『さすが成歩堂だ。この事件も恐らくまだ全てが明らかになってはいない』
「ハッ。次はどうするッス?」
部屋に戻って捜査でくたくたの糸鋸は、その疲れを癒す声を求めて今夜もまた携帯を耳に当てていた。
また、成歩堂ッスか。検事は本当にアイツを信じてるッスね。
検事の事が心配で、声が聞きたくて、毎晩欠かさず電話して。
けど検事の口からアイツの名前を聞かない日は無いッス。確かに今回の事件もアイツが弁護するッスけど。
まぁ、当たり前ッス。アイツの助けがなかったらこうやって話をする事も出来なくなってたッスから。御剣検事はものすごく感謝してて当たり前ッス。
自分の大切な人を助けてくれた成歩堂龍一。
そしてその成歩堂の動向をいつも気にしている御剣。
恩人である一方で、愛しい人の心を一瞬で捕らえてしまった男。
糸鋸はその狭間で自分の居場所を探してもがく。
「冥は…狩魔検事は捜査方針を変えてはいまい」
「…狩魔検事、ちょっと強引過ぎないッスか。確かに逮捕したのはワレワレッスが」
『彼女は狩魔の教えを体現しているに過ぎない。私の下で働いていたキミには分かっているはずではないか』
次は狩魔検事ッス。ナルホドーの時とはまた違う雰囲気になるッスよね。妹みたい、とか、そんな風に思ってるッスか?
だが、糸鋸の脳裏には、御剣の胸に包まれて頬を寄せ、見下した視線をこちらに向けて勝ち誇る冥の姿が掠める。
まさか、イイ女、とか、キレイ、とか、抱き…たい、とかそういう風に見てるッスか?だからそう特別みたいに言うッスか…?
その姿に叫び出しそうになりながら、糸鋸は一度携帯を離して駄々をこねるように頭を何度も横に振る。
そりゃ検事は彼女と一緒に学んで、その分、分かり合えるのかも知れないッスけど、自分達はずっと長く深く一緒で、もっとずっと分かり合えてる筈じゃないッスか。
「…そう言うッスけど、検事のやり方とは全然違うッス」
『そうだな。私はいい弟子では無かったし、今は彼女が狩魔だ』
これで御剣検事の顔が無かったらとっくにあんなコムスメ検事の子守りなんて放り出してるところッス。ワガママで気分屋で、初めて会った時のまんまッスよ。
それは百歩譲って許すとしても、検事の事呼び捨てにして、何かっていうと負け犬とか平気で言うのは許せないッス。
それに御剣検事から大切な家族を奪った人の娘ッスよ!?それなのに検事は…どうしてそんな、穏やかな声でいられるッス…?
憤りが、改めて糸鋸の中に湧いてくる。
そんなヤツに検事を渡すなんて、
「…自分はイヤッス」
『そう、か』
何か詰まったような御剣の声。
つい出てしまった本音に、ハッとして糸鋸は口を押さえた。
『…そうだな。ちょうど気になっていた事がある。いい機会だ』
御剣の穏やかな声がはっきりとした決意を帯びる。糸鋸は正座して背筋を伸ばす。
『正直に答えて欲しい。キミの気持ちが知りたいのだ』
自分の気持ち…?
電話の向こうにいる大切な人が紡ぐ、幾度も夢見ていた言葉。
『キミは私をどう思っている』
好きッス。
御剣の言葉はそのままの意味では無いと分かっている。それでも糸鋸の苛々は瞬時に消え去り、代わりに御剣の眩しい姿が次々に浮かんだ。
言い逃れを許さない厳しく澄みきった視線。美しい立ち居振る舞いから繰り出される追及。そしてしなやかに突きつけた指が示すのは完璧な有罪…
法廷の後、静かに微笑む彼の部下でいられた事の喜びが、糸鋸の胸に甦る。
大好きッス。
御剣検事は、綺麗で、頭が良くて、優しくて、傷ついてばかりいて。
『強引に有罪をもぎ取って来た私を。罪の無い人間を有罪にしたかも知れない。そんな私を』
そして今もまた傷ついていて。
ケガした動物みたいに独りで治そうとして。
『認めたくはないが、私は勝利に酔って忘れようとしていた。あの出来事を』
「忘れたくて当たり前じゃないッスか、あんな、ひどい事…」
そんな風にばかりしてるから、冷たい男だと思われてる検事の事、自分はずっと好きだったッス。
『そのために他人の罪を利用したのだぞ。そんな罪深い事があるだろうか。
…つくづく思い知らされた。あの時成歩堂抜きではどうなっていたか』
「検事」
糸鋸は伸び切ったシャツの襟を握りしめ、深呼吸する。
「一言、言わせてもらうッス」
『刑事?』
「自分は…御剣検事が好きッス」
誰よりも。今までも。これからもずっと。
しかしその想いを包み隠し、当たり障りの無い理由を付けて糸鋸は続ける。
