「あれ?イチヤナギ検事ッスね。久しぶりッス」
「デカ刑事?何しに来たんだ?」
糸鋸が茶を淹れる御剣の微笑みに迎えられて執務室に入ると、デスク越しに何か話をしていたらしい弓彦が振り返って、きょとんとした顔をした。
「何って、ここは御剣検事の執務室で、自分は検事の一の相棒ッス」
「イチの?」
その言葉に弓彦の目にキラキラと星が飛ぶが、糸鋸は真っ直ぐデスクに向かって荷物を置いた。
「検事、報告まとめてきたッス。で、こっちは桜餅ッス」
「桜餅?ミツルギ検事…それでお茶の用意してたのか?」
「その通り。糸鋸刑事はここのティータイムに合わせて現れる名人なのだよ」
「桜餅の事も分かってたのか?」
「何故だろうか」
「紅茶のポットで煎茶淹れようとしてる…」
「そう。実は今朝、刑事からこちらに来る前に桜餅を買って行くと連絡を受けていた」
「今日の午後はこの資料を御剣検事に渡して終わりだったッスからね。検事が抱えている事件も公判も無し。そういう時はお茶をご馳走になりに来るッスよ」
にっこり笑うと糸鋸は唸りながら伸びをした。うなずいてファイルを閉じた御剣に促され、弓彦はソファーに掛ける。
「で、アンタこそ何してるッス?」
「もう一度自分の力でやり直そうと思って…記録を見てたら、すごく迷った部分があったんだ。それでミツルギ検事に相談したら、もっと詳しい資料を見せてくれるって言ってくれた」
「熱心ッスねー」
「このペースならすぐに私が教える事などなくなるだろうがな」
「おっ、スゴいじゃないスか。御剣検事のお墨付き貰えたッスよ?」
「さあ、お茶にしよう。イチヤナギ検事も飲んでいきたまえ」
ポットから香ばしいお茶が注がれ、静かな御剣の微笑みが糸鋸に向けられる。うなずいた糸鋸はデスクの後ろに回って小皿を取り出し、包みを開けると桜餅を取り分けた。
糸鋸はカップと小皿を小さなトレイに載せて、ソファーで不思議そうにその様子を見ていた弓彦に差し出した。
「御剣検事みたいな最高の検事目指して頑張るッスよ?」
「あ、ありがとう」
「けど、何かというと刑事の給料下げるのはダメッスよ?」
「け、刑事!」
真っ赤になっている御剣。さっきまではあんなに大人に見えた御剣が、自分と同じように憤慨している様子に弓彦は首を傾げる。そういえば。
「なあ」
弓彦が糸鋸を眺めて言った。前から不思議に思っていた事があるのを思い出したのだ。
「どうしたッス?」
「デカ刑事はミツルギ検事がスキなのか?」
「ナ、ナニを言うッスかー!」
今度は糸鋸が真っ赤になって慌てている。だがこの様子は前にも見ていた気がする弓彦は、そのまま続けた。
「だってあの時は…ミカガミとか、みんながいろいろオレの事助けてくれたけど、それはオレが一応検事で、しかもオヤジの顔があったからだろ」
トレイを手に弓彦はうつむく。
「でもデカ刑事はミツルギ検事がバッジ返した時もずっと、一条美雲を助けようとしたミツルギ検事のために捜査してたよな」
「当たり前ッス」
「検事じゃなくなった人間の下で刑事が働くのは当たり前じゃない!前の事件の時だって、担当がオレに移っただけでそうなってたじゃないか」
「ウッ」
指示棒を突きつけられた糸鋸が詰まる。
「つまりミツルギ検事には検事ってだけじゃない何かがある!…よな?」
「そ、それは…うぐぅ…」
バカ息子だとなめていた糸鋸だったが、だてにあの一柳万才の息子ではなかったと糸鋸は冷や汗をかく。
「…検事!お茶もらうッス!」
覚悟を決めた糸鋸はティーカップを掴むと一気に飲み干した。
「聞くッス、イチヤナギ検事!確かに自分は御剣検事が好きッス!世界中の誰よりも大切ッス!だから検事のためなら自分は…何だってするッスよ!」
「やっぱり…じゃ、じゃあどうしてミツルギ検事なんだ?」
推理が的中し、得意になっている弓彦の追及の手は緩まない。デスクの横では御剣が呆気にとられて二人を見つめている。
「じゃあアンタは、どうして検事に相談したッス?」
「えっ?」
「コワい顔してても、いざとなったら絶対助けてくれるって知ってるから。違うッスか!?」
「怖い顔…」
