“見つけたぞ! こいつが決め手だ!”
“わ! まさかそんな所に……センパイにはやっぱりまだまだ追いつけないなあ”
 その日御剣は弓彦を伴い、ある事件現場を訪れていた。到着し、捜査の邪魔にならぬように側にある建物の陰に陣取ったその時、大きく胸を張って声を上げた糸鋸の姿を認め、御剣は見上げる弓彦に満足そうにうなずいて見せた。
 糸鋸が腕を組み、向き直った。集まって来た刑事達が彼を取り囲み、姿勢を正す。
“いいか、ワレワレが探すのは単なる事件の証拠じゃない。そこに隠されているツミ、その痕跡だ! それを忘れるな!”
“ハッ!”
「……見たまえ。彼は実に優秀な刑事だ。私の立証の確かさは、ひとえに彼の捜査が確かであるからだと言える」
「スゴいんだな、デカ刑事」
 心底感心している様子の弓彦。恋人の勇姿を見せる事が出来た事が御剣は誇らしい。今夜は二人、美味しい酒を楽しめそうだと口の端に満足な笑みを浮かべる。
「そうとも。彼らの働きがあって初めて我々は法廷に立てる。それをいつも心に留めておくのだ」
“センパイ、そこ! 足元!”
“え? あ、ネコちゃん。こんなトコにいたらアブナイッスよ〜ってうおおおおォォォッス!”

「あ、転んだぞ」
 子猫によじ登られてまるでおかしな踊りの様に両腕を広げてぐるぐると振り回してバランスを取った甲斐も無く、糸鋸は顔から地面に激突した。あまりの惨劇に御剣は顔を背け、目をつぶる。その目を恐る恐る開くと、糸鋸はまだ地面に伸びたままで、頭に乗った子猫が満足そうにあくびをしたところだった。
「……」
「証拠品泥んこじゃないか」
「……来月の給与査定を楽しみにしてもらう事になりそうだ」
 なぜ、なぜこのタイミングなのだッ!
 思いがけず目の前で展開されたコントに弓彦は目を輝かせ、御剣は憮然として拳を握りしめる。

“センパイ!”
“これは……マズイ……”
“だ、大丈夫ですよこのくらい、自分達が探してるのは単なる証拠じゃなくてツミなんですから! ちょっとドロがついたくらい、”
“ちょっとじゃない! このズボンは、こないだシリを破ったオレを憐れんだ御剣検事殿から頂いたばっかりだ! これがバレたらオレは……もうオシマイだー!”
“センパイ!?”
「あ、逃げた」
「ぬウ……」
「なあ、あのズボン、御剣検事にもらったって」
 せっかくの勇姿をあっけなくぶち壊す糸鋸の才能に拳を握りしめていた御剣は、弓彦の追及に慌てて振り返った。
「う、うム。その、彼が先日シリを破ってしまったのには私にも責任の一端が、」
「刑事のズボンにまで責任持つのか? オレ達って」
「あくまで私個人の責任で、だ。糸鋸刑事は倒れる私をその身で受け止めてくれたのだ。結果、彼のシリには大穴が空いてしまって……」
「御剣検事も転んだのかー」
 嬉しそうな弓彦を横目でにらみ、御剣は口を滑らせた事を後悔しつつ顔を赤らめる。
「厶、誰しもウッカリ転ぶ事もあるだろう」
 先程糸鋸が転んだ時の言葉を棚に上げる御剣を見て、弓彦は糸鋸に少し同情した。
「御剣検事が転んだら、デカ刑事が下敷きになって助けるのはソーゾーつくけどさ」
「そ、そうか」
「けど、そんな事でズボンのシリって破れるんだな。明日、警官達にも注意するように言う!」
「やめてくれたまえ」
 浮かれる弓彦をそれ以上たしなめる元気も無く、御剣はため息をつきつつ、皆が去った現場でキョトンとしている子猫の下に歩んだ。



