上級検事執務室のドアをノックした水鏡。だが返事が無い。約束の時間に間違いはない。
ハンドルに手を掛けるとスムーズに回る。鍵は掛かっていないようだ。
「失礼致します…」
そっとドアを開けて下げていた頭を上げた水鏡の目に飛び込んだのは。
執務室のソファーで寄り添っている糸鋸と御剣。
二人が並んでいる事自体はよく見た光景だ。互いにかけがえの無い相棒である事が分かる以心伝心ぶりで事件の核心に迫って行くのが常。そう水鏡は思っている。
だが今日は。
糸鋸の肩に頭をもたせ掛けている御剣。その御剣の頭に自分の頭をもたれる糸鋸。
思わず口に手を当てた水鏡だったが、すぐにその手を下ろして覗こうとする詩紋を目隠しする。
寄り添って眠っている二人。互いの手は優しく握られている。
不躾に見てはいけない、そんな雰囲気にあふれていた。
窓から差し込む光。
二人の足元に零れるその光が与える陰影は一枚の絵画のようで。
もう少しこの美しい時間が続くように、とりあえず水鏡は詩紋を連れ、執務室を後にした。
御剣がデスクに置いた鏡で必死に髪を直している。
その横で水鏡と詩紋に頭を下げる糸鋸の頬には、御剣の髪の跡だろうか、細かなシワが付いていた。
「ちょっと待っててもらえるッスか。…検事、顔洗って来るッスね」
「うム」
出て行く糸鋸を見送った御剣が櫛をしまうと大きく息をつく。
「どうかなさいましたか?」
「お恥ずかしい。うたた寝してしまいました…夢見も悪くて」
「まあ、それは、」
含み笑いをする水鏡。詩紋が斜に構えて尋ねる。
「なあ、どんな夢見たんだ?」
「いけません。御剣検事さま達はお疲れでいらっしゃるのですよ」
「いえ、つまらない夢です。刑事に追いかけられるという」
緩んでいたクラバットを締め直して御剣は立ち上がる。
「検事さまが追いかけられる…どのような罪を犯したのでしょう、検事さまは」
含み笑いのまま水鏡は尋ねる。
御剣検事さまがよそ見などなされば、あの刑事さまはそれはものスゴい勢いで追いかけるのでしょうね。
「いつもの居酒屋で酒を呑んでいただけだったのです。それなのに夢の中の刑事は私のこれを、」
御剣が胸元を指す。
「“スルメッス!”などと叫びながらどこまでも追いかけて」
御剣は自分をかき抱き、身震いする。
あの美しい時間は?
木槌を打つのを必死でこらえながら、水鏡は作り笑いを浮かべる。
そこに、タオルを首に掛けて糸鋸が戻って来た。
「いやー、ウッカリ寝ちまったッスね」
「うム。少し気が緩んだな」
紅茶の用意を始める御剣が手にしているのはそんな頭をすっきりさせたい時に使う茶葉だ。
「今日はお招き頂きありがとうございます。試写が本当に楽しみです」
微笑んだ御剣は綺麗な箱からタルトを取り出して小皿に乗せ、詩紋に手渡した。
「別に、大したことねーし」
「シモン」
「あ!その…御剣検事達には本当に世話になったし」
一度詩紋を睨んだ水鏡は静かに微笑むと、共にソファーに掛けた。
「タルトですか」
「ここのはウマイッスよ。今日の紅茶にピッタリッス」
箱を見た糸鋸が伸びをして首を鳴らす。
「オッサンも寝てた?」
「シモン!」
「そうなんス。自分も検事もシモンくんのプレミアに間に合ってホッとしちゃったッスね」
慌ててたしなめる水鏡に向かって糸鋸は構わない、と手を振ってみせた。
「御剣検事、オッサンに追いかけられる夢見たんだってさ。怖かったらしい」
「え。検事も?」
「刑事もかね」
きょとんとした御剣が紅茶を水鏡と詩紋に手渡した。
「うん。ウマい」
早速タルトを口にした詩紋が子供らしい顔に戻ってニッコリしている。
「オッサンはどんな夢見たんだ?」
詩紋を注意するのは諦めた水鏡が糸鋸を見る。その視線には気づかず一口紅茶を飲んだ糸鋸がすっきりした顔で息をついた。
