「被告人……イヤ。今はもう受刑者か。おめでとう、糸鋸刑事。キミの執念の捜査の賜物だな」
「検事がくれたヒントのおかげッス。あれで捜査が大きく進展したッスから」
結審を知らせてきた糸鋸の、ここ最近で一番の笑顔に御剣の口元が微かにほころぶ。
被疑者確保の一言のメール。味気ない文面からでも糸鋸の喜びが伝わって来た事を御剣は思い出す。その後、自分の手で手錠を掛ける事が出来た、とやはり弾む声で電話を掛けて来た事も。
穏やかな夕闇。その夕闇を背に御剣はデスクを立ち、自信満々に胸を張る糸鋸のそばに寄った。一昨日の犯人逮捕まで、糸鋸は毎晩御剣を家まで送り届けていた。御剣は検事局からの僅かな時間を糸鋸の隣で過ごし、幾度か夕食を共にした。それがまるで夢の様だと思ってそして、御剣は恐怖に戦いた。その矢先の被疑者確保だった。
落胆と同時に安堵した。数日ぶりに一人で部屋に戻り、いつもより長いバスタイムで乱雑な想いを空にし、ワインに酔って上書きしようと試みた。
俯き、髪からしたたり落ちる滴が水面に波紋を作るのを眺める。その波紋の中に糸鋸の顔が浮ぶ。いっそ捕まらなければ。事件が迷宮入りしてしまっていたら。糸鋸はいつまで自分をここまで送っていただろう。そんな事を思う自分に腹を立て、逃げるようにバスルームを出た。彼の杞憂に御剣は呆れていた。職務よりも自分を優先する態度に苛々した。だが何より呆れ、苛立つのはこの部屋に招こうとまでしていた自分自身の彼への思慕だった。どんな理由であれ、糸鋸が自分を気遣ってくれる事は本当は幸せだ。ボトルが空になって御剣はようやくその事実を認めた。
そして今、検事、御剣怜侍は戻っているはずだ。それを確かめるべく御剣は糸鋸に向き直った。
――私は検事。御剣怜侍。目の前にいるのは部下の糸鋸刑事。部下の、刑事……
糸鋸を前にした自分に何の変化も起きない事を確認し、御剣は満足げに薄い笑みを浮かべて口を開いた。
「詳しい報告が上がったら知らせてもらえるだろうか」
「ハァ……」
「興味深い事件だ。今後のプロファイリングの参考にしたい」
「プロファイリング……さすが御剣検事は勉強熱心ッス。なるべく早くお知らせするッス」
糸鋸の表情が曇る。腕を組み、瞳を伏せて頷く御剣は気づかないまま言った。
「キミの刑事としての勘には及ばないだろうがな」
「え?」
「その手口などから導かれる犯人像の予測が本来のプロファイリングだが、キミは犯人自身ではなくその被害者像を予測して私に知らせてきた」
「あー、相変わらずそそっかしくてすまねッス。結局検事とは全然かすりも」
「本当だな」
「は? あ、あの、」
口の端に皮肉な笑みを浮かべて自分を横目で眺める御剣に、糸鋸は焦りを隠せずに目を白黒する。
「被疑者の自宅から押収されたパソコン。その中から標的としてリストアップされた、被害者を含む十数人の情報が見つかった。私に関する情報も含まれていたと既に聞いている」
「ムグ」
遅かった。糸鋸は御剣を無闇にかき乱すだろうその事実が伝わるのを防げなかった自分を恨み、拳を握り締めた。
「ま、まさか検事に事情聴取が、」
「そうではない。きっとキミは私に不快な思いをさせまいと黙っているだろうから、と知らせてくれた者がいるのだ。捜査班の誰も気づかなかった私への犯行の可能性。それをいち早く看破したキミの働きを評価して欲しいと」
御剣はそっと目を伏せ居住まいを正すと、しっかりとした眼差しを糸鋸に向けた。検事として。目の前にいる自分の心を捕らえて離さないこの刑事の上役として。今言うべき言葉を掛けようと。
「感謝する」
「え! あの、イヤ、そんな大した事自分は、」