「センパイ、お疲れ様でした! 報告書ですか? そんなの自分がやりますよ!」
 顔をしかめてペンを握りしめる糸鋸の前にある紙を先刻まで捜査合戦に興じていた刑事が取りあげた。
「あッ!」
「《探さないで下さい。糸鋸》……って何ですかコレー!」
 目も飛び出さんばかりに驚く彼の前で、陰鬱な表情の糸鋸が重々しく口を開く。
「オレはもうオワリだ……短い間だったがオマエ達と捜査が出来た事は忘れんぞ」
「イヤイヤイヤ! 何言ってんスか!」
 表情を変えず、手のひらを向けて制すると、糸鋸は携帯電話を取り出した。
「サラバだ! ……も、モシモシ。今お時間は大丈夫ッス?……実はその、折り入ってお話が……そ、そうッス! ってもうお耳に入ってるなんてさすがッス……本当に申し訳無かったッス。かくなる上はッ!……え? い、今ッスか!? でも今刑事課で、その……うぅ、そんな……だっていつもは外でそういう事するなって言うじゃないッスか……い、イエッ! そんな事無いッス! 滅相も無いッス! ……おい! 耳を塞いで後ろを向け!」
 受話口を手で覆って糸鋸が叫ぶ。目を丸くしながら言われた通り耳を塞ぎ、後ろを向いた。厳しい顔のまま辺りを見回し、他に誰もいない事を確認して、糸鋸は途端に相好を崩し囁いた。
「……センパーイ」
 例によって御剣検事にお小言を言われているらしいのに、今日に限って謝る姿を見せたくないらしいのが不思議で、そっと後ろを振り返ると、先程とは打って変わって晴々した糸鋸が笑顔でうなずき、指でオーケーサインを作ってみせる。それを合図に彼は耳を塞いでいた手を離す。
「じゃあ、いつものミセで。ハッ、了解ッス!」
「センパイ?」
 電話を切った糸鋸は大きく息を吐いて肩を下ろし、体中で安堵している。
「首の皮一枚でつながった……」
「御剣検事殿ですよね?」
「ああ。さっきのオレのポカをご存知だったばかりか、不問に附して下さった……!」
 鬼検事の仏心に感動して打ち震えているらしい糸鋸を見て刑事は正直呆れたが、顔に出ないよう、そっぽを向いて頭をかいた。
「あの、いつものミセって、」
「悪いが今夜は違うぞ。オマエ達はまた今度だ」
「そうですか。まあ無事で何よりでした」
「許しては頂いたが、まだちょっと怒ってた」
 いつもは貫禄たっぷりの糸鋸が、叱られた犬の様にしょんぼりと呟いた事に面食らいながらも、彼は曖昧に頷いた。
「ならせめて自分達からも証拠品に問題無かった事を御剣検事に報告します」
「そっちは確かに問題無かったがズボン……イヤ、これはオレと御剣検事の問題だ。オマエ達は次の事件に向け、余計な事は考えなくていい」
「ハッ!」
 あのセンパイがここまで恐れる御剣検事……現場じゃ冷静で頭脳明晰な人にしか見えないけど、そんなコワイんだろうか。
 そんな事を思う刑事を他所に、糸鋸は深いため息をつきながら、
「どうしたもんッスかねー……」
と呟きつつ、刑事課を後にする。その背に漂うのがいつもの刑事の哀愁ではなく奥さんの大目玉に弱っている旦那衆のそれに見えて、彼は一度瞬きすると握りしめたままだった糸鋸の書き置きを丸めてくずかごに放ると伸びをした。