「怖かったッスよー。いつもの居酒屋で呑んでたら突然検事が自分のヒゲに人差し指突き付けて、“そのもずくを寄越したまえ!”って。
何言っても聞いてくれなくて、終いには来月の給与査定を楽しみにと…」
泣きそうな顔の糸鋸に御剣が口元に拳を当て、笑いをこらえた。
「夢は奥深い願望を見せるという。それほど給与査定を楽しみにしているならば、応えるのにやぶさかではないが…クックッ」
「そんなの楽しみにした事ないッス。そんな事言ったら検事だって」
糸鋸が慌てる。
「何かっていうとついて来るなとか言うッスけど、ホントは追いかけて欲しかったんじゃないッスか?」
「ぐっ!」
御剣が検事バッジを返却した時の事を思い出しながら、水鏡は両手を膝の上に揃え、うなずいている。
「べ、別にそんな訳ではッ。キミの力を借りずとも私一人で十分だと思ったのだ!」
「御剣検事さま」
微笑んで水鏡が口を挟む。そして何故か糸鋸に向き直った。
「あの時の検事さまへの面会。わたくしでは受けて頂けなかったでしょう」
首を傾げる糸鋸に水鏡はうなずく。
「ですから刑事さまのお名前を出したのです。案の定、すぐに面会室に現れた検事さまを拝見して思いました。やはり御剣検事さまにとって糸鋸さまは、」
「や、やめて頂きたい!」
慌てる御剣の顔に、水鏡はその微笑みのまま、詩紋を見やる。詩紋はそんな御剣を、へえ、といった顔で眺めていた。
「それホントッスか、検事…」
紅茶を一息に飲み干した糸鋸の声が感動に震える。
みるみる御剣の頬はそのスーツに負けないほど紅くなった。
「男、糸鋸圭介!刑事冥利に尽きるッス!」
「フフ…あら、」
水鏡の携帯が鳴った。迎えが到着したようだ。
「それでは参りましょう。準備はよろしいですか?」
「ム…完了した」
「今度あんな事があったら、何言われようが離れないッス!」
「それがよろしいですわ」
鼻息も荒く宣言した糸鋸に微笑みかけ、水鏡は立ち上がると詩紋を立たせた。
「御剣検事さまは随分向こう見ずですから、手綱を握る方が必要かと」
「…」
すっかり有頂天になっている糸鋸を御剣は苦い顔で見やる。しばらくは彼の暑苦しい保護者ぶりに熱が入る事だろう。
「さあ検事!」
「うム」
恭しく執務室の扉を開けた糸鋸を御剣は眺め、歩き出す。後ろを嬉々としてついて来る糸鋸。その気配の心地良さ。否定する気は毛頭無い。
これからも糸鋸は無茶をするかも知れない。御剣にはそれが容易に想像出来る。だが本当にそうなったなら、それはつまり御剣が窮地に陥ってしまったという事だ。
自身の無謀は彼を危険に晒してしまう。それがどんなに小さな事でも。
無茶をしないと互いに約束していたのに、あの時自分はそれを破ってしまった。
「…じゃあ自分達はこっちから行くんで、先に行っててもらえるッスか」
水鏡と詩紋に頭を下げて階段に向かおうとする糸鋸の袖を御剣が掴む。
「私達も一緒に降りよう」
「え、その…」
「キミに言われている通りにする。だから頼む、刑事」
その言葉に糸鋸は目を丸くして、後ろに来ている水鏡と詩紋を眺める。
守らせて欲しい。
御剣が糸鋸の願いを受け入れるのは二人でいる時に限られるはずなのに。
到着したエレベーター。
一瞬迷ったが、言われた通り糸鋸は先に乗り込むと御剣に手を差し伸べる。
その腕の中に御剣は収まり、前を向いて糸鋸に背中を預けた。
「その、これはそのようなアレではなく、海より深い事情が、」
慌てて説明を始める糸鋸を振り返って御剣はその言葉を遮った。
「この通り、向こう見ずなつもりはありません」
だが水鏡の顔を見る事は出来ず、うつむいて御剣は呟く。
「手綱を握らせているというより、お縄を頂戴したように見えますわ」
詩紋の肩を抱いて乗り込んできた水鏡は、御剣の腰に廻された糸鋸の両腕をそう評すると、涼しい顔で一階へのボタンを押した。