顔を俯けて目礼する御剣に糸鋸は驚き、そして真っ赤になりながらしどろもどろに言葉を返す。御剣から感謝の言葉をもらえるのは天にも昇る思いだが、後ろめたさがじわりと滲んでくる。
「キミは連続殺人犯を逮捕した。動機は?」
御剣の何気無い呟きに、糸鋸は固まった。恐る恐る目をやると、案の定御剣と目が合う。
御剣が事件をなぞろうとしている。このまま行くと、不快な思いをさせるのは他ならぬ自分になってしまう。そして何より、この犯行には糸鋸の秘めた想いを想起させる部分がある。
刑事の勘。そう御剣は言う。だが被害者を見て糸鋸が御剣を思い浮かべたのは、写真の彼らの中に少なからず魅力的に見えた者がいたという事もあるのだ。
「……欲望を満たしかった。という事だったッス」
「……」
「その、死んだ人は生き返らないッス。それでもこれ以上ガイシャが増えないと思えば、自分の仕事も無意味じゃないッス」
「キミの仕事が無意味だなどと思った事など無い、そうではなく、」
「それに検事が危ない目に遭わなくて本当に良かった……ッス」
御剣を遮るという慣れない行為に糸鋸は顔を背けた。御剣に対して抱く想いも相まって、逃げ出したくなる。
「被告人は男性。ならば、つまり同性愛者なのだな」
「……そうらしいッス」
ついに来た。御剣の呟きはいつもの確認と変わらない。しかし糸鋸にとっては想像以上の苦しみとなって流れ込む。侮蔑を隠さない御剣の表情。糸鋸のこめかみを冷や汗が伝う。
捜査をしていた糸鋸には初めから分かっていた事だ。どの遺体にも紛れも無い、男性からの性的暴行を受けた事を示す痕跡があった。
御剣にその身の危険を伝えた時、糸鋸はどうしてもそれを言えなかった。潔癖な御剣の嫌悪感も露わなこの表情。それを見たくなかったからだ。
だが、もう逃げない。糸鋸は静かに顔を上げる。御剣を想うこの気持ちに恥じる事など何も無い。
その決意とは裏腹に、糸鋸は犯人を憎んだ。これほど憎いと思った犯人は初めてだった。彼はその欲望を何の躊躇も無く満たし、あまつさえ命まで奪った。その行為は自分が抱く想いを激しく穢した。何よりそれ自体が罪だと御剣に印象づけてしまった。
そんな糸鋸を前に、嫌悪感も露わに御剣は自分を掻き抱いていた。ロジックで上書きしたはずの想いが浮かび上がろうとするのを彼は必死に抑える。しかし翻弄されながらも御剣は再び、検事である己を取り戻す事に成功した。
「罪深い事だ。同性を性の対象とするとはな」
とどめの一撃が御剣の唇から放たれた。御剣の反応は糸鋸の予想と寸分違わなかった。
「そうは思わないか、糸鋸刑事」
「……異議ありッス」
糸鋸は初めて御剣の言葉に、自分の全てとも言える人間の言葉に逆らった。
低く、静かに、しかしはっきりと響いた糸鋸の呟き。何とか組まれていた御剣の腕。後は結論を残すのみだった彼のロジックは粉々となり、そのショックに打たれた様に身体が跳ねた。
「好きになるのがオトコとかオンナとか、そんなの関係ないッス」
糸鋸が顔を上げる。呆気に取られた御剣が真剣な眼差しに力無く後ずさり、デスクに手をついた。
「オトコを好きになるオトコだって、いるッス。ついこないだもそういう二人がケッコンしたってニュースが」
「そ、そんなニュースなど知らないッ!」
顔を真っ赤にして激高する御剣に詰め寄るように、糸鋸は前に一歩踏み出した。
「それは悪い事じゃないッス」
「糸鋸刑事、キミが、キミが捕らえたオトコはそういう、」
「自分がヤツを逮捕したのは、ヤツが何件もの殺人を犯した犯罪者だからッス。それだけッス」
――言えた――