「来たな。さあ、持って行きたまえ」
「? これ……」
 無造作に綴じられたファイル。そこには立証の流れが簡単な図解と共に書かれ、各証人の投入ポイント、弁護側の論証予測にそれぞれ対応する反証までもが添えられている。
「こ、これじゃズルじゃ、」
「バカな事を。このくらいまとめる事などキミにも造作無い。今回はその手間を省いてやったに過ぎない」
「けど、どうして。いつもまず、『もう一度考えてみたまえ』って言うのに」
「先ほど素晴らしい出来事があったのでね。その幸運のお裾分けとでも思ってくれたまえ」
「へー……」
 デカ刑事の失敗のせいで怒ってると思ったけど、それが吹き飛ぶ様な事があったらしい。
 そう弓彦は頷いてありがたく御剣謹製虎の巻を受け取ると執務室を後にした。廊下に出た途端、ドタドタとやって来た糸鋸に出くわす。
「! デカ刑事」
「あ、一柳検事。ちょうどいいトコロに……御剣検事、どうッス?」
「どうって。別に……」
「その、怒って……ないッス?」
「……ああ! そう言えば久しぶりに唇ブルブルしてるの見た」
 弓彦の髪はピンと伸び、ニヤリとした目が糸鋸に向けられる。
「ヤッパリ……うぅ……」
「アレだろ? 転んでズボンが」
 だが糸鋸のズボンは、履き替えて来たのだろう、シミ一つ無く折り目もきっちりだ。
「アンタまで知ってるッスかッ!?」
「そりゃそうだよ。オレ達今日、」
「やかましいぞ、キミ達」
 ドアを開けて厳しい顔を覗かせた御剣に二人は飛び上がり、
「ゴメンナサイ!」
「ッス!」
 と頭を下げる。
「いつまでも油を売っている場合ではないだろう、一柳検事」
「ハ、ハイッ!」
 尊大に腕を組んでいる御剣の迫力から逃げ出すように弓彦は駆け出してゆく。
「静かにッ!」
「ハイッ!」
「……さて、」
 そろそろと、競歩のように逃げて行く弓彦に御剣はため息をつくと無表情に糸鋸を見やり、顎を軽く上げて中へと促し、執務室へ戻る。
「待ち合わせはここではなかったはずだが」
「……検事、」
 いそいそと後を付いてきた糸鋸が御剣の背中に声を掛ける。ゴクリと唾を飲み込んだ糸鋸を御剣は振り返り、やれやれと肩を竦めた。
「あの、ホントに、スミマセン」
「ちゃんとクリーニングのラックに入れて来たかね」
「ハイ……」
「全く、この世の終わりの様な電話を……私がそのようにキミに思われているのは心外極まりない」
「だって……自分には勿体無いくらい良いモノをあんなに簡単にダメにしてしまって。検事の気持ちまでダメにした気がして」
「異議あり!」
 御剣の指が目の前につきつけられ、糸鋸は飛び上がった。
「私が選ぶモノがキミには勿体ないだと? バカな事を」
 御剣はつきつけた指を下ろし、身を縮めている糸鋸から体を背ける。
「もう一つ、危険と隣り合わせの仕事をしているキミに贈るものに込める気持ち。キミ自身の無事以外何があると思うのだ」
 ブリーフケースに書類を突っ込みながら御剣は続ける。
「どれだけ穴だらけなのだ。こんな事では次の法廷が思いやられる。せっかくイチヤナギくんに私のヒーローの活躍を見せようと思ってわざわざ出向いたというのにキミというオトコは、」
 事の真相をようやく知った糸鋸の顔が上がる。
「……見に来てたッス?」
「もっといまいましい事に私は先程のキミからの電話であっさり有頂天になってしまった。どこまで単純なのだ私は……」
 ブリーフケースの金具を閉じた音に合わせ、御剣はため息をついた。
「面目ないッス」
 恥ずかしげに頭をかく糸鋸の声にいつもの調子が戻って来る。
「穴はスラックスのシリだけにしておく事だ、糸鋸刑事。さて、残念会会場へ向かうとしよう」
 またため息を一つついた御剣が糸鋸を見つめる。そこに浮かんでいる幸福と降伏に糸鋸は頭を下げるふりをして彼の手を取り頬にそっと押し当てて、愛おしさで熱くなる心を満たした。


「そうだ」
 駐車場に向かうエレベーターの中でふと、御剣は糸鋸に向き直った。
「着いたらキミにピアノを聴かせてもらおう」
「え。でも自分そんな、検事みたいに弾けないッスよ」
「本当なら今日のキミの活躍に一曲捧げるはずだったが、残念会に相応しく」
 困り果てる糸鋸を前に斜に構えた御剣の笑みが得意気だ。
「ネコ踏んじゃった、をな」
「あ! あの、踏んでないッス!」
「知っている。もしキミが迷わずネコを踏むようなオトコなら、エレベーターなど乗るものか」
 恥ずかしげに呟いて顔を背けた御剣に糸鋸の顔は真っ赤になった。そんな糸鋸を横目に御剣はまた背を向けて、猫を踏まない男の胸に自分の背中を預けた。

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