「罪を決して見逃す事の無かった検事が、好きッス。
どんなに嘘を並べた犯人も、検事にかかれば一捻り。もし検事がやらなかったら、どれだけの犯罪者がシャバで笑ってたと思うッス?」
『私が、やらなかったら…?』
「そうッス。それを罪深いなんて言えるヤツなんかいないッス」
自分の腕の中で震える御剣を思い出し、糸鋸は自分の体に腕を廻す。
『だからといって許される筈がない』
「どこが悪いッス。どんな事思っていたとしても、犯罪の立証が検事の仕事じゃないッスか。誰に迷惑かかるって言うッス」
『…キミに』
か細い御剣の声。まるで助けを呼ぶかのようなその声の主の下へ、今すぐ飛んで行きたい。
『キミに迷惑がかかる…私についていたせいで、キミへの風当たりは相当のものだっただろう。
少しはその風当たりも弱くなっていれば良いのだが』
そんな事をすれば逃げて行くのは知っている。
諦めのため息を糸鋸は洩らす。
「そんなの平気ッス」
一緒にいられない事の方がよっぽどツラいッスよ?御剣検事…
「大体検事は罪の無い人を有罪にした事なんて無いッス」
『な、何故言い切れる!』
「検事は完璧な有罪を求める人ッス」
無言の向こうで御剣がうなずいたのが感じられる。
「そして完璧じゃなかった事は無かったッス。そんな事があったのは、検事のロジックを歪めるいい加減な捜査をしたワレワレの責任ッス」
『だが私はあれほど強引に…キミもさっき冥の事をそう言ったではないか!あれは、あれはかつての私の姿だ!そんな検事がキミに…キミ達にとってどれほどの負担だったか!キミに冥の様子を聞く度私は苦しくなる…それでも聞かずに、いられない…ッ』
切羽詰まった御剣の声に高まる動悸。
自分が御剣検事のやり方をどう思っていたか気になって、だから狩魔検事の事聞いたって…そう言ったッス?
思いがけない御剣の告白に、糸鋸は高鳴る胸を抑えて必死に語りかける。
「御剣検事の前で隠しておける罪なんて無いッス。だから検事がどうやっても完璧な立証が出来ない時、ソイツが無実だと分かるって事ッス。
成歩堂が相手だったからじゃないッス」
『以前私が局長に呼ばれた時、キミは…』
「だから検事はちゃんと負けたッス。あれだけの圧力がかかっていても。
自分、本当に申し訳なく思ってるッス。何の力にもなれなかった事」
『そんな事はない、キミは、キミは…』
「けど嬉しかったッス」
携帯を握りしめる手が汗だくになっているのに気付いて、糸鋸は慌てて持ち変えた。
「検事が捏造や癒着となんか無縁の清廉潔白な人だって、皆に分かってもらえるって。本当に嬉しかったッス」
御剣検事の前で隠しておける罪があるならそれは、自分のこの想いただ一つ。
許して下さい。このままずっと、好きでいる事…
『…そうだ』
気がついた、といったように御剣の声が生気を取り戻す。
『キミはこうしていつも導いてくれる。何より私の力となってくれる』
「導いてもらってたのは自分の方ッス。検事がいなかったらまともに捜査も証言も出来ずにとっくにクビだったッスよ」
『…今やっと認める事が出来る。私は成歩堂に敗北した訳ではない…無論これまでの有罪判決が勝利だった訳でもない』
朗々と響く声は、法廷に立つあの頃の御剣のまま。糸鋸の目に安堵の涙が滲んでくる。
『真実は必ず顔を出すのだ、私がどう足掻こうが…分かってしまえばこんなに明快な事を私は…』
「検事はずっとそうだったッスよ。ちょっとウッカリ忘れてただけッス」
『やっと…見つけた。キミのおかげだ…!』
御剣が告げる感謝のそばで、糸鋸もまた、求めていた言葉を得られた事に感謝していた。
御剣は成歩堂と冥の存在を無視出来ずにいた。
だがそれはあくまで有罪を勝利と見なしてきた事から生まれた執着に過ぎず、そして今御剣は解放されたのだ。
『…さあ、話を戻そう。刑事、今回の事件だが、』
「ハッ!ち、ちょっと待って下さい、」
精巧なパズルの如く組み立てられていく御剣のロジック。
糸鋸はボールペンを取り、そこにあったチラシの裏にそれを書き留める。
ホラ、自分の言った通りッス。検事のロジックはこうやって真犯人を確実に追い詰めるッス。
その目の端を何度も拭い、糸鋸は何度もうなずく。
『刑事』
「…なんスか」
『いつも済まない。…ありがとう』
御剣の言葉にまた溢れた涙はチラシの上に落ちて、殴り書きのロジックを滲ませた。