この事件を追う間。御剣を想う度に考えていた事。漠然と感じていた事が、今ははっきりとした言葉となって、糸鋸の中にある。この事件がきっかけとなって組み上げられたロジックだった。
御剣が罪を憎むが故に、犯罪に強い影響を与えかねない退廃や不道徳を嫌うのを無論糸鋸は知っている。御剣の意に添いたい。だがその御剣を諦める事もまた出来ない。その背反に苦しむ糸鋸についに答えを与えたのがこの事件だった。
糸鋸は今にも崩れそうな御剣の両肩に手を伸ばし、そっと彼を引き起こすと撫で下ろすようにその手を離した。ともすれば抱きしめてしまいたくなる気持ちを抑え、腕を組んで眉を寄せ、想いを隠した。
混じりけの無い正義を体現する美しい人。彼に受け入れてもらえればどんなに幸せだろう。御剣を送る車のハンドルを握りながら、何度そう思ったか分からない。
手を触れた御剣の体は震えていた。愛しい人をそんな風に追い詰めるつもりはなかったが、どうしてもこれだけは、自分の想いだけは否定されたくなかった。
「私には」
かぶりを振る御剣の顔にはとまどいが滲む。思わぬ糸鋸の抗議に驚きを隠せない。
「許されない事だ。倫理に反して生きるなどッ……!」
「自分だって好きな人が欲しいキモチはあるッス。けど、大事なのは自分よりまず、相手のキモチッス。ヤツにはそういう心が決定的に欠けていたッス」
「見たまえ。キミとて分かっているではないか。同性から愛など得られるはずがない。それが道理だ。それを得られないからと殺すなどと、」
「異性なら上手く行くってモンじゃないッス」
真っ直ぐな糸鋸の視線を浴びせられる御剣の口調は、言葉そのものが持つ強さに反してどんどん弱々しくなっていく。
「とにかく、有罪、だ。私は、被告人全てを有罪に、す、る……」
「それにヤツが欲しかったのはアイなんかじゃないッス」
御剣が震えているのを見咎めた糸鋸が首を横に振り、そっと言い聞かせる。
「力ずくで犯して殺して。アイツはそれ自体が快感で、被害者の事なんか自分の快楽の道具としか思っていなかったッス。次々に犯行を重ねたのがその何よりのショーコッス」
――だからどうか、この想いを罪深いなんてそんな事、言わないで下さい――
まるで激しい揺れに怯えた時の様に焦点が合わなくなった御剣の瞳に気がついた糸鋸の胸が痛む。崩れそうな御剣の腕を掴み、支えようとした。
「……愛してるなら全てを賭けて守るモンッス」
今度は自分に言い聞かせる様に糸鋸は呟く。倒れ込みそうになった御剣が、はっと気がついて糸鋸の胸を突き飛ばして離れ、顔を上げた。
その態度に反し、御剣の顔には怒りではなく哀しみが色濃く貼りついている。息をするのも苦しいのか、胸に拳を押し当てて、必死に呼吸をしようとしている。
直接ではないにしろ、犯人はこうして御剣を傷つける。だからこそ犯人に関する詳細は伝えたくなかった。そして糸鋸の危惧した通り、御剣を余計に苦しめてしまった。それでも。
「甘い、な。糸鋸、刑事。その甘さがいつか、命取りに……なる」
「たとえサイアクな目に遭ったとしても、愛した結果なら自分は後悔しないッス。だからこれからもあんなヤツらは絶対逃がさないッス。……御剣検事、」
それでも目の前に儚く佇む純粋を愛して止まない。いつか彼がその純粋に相応しい愛を手に入れるまで。もしかすると手に入れてもなお、自分は御剣怜侍を愛し続けるだろう。まるで従者の様に付き従って彼を守り続けるだろう。糸鋸は苦しむ御剣を前に目を閉じ、その心でしっかりと抱きしめる。
「そんな人の皮をかぶったケダモノ共を完璧に有罪にして欲しいッス」
「……」
二人はうつむき、無言で、この混乱に身を任せ、分かち合う。