糸鋸の指が弓彦に力強く突きつけられた。御剣が頭を抱えているが、糸鋸は気づかない。
「御剣検事は正義のミカタッス。無茶はするなっていつも言われるッスけど、本当は検事が一番無茶してるッス。いつも自分の事は後回しで人を助けてばかりいて、独りで傷ついても、信じられないようなツラい思いをしても、人を助ける事を諦めない。
そんな人を自分は守りたいと…ずっと守り続けようと決めたッス」
糸鋸の言葉に弓彦の髪がピン、と立った。
「じゃあオレもミツルギ検事みたいになったらデカ刑事みたいな子分が出来るのか?」
「イチヤナギ検事。刑事は子分などではない」
二人の会話の行く末を見守っていた御剣が、さすがに口を挟んだ。
「だって…」
ポカンとしている弓彦に向かって首を振る御剣。弓彦の推理がズレてくれた事にホッとしながらもたしなめる。
「彼の、警察の捜査を私は信頼し、彼らも私達検事を信頼するからこそ任せてくれるのだ」
口を開けて呆けている弓彦に御剣は続ける。
「そしてキミも見た通り、私が苦しんでいる時、彼は真っ先にそれに気づき、そして救おうとしてくれる。真相に近づく私を阻むものから私を守ってくれる。
私にとって彼はただの刑事とは違う。無論子分でもない。彼はヒーローなのだよ」
「え…」
「かつて私はある男に言った。我々はヒーローではない、たかが人間なのだと。
だが糸鋸刑事に教えられた。誰しも誰かのヒーローとなり得る。キミにもいつかキミのヒーローが現れ、キミ自身も誰かのヒーローとなる時が来るだろう」
「オレの、ヒーロー…」
唇を噛んでうつむいた弓彦。かつて彼のヒーローだった父親はもういない。御剣がその肩を叩く。
「そんな人間が必ず現れる。その時信頼を裏切る事の無いように、今は頑張りたまえ」
「…頑張る」
弓彦が顔を上げた。その頬は上気して、目には光が宿っている。
「勉強して、ミツルギ検事みたいに、刑事にスキだって言ってもらえる検事になる…」
弓彦の言葉に二人は微笑み、うなずいた。
「…イチヤナギくんとキミにうっかり乗せられてしまったな」
弓彦が意気揚々と帰った後で、すっかり冷めてしまったお茶を飲みながら御剣は微笑む。
「自分、ヒーローッスか」
「ム…」
率直な御剣の言葉にご満悦の糸鋸をよそに優雅に煎茶をすすって御剣はごまかす。
「キミが恥ずかし気もなく、正義のミカタなどと言うからだ」
「もちろんそうッスけど、ああでも言っておかないとアブなかったッスよ?
ずーっと見ていたいくらいキレイとか、ギュッてしたくなるくらいカワイイとか思ったからって事までウッカリ吐いちまいそうになって焦ったッス。証言台で鍛えられてたおかげで助かったッス」
「確かに私も、キミの胸の中にいたくなるとか、その手で撫でて欲しくなるとかそんな事は言えなかったが」
御剣は空のカップを持ち、恥じらいを隠すようにうつむいてデスクの向こうに立つ。
「ヒーローくらいは言っておきたかった」
「この胸も手も」
一応周りを見渡して糸鋸は囁く。
「預けるのは怜侍クンにだけッス」
デスクに身を乗り出して、茶を淹れ直す御剣の頬を両手で包み込む。
「…その顔は自分だけのものッスよね」
「怖い顔なのだろう?」
「その、」
拗ねて目を伏せる御剣の唇に糸鋸は吸い寄せられた。ほんのりと桜味が広がる。
「ン…あっ!す、すまねッス、つい…」
公私混同、という御剣の叱責を覚悟した糸鋸が慌てて顔を離す。
「…」
御剣はいつものように怒る代わりに首を振り、離れた糸鋸の肩を掴んで自分もそっと口づける。
「誰かに向かって好きだと言ってもらえると、こんなにも幸せになるのだな」
「!ホントッスか?じゃあこれからポカやらかした時はスキって言うッス!そしたら、」
「…そういう事ではない」
「ジョークッス」
頭に手を置かれて御剣の眉間が緩む。それを見て糸鋸が微笑んだ。
「自分もすごく嬉しかったッスよ?」
桜餅の残りを持ってソファに掛けた糸鋸は、当たり前のように隣に腰を下ろしてお茶のおかわりを差し出してきた御剣に、つまようじにさした桜餅を、
「ハイ、あーん」
と差し出して御剣を真っ赤にさせ、御剣のその顔を自分だけのものにすると満足の笑みを浮かべた。