無言で糸鋸はうなずいた。
目に焼きついている被害者のファイル。そこに写っていた魅力的な青年達。
自分が御剣に感じるものと同じ欲望を、犯人は彼らに覚え、それを満たそうと暴行し殺害したのだ。
その目に宿る確信に初めて御剣がたじろいだように見えた。
一度大きく息を吐き、糸鋸はかぶりを振った。
「ヤツが検事に目をつける前に、絶対にしょっぴいてやるッス。だから…だからそれまではどうか…」
「糸鋸刑事。キミは、」
激昂し、懇願した糸鋸に御剣は顔色を変えずに呟く。
「それを伝えるためだけにここに来たのだな」
真っ直ぐ御剣を見つめる糸鋸の目が御剣の言葉を肯定する。
「それも現場を放って、だな。…何があった」
「う…その」
本来あるまじき事をしでかした事をやっと思い出した糸鋸が叱責を覚悟して青冷める。
「…現場を救急車が通ったッス」
何かを言いかけたように小さく開いた御剣の唇。揺らぐ瞳。しかしすぐにその唇は引き結ばれ、瞳は伏せられる。
「…分かった。注意しよう」
御剣の同意に胸を撫で下ろした糸鋸。だが次の瞬間気づいた事実に思わず目を反らした。
目の前にいる気高く美しいこの人に、自分が抱く想い。
その感情は、自分が追っている容疑者が持つものと根本は一緒ではないのか。
御剣怜侍を愛している。その感情に糸鋸は初めて疑問を抱いた。
そんな風に見てはいけないのではないだろうか。この人を求めるなど許されないのではないか。
自分は誰か、どこにでもいるような普通の人を愛するべきではないのだろうか。
法廷の王子と揶揄される天才。その彼に口づけするのを許されるのは、その天才に相応しい力を持つ者だけではないのか。
自分はどうだろう。
いいとこ、お付きくらいッス…ね。
いつもと同じ結論。それはいつもとは違い残酷に心に響く。だが、糸鋸はこの愛を全うする術を他に知らなかった。
「見たまえ」
再び糸鋸から体を背け、御剣は遺体のあった場所を見つめる。
「…どんなに苦しかっただろうか」
現場に残る捜査の跡。糸鋸も神妙な顔でそばに控える。
「役者の幽霊の仕業だと…馬鹿馬鹿しいッ」
吐き捨てた御剣。糸鋸がその顔を見ると、御剣は眉間の皺も深く憤っている。
「これは殺人だ。紛れも無く、生きた人間の仕業なのだ」
目の前の罪を切り裂くように御剣の腕が払われた。
「明日の法廷。必ずや被告の有罪を立証してみせる。完璧にだ」
静かにうなずいた糸鋸に振り返った御剣の顔が、ほんの少し哀しみを滲ませたように見えた。
人が人を殺す。動物とは決定的に異なるその行為。
その現場を捜査し、犯人を挙げる。その為に自分達が存在する。その事自体に疑いは無い。
だが、それらに触れている事で、自らの内に澱のように淀んでいくものがある。
人間そのものへの不信。
善良さ、自己犠牲、そして愛。
無残な死体を前にすると、それらがまるで絵空事のように感じられる。
明るい未来を描いていたその人々をそのような目に遭わせたのもまた、同じ人間なのだ。
だが。
その淀みをまるで奔流のように洗い流す美しい論理。
「検事…」
「ム?」
この世にただ一人。完璧な正義が彼の前に佇む。
人の形をした究極の純粋。
「自分は…自分が刑事でいられるのは…検事がいてくれるからッス」
御剣の目に浮かぶ単純な疑問。
「そうは思わない。私のキミ達に対する評価は決して甘くない。私が扱う事件の捜査を出来れば避けたいはずだ。
無論検事は私だけではない。キミが刑事であるのはキミ自身の能力に対する我々の評価の結果だ。
今回キミが担当している事件でもそうだ。担当になる検事の納得のいく捜査がきっと出来るだろう。自信を持ちたまえ」
「…それでも御剣検事と組みたかったッス」
「フ。私と組んでも査定は上がらないぞ」