デスクの秒針だけが無関係に時を刻んでいた。
無言の内に執務室を後にした二人は、どちらともなく顔を合わせた。
「……いずれにせよ事件は解決したのだ。礼はしたい」
口火を切ったのは御剣だった。
「じゃあ聞いてもらえるッスか」
おずおずと糸鋸が答える。いつもなら、当然の事をしたまで、などと御剣の申し出を固辞する糸鋸の素直な返事に御剣は少し驚いたが、先刻までの反論の数々に翻弄されっぱなしだった御剣は少しほっとして頷く。
「ああ」
「もう、一人で帰っても大丈夫ッス。けど、今日もお送りさせて欲しいッス」
「分かった」
「で、今夜は検事に感謝を込めてご馳走させて頂きたいッス」
「それは駄目だ」
「あ、あの、どうして」
「……こんなに早く解決するとは思っていなかった」
腕組みをした御剣は、糸鋸に背を向けてゆっくりと歩き出した。
「そうッス。検事の推理通りで、そこからとんとん拍子に犯人につながって。今までごちそうになったみたいな豪勢な食事はムリッスけど、でも、」
「まだしばらくはキミが送ってくれるものと思っていた。ちなみに今日はケータリングを頼んである」
「ケータ……?」
首を傾げた糸鋸に御剣が振り向く。
「つまり、私の部屋に二人分の夕食が用意してあるのだ。キャンセルはしていない」
「あ」
「だからキミが来てくれなければムダになってしまう。構わないな?」
糸鋸は立ち止まり、うつむいた。随分心労を掛けた御剣を少しでも慰めたい。そしてそれを今までほんの少しでも親密に過ごせた時間の締めくくりにしたかった。なのに御剣は、糸鋸のそんな気持ちを先回りするように、自分を労おうとする。
先に立とうとしていた御剣が気がついてもう一度振り返った。
「イヤ、勿論キミがすぐに帰りたいなら……引き止めはしない。持ち帰るようにしてもらうまでで、」
「そんな事無いッス!だって今夜は検事にご馳走したくて、だから、」
「そうだったな。失念していた」
「だから、お邪魔させて頂くッス。是非!」
顔を上げた糸鋸の複雑な表情の奥を読もうとした御剣はだが、答えを出すのは諦めて、
「行こう」
と、また歩き出した。先程までの強い口調でしっかりと意見をぶつけて来た糸鋸は消え失せて、いつもの彼がそこにいた。
糸鋸はいつも逆らわない。検事、御剣にとってそれは何より力になるが、御剣が個人として彼に相対する時、それはいつも恐れを伴った。眉間に皺を寄せる御剣に、糸鋸がおずおずと話し掛ける。
「あの、検事、この間ハト食べさせてくれたッスよね」
「あ、ああ。気に入ったか?」
「あれから道でハト見ると、ちょっと複雑な気持ちになるッス」
「……そうか」
今日、糸鋸ははっきりと意思を表わした。少しずつ御剣の口元に笑みが形作られる。
「今夜のメニューは私も知らない。日本酒に合う料理にして欲しいとだけ言ってある。ジビエだと良いな」
「酒まで用意してくれたッスか?」
「イヤ」
御剣が振り返るとさもあらん、糸鋸がきょとんとした目で御剣を見つめている。
「私には日本酒は分からない。リカーショップに寄るからキミが良いと思うものを選んでくれたまえ」
「! じゃ、じゃあ自分が買うッス! 今夜は自分達二人のお祝いッスから!」
目を輝かせ意気込んだ糸鋸は、廊下に響き渡ったその声に身を縮める。だが御剣はその無作法をいつものように皮肉る事もせず、澄ました顔をほんの少し赤らめて、
「好きにしたまえ」
と呟くと静かにまた歩き出した。
二人のお祝い。自分の言葉に感じ入ってにんまりした糸鋸は、最後の夜が思いがけず良い想い出になりそうだと御剣の美しい背を追い越して隣に並び、顔を背けようとする御剣を覗き込んだ。