そんな人間が自分の前に現れたのは、天の配剤ではないのだろうか。
絶望に渇く度、その内を満たしてゆく。諦めに震える度、その翼が暖かくその身をくるむ。
それ無しでは刑事、糸鋸圭介はとうに渇き、凍えて死んでいた。
「自分の為ッスから」
「…殊勝な事だ」
自分の言葉を苦労を買ってでもすると受け止めたらしい御剣の瞳が閉じる。
例え従者でしかなくても構わない。こうしてそばに置いてもらえるのなら。
「…ところで先程から聞こえるのは、キミの携帯のバイブではないのか」
「う、そうッス。現場放ってきちまったッスから…」
「貸せ。私が出る」
「え、でも」
「貸せ!」
「ハッ!」
語気を荒げた御剣に糸鋸は反射的に携帯を渡した。得意げな笑みを横目に、御剣は電話を取る。
「御剣だ。…うム、そうだ。…急を要する事で。おかげで間に合った。…イヤ、感謝する。迷惑をお掛けした。…そうだな。ではお願いする」
通話を終え、無表情に御剣は電話を返した。
「あの、すみません…」
「…戻ってからの捜査に支障を来さぬ為だ。残りの時間を彼の文句で終わらされては、これほど無駄な事も無いだろう」
暖かい。
冷酷な笑みが顔に張り付いている御剣の言葉の一つ一つが。
どうしてそれを失えるだろう。
「終わったら、検事局に顔を出したまえ」
「でもその、いつ終わるか」
「構わない。キミが来るまで帰りはしない」
「そ、そんな、」
「良い報告を期待している」
「ハッ!」
「だが今日明日でなんとかなるものでも無かろう。ただ、そう…そうだ」
腕組みをした御剣が、眉間にシワを寄せ、思案している。
「新しいブレンドについてキミの意見を聞きたいのだ」
「ブレンド…」
「後で説明する。早く現場に戻りたまえ。時間が無くなってしまう。
…それとも手柄をみすみす失っても良いのか?」
「ハ…ハッ!」
「一つ確認して欲しい」
敬礼する糸鋸に御剣は腕を組んで目を閉じる。
「現場付近には誘蛾灯があるのではないだろうか。もしこの推理が正しければ、そこから現場までの間に何らかの痕跡が残されているかも知れない」
検事はこのヤマについても情報を集めていたッス…?
そんなはずはない。御剣はこの公会堂の事件にかかりきりで、今日ここにいるのは公判の準備がようやく終わったからのはずだ。
自分が話したのは、世間話にもならないくらいの捜査状況。それだけの情報からどう推理出来たのか。
静かにうなずかれ、あんぐりと口を開けていた糸鋸は慌ててその口元を引き締め、
「了解!」
と再び敬礼した。
駐車場に着いた。
背を向けたままの御剣。その背に一礼して糸鋸はパトカーに乗り込んで目を光らせる。
御剣が自分の車を走らせたのを見送り、周囲に不審な動きの無い事をもう一度確認し、エンジンをかける。
御剣は、また魔法でも使うように自分の荒れた心を宥めた。
自分のこの不安を知って、そばにいる理由を作ってくれた。
冷たい男と誰もが言う。自分もそう思っていた。
証拠品にも証人にも一切の妥協を許さず、揺るぎない立証を操る天才検事。
その融通の利かない潔癖さに嫌味も込めて、法廷の王子と呼ばれる事もある。
だがその冷酷な王子には自分しか知らない心の奥がある。
そこにあるのはどこまでも温かく、あまねく与えられる神の恩寵にも似た眩く光る魂。
今夜執務室に行けば、デスクの向こうで振り返る、その温もりを湛えた瞳を向けてもらえる。
真っ直ぐなその瞳に、自分だけを映してもらえる。
糸鋸は気づいた。まだ見ぬ犯人と自分との決定的な違い。
御剣の美しい顔や体だけに惹かれているのではない。
どんな時も己に厳しく、人には思いやりの深い、綺麗なその心に惚れたのだ。
「…待たせはしないッスから」
そう呟いた糸鋸はギアを入れ、颯爽とハンドルを切った。